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Friday, 11 November 2016

人情噺にあてられる

人情噺を聞くと、己の至らなさにつくづく嫌気がさしてしまふ。

「文七元結」の左官の長兵衛は、博打にはまつて身をもちくづしたどうしやうもない人間だ。
でも、芯のところは人間としてひどく上等だ。
自分の娘が身を売つてこしらへた五十両を、見ず知らずの若者にぽんとやつてしまふ。
「娘は苦界に沈むが死にはしない。おまへさんはこの五十両がなかつたら死ぬんだらう」と云つて。

このくだりにくるたびに、「自分が長兵衛だつたら、絶対そんなことはしない」と思つてしまふ。
そして、自分の人間としてのどうしやうもないいやしさ、さもしさ、あさましさに嫌気がさしてしまふのだ。

人情噺を聞いて己が身に照らしあはせてしまふのは、カルピス名作劇場(のちにハウス名作劇場)のせゐだらう。
名作劇場に出てくる主人公は、とくにやつがれが幼いころ見てゐた話の主人公は、みな「いい子」だ。
「赤毛のアン」や「トム・ソーヤの冒険」といつた例外はあるものの、みな孝行者でやさしく、人間として上等だ。
それは物語の一環であり、主人公がさういふ状態でないと話として成り立たないからさうなのだらうくらゐにとらへてゐた。
こどものころのことだからこんな風にことばにして考へてゐたわけではないけれど、いづれフィクションぢやないか、くらゐには考へてゐた。

親は違つた。
なにかにつけ云ふのだ。
「ネロを見習へ(ローマ皇帝ぢやありませんよ)」だとか「マルコを見てみろ」だとか「ペリーヌはこのまへどうしてゐたよ」だとか。

ネロやマルコやペリーヌなどは、別に好きぢやないしおともだちになりたいとも思はない。
自分の鑑として見たことなんて一度もない。
一度もないけれど、親からさう云はれるとさういふ目で見なければならないのだらうか、とは思ふ。
ゆゑにカルピス(ハウス)名作劇場はあまり好きではなかつた。

そして、考へはする。
名作劇場の主人公たちのやうに、孝行者で他人にやさしくつねに行ひの正しい人の方が、人間としては上等なのだらう、と。

人間として上等とはどういふ意味か。
自分の損得抜きでものを考へられる人、かな。

「雨ニモマケズ」には「あらゆることを自分を勘定に入れずに」といふ一節がある。
ムリだな。
そんなこと、できつこないよ。
だいたい、自分が自分のことを勘定に入れなかつたら、誰が自分のことを考へてくれるといふのか。

この「あらゆることを自分を勘定に入れずに」といふのは、「客観的になる」といふ意味なのだといふ説がある。
それはそれとして、自分を勘定に入れなかつたら、ほんたうに客観的になれるのか。

世の中の戦争を始める人は、まづ自分を勘定に入れてゐない。
自分が最前線に行つて最低最悪の土地でもつとも熾烈な戦ひに参加するなんぞといふことは考へてもみない。
実際に武器を手に敵と戦ふのはその他大勢の人々で、自分は関係ない。
自分は勘定に入つてゐないのだから、自分の考へは客観的なはずだ。
その人はさう思つてゐるかもしれない。
だつたら「客観的な考へ」なんぞ、害悪でしかない。

ものごとを考へるにあたつて、自分を勘定に入れるといふことは大事なことなのだ。
そのうへで、損得勘定を抜きにして行動できるのが人間として上等な人なのだらう。

あれこれ理屈はこねるけれど、でも自分は決してそんな人間にはなれない。
人情噺を聞くたびに、そんな自分を思ひ出してはつらくなるのだつた。

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