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Wednesday, 30 November 2016

先代の幸四郎の「鬼平犯科帳」を見てゐる

先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」を毎回楽しみに見てゐる。

もうすぐ第一シーズンが終はる。
終はるまへになんだし録画できてゐなくて見てゐない回が2つほどあるが、いままで見た中で気に入つた話をまとめておきたい。
ベスト3と思つたが、4になつてしまつた。

順不同で以下のとほり。
第三十話 盗法秘伝
第四十話 かわうそ平内
第五十三話 おせん
第六十一話 あほうがらす
以上。

「鬼平犯科帳」を見ながら夕飯を食べてゐる。
そんなに一生懸命見てゐるわけではないのだが、「あれ?」と思ふ瞬間があつて、引き込まれるやうにして見たのがこの四話だ。

第三十話の「盗法秘伝」は、浜松から帰路についた鬼平が盗人(花澤徳衛)と出会ひ、盗人の心得を伝授されるといふ話だ。
第四十話の「かわうそ平内」は、みるからに乞食とおぼしき男(有島一郎)が実は大変な剣豪で、とても敵を討てないやうな兄弟を短期間で鍛えて敵をとらせる話だ。
第五十三話の「おせん」は、放蕩無頼の息子(草野大悟)を持つた老母(原ひさ子)と息子と関係のあつたおせん(堀井永子)との交流を描いた物語である。
第六十一話の「あほうがらす」は、妾を斡旋する女衒である「あほうがらす」の男(加藤武)が商家の主たる兄(江戸屋猫八)とその息子との仲をとりもちつつ、同業者で殺人犯の疑ひをかけられてゐるものを追ひつめる手助けをする、といつたところか。

「おせん」を除き、いづれも見てゐて楽しい気分になつてくる話ばかりだ。
「おせん」だつて、おせんと老女との仲を見てゐると、なんとも幸せな気分になつてくる。

「盗法秘伝」では、高麗屋と花澤徳衛との会話に引き込まれた。
なんとも間がいい。
相手が火付盗賊改方の長谷川平蔵と知らずして「自分の盗人としての技を伝へられるかもしれない」と期待しつつ鬼平に話しかける花澤徳衛と、仕事の上の興味もありつつ相手に惹かれて話を受ける幸四郎と、ふたりのやりとりの妙に思はず箸を止めた。
夕食を食べながらのTV鑑賞は、見てゐるやうで見てゐない。
耳から入つてきたせりふの端々に注意を引きつけられる。
そんな感じだつた。

「かわうそ平内」は、有島一郎の飄然としたやうすに参つてしまつた。
汚いんだよ、匂つてきさうなほど。
風呂には何日も入つてゐないだらう。忠吾(志ん朝)もそんなことを云つてゐた。
しかるに軽妙かつ自在。
この日は日中いろいろとおもしろくないことがかさなつてくさくさした気分でゐたのだが、「かわうそ平内」を見て、といふよりは自由自在融通無碍な有島一郎を見て、一気にご機嫌になつてしまつた。

「おせん」も、原ひさ子につきる。
第二シーズンで前後篇の「狐火」に出る草野大悟の出来や如何にと思つて見始めたはずが、原ひさ子のこのころからとにかく可愛いおばあさんぶりにやられてしまふ。
最初は老女を邪険にあつかつてゐたおせんがだんだん老女に惹かれてゆき、最後は自分のおつかさんのやうに思ふやうになるといふ話にもじんときてしまつた。
ダメなんだよ、可愛いおばあさんとか。
ずるいよ。

「あほうがらす」は、加藤武が江戸屋猫八や堺左千夫、澤村いき雄とやりとりするときのせりふがいい。
江戸前つてかういふのを云ふんだよね、きつと。
鯔背でね。
猫八がちよつと野暮つたいのがコントラストになつてゐる。
澤村いき雄は七代目宗十郎のもとにゐたことがあるとweb検索で知つた。これがまた粋な爺さんでね。
これもせりふがまづ耳に入つてきて引き込まれるやうに見た回だ。

高麗屋の「鬼平犯科帳」には池波正太郎つぽさがあまり感じられない。
でもその点を気にしたことはほとんどない。
原作はあつても全然別物。
さう思つて見てゐる。
楽しければいいぢやん、みたやうな感じかな。

このあと、第二シーズンも引き続き再放送してもらへるのかな。
してもらへるとして、第一シーズン同様に楽しいのだらうか。
いま気になつてゐるのはそこである。

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Tuesday, 29 November 2016

日輪の輝きを受けて

Masquerade in Progress

タティングレースのモチーフの二枚目を作つて一枚目とつないだ。

Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる Masquerade といふモチーフだ。
四枚つなぐと、モチーフにはない模様が浮かびあがつてくるのが楽しい。なかなかそこまでたどりつきさうにはないけどね。

