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Friday, 30 December 2016

年末の戯言など

分相応、といつも思ふ。

あまり上を求めてはいけない。
かといつて、下過ぎてもいけない。
みづからの分を守つて生きるのが一番だ。

そのとほり、と思ひつつ、やつぱりどこかでムリしてゐるんだよなあ。
とくに上方向に。

去年の一年の抱負といふか目標といふかのひとつが「分相応に生きる」だつた。
でも去年はそれを達成できなかつた。
それではなぜ今年の抱負といふかに「分相応に生きる」がなかつたのかといふと、「自分の分つてなんだらう」といふことがよくわからなかつたからだ。
分相応に生きるには自分の分がわかつてゐなければならない。
わからないのに相応になんて生きられるはずがない。

世の中を見てゐても、みな分相応には生きてゐないやうな気がする。
すくなくとも、年相応に生きてゐるやうには思はれない。
「心中天網島」の「河庄」を見ると、丁稚が遊女・小春に対して「をばはん」と聲をかける。
歌舞伎では、まあ、それなりに年を取つた役者が演じることもあるからともかく、文楽では小春はきれいな女だ。
いまの感覚からいつても「をばさん」と呼ぶにはどうかと思ふくらゐ若い。
でも小春は「をばはん」と呼ばれて文句を云つたりしない。
あたりまへのこととして受け取つてゐる。

「菅原伝授手習鑑」は「寺子屋」の「寺入り」部分もさうだ。
松王丸の妻・千代は自分のことを「をば」といふ。
千代は、おそらく二十代の半ばくらゐぢやないかと思ふ。
いま二十五歳くらゐの女の人に「をばさん」とか呼びかけてみな。
ぎよつとするか「失礼な!」と怒り出すか……
いづれにしても、「をばさん」だなんてとんでもない、と云ふだらうし、周囲の人もさう思ふのぢやあるまいか。

年齢ではなく、兄弟姉妹にこどもが生まれておぢやおばになつた場合も甥や姪に自分のことを「おぢさん」「おばさん」と呼ぶのを禁じる人がある。
これつて、分不相応ぢやない?
だつて、実際におぢさんおばさんになつてゐるわけだし。
往生際が悪いともいへる。

いま「匈奴列伝」を読んでゐる。
匈奴は、老人を尊ばないといふ。
なぜといつて、若くて動ける人間でないと兵隊として戦へないから、といふのだ。
一方の中国(戦国時代とか漢とか)は老人を尊ぶ。
平和な世の中で、年を経て得た経験がいろいろと役に立つ世の中だからだ。

いまは平和な世の中ぢやないといふことなのかなあ。

分相応から話がそれてしまつた。

とりあへず来年はもうちよつと芝居に行く回数を減らさうと思つてゐる。
芝居見物はやつがれにとつては分不相応なものだと思ふからだ。
残念だけどね。

Thursday, 29 December 2016

今年見た芝居とか

今年見た芝居でおもしろかつたものをあげやうと思ふと、どうしても最近見た芝居ばかりが脳裡に浮かぶ。

今月の国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の九段目を見て、「「九段目は役者がそろはないとできない」といふのはかういふことか」としみじみ思つたこと。
おなじく歌舞伎座で第三部の一幕目(といつていいのだらうか。所作事だけど)までは「来年は芝居を見る回数を減らさう」と心に誓つてゐたこと。
そんなことばかり思ひ出してしまふのだ。

でも、一月から考へてみると、そんなに悪いばかりぢやなかつた。
一月は、見る前は「またかよ」と思つてゐた「石切梶原」がよかつたしね。
吉右衛門や歌六、芝雀(当時)がいいのはもちろんとして、歌昇の俣野がよかつたんだよね。それまでだつたら力みすぎて形もくづれがちだつたり声もつぶれてたりしたのが、まつたくなかつた。
浅草に出るよりも、歌舞伎座に出た方がいいのだらうか。
これは、昼の部の一幕目に出てゐた種之助を見ても思つたことだ。
「茨木」もよかつたよねえ。
一月の昼の部ははりこんで一階席を取つた。
正解だつた。

二月は世間では「籠釣瓶」といふのだらうけれど、やつがれは「源太勘当」だと思つてゐる。
「籠釣瓶」はね、「播磨屋で見たいのはこれぢやないんだよねえ」感がつのつてねえ。
しかも菊五郎も一緒に出てゐるのに、この芝居はないだらう、とも思つた。
「源太勘当」は、どの役者もぴたりとはまつた配役で、そこがよかつた。
とくに高砂屋の源太ね。
それと秀太郎の延寿ね。
それに孝太郎の千鳥ね。
あと錦之助の平次ね。
市蔵も橘太郎もよかつた。

悪いとこないぢやん。
と云ひたいところだが、「源太勘当」にはひとつだけ不安要素があつた。

大道具だ。

襖などに描かれた花丸が花丸に見えない。
多分花丸なのだらう。
いつたい、どこからこんな絵を持つてきたんだい?
その後、なにかの芝居で花丸を見たときはすこしよくなつてゐたけれど、歌舞伎座の大道具はとにかくここのところいろいろ心配な点が多い。
「籠釣瓶」にしても床に敷いた布が波打つてゐたりね。
最後の立ち回りのところも波打つてたらどうするんだよ。播磨屋が足をひつかけでもしたらどうする?
と思つたら、室内の布(といふか畳といふか)はちやんと敷けてゐたけれど、奥の廊下の布はやはり波打つてゐた。

国立劇場の大道具はいいんだけどねえ。
国立劇場で芝居を見てゐると、盆を回したあとの床の布をのばすときに、きちんと端まできれいにのばしてゐる。
歌舞伎座は違ふ。
のばす人によつてきちんとのばす場合となんだかだらしない場合とある。
歌舞伎は早晩滅びると思つてゐるのは、かういふ点があるからだ。
どうしても役者が活躍してゐるさまばかりが取り上げられるけれど、役者だけでは芝居はできない。
まあ、大道具がダメになつたら照明やプロジェクション・マッピングに移行するのかもしれないけどね。

二月の歌舞伎座は「新太閤記」に出てゐた歌六がよかつた。
犬千代。
いやさ、前田利家。
白塗りのいい男でね。
でもちよつと皮肉げなところもある。
歌六と菊五郎といふのもちよつと見ない組み合はせだつた。
時蔵もよかつたね。
最初は初々しい娘さんがしつかりものの女房になつて、最後は女帝然として厳かだつた。

……この調子で書いていくといつまでたつても終はらないな。
今年見て一番気に入つたのは、博多座で見た「十種香」だ。
もうね、雀右衛門の八重垣姫と時蔵の濡衣とが手に手を取つて、首をかしげて「ねーっ」とかやつてゐる姿が(実際は「ねーっ」ではないのだが)、「ああ、自分はずーつと長いこと、このふたりのかういふ舞台が見たかつたのだ」と、長年の宿願がかなつて感に堪へなかつた。
いまでも思ひ出してはじーんとしてしまふ。
歌舞伎を見始めたころ、ほぼ同年齢同士の勘三郎、三津五郎、時蔵、雀右衛門、又五郎が好きだつたんだよね。
五人ともそれぞれ趣が違つてさ。
今後も芝居を見るのが楽しみだな、とそれぞれを見て思つてゐた。
思つてゐたのにねえ。

しんみりしたところで、以下次号(つづかないかもしれないが)。

Wednesday, 28 December 2016

もう森へなんか行かない

今年自分でしたことで一番驚いたことといふと、映画館でホラー映画を見たことかもしれない。

その昔、友人につれられて「トワイライト・ゾーン」を見に行つたことがある。
でもあれはそんなに怖くなかつたなあ。
だいたいロッド・サーリングが出てこない時点でそんなに怖くない。
後年見たTV番組の「ミステリー・ゾーン」の方がずつと怖かつた。
とはいへ、この映画を見たあとは「絶対飛行機の翼の見える位置には乗らない」とかたく心に誓つたものだつたし、「Wanna see something really scary ?」とか口のない女の人とかちよつとトラウマ的に残つたものはある。

さう、TVでは怖いものを見たことがある。
「ミステリー・ゾーン」といふか「トワイライト・ゾーン」といふかは怖がりながら見たし、映画では「サイコ」とか「シャイニング」とかも見た。
古谷一行が金田一耕助を演じてゐた横溝正史ものも大概怖かつたし、天知茂の明智くんシリーズも怖かつた。
なぜ見たのかといふと、いづれも明るいところで一緒に見る人が複数人ゐたからだ。

