片づけられない
家の中を片づけなければ。
さう思つて部屋を見回して、どこから手を着けていいか途方にくれて一日が終はる。
世の中に「見てときめかないものは捨てる」といふ方法がある。
だが、ときめかないものを捨てると生活が立ちゆかない。
スーツを見て心ときめくだらうか。
喪服は?
クレジットカードの明細なんて、いくら見たつてときめかない。
スーツがなければ客先には行けないし、喪服がなければ通夜葬儀にも出られない。
クレジットカードの明細は不要になれば即廃棄してもいいけれど、最低でも引き落とされるまでは取つておかないとなにがあるかわからない。
我が家には一生かかつても遣ひ切れない量の毛糸がある。
見てときめかない毛糸はない。
そんな毛糸は最初から買はないからだ。
「断捨離」といふことばも人口に膾炙して久しい。
なんとなく宗教めいた感じがしてあまり好きになれない。
でも、好きになれないほんたうの理由はそれぢやあない。
ものを捨てるのがイヤなだけだ。
捨てるために労力をかけるのを厭ふてゐるだけのことだ。
家の片づけをする時間があつたらほかにしたいことがたくさんある。
芝居を見に行くのもそのひとつだ。
もつと睡眠時間がほしいとも思ふ。
さうかうするうちにものは減らずに家の中のエントロピーがどんどん増大していく。
いつそ、なにもかも捨ててしまつたらいいんぢやないか。
さう思ふこともある。
なぜものが片づけられないかといふと、最初にも書いたとほりどこから手を着けていいかわからないからだ。
なにもかも捨てるといふことにしたら、どこから手を着けてもいいことになる。
さう思つて、試してみた。
今度は「これは燃えるゴミ」「これは燃えないゴミ」「これは資源ゴミ」「これは資源ゴミだけど分けないとダメ」「これは……何ゴミ?」と、ゴミの分別に汲々としてしまひ、それだけで疲れ切つてしまつた。
しかも、ゴミとして分別したからといつて、すぐに捨てられるわけではない。
定められたゴミの日に捨てなければならない。
すなはち、その日までゴミはゴミとして家の中に居座りつづける。
さつきまでは、本であつたり衣服であつたりしたものだつた。
それがいまはゴミとなつてそこにある。
指定されたゴミの日まである。
さういふのに耐へられなかつたんだよね。
とはいへ、片づけられないまま放置されてゐるものはゴミとなんら変はるところはない。
年末に向けて、といつてもうすでに年末なのかもしれないが、ここはひとつなにか行動を起こさなければ。
正月の三が日をゴミとともに過ごすことになつても、だ。
昨日あたり、Twitter に十年以上前に買つてそのままになつてゐた資料がいまになつて役に立つた、といふやうなつぶやきが流れてきた。
それはさういふ仕事についてゐる人だから云へることだ。
「本が崩れ」ていいのはそれがなりはひの足しになつてゐる人だけなのだ。
やつがれのやうに、単なる横着で本をつんでゐるだけの人間には許されない贅沢なのである。
つまり、いまのままでは分不相応だといふことだ。
さうみづからを戒めることにして、なんとかしたいと思つてゐる。
いまのところは。
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