タティングレースが進んでゐるのは、昼休みのあいた時間に結んでゐるからだ。
「この時間にはこれをする」と決めるとわづかながらでも進むものである。

Masquerade に使用してゐる Lisbeth #40 の Lavender Dk は何年も前に購入したものだ。
ずつと眠らせたままだつた。
どんな色なのか試しに買つてみたものの、さて、ではなにを作つたものか知らん、といふのでしまひ込んで幾星霜。
モチーフを作つてみてもいいけれど、さうすると中途半端に糸が減るのがイヤでね。

自分の好みからいふとちよつとどぎつい感じのする色かなと思ふ。
その一方で、日の光があたつたときにきらきらする感じは悪くない。
レース糸つて、ときどきさういふの、あるよね。
日光の下で見ると、輝いて見えるやうな糸。
この糸もそんな感じの糸だ。

そんなわけで、明るい時間帯に結んでゐるといふのも進む理由なのかもしれない。

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Monday, 28 November 2016

ラジオ講座とあみもの

あみものはまつたく進んでゐない。
もうこのまま編まなくなつてしまふのかと思ふくらゐである。

紡ぎもそれほど進んではゐない。
先週はいつになく眠れてゐた。
あみものが進まないのはそのせゐだと思ふ。

なぜ先週はよく眠れてゐたのか。
ラジオが壊れてしまつたからだ。
それで、NHKラジオ語学講座をまつたく聞けなくなつてしまつた。
Webページからでも聞けないことはないけれど、一週間遅れることになる。
その場合、ラジオを新たに買ふことにしたら、一週間分 catch up しなければならない。
どうやつて?

うまい手を考へつかなかつたので、ラジオの壊れてゐるあひだはラジオ講座を聞かずにゐたのだつた。

土曜日に新たなラジオがやつてきた。
SONY ポータブルラジオレコーダー ICZ-R100がそれである。
もともとはおなじ製品のICZ-R50といふのを遣つてゐた。
おなじものを買ふつもりでゐたが、R100の方が廉価だつた。
それに、R50とその後継機と比べると、R100の方が移動させやすい。

今日からまたラジオ講座を聞く生活に戻る。
聞かないあひだはまるまるとはいはないけれど、その分早く布団に入れてゐた。
また聞くやうになつて、睡眠時間が削られるのかなあ。削られるんだらうな。
だつたらほかのことをやめればいいのだが、なかなかうまくいかなくてね。

ところで、ラジオ講座を聞きながらあみものをすることがある。
することがある、といふよりは、ラジオ講座を聞きながら編むのがつねだつた。
これでまた編む時間がとれるやうになるのではあるまいか。

睡眠時間の確保には、先代の幸四郎の「鬼平犯科帳」を見るのをやめるといふ手もあるんだがなあ。
それもちよつとできさうにないんだよね。

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Friday, 25 November 2016

不完全燃焼

ユビキタス・キャプチャーとは、したことや思ひついたことなどなんでも忘れないやうに記録に残すこと、だと思つてゐる。

六年前にふたたび Moleskine を遣ひはじめたとき、そのユビキタス・キャプチャーを実行するつもりでゐた。
ノートはいろいろ変はり、筆記具もそのときどきで違ふけれども、いままでつづいてきてゐるといふことは、ユビキタス・キャプチャーを実践できてゐると思つていいのかな。

問題は、最近「書き切れない」と思つてゐることだ。
書き切れないことについては先日書いた
見てきた芝居や映画のことを延々書きつづつてしまふ。
書き尽くさぬうちに、書き尽くせてゐない部分の記憶が薄れてゆく。
感想を書いてゐるあひだ、ほかのことが書きづらい。

書き尽くせぬことは書かなくてもいい。
書き尽くせぬことは忘れてしまつても仕方がない。
さういふ割り切りも必要なのかもしれない。

二年前の手帳をぱらぱらと見返してゐた。
当時、自分のやつてゐることはユビキタス・キャプチャーではないな、と思つてゐた。
いろいろと書き残してはゐるけれど、書き残したいことを全部書いてゐるわけではない。
「ぢやあ書きたいと思つたことはかたつぱしから書いてみやう」と思つた、そのときの手帳だ。
Moleskine ポケットサイズの罫線あり版である。
これがまた、こまごまといろいろ書いてあるんだなあ。
ときに「書き切つた」といふ満足感を書き添へた部分もある。

さうか。
いまの自分に足りないのはこの「書き切つた」といふ達成感なのだな。

この週末は、「書き切る」ことに挑戦してみるか。

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Thursday, 24 November 2016

あこがれのたすき掛け

芝居や映画、TVドラマを見て「まねしてみたい」と思ふことはさまざまある。
口にしてみたいせりふについては以前書いた

まねしてみたいことの一つにたすき掛けがある。
ちよつと昔のホームドラマなどに、お母さんが口にたすきの端をくはへてあつといふ間にたすきを掛ける、そんな場面があつたりする。
なんてやうすがいいんだらう。
たすきが宙をひらめくさまがいい。
たすきを掛けた姿もいい。
なんだかとつても凛々しいのだ。