和物のいはゆる怪談みたやうなものは見たことないかもしれないなあ。
うつかり見ちやつた「まんが日本むかしばなし」の「船幽霊」とかくらゐかな。
あとは芝居で見る「東海道四谷怪談」とか「真景累ヶ淵」とか「かさね」とかだらうか。
松竹座で中村時蔵の豊志賀を見たときは、絶対怖いからといふので三階席の一番奥の席を取つて、それでもなほ怖かつた。

怖いものはダメなのだ。
幽霊屋敷にも入つたことがないしね。
「エクソシスト」「オーメン」「サスペリア」「13日の金曜日」……いづれも見たことがない。
ホラーぢやないけど「2001年宇宙の旅」もとくに最後の部分が怖かつたりするし(「シャイニング」の影響だと思はれる)、「宇宙大作戦」もどことなく雰囲気が怖いことがある。
「ツイン・ピークス」もなぜだかおそろしかつたなあ。

人生損してゐるのかもしれない。
さう思はないでもないけれど、怖いものは仕方がないのだつた。

それが、映画館で、ホラー映画を見る。
なんといふことでせう。

見たのは「呪いの館 血を吸う眼」で、新文芸坐で夜明け前に見た。
岸田森オールナイト上映会の最後の一本だつた。
もう、映画館でホラーは見ない。
これまたかたく心に誓つた。
そのはずだが、よくよく考へてみると、この映画はそんなに怖くはない。
なぜかといふと、襲はれるのは美女ばかりだからだ。
運送会社の運転手は襲はれたのだらうし、をぢいさんも襲はれてはゐたけれど、それはちよつと特殊な例のやうに見受けられた。
なんだ、大丈夫ぢやん。
怖くないぢやん。

ホラー映画が怖いのは、「いつかおなじことが自分の身にもふりかかるかもしれない」といふ気がするからだ。
とくに映画館で見る場合、真つ暗な中で見るわけで、ふつと横を向いたら吸血鬼がゐたりするかもしれないといふ恐怖は捨て難くある。
恐怖ではないのかな。不安かな。

ホラー映画などを見ておそろしいと思ふ気持ちはおとなになると段々薄れていくものなのらしい。
すくなくとも「あれはフィクションである」と認識できるやうになる。
怖いけど、でも、映画だからさ。
さういふ割り切りができるやうになるといふのだ。

それができないおとなは、不安神経症の場合があるといふ。

不安神経症。
いやー、ないな。
多分ない。
そもそも神経症に陥るやうな繊細さは持ち合はせてゐない。

といふことは、即ちやつがれはまだこどもだ、といふことだ。
身体はともかく、精神的にはまつたく成長してゐないのだ。
なんといふことでせう。

まあ、でも、やつぱりもう映画館でホラーは見ません。
暗闇で怖いものを見るだなんて、ぞつとしないからね。

Tuesday, 27 December 2016

タティングさせろ

勤務時間中にたばこを吸つてもいいのなら、タティングしてもいいぢやあないか。

タティングぢやなくてもいい。
あみものでも刺繍でも紡ぎでも織りでもいい。
手芸に限定する必要もない。
本を読んだつていいし、それこそ寝たつていいぢやあないか。

だつて、たばこを吸つてゐるあひだは休憩時間でせう。
よく「喫煙所でこそ仕事の話が進む」といふ。
だつたら、寝るのと本を読むのとは禁じてもいい。
でも手芸だつたらいいんぢやない?
手を動かしながらだつて喋れるわけだしさ。

喫煙所のやうに集まれる場所を作つて銘々が自分のしたいことを持ち寄ればいいのだ。
持ち寄る必要はないか。
ひとりならひとりで黙々と、誰かゐたら話でもしながら手を動かす。
いい気分転換になるはずだ。

世の中さうならないわけは、たばこを吸はない人は吸はない人でそれなりに休息をとつてゐるからだと思つてゐる。
喫煙者ではないからといつて、働きづめぢやあない。
隣近所の人と話をしたり、ちよつと歩いて離れたところにゐる人と喋つたり、お菓子などをつまんだりして休んでゐるのだらう。

でもそれつて、喫煙者だつてするよね。
喫煙者の場合、それプラス喫煙時間がある。
非喫煙者にはない時間だ。
なんとなく不公平な気がする。

その昔、大抵の職場では自席でたばこを吸ふことができた。
近年の分煙化・禁煙化の波により自席では吸へなくなり、喫煙所に行かねばならなくなつた。
自席で吸へれば離席する必要はない。
喫煙者がさう云ひたくなる気持ちはわからないではない。

それと、喫煙所で仕事の話が進む、といふのは、納得のいく話ではある。
リラックスした状態でする話がちやんとした仕事の話に発展するといふのは理解できる。
喫煙所でしか会はない他部署の人間と話をするといふこともあらう。
喫煙所はちよつとした社交場なんだらう。
吸はないからわからないけれど。

その「社交場」が喫煙者だけのもの、といふのがなんだかズルい気がするんだよなあ。

といふか、とにかくタティングがしたいのである。

Monday, 26 December 2016

睡眠時間優先による弊害

今年もほとんど編めてゐない。

睡眠時間を優先することにしたら、ほとんど編めなくなつた。
如何に睡眠時間を削つて編んでいたのか、といふことだ。

睡眠時間しか削るところがないんだよね。
一日の行動の記録などを取ると如実にそれがわかる。
職場に最低限ゐる時間と通勤帰宅時間とを合はせたらそれだけで十二時間を越えてしまふ。
六時間寝るとすると最低でも三十分前には布団に入る必要がある。それでも六時間眠れないこともある。
残り五時間。
朝の支度や夕飯の支度と片づけ、入浴にまつはるあれやこれやを入れたらあつといふ間に時間はなくなる。
平日はほぼ編むのはムリ。
さう思ふ。

土日に編めばいいのかもしれないが、土日は土日で平日にできないことをするのでやはり時間がない。

かくして削るところは睡眠時間だけ、といふことに相なる。

むなしい人生だなあ。

そんなわけで、袖無し羽織の完成も遠い。
編むのは楽しいんだけどねえ。

来年は、とりあへず袖無し羽織を仕上げて、あとは先日買つたくつ下用毛糸でくつ下かリストウォーマ的なもの、それとマフラーかなにかを編むつもりでゐる。
それくらゐ編めれば重畳といつたところだ。

それにしても、睡眠時間を優先した方がなにかと生産性があがる、といふ意見はどうなんだらうねえ。
すくなくとも、あみものは全然できなくなつてゐる。タティングレースも然り。
本も読めてない。
かうして「あれもできない」「これもできない」と思ひながら死んでいくんだなあ。

Friday, 23 December 2016

クズ

中野翠を好ましく思つてゐたのは、はぐれものに対する視線が同士だつたからだ。

初期の週刊誌連載コラムを読むと、時折ホームレスや銀座の壁と壁とのあひだにはさまつてゐたをぢさんらへの言及がある。
「いづれは自分もああなるかもしれない」
さういふ感想とともに。

これに痛く共感した。
いづれ自分もああなるかもしれない。
まだ学校に通つてゐたけれど、やつがれもよくさう思つてゐた。
電車から橋の下にブルーシートのかかつた小屋のやうなものがいくつも並んでゐるのを見て「自分の入る余地がない」と、そのやうな自体になつたらどうすればいいのか途方にくれることもあつた。
いまでもある。

なんといふか、真つ当な生活といふものができない。
できないわけぢやないけれど、息苦しい。
いつか自分は破滅するんだらう。
さう思へてならないのだつた。

当時、中野翠はおそらくはまだ仕事が不安定だつた時期なのぢやああるまいか。
それで余計にさういふことを書いてゐたのではないか。
なぜかといふと、その後職を失つた人々への言及がほとんどなくなるからだ。
町でさういふ人を見かけなくなつたといふわけではない。
むしろ、当時よりよく見るやうになつたはずだ。
やつがれが最初に「わかる」と思つたのはバブルまつただ中のことだ。

