廊下とんびになりたいのだが
世に「廊下とんび」といふことばがある。
もともとは遊郭で使はれてゐたことばだといふ。
芝居でも使ふ。
自分の見たい演目、見たい場面だけ見て、さうでもないもののかかつてゐるときにはロビーなどでぶらぶらしてゐることを指す。
廊下とんびを一度やつてみたいとつねづね思つてゐる。
だが、できない。
うつかり寝落ちてしまふことはある。
でも寝落ちるのは苦手な演目のときとは限らないからなあ。
気持ちよくて寝落ちる、といふこともないわけぢやない。
アルファ波を受けてるんだよね、さういふときは。
廊下とんびができないのは、貧乏性なせゐだ。
これまではいいと思つたことのない演目だし、配役もそんなに好みではない。
でももしかしたら、今回はいいかもしれない。
さう思つてしまふのである。
以前からさういふ風に思つてゐたけれど、この思ひが強くなつたのは一昨年の三月、京都南座で「吹雪峠」を見てからだ。
「吹雪峠」は、宇野信夫原作の芝居で、新歌舞伎のひとつだ。
一昨年の三月まで、見てもおもしろいと思ふことはなかつた。
客は妙なところで悪オチするし、それに、なんかいろいろムリな話ぢやないか。
話は、身延山参りの助蔵とおえんといふ若い男女が夜中猛吹雪のなか、なんとか無人の山小屋にたどりつくところからはじまる。
おえんは助蔵の兄貴分・直吉の妻だつた。
助蔵とおえんとは密通をつづけた上、駆落ちした仲である。
山小屋で一息ついてゐると、そこに偶然直吉がやつてくる。
直吉はもう恨みなどないといふが、ふとした拍子に怒りが蘇る。
一度は許されたと思つた助蔵とおえんとは、見苦しく命乞ひをする。相手のことなどどうでもいいといふ勢ひだ。
それを見た直吉はまた冷めてしまひ、いまは冷えきつた仲の助蔵とおえんとを遺して吹雪のなか山小屋を出て行く。
新歌舞伎だし、最後は暗いし、遺された助蔵とおえんとのその後を考へるだにイヤな気分だ。
それが、一昨年の三月の南座ではすばらしかつたんだよねえ。
直吉に坂東亀三郎、助蔵に尾上松也、おえんに中村梅枝といふ配役だつた。
菊五郎劇団の若手による舞台だ。
見る前から「配役は申し分ないけれど、なにも「吹雪峠」でなくたつて」と思つてゐた。
間違ひだつた。
「吹雪峠」つてこんなにおもしろい芝居だつたんだつけか。
そのとき、つくづくさう思つた。
それ以来、「この芝居はつまらない」とか「この配役だとそんなに心惹かれない」と思ふことがあつても、「でも、もしかしたら今回は違ふかもしれない」といふ気がしてしまふ。
その後、「吹雪峠」のやうに「これつてこんなにいい芝居だつたのか!」と開眼するやうな舞台には出会つてはゐない。
来月の「吹雪峠」はどうしやう。
やはり見てしまふやうな気がしてならない。
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