しかし、普段生活してゐてたすき掛けが必要な状況に出会ふことがない。
そもそもたすきを持つてゐない。
たすきを売つてゐるところにも出くはさない気がする。
いまWeb検索をかけたら、運動会用のたすきだとか選挙のときに候補者のかけてゐるやうなたすきは売られてゐることがわかつた。
自宅にはたすきに見合ふやうな長さのひもはないなあ。
手ぬぐひを結んでやつてみやうか知らん。

剣道や弓道をたしなむ人は普通にたすき掛けをするのだらうし、日本料理屋の板前の人などもしてゐるだらう。
洋装だと応援団の人がたすきを掛けてゐるのを見かける。
たすき掛けつて、そんなに特殊なことぢやないんだよね、きつと。

それでもまねしてみたいといふあこがれを抱くのは、たすきの端を口にくはへて魔術のやうに掛ける、あの一連の所作がすてきだからだらう。
かけかたの理屈(といふか)はわかつてゐるつもりなので、そのうちやつてみやう。
たすきを掛ける意味はないかもしれないが。

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Wednesday, 23 November 2016

廊下とんびになりたいのだが

世に「廊下とんび」といふことばがある。
もともとは遊郭で使はれてゐたことばだといふ。
芝居でも使ふ。
自分の見たい演目、見たい場面だけ見て、さうでもないもののかかつてゐるときにはロビーなどでぶらぶらしてゐることを指す。

廊下とんびを一度やつてみたいとつねづね思つてゐる。
だが、できない。
うつかり寝落ちてしまふことはある。
でも寝落ちるのは苦手な演目のときとは限らないからなあ。
気持ちよくて寝落ちる、といふこともないわけぢやない。
アルファ波を受けてるんだよね、さういふときは。

廊下とんびができないのは、貧乏性なせゐだ。
これまではいいと思つたことのない演目だし、配役もそんなに好みではない。
でももしかしたら、今回はいいかもしれない。
さう思つてしまふのである。

以前からさういふ風に思つてゐたけれど、この思ひが強くなつたのは一昨年の三月、京都南座で「吹雪峠」を見てからだ。

「吹雪峠」は、宇野信夫原作の芝居で、新歌舞伎のひとつだ。
一昨年の三月まで、見てもおもしろいと思ふことはなかつた。
客は妙なところで悪オチするし、それに、なんかいろいろムリな話ぢやないか。

話は、身延山参りの助蔵とおえんといふ若い男女が夜中猛吹雪のなか、なんとか無人の山小屋にたどりつくところからはじまる。
おえんは助蔵の兄貴分・直吉の妻だつた。
助蔵とおえんとは密通をつづけた上、駆落ちした仲である。
山小屋で一息ついてゐると、そこに偶然直吉がやつてくる。
直吉はもう恨みなどないといふが、ふとした拍子に怒りが蘇る。
一度は許されたと思つた助蔵とおえんとは、見苦しく命乞ひをする。相手のことなどどうでもいいといふ勢ひだ。
それを見た直吉はまた冷めてしまひ、いまは冷えきつた仲の助蔵とおえんとを遺して吹雪のなか山小屋を出て行く。

新歌舞伎だし、最後は暗いし、遺された助蔵とおえんとのその後を考へるだにイヤな気分だ。
それが、一昨年の三月の南座ではすばらしかつたんだよねえ。
直吉に坂東亀三郎、助蔵に尾上松也、おえんに中村梅枝といふ配役だつた。
菊五郎劇団の若手による舞台だ。
見る前から「配役は申し分ないけれど、なにも「吹雪峠」でなくたつて」と思つてゐた。
間違ひだつた。
「吹雪峠」つてこんなにおもしろい芝居だつたんだつけか。
そのとき、つくづくさう思つた。

それ以来、「この芝居はつまらない」とか「この配役だとそんなに心惹かれない」と思ふことがあつても、「でも、もしかしたら今回は違ふかもしれない」といふ気がしてしまふ。
その後、「吹雪峠」のやうに「これつてこんなにいい芝居だつたのか!」と開眼するやうな舞台には出会つてはゐない。

来月の「吹雪峠」はどうしやう。
やはり見てしまふやうな気がしてならない。

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Tuesday, 22 November 2016

太い糸の方がいい?

Masquerade in Progress

Lisbeth #40 で Masquerade を作りはじめた。
タティングレースセットが来たのでちよつとタティングしてみたところ、ほんのり火がついたんだね。
単純だね。

火種はもうひとつある。
出勤の折りバスのひとつ前の席に座つてゐた人がかぎ針編みをしてゐたことだ。
針はNo.2/0、ラメ入りのちよつと細めの糸を編んでゐた。
いいなあ。