宮部みゆきの「火車」も他人事とは思へない。
明日は我が身、と思ふ。

The Vanished: The "Evaporated People" of Japan in Stories and Photographs といふ本が出版されたといふので、New York Post で紹介されてゐた。
フランスのジャーナリストが取材して書いた本だといふ。
記事を読んだだけで胸ふさがる思ひがした。
この本を読んではいけない。
でも読まねばならないのではないか。

ひとつだけ云へることは、かうして「自分には真つ当な暮らしはムリなのだ」と思つてゐる人間に限つて、真つ当な暮らしから弾き出されたときにショックが大きくなにもできないといふことだ。

どこまでクズなんだらうね。

Thursday, 22 December 2016

ふり返りと抱負

カレンダー型の今年の予定表を見ると、土日はほぼ芝居か映画か落語で埋まつてゐる。
土日両日とも出かけてゐることも多い。
名古屋で文楽を見た次の週に博多座で芝居を見て、その翌週には飯田市川本喜八郎人形美術館の展示替へ後の展示を見に行つた、などといふのもある。
よくやつたなあ、我ながら。

ほんたうは、土日のどちらか、できれば日曜日には予定を入れたくない。
そして、月に一度くらゐは土日両方とも予定のない日を設けたい。
去年はそれができてゐたはずなのだがなあ。
今年はなぜできなかつたのだらう。
来年は土日のどちらかは予定を入れず、月に一度は土日両日とも予定のない日を作りたい。
さう思つてゐるのだが、もう二月までは週末は予定でいつぱいである。
をかしい。
どうしてかうなつてしまふのか。

毎年この時期になると、「来年はもうちよつと芝居に行く回数を減らさう」と思ふ。
あちこちの劇場で芝居がかかつてゐても、全部には行かないことにする。どうしても行きたいものにかぎる。
行きたいものがかさなつてしまつたら、それは仕方がない、行くけれど、それ以外は行かないやうにする。

なぜ芝居に行く回数を減らさねばならないのか。
行きたくないわけではない。
時々、生来のひきこもり気質から「今日は芝居には行かずに一日家にゐたいなあ」と思ふ日もあるけれど、行つてしまへば楽しい。

それなのにどうして減らさなければならないのか。
ひとつには、先立つもののせゐだ。
先立つものがない。
ないわけぢやないが、無駄遣ひのやうに感じる。
見に行つて、とんでもなくつまらない芝居である可能性もある。

もうひとつには、家にゐて部屋の片づけなどをしなければならないといふのもある。
全然家にゐないとまつたく片づかないんだよね。

去年のいまごろもおなじやうなことを云つてゐたやうに思ふけれど、「分相応」、これを座右の銘にして来年は過ごすつもりだ。

もう一月二月の予定はどうしやうもないけれど、ね。
そして、毎年おなじことを誓つてゐるやうな気がするけれど。

Wednesday, 21 December 2016

ペンの役割

ナガサワ文具センターの七本差しマルチペンケース

ナガサワ文具センターの七本差しマルチペンケースを買つてしまつた。
限定色の六甲アイランドスカイだ。
ナガサワのペンケースは、ボルドー色の五本差しも遣つてゐる。
そんなに差すペンがあるのか。
あるんだな、これが。

しかし、五本差しを持つてゐることを考へると、とんだ無駄遣ひな気がして、買つた直後は落ち込んでゐた。
七本差しは発表された当時からいいなと思つてゐた。
十本差しもいいけれど、重たくなるだらう。
七本差しでも重さはそんなに変はらないかもしれない。
でも「マルチ」といふことでiPhoneやちよつとしたメモ帳や5x3カードを入れられるといふのは、とてもいいかもしれない。
さう思つてゐたのだ。

それでうつかり買つてしまつたわけだが、買つた直後に無駄遣ひに気がつくといふ、とんだ体たらくである。
なぜ無駄遣ひと思つたかといふと、なくてもゐられるからだ。
手元に七本差しマルチペンケースがなくても、生活してゐるぢやあないか。
なのになんで買つてしまつたのだ。
やつがれの莫迦莫迦。

しかし、ペンケースはやつてきて、現在傍らにある。
六甲アイランドスカイはその名のとほり空色で、光の当たりかたによつては「人形劇三国志」の孔明ブルーにも見えるし、水島ブルーつぽくも見える。

問題は、どのペンをさして持ち歩くか、だつた。
七本といへば賤ヶ岳の七本槍だらうか。
賤ヶ岳の七本槍といふと、うつかり「戦国鍋TV」を思ひ出してしまつて、なんだか違ふ方向に向かつてしまひさうな気がした。

七人。
さう、「七人の侍」だ。

といふので、突然手持ちのペンを見ながら「これは勘兵衛、これは勝四郎」とか考へはじめてしまつたのが運の尽きだつた。
これ、なんていふんだらう。
戦艦などや刀を人間に置き換へるのが擬人化なら、擬ペン化?

勘兵衛は決まつてゐる。
金ペン堂で購入したモンブラン146だ。
ほんたうは国産だよなあ、と思ふのだけれども、我が家で頭領格といつたらこのペンだ。
ちよつとあらたまつた手紙を書くときなどはまづこれ、と決めてゐる。

その流れから、七郎次はパイロットのカスタム823細字に決まる。
勘兵衛は中細だ。モンブランの中細だからそれなりに太い字が書ける。
もうちよつと細い字で書きたいといふときに出てくるのが七郎次なのだつた。
しかもたくさん書けるときてゐる。長いからね。
中に入つてゐるインキもモンブランとおなじウォーターマンのブルーブラックだ。

菊千代はピンクのキャップのカクノ。「可愛い」「スチールペン」といふことだけで選んだが、一番イメージが合つてゐるやうな気もする。
菊千代を誤解してゐる?
さうかもしれない。

以下、パイロットのフォルカンが五郎兵衛、ウォーターマンのクルトゥールが勝四郎、セーラーのルクールが平八、中屋の十画軸が久蔵とつづく。
フォルカンはちよつと賢しげな字が書けるやうな気がするから。
クルトゥールはなんとなく若やいだ気分になるので。
とかなんとか、まあ、そんな感じだ。

実際にマルチペンケースに入れてゐるのはこの七本ではない。
七人にあたる役割はないけれど持ち歩きたいペンが入つてゐたりする。

さう、ペンには役割がある。
たくさんあるのはそのせゐだ。

一本でなんでも済めばよいけれど、世の中なかなかさうはいかない。
絶対黒い字で書かなければならないこともあるし、太い字の方がそぐふもの、細い字でないと書けないもの、赤字で書きたいもの、さまざまある。
七本くらゐは必要なんだよね、どうしても。

といふ云ひ訳が実感できたので、七本差しマルチペンケースを買つたのは正解だつたのかもしれない。
と、日記には書いておかう。

Tuesday, 20 December 2016

「めんどくさい」といふ行動原理

Masquerade

写真はタティングレースのモチーフを六枚つないだところ。
現在は七枚目を作つてゐる最中だ。

念のため書いておかう。
このモチーフは Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる Masquerade といふモチーフだ。
糸は Lisbeth #40 の Lavender Dk を遣つてゐる。

なにを云つてもこの色がくどいんだね、少々。
「濃い」のは好きなんだよ。
役者にしても芝居にしても「濃い」のはOK。
先日、先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」を見てゐたら、草野大悟と藤岡重慶とが一緒に出てくる場面があつて(「狐火」ですな)、その濃いことといつたら。
「いいわー、濃いぃわー」と思はずつぶやくこと一度ならず。
でも「くどい」のはダメ。
敢へて例は出さないけど、「くどい」のは苦手。
やつがれ自身がくどい質だから同族嫌悪なのだな。かなしいことに。

いい色なんだけどね。
以前も書いたとほり、日の光にあたるとちよつときらきらして、いい感じになる。
でもかういふ色を遣つてゐると、もつとあつさりした色や、いつそのことレースらしく白とか生成とかを遣ひたくなつてくるのが人情だ。

とはいへ、いまはこれ以外のことに手をつけてゐる暇はない。
タティングレースなんぞをしてゐる暇があるのなら、部屋を片づけたり年賀状を書いたりするべきだ。

年賀状は、夕べやつと年賀はがきを買つたところである。
買つただけで満足してしまひがちだ。
書いて出さないといけないのに。
購入しただけで「オレはやつたぜオレはやつたぜ」と佐々木倫子の「動物のお医者さん」に出てきたシベリアン・ハスキーのシーザーのやうに盛り上がつてしまふ。
そして、忘れる。
意図的に忘れることもある。
意図的に忘れるなら、年賀状のあることを意識してゐるのだからまだいい。
はがきを買つただけで満足して、書いて出すといふ行為自体を忘れ去つてしまふこともある。

ああ、なぜ年賀状を出さないといけないのでせう。
もう出さないことにしやうかな、と思ふこともある。
なぜといつて、めんどくさいからだね。

今年、いつだつたか「行動原理から「めんどくさい」を取り除かう」と思つたときがある。
いつだつたかはもうも忘れてしまつた。
手帳に書いたはずだから、探せば出てくるだらう。
でも探さない。
いまかうして書いたから、検索すれば出てくるやうになる。
それでいいかな、と。

こんな感じで来年も「めんどくさい」を行動原理からはづせぬままに生きるのだらうなあ。

え、タティングレースはめんどくさくないのかつて?
めんどくさいと思ふこともないわけぢやない。
さういふときはしない。
さういふもんでせう。

Monday, 19 December 2016

老人向け?

