うまくメモがとれない
11/12(土)の夜に池袋の新文芸坐のオールナイト上映会に行つてきた。
そのとき見た映画のあらすじや所感を手帳に書きつけてゐるのだが、書いても書いても終はらない。
先日「切腹」を見たあともまさにそれで、懲りたので今回はちよつとあひだをおいて書き始めた。
記憶が薄れるから書く量が減るだらうと思つたからだ。
見当違ひだつた。
なんだかひたすら書いてしまふのだつた。
もちろん記憶は薄れてゐる。
捏造してゐる部分もあるだらう。
そんなものを書いて意味があるのか。
おそらくはない。
意味のないものをどうして自分は書きつけてしまふのか。
芝居や映画について書くと長くなるやうになつたのは、去年劇団☆新感線の「五右衛門VS轟天」を見てからだ。
千秋楽の五日後くらゐからだつたらうか、覚えてゐるかぎりをノートに書きつけはじめた。
当時は満寿屋のMONOKAKI B6 の9mm罫線のノートを遣つてゐた。
ページの残りは20ちよい。
余裕で書き終はるはずだつた。
終はらなかつた。
書いたあと見返して書き忘れたことを書き足したりしながら、次のノートにうつつて、結局80ページくらゐは書いたやうに記憶してゐる。
数日にわたつて書いてゐるので、当然最後の方は記憶も曖昧で書くことも減つた。
書いてゐるあひだ、最高に楽しかつた。
「五右衛門VS轟天」があまりにも楽しかつたので千秋楽後に「「五右衛門VS轟天」ロス」にかかるのではないかと思つてゐたのに、書いてゐるあひだはロスなどなかつた。
日々おもしろをかしかつた。
自分の中では「五右衛門VS轟天」は終はつてゐなかつた。
書いたことを見返せば、あのときの記憶が甦る。
記憶は呼び覚ましてゐるあひだにどんどん編集が進んでいく。実際にあつたことをなかつたこととし、なかつたことをあつたこととしてしまひがちだ。
しかし、ここにノートがある。
書きつけた時点で虚偽のことを書いてゐるかもしれないが、でも、これは改竄されない。
外部記憶装置が必要だ。
ここ数年、切実にそれを感じてゐる。
家族は外部記憶装置だ。
幼すぎてきちんと覚えてゐないことでも、年長者が覚えてゐたりする。
五歳のときに潮干狩りで行つたのは稲毛海岸ではなくて浜名湖だつた、みたやうな是正もしてくれる。
問題は、家族も年を取つて記憶が曖昧になつていくこと、そしてこちらが覚えてゐてほしかつたことをまつたく覚えてゐなかつたりするといふことか。
こどもの中で自分が一番年長者の場合、親がゐなくなつてしまふと二進も三進もいかなくなることも考へられる。
記録だ。
記録するしかない。
さう思つてあれこれ書きつける。
そんなわけで去年から書くことがどんどん長くなつていつて、収拾がつかない状態になつてゐる。
もつと簡便に達意のメモが書けたらなあ。
それにしても、なぜこんなに書いてしまふのか。
書くのが楽しいからだ。
書いてゐるあひだは芝居なり映画なりが頭の中にぼんやりとではあるが再生される。
見てゐた自分のこともうつすらと思ひ出す。
楽しい。
楽しいぢやあないか。
こんなに楽しいことは実際に映画なり芝居を見る以外にない。
楽しいからいいぢやあないか。
さうも思ふが時間は有限だ。
そして記憶は時とともに薄れてゆく。
Verweile doch,du bist so schön!
土曜日(正確には日曜未明)に見た映画で、登場人物がそんなことを云つてゐたな。
日本語でだけど。
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