そこでかぎ針編みをすればいいのかもしれないが、なんとなくタティングレースにいつてしまつた、と。
タティングレースの方がお道具を持ち歩きやすいしね。

使用してゐる糸は、在庫の奥の方にあつたものだ。
試しに買つてみた糸だと思ふ。一玉しか買つてゐなかつたからね。
色は Lavender Dk とある。
はたして Masquerade に向いた色かどうかはよくわからない。
Mary Konior の Tatting with Visual Patterns では青い20番の糸で作られてゐる。20番くらゐの方がいいのかなあ。そんな気がしないでもない。
一玉遣ひ切つて Masquerade をつなぎ続けるつもりでゐる。

Jan Stawasz の本などでも、#10とか#20とかの糸をよく遣つてゐる。
ちよつと太いくらゐの糸の方がいいのかなあ。
そんな気がしないでもない。

たとへば、Lisbeth は #20 が一番タティングしやすい気がする。
最初に売り出した番手だからといふこともあるのかもしれない。
また、ダルマ毛糸のレース糸である葵が実にタティングしやすい糸なんだよねえ。こちらは#30といふけれど、DMC でいふと #10 くらゐはあるんぢやあるまいか。比べたことはないけれど。

Lisbeth #20 や葵がなぜタティングしやすいのかといふと、リングを作つたときに芯糸を引つ張りやすいからだ。
引き心地(といふのだらうか)がなめらかなのである。
この引き心地は、ちよつとほかにはない気がする。

糸のすべりはあんまりなめらかでも結びづらい。
Lisbeth #20 と葵とは、絶妙ななめらかさだ。

と云ひつつ、最近葵は遣つてゐないなあ。
出はじめたころ遣つたばかりだ。
最近はどうなんだらう。
遣つてみたい気もするが、糸を増やさないやうにしないと。

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Monday, 21 November 2016

以前編んだものを使つてみる

ここのところ、冷えたりあたたかくなつたり忙しい。
職場で使つてゐる部屋が妙に冷える部屋なので、とりあへず羽織れるものを用意してゐる。
どれも自分で編んだものだ。
職場においてゐるのが Rowan のヨークシャーツイード 4Ply で編んだ Pi Shawl。夏場の空調効き過ぎのときなどにも活躍してゐる。

PI Shawl

最近よく使つてゐるのが Weaver's Wool Mini Shawl (Rav) だ。
形は Weaver's Wool Mini Shawl で、模様は Textured Shawl (Rav) だ。

Weaver's Mini Shawl in Progress

オリンパスのブランシェといふ並太の糸で編んだもので、自分史上最大の三角ショールを編むのが目標だつた。目標は達成した。
並太で編んだショールなんか使はないかもなーと思つてゐたし、あたたかいといふ意味では中細毛糸で円に編んだショールを半分に折つた方があたたかいよなむ、とも思つてゐた。

しかし、実際に使つてみると、これが結構いい。
編み終へたのは去年の三月で、前回の秋冬はあまり使つてゐなかつた。
先日、出してきて使つてみたところ、案外いい。
じんわりとあたたかいのだ。
「うわー、あつたかーい!」といふ感じではないのだが、なんとなく、ほのかにあたたかい。
そんなわけで最近よく使つてゐる。

これを打つてゐるいまはブリオッシュ編みのネックウォーマといふか cowl といふかをしてゐる。
首周りがなんだか冷えるのでな。

Brioche Stitch Cowl

cowl、いいよね。襟巻だと巻いて端をなんとかしなければならないけれど、cowl ならかぶるだけでいい。
髪形が乱れるとかいふ人もゐるけれど、この気楽さには変へられないなあ。

かうして自分の編んだものを使つてちよつと編み気を盛り上げやうとしてゐる。

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Friday, 18 November 2016

「中の人」考

観客の多くは俳優とその演じる役とを同一視してゐる。
これが長いことよくわからなかつた。
いまでもわかつてゐるとは云ひ難い。
こどもならわかる。
悪役商会に所属する俳優のこどもが学校でいぢめられるといふ。
おまへの親父は悪人ぢやないか、と。
いぢめがいいといつてゐるわけではない。
「中の人」とその人が演じてゐる役とを混同してしまふのは、こどもならありがちなことだ。

先日、「帰ってきたウルトラマン」は紛らはしいと云はれてそのことに気がついた。
「帰ってきたウルトラマン」では、西田健が岸田文夫といふ役で、岸田森が坂田健といふ役を演じてゐる。
これがチトややこしい、といふのだ。
云はれるまで考へてもみなかつた。
こどものころは「中の人」のことなんて考へて見ない。
TVドラマに出てくる役名の、俳優が演じてゐるその人を見てゐると思つてゐる。
岸田隊員を誰が演じてゐて、坂田さんを演じてゐる俳優の名前はなにかなどといふことを、考へたりはしない。
そんなものがあるとさへ思つてはみないだらう。

「中の人」を意識しだしたのはいつごろだつたらうか。
「秘密戦隊ゴレンジャー」がはじまつて、アオレンジャーがV3の人だといふことに気がついたあたりからかな。
ゴレンジャーといへば、ロケの一行に出会つたことがある。
誠直也がアカレンジャーの衣装を来た人と一緒にお茶をしてゐるところを見て、「やつぱり違ふんだ」と、わかつてはゐたけれどなんとなくがつかりした記憶がある。スーツアクターの人は顔は出してゐたからよけいにね。