袖無し羽織はぼちぼち進んでゐる。

先週、ローワンのフェルテッドツイードの深緑を一玉遣ひきつた。
深緑と紺と三玉づつあるので、それで作るつもりだつたのだが、それだとどう考へても毛糸が足りない。
いろんな色を入れていかないと完成しさうにない。
そんなわけで、早速赤紫など入れてみてゐる。

京都は先斗町歌舞練場で歌舞伎の顔見世興行を見てきた。
第三部の「引窓」に出てくるお幸といふ老女が袖無し羽織を着てゐる。
帯も前で締めてゐて、隠居の身を表現してゐる。

時代劇を見てゐても、袖無し羽織は働く若い人が着てゐるといふ印象はない。
老人か浪人、さもなくば茶人とか俳人といつた人たちが着てゐる印象がある。
つひ先日も中村吉右衛門の「鬼平犯科帳」のうち「討ち入り市兵衛」といふ話を見てゐた。
先代の中村又五郎が出演した回である。
又五郎は市兵衛といふ名の老いた盗人で、それと知らず鬼平と近づきになり、気に入つてしまふ。
この市兵衛が着てゐるんだね、袖無し羽織を。

播磨屋の鬼平も袖無し羽織を着てゐることが多い。
着てゐるときはくつろいでゐるときのやうに見受けられる。
冬の時期だつたかな、襟のあたりがなんだかもけもした不思議なものを着てゐたこともある。
さういふのもあつたのかなあ。

あと若めの人で袖無し羽織といふと「必殺仕事人」第一話に出てきた戸ヶ崎重内かなあ。岸田森だつた。
あれも家でくつろいでゐるときの姿か。
袖無し羽織つてさういふ気楽なものなのかもな。

お幸は、背中を向けて座つて頭をさげたりすると、羽織の背中がふくらむ。
帯は前に締めてゐるのだから、帯のせゐでふくらむわけではない。
前を羽織紐で結んでゐるので、自然と背中の部分がふくらむやうになつてゐるやうだ。
さう。
羽織紐ね。
どうするかね。

普通に襟から細いものを編み出すつもりでゐたのだが。
ループのやうなものを編むか編みつけるかして、そこに紐を結はへつけるやうな感じでもいいかなあといふ気がしてゐる。
紐だけ付け替へられるやうにする、といふ寸法だ。
そこまでやらなくてもいいかな。
以前、タティングレースでクラスプ型のボタンといふかフックといふかを作つてゐる人がゐた。
あれを真似してもいいかもしれないなあ。
袖無し羽織からは遠ざかつてしまふけれど。

いづれにしても、せつせと編まないと冬が終はつてしまふ。
お幸を見ても、袖無し羽織は結構丈が長い。
まあそこは、自分好みの丈にしてしまつてもいいのかもしれない。

Friday, 16 December 2016

好きな役者を語りづらい理由

もうせん中村吉右衛門と片岡仁左衛門とが好きである。
めんどくさいことを云ふと、かう書きながらも、別に吉右衛門や仁左衛門が好きといふわけではない、とも思ふ。
播磨屋と松嶋屋とについていふと、「この役が好き」といふ役を演じることが多い。
そして、ときたま垣間見えるちよつとさみしげな感じがなんともいい。

この「ときたま垣間見えるちよつとさみしげな感じ」といふのは役者の属性ではないだらうと思つてゐる。
役にまつはる属性だ。

たとへば「引窓」の南与兵衛の、「おふくろさま、なに(もの)をお隠しなされます」といふせりふだ。
播磨屋はいまや父の跡も継ぐことになつた自分をここまで育ててくれた継母への心遣ひ、松嶋屋はこれまで実の親子のやうにして育ててくれた継母に甘えるやうな感じといふ違ひはあるのだが、やさしい雰囲気のなかに、どこかさみしさがある。
それは、自分に隠しごとをしてゐる継母に対しての思ひといふのとは違ふ。
夕焼けのなぜかしらもの悲しく見えるやうな、そんな、いはれなく感じるさみしさがある。

あるいは由良助ね。
おほきいんだよ。
おほきいんだけど、ふとした瞬間にそこはかとないさみしげなやうすが垣間見える。
「哀愁」と呼んでしまへばかんたんなのかもしれないけれど、さうではないんぢやないかといふ気がしてゐる。

松本幸四郎はおなじやうな役を演じるけれどさうしたさみしさとは無縁で、尾上菊五郎はさうしたさみしさのあるやうな役を演じることがほぼない。
さういふ違ひなんだと思ふんだよなあ、好きかどうかつて。

といふやうな話をしても理解してもらへないやうな気がするし、「わかる、わかるよ」と云つてもらへたとしてもその人の感じる「さみしげなやうす」とやつがれの感じる「さみしげなやうす」とは全然別のものである可能性があるやうに思ふ。

好きな役者、といふか、好きな役を好きな役者が演じてゐるものについての話をしづらいのは、さういふところにあるのではないかと思つてゐる。

関聯する記事: 「中の人」考

Thursday, 15 December 2016

Bullet Journal とスライド手帳

Bullet Journal を遣つてゐてちよつと不便だなと思ふ点がある。

日付の決まつてゐる近日中のタスクを、それとわかるやうに書きづらいといふことだ。

Bullet Journal の基本構成要素は四つある。

  1. Index Page
  2. Future Log
  3. Monthly Log
  4. Daily Log
だ。
Index Page と Future Log とは使用していく中で情報を追加していくページだ。
Index Page は、月の最初か最後に Monthly Log と Daily Log のページ数を書き入れる。ほかに記録したいページがあればそれも必要に応じて書き入れる。
Future Log は、翌月以降の予定やタスクが入つたら書き込む。

Monthly Log にも使用していく中で情報を追加するけれど、月のはじめにまづ予定を書き込むページといふ印象がある。
Monthly Log を作成するときに Future Log や前月の Monthly Log から情報を書き写し、適宜予定などを加へていく。

Daily Log は、毎日その日の分を書き起こしていくページだ。
やつがれの Daily Log の書き方は、朝(出勤するときは出勤したあと)、Daily Log としてその日の日付を書いて予定やタスクを書き出していく。タスクが終了したら終了マークを書き入れる。
そのほか、ちよつとしたメモも書き足してゆく。見た芝居や映画、読んだ本、その際にちよこつと思つたことなどを書いていく。

つまり、Daily Log はその日によつて分量が違ふ。
一ページの三分の一くらゐで済む日もあれば、何ページにもわたる日もある。
最近は「なんでも書く手帳」として Moleskine や Smythson の Panama を遣つてゐるので Daily Log が何ページにもわたる日はほとんどない。でも二ページくらゐにわたる日はある。

といふことは、一日が終はつてからでないと次の日の Daily Log は作成できないといふことだ。

明日のタスクだつたら前日の Daily Log に書いておけばいい。
でも三日後、あるいは一週間後のタスクはどこに書く?
Monthly Log に書いてもいいけれど、バイブルサイズくらゐだとあまりスペースに余裕がない。
いままではスライド手帳に書いてきた。
Bullet Journal を遣つてゐる人々はどうしてゐるのかなあ、かういふ予定。

