今年見た芝居とか
今年見た芝居でおもしろかつたものをあげやうと思ふと、どうしても最近見た芝居ばかりが脳裡に浮かぶ。
今月の国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の九段目を見て、「「九段目は役者がそろはないとできない」といふのはかういふことか」としみじみ思つたこと。
おなじく歌舞伎座で第三部の一幕目(といつていいのだらうか。所作事だけど)までは「来年は芝居を見る回数を減らさう」と心に誓つてゐたこと。
そんなことばかり思ひ出してしまふのだ。
でも、一月から考へてみると、そんなに悪いばかりぢやなかつた。
一月は、見る前は「またかよ」と思つてゐた「石切梶原」がよかつたしね。
吉右衛門や歌六、芝雀(当時)がいいのはもちろんとして、歌昇の俣野がよかつたんだよね。それまでだつたら力みすぎて形もくづれがちだつたり声もつぶれてたりしたのが、まつたくなかつた。
浅草に出るよりも、歌舞伎座に出た方がいいのだらうか。
これは、昼の部の一幕目に出てゐた種之助を見ても思つたことだ。
「茨木」もよかつたよねえ。
一月の昼の部ははりこんで一階席を取つた。
正解だつた。
二月は世間では「籠釣瓶」といふのだらうけれど、やつがれは「源太勘当」だと思つてゐる。
「籠釣瓶」はね、「播磨屋で見たいのはこれぢやないんだよねえ」感がつのつてねえ。
しかも菊五郎も一緒に出てゐるのに、この芝居はないだらう、とも思つた。
「源太勘当」は、どの役者もぴたりとはまつた配役で、そこがよかつた。
とくに高砂屋の源太ね。
それと秀太郎の延寿ね。
それに孝太郎の千鳥ね。
あと錦之助の平次ね。
市蔵も橘太郎もよかつた。
悪いとこないぢやん。
と云ひたいところだが、「源太勘当」にはひとつだけ不安要素があつた。
大道具だ。
襖などに描かれた花丸が花丸に見えない。
多分花丸なのだらう。
いつたい、どこからこんな絵を持つてきたんだい?
その後、なにかの芝居で花丸を見たときはすこしよくなつてゐたけれど、歌舞伎座の大道具はとにかくここのところいろいろ心配な点が多い。
「籠釣瓶」にしても床に敷いた布が波打つてゐたりね。
最後の立ち回りのところも波打つてたらどうするんだよ。播磨屋が足をひつかけでもしたらどうする?
と思つたら、室内の布(といふか畳といふか)はちやんと敷けてゐたけれど、奥の廊下の布はやはり波打つてゐた。
国立劇場の大道具はいいんだけどねえ。
国立劇場で芝居を見てゐると、盆を回したあとの床の布をのばすときに、きちんと端まできれいにのばしてゐる。
歌舞伎座は違ふ。
のばす人によつてきちんとのばす場合となんだかだらしない場合とある。
歌舞伎は早晩滅びると思つてゐるのは、かういふ点があるからだ。
どうしても役者が活躍してゐるさまばかりが取り上げられるけれど、役者だけでは芝居はできない。
まあ、大道具がダメになつたら照明やプロジェクション・マッピングに移行するのかもしれないけどね。
二月の歌舞伎座は「新太閤記」に出てゐた歌六がよかつた。
犬千代。
いやさ、前田利家。
白塗りのいい男でね。
でもちよつと皮肉げなところもある。
歌六と菊五郎といふのもちよつと見ない組み合はせだつた。
時蔵もよかつたね。
最初は初々しい娘さんがしつかりものの女房になつて、最後は女帝然として厳かだつた。
……この調子で書いていくといつまでたつても終はらないな。
今年見て一番気に入つたのは、博多座で見た「十種香」だ。
もうね、雀右衛門の八重垣姫と時蔵の濡衣とが手に手を取つて、首をかしげて「ねーっ」とかやつてゐる姿が(実際は「ねーっ」ではないのだが)、「ああ、自分はずーつと長いこと、このふたりのかういふ舞台が見たかつたのだ」と、長年の宿願がかなつて感に堪へなかつた。
いまでも思ひ出してはじーんとしてしまふ。
歌舞伎を見始めたころ、ほぼ同年齢同士の勘三郎、三津五郎、時蔵、雀右衛門、又五郎が好きだつたんだよね。
五人ともそれぞれ趣が違つてさ。
今後も芝居を見るのが楽しみだな、とそれぞれを見て思つてゐた。
思つてゐたのにねえ。
しんみりしたところで、以下次号(つづかないかもしれないが)。
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