成長していく課程で、かうしてTVドラマなどの登場人物とその人物を演じる「中の人」とは別物である、といふことを学んでいく。
そのはずなのだが、なぜか人はフィクションの人物と「中の人」とを同一視する。
なぜなんだらう。
ここにも以前書いた話で、西村晃が水戸黄門役について「演じてゐたときは大変だつた。ふだんの生活にも気を遣はないといけなくて」と語つてゐたことがある。
他人に見られたときに「黄門さまがあんなことをするなんて」みたやうな所業には出られない、といふのだ。
銭形平次を長いこと演じてゐた大川橋蔵について「さぞ大変だつたらう」とも云つてゐた。

これまで生きてきて、好きな俳優・女優といふのがゐた試しがない。
いや、そりや云ひますよ、「誰某が好き」とかね。
云ふけれど、ぢやあその俳優某の出てゐる映画やTVドラマ、芝居を全部追ひかけるか、といふと、そんなことはしない。
「好き」といふのは、「その人が出てゐると話がちよつとおもしろくなるから」くらゐの気持ちだ。
あるとき、「もしかしたらはじめて好きになつた俳優かも」といふのでその俳優の出る映画その他を片つ端から見たことがある。
勘違ひだつた。
その俳優がある映画で演じてゐたある役が好きだつただけで、別段その俳優が好きなわけではなかつた。
その証拠にほかの映画のほかの役にはまつたく惹かれなかつたからだ。

それつて多分、役と俳優とは別、と思つてゐるからだと思ふんだな。
歌舞伎役者でも、この役なら好きだけど、あの役だとそれほどでもない、といふのはいくらもある。
なにやつても好き、といふ役者はゐない。
自分には好きな役者といふのはゐないんぢやないかと思つてゐる。
それともかういふのがほんとに「役者を好き」といふのかな。

或は自分にはどこか欠陥があるのだらうか。
ある役を演じるのを見て「この人、好き」と思つたら、俳優自体を好きになるものなのかな。

うーん、どうも、役と演じる人とは別物、としか思へないんだよなあ。
いまこれを書いてゐる自分と、書いた文章とはまるで別物、と思つてゐることと関係あるのかもしれない。

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Thursday, 17 November 2016

うまくメモがとれない

11/12(土)の夜に池袋の新文芸坐のオールナイト上映会に行つてきた。
そのとき見た映画のあらすじや所感を手帳に書きつけてゐるのだが、書いても書いても終はらない。

先日「切腹」を見たあともまさにそれで、懲りたので今回はちよつとあひだをおいて書き始めた。
記憶が薄れるから書く量が減るだらうと思つたからだ。
見当違ひだつた。
なんだかひたすら書いてしまふのだつた。
もちろん記憶は薄れてゐる。
捏造してゐる部分もあるだらう。
そんなものを書いて意味があるのか。
おそらくはない。
意味のないものをどうして自分は書きつけてしまふのか。

芝居や映画について書くと長くなるやうになつたのは、去年劇団☆新感線の「五右衛門VS轟天」を見てからだ。
千秋楽の五日後くらゐからだつたらうか、覚えてゐるかぎりをノートに書きつけはじめた。
当時は満寿屋のMONOKAKI B6 の9mm罫線のノートを遣つてゐた。
ページの残りは20ちよい。
余裕で書き終はるはずだつた。
終はらなかつた。
書いたあと見返して書き忘れたことを書き足したりしながら、次のノートにうつつて、結局80ページくらゐは書いたやうに記憶してゐる。
数日にわたつて書いてゐるので、当然最後の方は記憶も曖昧で書くことも減つた。

書いてゐるあひだ、最高に楽しかつた。
「五右衛門VS轟天」があまりにも楽しかつたので千秋楽後に「「五右衛門VS轟天」ロス」にかかるのではないかと思つてゐたのに、書いてゐるあひだはロスなどなかつた。
日々おもしろをかしかつた。
自分の中では「五右衛門VS轟天」は終はつてゐなかつた。
書いたことを見返せば、あのときの記憶が甦る。
記憶は呼び覚ましてゐるあひだにどんどん編集が進んでいく。実際にあつたことをなかつたこととし、なかつたことをあつたこととしてしまひがちだ。
しかし、ここにノートがある。
書きつけた時点で虚偽のことを書いてゐるかもしれないが、でも、これは改竄されない。

外部記憶装置が必要だ。
ここ数年、切実にそれを感じてゐる。

家族は外部記憶装置だ。
幼すぎてきちんと覚えてゐないことでも、年長者が覚えてゐたりする。
五歳のときに潮干狩りで行つたのは稲毛海岸ではなくて浜名湖だつた、みたやうな是正もしてくれる。
問題は、家族も年を取つて記憶が曖昧になつていくこと、そしてこちらが覚えてゐてほしかつたことをまつたく覚えてゐなかつたりするといふことか。
こどもの中で自分が一番年長者の場合、親がゐなくなつてしまふと二進も三進もいかなくなることも考へられる。