付箋に書いておくのがいいのか。
栞用の付箋はいろいろ遣つてゐるけれど、書き込む用の付箋はあんまし遣つてゐないんだよなあ。

そんなわけで、やつぱりスライド手帳はスライド手帳で遣つて、週単位の予定を立てていかうかなあと思つてゐるのだつた。
スライド手帳も最初のうちは「バイブルサイズだとやつぱり小さい」と思つてゐた。A5がいいのか知らん。でもA5だと入らないかばんもある。
それでも、遣ひつづけてゐればそのうち工夫もするわけで、最近は「バイブルサイズ、やつぱりいいよなあ」と思つてゐる。
Bullet Journal と併用してゐるのもいいのかもしれない。
スライド手帳と Bullet Journal と、両方遣ふのは too much かなと思つてゐたが、補ひあふこともあるんだよね。

バイブルサイズといふと、最近あたぼうステーショナリーから出てゐるふたふで箋がいい感じだ。

ふたふで箋

来年もシステム手帳を遣ふことだけは決まりだな。

Wednesday, 14 December 2016

どーでもいい忠臣蔵

毎年この日は柳亭市馬の「俵星玄蕃」を聞くのが楽しみだつた。
一昨年くらゐまでかな。聞けたのは。

市馬師匠の「俵星玄蕃」を聞くと、なんとなく幸せな気分になる。
なんとなく、ぢやないか。
明らかに気分が昂揚する。
歌ふ市馬もうれしさうなら、聞く客席も楽しさうだ。
ホール全体に広がる多幸感。
その場にゐる人々と「一体となつて」なんていふのは、親しい間柄の中にゐても厭うてしまふのに、あのときばかりは「ああ、よかつた。今年も師匠の「俵星玄蕃」が聞けて」とにこにこしながら家路に着いたものだつた。

赤穂浪士の討ち入りは旧暦のことなので、実際は今日この日ではない。
雪も降つてゐなかつたといふ話もある。
実際の赤穂浪士の討ち入りと「仮名手本忠臣蔵」とでは一致するところは少ない。
なにしろ、お浄瑠璃では実名は遣へなかつたし、時代も変へて作つてゐる。
物語自体も、お軽勘平といつたどーでもいい感じの人々が取り上げられたり、殿中で浅野内匠頭(塩冶判官)を抱き留めた梶川与惣兵衛(加古川本蔵)がクロースアップされたりする。
その後もいろいろな逸話がつけたされたりして、もうすでになにがほんたうなのかよくわからなくなつてゐる。
そこで「実際の赤穂浪士の討ち入りはかうだつた」と考証する向きもあるわけだが、それはどうでもいいかな、といふ気もする。
「実際の赤穂浪士の討ち入りはかうだつた。「仮名手本忠臣蔵」や講談、浪曲に残る話のあれこれは間違ひだらけ」などと声高にいへばいふほど、巷間伝へられた物語の数々が潰えていく。
そんなの、どうでもいい?
昔から語られてきた物語といふのは、共通認識となつて人々の中で生きてゐる。
なくなつてしまふと、そこで共有してきた情報が減つてしまふ。
そんなの、どうでもいい?
書いてゐてなんだかそんな気がしてきた。

我が家は、長いこと赤穂浪士や忠臣蔵に関わるTVドラマなどを見ない家だつた。
母が「忠臣蔵はもう飽きた」といふからだつた。
忠臣蔵を知らずにやつがれは育つた。
さすがに「殿中でござる」とか「遅かりし由良助」くらゐは知つてゐたけれど、全体の流れのなかで知つてゐるわけではなかつた。
その後、だいぶ年を取つてから年末に放映されたTVドラマの忠臣蔵だとか映画の忠臣蔵のTV放送を見た。
中山安兵衛の高田馬場の敵討ちなんかも知つたのは結構大きくなつてからな気がする。
南部坂雪の別れとか赤垣源蔵徳利の別れとか、それこそ「俵星玄蕃」だつて全然知らなかつた。

それで、なんとかなるんだよね、不思議なもので。
いまは知つてゐるわけだしさ。
小説もいくつか読んだ。
海音寺潮五郎の義士ひとりひとりを主役にしたオムニバス短編集みたやうなのが好きだなあ。
不和数右衛門とか、うつかり泣けてしまふ。

しかし、なんとかなつてゐるのは、「忠臣蔵」といふ共通認識が断絶しかけたのが我が家といふちいさい単位でのことだつたからだ。
我が家のなかで断然しかけてゐても、世間はさうではなかつた。
あひかはらず年末になると「忠臣蔵」関連のTV番組がある。
やれ、内蔵助はほんとはちいとも役に立たない男だつたの、いやいや、ほんとにすごかつただの、内匠頭は名君だつた、いや、やつぱりバカ殿だつた、吉良上総介は地元ではいいお殿さまだつた等々、かうして書いてゐても「どーでもいいんぢやない、そんなことは」といふことまであれこれ放映したりする。

どーでもいいけど、でも「仮名手本忠臣蔵」がかかればやはり見てしまふし、市馬師匠で聞けないのなら探して三波春男の「俵星玄蕃」を聞いたりする。
東映の「大忠臣蔵」とかね。見ちやふよね。

そんな感じで、とりあへず「忠臣蔵」は安泰なのだらう。
鍵屋の辻はどうなのかな。
富士の巻狩りはもう忘れられて久しい気がする。
それはそれで仕方がないのだらう。

Tuesday, 13 December 2016

どうつないでいくか

タティングレースは現在は五つ目のモチーフをつなぎ終へたところだ。

Masquerade

Lisbeth #40 の Lavender Dk といふ糸で、Mary Konior の Masquerade といふモチーフを作つてはつないでゐる。

この先どうつないでいくかちよつと悩んだ。
Masquerade の掲載されてゐる本 Tatting with Visual Patterns には、三列四段計十二枚のモチーフをつないだ写真が出てゐる。
これまで最高でも三列三段の計九枚しかつないだことがないと思ふので、長方形を作つてみるのはいいかもしれない。

完成形がどういふものになるか、それをどう遣ふかをまつたく考へてゐないので、つなぎ方ひとつにも悩む。
今回の目標はレース糸一玉で Masquerade を何枚作れるかといふところにある。
それさへわかればいいので、実は一列に延々モチーフをつないでもよかつたんだよな。
でもさうすると、ピコのつなぎの数とかで微妙に糸の使用量も変はつてくる気がするし、なによりこのモチーフは四枚の角をつないだところにもうひとつ新たな模様が生まれるところに妙があるので、かういふ形でつないでゐる。

三列三段つなぐところまでは正方形になるやうにつなぐかな。
そこから先は糸の残りを見ながら考へることにしやう。

Monday, 12 December 2016

袖無し羽織はじめました

袖無し羽織を編み始めた。
12/9(金)のことだ。

袖無し羽織 in progress

Striped Shawl を編みあげたあと、なにも編む気がしなかつた。
手元に毛糸がないからだ。
そんなわけで、毛糸をひつぱり出してきて編み始めた。
毛糸はローワンのフェルテッドツイード。
安売りしてゐたときにうつかり買つたものが大半だと思ふ。
なので、どの色も三玉くらゐとひどく中途半端な数しかない。
紺色と深緑とをメインにして、足りないところはほかの色を補つていかうと思つてゐる。

最初に、ゲージを取らうとした。
だが待てよ。
編み図があるわけでなし、毛糸のラベルを見てだいたいのところがわかればいいんぢやあるまいか。
といふわけで、ラベルを見てみると、22から24目で10cmとある。
針は3.5mmから4mmだつたかな。USサイズとUKサイズとは書いてあるけど、そんなサイズの針は持つてないしね。
最初は8号(3.6mm)の棒針で77目で編み始めたのだが、これだとゲージがゆるすぎる。
待てよ、といふので、ユニオンのサイトを見たら、針のサイズは5号から7号になつてゐた。
そこで6号(3mm)に持ちなほし、また77目で編み始めた。
いい感じですよ。
77目でも40cmちよいなのでまだ手はゆるいが、そこはそれ、別に編み図のあるわけでなし。
だいたい40cm幅ならいいといふ見当で編み始めたので、計画どほりといつていい。

編みはじめてみたら、なんだかどんどん編める。
編みやすいのだ。
糸と針との相性がいいのだらう。
針はクロバーの匠の輪針60cmを遣つてゐる。
もつと編みたい、もつと編みたいといふのでどんどん編める。
といつて、一段77目もあるのでそんなに即長くなるわけぢやあないが、これだと思つてゐたよりも早くできあがるんぢやあるまいか。
問題は、考へながら編んでゐることだけれども。

