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Friday, 18 November 2016

「中の人」考

観客の多くは俳優とその演じる役とを同一視してゐる。
これが長いことよくわからなかつた。
いまでもわかつてゐるとは云ひ難い。
こどもならわかる。
悪役商会に所属する俳優のこどもが学校でいぢめられるといふ。
おまへの親父は悪人ぢやないか、と。
いぢめがいいといつてゐるわけではない。
「中の人」とその人が演じてゐる役とを混同してしまふのは、こどもならありがちなことだ。

先日、「帰ってきたウルトラマン」は紛らはしいと云はれてそのことに気がついた。
「帰ってきたウルトラマン」では、西田健が岸田文夫といふ役で、岸田森が坂田健といふ役を演じてゐる。
これがチトややこしい、といふのだ。
云はれるまで考へてもみなかつた。
こどものころは「中の人」のことなんて考へて見ない。
TVドラマに出てくる役名の、俳優が演じてゐるその人を見てゐると思つてゐる。
岸田隊員を誰が演じてゐて、坂田さんを演じてゐる俳優の名前はなにかなどといふことを、考へたりはしない。
そんなものがあるとさへ思つてはみないだらう。

「中の人」を意識しだしたのはいつごろだつたらうか。
「秘密戦隊ゴレンジャー」がはじまつて、アオレンジャーがV3の人だといふことに気がついたあたりからかな。
ゴレンジャーといへば、ロケの一行に出会つたことがある。
誠直也がアカレンジャーの衣装を来た人と一緒にお茶をしてゐるところを見て、「やつぱり違ふんだ」と、わかつてはゐたけれどなんとなくがつかりした記憶がある。スーツアクターの人は顔は出してゐたからよけいにね。

成長していく課程で、かうしてTVドラマなどの登場人物とその人物を演じる「中の人」とは別物である、といふことを学んでいく。
そのはずなのだが、なぜか人はフィクションの人物と「中の人」とを同一視する。
なぜなんだらう。
ここにも以前書いた話で、西村晃が水戸黄門役について「演じてゐたときは大変だつた。ふだんの生活にも気を遣はないといけなくて」と語つてゐたことがある。
他人に見られたときに「黄門さまがあんなことをするなんて」みたやうな所業には出られない、といふのだ。
銭形平次を長いこと演じてゐた大川橋蔵について「さぞ大変だつたらう」とも云つてゐた。

これまで生きてきて、好きな俳優・女優といふのがゐた試しがない。
いや、そりや云ひますよ、「誰某が好き」とかね。
云ふけれど、ぢやあその俳優某の出てゐる映画やTVドラマ、芝居を全部追ひかけるか、といふと、そんなことはしない。
「好き」といふのは、「その人が出てゐると話がちよつとおもしろくなるから」くらゐの気持ちだ。
あるとき、「もしかしたらはじめて好きになつた俳優かも」といふのでその俳優の出る映画その他を片つ端から見たことがある。
勘違ひだつた。
その俳優がある映画で演じてゐたある役が好きだつただけで、別段その俳優が好きなわけではなかつた。
その証拠にほかの映画のほかの役にはまつたく惹かれなかつたからだ。

それつて多分、役と俳優とは別、と思つてゐるからだと思ふんだな。
歌舞伎役者でも、この役なら好きだけど、あの役だとそれほどでもない、といふのはいくらもある。
なにやつても好き、といふ役者はゐない。
自分には好きな役者といふのはゐないんぢやないかと思つてゐる。
それともかういふのがほんとに「役者を好き」といふのかな。

或は自分にはどこか欠陥があるのだらうか。
ある役を演じるのを見て「この人、好き」と思つたら、俳優自体を好きになるものなのかな。

うーん、どうも、役と演じる人とは別物、としか思へないんだよなあ。
いまこれを書いてゐる自分と、書いた文章とはまるで別物、と思つてゐることと関係あるのかもしれない。

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