記録だ。
記録するしかない。

さう思つてあれこれ書きつける。
そんなわけで去年から書くことがどんどん長くなつていつて、収拾がつかない状態になつてゐる。
もつと簡便に達意のメモが書けたらなあ。

それにしても、なぜこんなに書いてしまふのか。
書くのが楽しいからだ。
書いてゐるあひだは芝居なり映画なりが頭の中にぼんやりとではあるが再生される。
見てゐた自分のこともうつすらと思ひ出す。
楽しい。
楽しいぢやあないか。
こんなに楽しいことは実際に映画なり芝居を見る以外にない。

楽しいからいいぢやあないか。
さうも思ふが時間は有限だ。
そして記憶は時とともに薄れてゆく。
Verweile doch,du bist so schön!
土曜日(正確には日曜未明)に見た映画で、登場人物がそんなことを云つてゐたな。
日本語でだけど。

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Wednesday, 16 November 2016

来年の手帳は無手勝流

来年の手帳は買はないつもりでゐる。

買ふとしたら MIGNON の手帳かな。去年も入手するのにチト苦労したので迷つてゐるところだ。

現在、スライド手帳を遣つてゐて、来年もこれにしやうと思つてゐた。
気が変はつた。
以前から書いてゐるやうに、自分なりに Bullet Journal をうまく遣へるやうになつてきた。
この機会に一度基本に戻らうかと思つたのである。

Bullet Journal については、上記リンク先やその中にあるこちらをどうぞ。

基本的には綴じノートに、以下のやうなページを設ける。

  1. INDEX PAGE
  2. Future Log
  3. Monthly Log
  4. Daily Log
Montyly Log ページに一月分の日付を書いてその月の予定を管理する。
Daily Log には日々の予定・タスクや実績、メモなどを書く。
Future Log には来月以降の予定やタスクを書く。
INDEX PAGE には 2.以下がどのページにあるかを記す。Daily Log については月単位に記す。

Daily Log には、印(中点やダッシュなど)に意味を持たせて箇条書きに書く。

そんな感じかな。

現在は、Monthly Log はとくに設けてゐない。Weekly Log といふことでスライド手帳を遣つてゐる。
綴じ手帳ではなくて、バイブルサイズのシステム手帳を用ゐてゐる。

スライド手帳の方眼紙部分にタスクを書き込んでゐる。
予定以外には LIFE の NOBLE REFIL 方眼用紙を使用してゐる。
朝一番で Daily Log を書くときにスライド手帳からその日のタスクを書き写す。その日の予定やその日遣つてゐるかばんなどを書く。
その後は、予定やタスクを実行したらそれを Daily Log に反映する。
ちよつと思ひついたメモなども書く。読み終はつた本の名前とか、編み終はつたものとかね。
翌朝、前日の Daily Log を見て実行しなかつたタスクを引き継いだり、スライド手帳の方眼紙部分に写したりする。

一週間に一度、スライド手帳をスライドするときにタスクの棚卸しをする。

これで、まあまあうまくまはつてゐるやうに思ふ。

Bullet Journal についてはここにも何度か書いてゐる。
最初は MD NOTEBOOK の新書サイズを遣つてゐた。
綴じ手帳だと月の替はりめにうまく手帳との帳尻が合はない可能性があるので、システム手帳にしてみた。
また、月に一度の棚卸しに結構時間がかかつたので、それなら週に一度にしてみたらどうだらうと思つて今の形式になつてゐる。

それを一度 Bullet Journal の基本に戻してみやうと思つたきつかけはといふと、Monthly Log がほしいからだ。
予定は週単位よりも月単位で見たい。
それに、スライド手帳は自分で日付や曜日を記入する手帳だ。
いつから遣ひはじめてもいい。
だつたら、そろそろ尽きやうとしてゐるいま、ちよつと冒険してみてもいいんぢやないかな。

これといつて心惹かれる手帳がない、といふのも理由ではある。
なんだかんだいつて Smythson の Panama が一番遣ひやすい、とも思つてゐるし。
でもなんでも一冊で済むといふのも魅力的なんだよなあ。

予定表は四月始まりなんかもあるので、そのときに変へてもいいといふ気楽さはある。

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Tuesday, 15 November 2016

タティングレースツールセット

タティングレースツールセットを買つてしまつた。

Clover's Tatting Lace Tool Kit

そんなにタティングをしてゐないにも関はらず、である。

なぜ買つてしまつたのかといふと、色、だな。
ほんのり透き通つた淡い青といふのが気に入つた。
ピコゲージなんて遣はないよ、と思ふのだが、あれば遣ふかもしれないし。

ピコといへば、やつがれはどちらかといふと小さく作りがちだ。
最初は気をつけて大きめに作るのだけれども、いつのまにか小さくなつてゐる。
それで最近ではもうあきらめて最初から小さくしてしまふ。