フェルテッドツイードは合太から並太くらゐの糸だが、50gで175mくらゐある。確か。
かるい糸だ。
したがつて編み地もかるい。
羽織ものにあふんぢやないかなあ。

Friday, 09 December 2016

魂の還る形

先日、「哥(うた)」といふ映画を見た。
丹波篠山に広大な山林を持つ森山家の人々をめぐる物語だ。

森山家には三人の息子がゐる。長男と次男とは正妻の子、三男はお手伝ひさんの子だ。三男の父親が誰であるかはほかの兄弟には知らされてゐない。
長男と次男とは、父親が死ぬ前に勝手に山林を売り払つてしまはうとする。
それを三男は必死にとどめる。文字どほり命がけでとどめる。
「魂の還る形が必要なのだ」といつて。
山林は日本人の魂の還る形なのだ、といふのである。

この「魂の還る形」云々は、戦後の日本人のあり方が前提となつてゐる。
映画の中では唐突にさういふ話になるのだが、見てゐて「ああ、さういふことだつたのか」と腑に落ちることがあつた。
三男には臨書をしてゐる場面が多く出てくる。
欧陽詢の楷書を練習するための本と「九成宮醴泉銘」を手本にしてゐる。
墓石から碑文を取つて、それをお手本にするのだと云ふ場面もある。
見てゐて不思議だつた。
三男は、なぜ臨書などしてゐるのだらう。
単なる趣味といふことも考へられる。
でも、なにか意味があるんだらう。
さう思つて見てゐたところの「魂の還る形」といふセリフだ。

形だ。
形が必要なのだ。

もつと考へると、なぜ欧陽詢なのかとか、興味の尽きない点はあるが、ここでは置く。

魂の還る形などと考へると大げさだし宗教がかつてもゐる。
心の拠りどころ、かな。
それだとだいぶ意味が変はつてきてしまふのかな。

自分の心の拠りどころはどこだらう。あるいはなんだらう。
なにかあるかな、そんなものが。
ないと思つてもある。
それが心の拠りどころなのかもしれない。
そんな気もする。

自分の心の拠りどころは、なにかしら古いもののやうな気がしてゐる。
木々のやうに必ずしも形のあるものではない気もする。
たとへば傍らに積んである「平家物語」とか。
休みの日に酒とともに楽しむ「史記」とか。

それが魂の還るさきなのかと問はれるとよくわからないが。

Thursday, 08 December 2016

今年の目標と辞書

今年の目標のひとつに「できるだけ辞書を引く」といふのがあつた。
ひつそりとした目標だつた。
ひつそりとしたものなので、自分の中で「あ、辞書引かなきや」みたやうなきつかけのひとつとして機能する目標だつた。

そろそろ今年の総括をする時期だ。
「できるだけ辞書を引く」といふ目標は、まあまあ達成できたものと思つてゐる。
なにしろ曖昧な目標だ。
「できるだけ」だもの。
これを「必ず」に変へてしまふと絶対達成できない。
重荷になるだけだ。
辞書を引くなどといふ目標をなぜたてるのかと考へたときに、重荷になつてやらなくなるくらゐならやめた方がいい。
そこで「できるだけ」にした。

使用してゐる辞書は iPhone 版の「大辞林」と「リーダーズ英和辞典」とだ。
「大辞林」なのは、iPhone を遣ひはじめたときに安売りをしてゐたからだ。
iPhone を持ち歩いてゐると、辞書もよく引くやうになる。
今年の目標をたてたきつかけのひとつが iPhone だ。

草森紳一は、辞書など信じないと書いてゐる。
どちらかといふと草森紳一に組みしたい方だ。
辞書は人間の作つたものだ。
必ず誤りはある。
誤字脱字のレヴェルから解釈の違ひまで、いろいろあるはずだ。

ではなぜ辞書を引くのか。
あることばが世間一般でどう受け取られてゐてどう使用されてゐるのかを知るため、かな。

たとへば、やつがれはこれこれかういふときに「編纂」といふことばを遣ふ。
でもやつがれの遣ひ方で世のほかの人に通用するだらうか。
さういふときに辞書を引く。

問題は、かういふ辞書の引き方をするなら「大辞林」よりは「広辞苑」の方がよからうといふことだ。
橋本治の著書に「橋本治が大辞林を使う」といふ本がある。
中に、編集者に「このことばの遣ひ方は違ふのでは」といふ指摘を受けて「でも辞書にはかうあります」と返すと「ご使用の辞書はなんですか」と訊かれる、といふやうな話が出てくる。
編集者が使用してゐるのは「広辞苑」、橋本治が使用してゐるのは「大辞林」だ。
橋本治の例からいつて、世の人にとつて「辞書」といつたら「広辞苑」のことなのだらう。

でも最近は、Webの辞書サイトで検索する人も多からうし、必ずしも「広辞苑」のひとり勝ちといふことはないだらう。
さう考へると、辞書も存亡の秋を迎へてゐるんだらうなあ。

別に愛用してゐる辞書があつた。
「新潮現代国語辞典」だ。
この辞書は用例の豊富さが魅力だ。
二葉亭四迷からの引用が多いやうに思ふ。
山田俊雄の編んだものであるといふことも大きい。
柳瀬尚紀との対談集「ことば談義寐ても寤ても」で、柳瀬尚紀からの質問に山田俊雄は「ここまではわかつてゐます」といふ答へ方をする。そこから先はまだわからない、とも云つてゐる。
そこが好ましいと思つたからだ。
かういふ人の編集した国語辞典ならおもしろいだらう。
さう思つたのである。

「新潮現代国語辞典」は職場で使用してゐた。
当時は客先勤務が多く、職場が変はるたびに辞書も移動させてゐた。さうかうするうちいづこかへ消へてしまつた。
次の勤務地が即決まらぬので社に戻したり家に持ち帰つたりしてゐるうちにどこに行つたかわからなくなつてしまつたらしい。
なくなつたと思つてゐたその他の品々は社の物置の奥から出てきたのだが、この辞書たけは出てこなかつた。
新版が出てゐるといふので、それを買はうかと思つてゐる。

Wednesday, 07 December 2016

片づけられない

家の中を片づけなければ。
さう思つて部屋を見回して、どこから手を着けていいか途方にくれて一日が終はる。

世の中に「見てときめかないものは捨てる」といふ方法がある。
だが、ときめかないものを捨てると生活が立ちゆかない。

スーツを見て心ときめくだらうか。
喪服は?
クレジットカードの明細なんて、いくら見たつてときめかない。

スーツがなければ客先には行けないし、喪服がなければ通夜葬儀にも出られない。
クレジットカードの明細は不要になれば即廃棄してもいいけれど、最低でも引き落とされるまでは取つておかないとなにがあるかわからない。

我が家には一生かかつても遣ひ切れない量の毛糸がある。
見てときめかない毛糸はない。
そんな毛糸は最初から買はないからだ。

「断捨離」といふことばも人口に膾炙して久しい。
なんとなく宗教めいた感じがしてあまり好きになれない。
でも、好きになれないほんたうの理由はそれぢやあない。
ものを捨てるのがイヤなだけだ。
捨てるために労力をかけるのを厭ふてゐるだけのことだ。

家の片づけをする時間があつたらほかにしたいことがたくさんある。
芝居を見に行くのもそのひとつだ。
もつと睡眠時間がほしいとも思ふ。
さうかうするうちにものは減らずに家の中のエントロピーがどんどん増大していく。

いつそ、なにもかも捨ててしまつたらいいんぢやないか。
さう思ふこともある。
なぜものが片づけられないかといふと、最初にも書いたとほりどこから手を着けていいかわからないからだ。
なにもかも捨てるといふことにしたら、どこから手を着けてもいいことになる。

さう思つて、試してみた。
今度は「これは燃えるゴミ」「これは燃えないゴミ」「これは資源ゴミ」「これは資源ゴミだけど分けないとダメ」「これは……何ゴミ?」と、ゴミの分別に汲々としてしまひ、それだけで疲れ切つてしまつた。
しかも、ゴミとして分別したからといつて、すぐに捨てられるわけではない。
定められたゴミの日に捨てなければならない。
すなはち、その日までゴミはゴミとして家の中に居座りつづける。
さつきまでは、本であつたり衣服であつたりしたものだつた。
それがいまはゴミとなつてそこにある。
指定されたゴミの日まである。
さういふのに耐へられなかつたんだよね。

