好きな役者を語りづらい理由
もうせん中村吉右衛門と片岡仁左衛門とが好きである。
めんどくさいことを云ふと、かう書きながらも、別に吉右衛門や仁左衛門が好きといふわけではない、とも思ふ。
播磨屋と松嶋屋とについていふと、「この役が好き」といふ役を演じることが多い。
そして、ときたま垣間見えるちよつとさみしげな感じがなんともいい。
この「ときたま垣間見えるちよつとさみしげな感じ」といふのは役者の属性ではないだらうと思つてゐる。
役にまつはる属性だ。
たとへば「引窓」の南与兵衛の、「おふくろさま、なに(もの)をお隠しなされます」といふせりふだ。
播磨屋はいまや父の跡も継ぐことになつた自分をここまで育ててくれた継母への心遣ひ、松嶋屋はこれまで実の親子のやうにして育ててくれた継母に甘えるやうな感じといふ違ひはあるのだが、やさしい雰囲気のなかに、どこかさみしさがある。
それは、自分に隠しごとをしてゐる継母に対しての思ひといふのとは違ふ。
夕焼けのなぜかしらもの悲しく見えるやうな、そんな、いはれなく感じるさみしさがある。
あるいは由良助ね。
おほきいんだよ。
おほきいんだけど、ふとした瞬間にそこはかとないさみしげなやうすが垣間見える。
「哀愁」と呼んでしまへばかんたんなのかもしれないけれど、さうではないんぢやないかといふ気がしてゐる。
松本幸四郎はおなじやうな役を演じるけれどさうしたさみしさとは無縁で、尾上菊五郎はさうしたさみしさのあるやうな役を演じることがほぼない。
さういふ違ひなんだと思ふんだよなあ、好きかどうかつて。
といふやうな話をしても理解してもらへないやうな気がするし、「わかる、わかるよ」と云つてもらへたとしてもその人の感じる「さみしげなやうす」とやつがれの感じる「さみしげなやうす」とは全然別のものである可能性があるやうに思ふ。
好きな役者、といふか、好きな役を好きな役者が演じてゐるものについての話をしづらいのは、さういふところにあるのではないかと思つてゐる。
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