以前、ピコを長く取るドイリーを作つたことがある。
このときは、大変気を遣ひながら作つた。
さうしたところ、ピコの長さは気にならないていどには揃つて、ドイリーとしての見栄えも悪くはなかつた。

やればできる。
それでピコゲージを遣はずにここまできてしまつた。
今後は、手元にあるんだし、必要だと思つたら遣ふことにしたい。
でもなー、実はピコはあまりないデザインの方が好きなんだよなあ。
Mary Konior のデザインとか。
あまりピコがないでせう。
あつても主張しない。
ここにも書いた Masquerade などはほとんどのピコがつなぐためのピコだ。
ああいふのが好きなんだよね。

しかし、レースとしての華やかさや繊細さはピコにあらはれる。
気に入つたモチーフやドイリーでピコを多用したものがあつたら、そのときはピコゲージを遣つてみる所存だ。

ところで、タティングレースツールキットにはシャトルも二つついてくる。
一つは通常のクロバーの角付きのシャトルとおなじサイズ、もう一つはおそらくクロバーのシャトルLとほぼおなじサイズだ。
通常サイズの方のシャトルを出してきて、Jane's Bookmark を作つてみた。

Jane's Bookmark

糸は Lisbeth #40。
このデザインは、20番かオリムパスの40番で作るのに向いてゐると思ふのだが、手元にあつたのがこの糸だつた。
久しぶりのタティングだから久しぶりさがにぢみ出てゐるよなあ。
段染めの糸で作るときは、下半分はダブルスティッチの表目と裏目とを入れ替へて作るやうにしてゐる。
今回は単色だから下半分も普通に作つてみた。
下半分は表目と裏目とを入れ替へた方がきれいにできるけど、できあがつたものに裏表ができる。
栞だから裏表はない方がいい。
どちらを取るか、だなあ。

ひとつ作るとほかのものも作りたくなる。
職場で紡いでゐる糸を双糸にしてゐる。これが終はつたらまたタティングに戻るかな。

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Monday, 14 November 2016

毛は毛のなりたい糸になる

最近のマイブームは糸紡ぎだ。

Spinning in Progress Spinning in Progress

毛のついてゐる方が家で紡いでゐるもので、10月29日にはじめた。
その前に職場の昼休みに紡いでゐるものがある。10月7日にはじめて、現在では双糸を作つてゐる。

職場で紡いでゐるのはいただきものの毛で、臙脂色のグラデーション四色と染めてゐない毛一色の羊の種類は知れないがバルキーな種のものだと思ふ。

家で紡いでゐるのは二年前に購入したポロワスのトップで、買つた直後に一かせ紡いで双糸にしてある。そのままはふつてあつた。
こののち、もう紡がないのではないかと思つてゐた時期もあつた。
すればするものである。

以前、「ことばを紡ぐ」といふ表現についてここに書いた。
紡いでも糸しかできない。
糸だけあつても仕方がない。
糸をなにかにしなければ。織つて生地にするとか編んでマフラーだとかセーターだとかにするとか。
縫ひ糸にするといふ手もあるが、やつがれの紡いだ糸では縫ひ糸にはできない。残念ながら。
そもそも、縫ひ糸を紡ぎたいとも思はないしな。
紡ぐからには、編む糸にする。
ポロワスは、ショールにしやうと思つて買つた。
すこし太い糸にするつもりで、ちよつと重ためのスピンドルを使つた。35gくらゐある。
ところが紡いでみると、細い糸になつてしまふ。
スピンドルは重たいが、駒の部分の直径が短く、中心に力の集まるタイプだからといふのがひとつ。
あとは、毛自体が細い糸になりたがつてるんだらうな、といふのがもうひとつ。

物理はよくわからないが、スピンドルで細い糸を紡ぐにはスピンドルが軽い方がいい。
ただ、駒の部分の直径が短いものはスピンドルを廻した時にスピンドルの芯に力が集まり、細い糸が紡げるのだといふ。かういふタイプのスピンドルは回転する時間も短くなりがちだ。
いま使つてゐるスピンドルは、Greensleeves Splindles の Trifle だ。
最近はもう作つてゐないのか、いま情報を探さうとしたがこれといつたものが出てこない。
Greensleeves Spindles はヘンリー八世の妻だつた女の人の名前をつけたスピンドルや北欧神話の神々の名前をつけたスピンドル、お子さんやお孫さんの名前をつけたスピンドルなどを作つてゐる。
できるだけ糸を巻きつけたくて作つたスピンドルなんてのもあつて、おもしろい。

やつがれの腕がまづいからだが、毛といふのはどうにもなりたいやうな太さにしかならない気がする。
この毛を太く紡がうと思つても、細くなりたがる毛は細い糸にしかならないし、逆もまた真だ。
職場で紡いでゐた毛は、量が少ないのでできるだけ細く紡がうと思つてゐた。それなりに細くは紡げてはゐるものの、ちよつと気を抜くと太くなる。久しぶりに紡いだので腕がにぶつてゐるといふこともあるけれど、おそらく毛には毛のなりたい太さの糸といふのがある。
そんな気がする。
それに逆らふと、いい糸にはならない。
まあ、紡ぎの腕があれば、ちやんと自分の望む糸が紡げるやうになるのだらうけれど。
さうでなければ、必要な布地は作れないもの。