とはいへ、片づけられないまま放置されてゐるものはゴミとなんら変はるところはない。
年末に向けて、といつてもうすでに年末なのかもしれないが、ここはひとつなにか行動を起こさなければ。
正月の三が日をゴミとともに過ごすことになつても、だ。

昨日あたり、Twitter に十年以上前に買つてそのままになつてゐた資料がいまになつて役に立つた、といふやうなつぶやきが流れてきた。
それはさういふ仕事についてゐる人だから云へることだ。
「本が崩れ」ていいのはそれがなりはひの足しになつてゐる人だけなのだ。
やつがれのやうに、単なる横着で本をつんでゐるだけの人間には許されない贅沢なのである。

つまり、いまのままでは分不相応だといふことだ。
さうみづからを戒めることにして、なんとかしたいと思つてゐる。
いまのところは。

Tuesday, 06 December 2016

基礎ができてゐない

Masquerade

タティングレースでは、Mary Konior の Masquerade の現在は四つ目をつないでゐる最中だ。
作つてゐて、案外糸を消費するモチーフだな、と思ふ。
いままでもいくつも作つてきたのだげと、糸の使用量は気にしたことはなかつたなあ。
今回は Lisbeth #40 一玉使ひ切りで何枚作れるかを確認するつもりでゐるので、気になるのかもしれない。

作つてゐて、タティングの基礎がまるでできてゐないのだなあと痛感する。

たとへばリングの締め具合ね。
きちんと締められないんだよねえ。
締めやうとするときつく引きすぎてしまふ。
ちやうどよい加減といふのがわからない。
途中まで引いて、ちよつと結び目を調整して、それから最後まで引いたりとか工夫してゐるんだがなあ。
一気に引く方がいいのか知らん。
などと、いまだに試行錯誤をくり返してゐる。

あと、チェインをピコにつないだときにうまくカーブが出ないことが多い。
つないだところがとがつてしまふのだ。
これも気をつけながらつないでゐるつもりなのだけれども、どういふときにとがつてしまふのかがよくわからない。
あるいはどういふときにうまいこと曲線になるのかがわからない。
ピコに通した芯糸の引き具合だと思ふんだけどね。

このあたりのことも考へつつモチーフをつないでいくつもりでゐる。
しかしまあ、できてゐないね。

レース糸を一玉使ひ切つたあかつきには、ほかの糸でおなじモチーフをいくつもつないで大きいものを作るつもりでゐるのだが。
なんとなく、一玉使ひ切つた時点でこのモチーフに飽きてしまふやうな気がして仕方がない。
Masquerade は好きなモチーフだからこれまでも何枚も作つたし、今後も作るだらうと思ふけれど、直後といふのはどうもね。

糸の使用量だけわかればいいかな。

Monday, 05 December 2016

挫折するかと思つたけど

Striped Shawl が編み上がつた。

Striped Shawl

整形して糸端を切らねばならないが、できあがつたといつていいだらう。
なにしろここまでが長かつた。

Striped Shawl

このショールは、Domino Knitting を元に編んだ。
使用した針は3号。
使用した毛糸は Filtura di Crosa の Zara。主となる焦げ茶色は1663。ベージュが1963、緑が1943、朱色が816、黄色が1922、青が813だ。
去年の十月末に編み始めて、あたたかくなつたので一時中断して、昨日編みあがつた。
本に載つてゐるショールのメインの色は紺色だ。
色あはせは自分で考へた。

本では、Sports Weight の毛糸を遣つてゐる。Zara よりは Zarina の方がよかつたことに編み始めてから気がついた。後の祭りだ。
目数や段数も本よりも減らした。
本では細長い編み地を五枚つないだやうな形になつてゐるが、四枚しかつないでゐない。
四枚つないだところでサイズとしては十分だからだが、焦げ茶色の毛糸が足りないからといふのも理由のひとつだ。
ほんたうは縁にiコードを編みつけたりするのだけれど、それをする余裕もない。
でも端は裏目できれいに編んでゐるので、そのまま見せてもいいかな、といふ気もしてゐる。

編みながらたまに羽織つてみたりしたところ、どうやらこれはやつがれ史上もつともあたたかいショールだ。
自分で編んだものといふのは、なんとなくあたたかい。
セーターなどでも、ものすごくあたたかいといふのではなくて、着てみるとほのかにあたたかい。じんわりとあたたかい。
そんな感じがする。

それが、このショールは羽織つたとたんに「あつたかーい」といふ気分になるんだな。
目がつんでるから?
Zara は6号くらゐの針で編む毛糸だと思ふが、それを3号で編んでゐるからかなりしつかりと編めてゐる。
それが原因かなあ。
これだとコートの上に羽織るにしてはちよつと暑すぎるかもしれない。
かといつて、このショールだけで出かけるのもなんとなく心細い気もする。
一度休みの日にこのショールだけで外を歩いてみるかな。

Domino Knitting を買つたとき、「このショール、編んでみたい!」と思つて、しかしなかなか着手できずにゐた。
編んだいまは「多分、もう編まないだらう」と思つてゐる。
結構時間がかかるんだよね。
あまつた毛糸の有効活用にはいいデザインだと思ふが、延々とガーター編みをくり返すのが案外疲れる。
編み気の高まつてゐるときなら問題ないのかもしれないけれど、きつとあんまりさういふ気分でもなかつたのかもしれないな。
一番長い部分なんか、このまま普通にマフラーになるくらゐの長さを編んでゐるからね。そりや時間かかるよね。

ドミノ編みは時間のかかるもの、と、Domino Knitting にも書いてある。
わかつてゐて編み始めたつもりだつた。
同様に、Domino Knitting には、「でもドミノ編みには中毒性があるんだよね」とも書かれてゐる。
さうなんだよねえ。
一度編んで懲りたはずなのに、結局またドミノ編みをしてゐる。さういふことがある。
このショールを編むのにあまつた毛糸で Shrug といふかマーガレットを編まうか知らん、などと考へてゐるほどだしね。

これで、晴れて袖無し羽織に取りかかれることになつた。
袖無し羽織もこのショールとおなじやうに編むつもりでゐる。
毛糸は十分あるので、周囲にiコードを編みつける予定でゐる。

Friday, 02 December 2016

思春期とは

「中二病」といふことばの遣はれ方を見てゐると、自分はそれなのだらうといふ気がする。
しかるに「中二病」といふのはほんたうにはどういふ意味なのだらうか。

Wikipedia を見てみた。
伊集院光がラジオの深夜番組で遣ひはじめたことばで、「思春期に見られる背伸びしがちな言動」を自虐する語、なのださうな。

小学生のころ、中学生になると両親と街を出歩くことや旅行に出かけることを避けるやうになる、といふ話を聞いた。
理由はいろいろあるが、かんたんに云ふと「気取つてゐるから」だ。
もう親となんか一緒に出歩きたくないんだよ。
さういふことなのださうな。
それはひどく様子の悪いことに思はれて、爾来世間的には大人と呼ばれるやうな年齢になつてからも親から誘はれたら一緒に旅行に行つてゐた。
親兄弟と街を歩き、旅をすることは全然恥づかしいことなんかぢやない。
親と連れ立つて歩くことを忌避することの方がよほど様子が悪い。
さう思つてゐたからだ。

おそらく、思春期にさしかかる手前のやつがれは、思春期にまつはることどもがとにかく気にくはなかつた。
かつこ悪いと思つてゐた。
自分は絶対思春期の人間がするといふあれやこれやはしないのだと心に誓つてゐた。
あるいはそのころすでに思春期にさしかかつてゐたのかもしれない。
他人とは違つた自分でゐたい、自意識の過剰なるがゆゑに他と己とを分かたうとする。
思春期か。
中二病か。

思春期が文字通り「春を思ふ時期」をさすのなら、やつがれには思春期はなかつた。
思ふ季節があるとしたらそれは秋で、こどものころから変はらない。
これまたWikipediaにあるやうに「心身ともに子供から大人に変化する時期のこと」といふのなら、身はともかく、心はいまだに大人になつてはゐない。
やつがれには若いころといふ時期が存在しなかつた。
ただ未熟だつただけだ。
そして今でも未熟である。
どうやらこのまま大人にはなれさうにない。
思春期か。
中二病か。
さうなんだらうな。

最近どこかで「内面をさらけ出さずにうちに閉ぢ込めるのが思春期」といふ説を見かけた。
思春期を過ぎた人間は、内面をさらけ出し、うちに閉ぢこめたりはしないのだらうか。
え、さうなの?
さうは思へないけどな。
それとも世間的には「大人」と云はれるやうな年になつても「内面をさらけ出さずにうちに閉ぢ込め」てゐるやうな人は、思春期まつただ中なのだらうか。

むづかしいわ、思春期。
まちつと考へてみることにせむ。
まさかこの年になつて「思春期とは」とか考へるとはね。
本来思春期にあたる時期に肩肘張つて「自分は絶対そんなことはしないのだ」とか頑なに拒絶してゐたのがいけなかつたんだらう。
悔やんでも後の祭りとはこのことだ。

Thursday, 01 December 2016

先代の幸四郎の「鬼平犯科帳」を見てゐる・裏

先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」を毎回楽しみに見てゐる。
昨日もさう書いた。

これまで見た六十ばかりの話のうち、「これ!」と思つたものは四話。
それなりにいい確率だ。
いい確率ではあるものの、残りの五十六話はどう見てゐるのか。

「あんまり楽しくないな」と思つて見る話もあれば、昨日書いた四話とは違ふノリで見る話もある。

加東大介の演じる岸井左馬之助の出る回は、高麗屋の鬼平とのやりとりが楽しみだ。
やりとりが楽しみなのなら昨日書いた話とおなじぢやあないか、といふ向きもあるかもしれない。
違ふんだな。
左馬之助と話をしてゐるときの鬼平は、ふつと「本所の銕」に戻るときがある。
鬼平から本所の銕への変はりやうが実に自然だ。
そして、若いころはさうだつたのだらうやうなちよつとやんちやな感じだとか、ワルだつたころの雰囲気とかを見せるのがたまらない。
加東大介の左馬之助もいい。
可愛いんだよなあ。
ふつくらしてゐるからかもしれないし、鬼平がこども扱ひするからかもしれない。

あるいは平田昭彦の天野甚蔵だ。
佇まひがいい。
鬼平から書状を受け取るときの、

  • 畳の上に座る
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といふ一連の所作が一々落ち着いてゐる。
たしなみある侍はかくもあらんか、といつたやうすなのだ。
「たしなみある侍」が実際どういつたものなのかは知らない。
知らないけれど、「かうだつたんぢやないかなあ」と思はせるものが平田昭彦の天野さまにはあるのだ。
オープニングのキャストのところに名前があるとうきうきする。
「むかしの男」では駕籠かき姿も披露してくれる。

竜崎勝にしてもさうだが、平田昭彦も健在だつたら播磨屋の鬼平にも出たのかな、出たとしたらどんな役だつたらう、と、つひつひ「たられば」を考へてしまふ。

そんな感じで、「うわ、すごい、中車(先代)(第一話)」とか、「林与一、よすぎる(第二話)」とか、「西村晃のこの目!(第四話)」とか「ああ、もう、アンヌ隊員(菱見百合子)つたらそんなに愛嬌振りまいて……(第五話)」とか、そんな見方をしてゐる。

山形勲もよかつたし、中村竹弥のときは話自体も引き込まれるやうだつた。
浪人姿の天本英世を見て、「背の高さによる怖さつて、やつぱりあるよなあ」としみじみ感じた。クリストファー・リーもその伝だ。
岸田森の出た回の次の回に勝呂誉が出てくれば、すは「怪奇大作戦」かと思ふしね。しかも勝呂誉の役名は源「助さん」だし。
天本英世が背の高さなら岸田森は小柄なところがよけいにあはれをもよほすのかもしれないなあと思つたりね。
鈴木瑞穂が悪役でなくて、しかもだまされる役で出てきてものすごく新鮮だつたなあ。

そんなわけで、日々「ミーハー」な感じで見てゐるのだつた。
第二シーズンになると平田昭彦は出なくなるんだよね。
ちよつとさみしい……。
クズ男を演じさせたら天下一品の河原崎三兄弟の次男の辰蔵も第一シーズンまで。第二シーズンは播磨屋になる。これはこれで楽しみだ。

2016年11月の読書メーター

2016年11月の読書メーター
読んだ本の数:12冊
読んだページ数:1528ページ
ナイス数:13ナイス

無敵のソクラテス無敵のソクラテス感想
死といふものがどんなものだかわかつたと思つた試しはない。だが死は怖い。といふことは、自分は死がどんなものだかわかつてゐると思つてゐるのか。そんなことないんだけどなあ。つまり、この感情は「恐怖」ではないのだらう。「不安」。それだ。多分。この本で云つてゐることが正しいのであれば。「帰ってきたソクラテス」を勧められたのだが入手できず、この本を手に取つた。ありだと思ひます。
読了日:11月5日 著者:池田晶子
敵は海賊・短篇版敵は海賊・短篇版感想
神林長平は固有名詞の付け方が絶妙だ。人名にしろ地名にしろ、よくこんな名前をつけられるものだといつも思ふ。ここにおさめられてゐる四篇も例外ではない。雪風の出てくる短篇を過去に読んだ気がしてゐたのだが、これだつたのか。いまはなにもかもなつかしい。
読了日:11月8日 著者:神林長平
The Martian Chronicles (Voyager Classics)The Martian Chronicles (Voyager Classics)感想
最後のオチ(オチとは云はないのかもしれないが)がいま読み返しても好きだなあ。差別されてゐた人々は差別のない世の中を求めて火星に行つたのだらうが、おそらく地球に戻つたのだらう。戻つて、差別してゐた人々とともに滅んだのだらうか。時節柄、そんなことを考へてしまつた。
読了日:11月15日 著者:RayBradbury
言葉使い師言葉使い師感想
「スフィンクス・マシン」はNHKのラジオドラマで聞いた記憶がある。スフィンクス・マシンの組み上がるやうすの音はキャベツを刻む音だか葉をむしる音で作つた、とか、メイキングまで記憶してゐる。それで手にしてみた。今回は記憶を題材にした二作に興味を惹かれた。
読了日:11月17日 著者:神林長平
李陵李陵感想
「きみは悪くないんだよ」と誰か云うてやつてくれ。
読了日:11月18日 著者:中島敦
名人伝名人伝感想
これと「文字禍」とは笑ひ話だと信じてゐる。
読了日:11月18日 著者:中島敦
悟浄歎異 —沙門悟浄の手記—悟浄歎異 —沙門悟浄の手記—感想
「西遊記」が読みたかつたのだが、気力・体力ともに大冊を読める状態ではなかつたので。これもなんとなく微笑ましいと思ひながら読んでしまふ話だ。
読了日:11月18日 著者:中島敦
悟浄出世悟浄出世感想
昔初めて読んだときは自分のことが書いてあるのかと思うたこともある。「実は彼が微かすかな声で呟つぶやいているのである。「俺おれはばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、」とかのくだりね。さすがに自分が堕天使だと思うたことはないけどね。それつてつまり元は天使だつたつてことでせう。これはいまも変はらない。成長してゐないことが確認できたのでよしとしたい。
読了日:11月18日 著者:中島敦
山月記山月記感想
「李陵」に比べると文章がきゆつとしまつてゐる感じがする。ここのところ読んだものの流れの中でこれを読まないのはなんか違ふかなといふので読み返してみた。いつ読んでもイタい。
読了日:11月20日 著者:中島敦
文字禍文字禍感想
とりあへず、読んで笑ふ。まづはそこから。
読了日:11月20日 著者:中島敦
鏡花氏の文章鏡花氏の文章感想
中島敦が好きなのは多分、かういふところがあるから。
読了日:11月20日 著者:中島敦
覚えておきたい極めつけの名句1000 (角川ソフィア文庫)覚えておきたい極めつけの名句1000 (角川ソフィア文庫)感想
ひとまづ通読。今後はパラパラとめくりつつ読みたい。クイズ形式の難読季語や言葉遣ひ、文法の間違ひなどもあつておもしろい。おなじ句でも読んだときによつて感じ方が違ふのも楽しい。
読了日:11月28日 著者:

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