そんなわけであみものは全然進んでゐない。
編みかけのショールを編みあげたいし、ヨガソックスももう一足くらゐ編んでおきたい。
もう少し心に余裕をもたないとなあ。
全然ないけど。

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Friday, 11 November 2016

人情噺にあてられる

人情噺を聞くと、己の至らなさにつくづく嫌気がさしてしまふ。

「文七元結」の左官の長兵衛は、博打にはまつて身をもちくづしたどうしやうもない人間だ。
でも、芯のところは人間としてひどく上等だ。
自分の娘が身を売つてこしらへた五十両を、見ず知らずの若者にぽんとやつてしまふ。
「娘は苦界に沈むが死にはしない。おまへさんはこの五十両がなかつたら死ぬんだらう」と云つて。

このくだりにくるたびに、「自分が長兵衛だつたら、絶対そんなことはしない」と思つてしまふ。
そして、自分の人間としてのどうしやうもないいやしさ、さもしさ、あさましさに嫌気がさしてしまふのだ。

人情噺を聞いて己が身に照らしあはせてしまふのは、カルピス名作劇場(のちにハウス名作劇場)のせゐだらう。
名作劇場に出てくる主人公は、とくにやつがれが幼いころ見てゐた話の主人公は、みな「いい子」だ。
「赤毛のアン」や「トム・ソーヤの冒険」といつた例外はあるものの、みな孝行者でやさしく、人間として上等だ。
それは物語の一環であり、主人公がさういふ状態でないと話として成り立たないからさうなのだらうくらゐにとらへてゐた。
こどものころのことだからこんな風にことばにして考へてゐたわけではないけれど、いづれフィクションぢやないか、くらゐには考へてゐた。

親は違つた。
なにかにつけ云ふのだ。
「ネロを見習へ(ローマ皇帝ぢやありませんよ)」だとか「マルコを見てみろ」だとか「ペリーヌはこのまへどうしてゐたよ」だとか。

ネロやマルコやペリーヌなどは、別に好きぢやないしおともだちになりたいとも思はない。
自分の鑑として見たことなんて一度もない。
一度もないけれど、親からさう云はれるとさういふ目で見なければならないのだらうか、とは思ふ。
ゆゑにカルピス(ハウス)名作劇場はあまり好きではなかつた。

そして、考へはする。
名作劇場の主人公たちのやうに、孝行者で他人にやさしくつねに行ひの正しい人の方が、人間としては上等なのだらう、と。

人間として上等とはどういふ意味か。
自分の損得抜きでものを考へられる人、かな。

「雨ニモマケズ」には「あらゆることを自分を勘定に入れずに」といふ一節がある。
ムリだな。
そんなこと、できつこないよ。
だいたい、自分が自分のことを勘定に入れなかつたら、誰が自分のことを考へてくれるといふのか。

この「あらゆることを自分を勘定に入れずに」といふのは、「客観的になる」といふ意味なのだといふ説がある。
それはそれとして、自分を勘定に入れなかつたら、ほんたうに客観的になれるのか。

世の中の戦争を始める人は、まづ自分を勘定に入れてゐない。
自分が最前線に行つて最低最悪の土地でもつとも熾烈な戦ひに参加するなんぞといふことは考へてもみない。
実際に武器を手に敵と戦ふのはその他大勢の人々で、自分は関係ない。
自分は勘定に入つてゐないのだから、自分の考へは客観的なはずだ。
その人はさう思つてゐるかもしれない。
だつたら「客観的な考へ」なんぞ、害悪でしかない。

ものごとを考へるにあたつて、自分を勘定に入れるといふことは大事なことなのだ。
そのうへで、損得勘定を抜きにして行動できるのが人間として上等な人なのだらう。

あれこれ理屈はこねるけれど、でも自分は決してそんな人間にはなれない。
人情噺を聞くたびに、そんな自分を思ひ出してはつらくなるのだつた。

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Thursday, 10 November 2016

こんなかばんが好き

ル・ボナー ミセス

ル・ボナーのミセスといふかばんを愛用してゐる。

愛用してゐるが、ミセスは自分の好むかばんの要素をあまりもつてゐない。
やつがれの好きなかばんは

  1. 手頃なサイズのポケットがたくさんある
  2. かばんの外に定期券入れを入れるところがある
  3. かばんの外または取り出しやすいところにiPhoneを入れるところがある
  4. メイン部分にファスナーがついてゐる
  5. 鍵などを提げるフックがある
  6. 持ち歩きたいものが全部入る
  7. ちいさい
以上の条件のうち、1、3、4をミセスは満たしてゐない。
6と7とはその時々によつて満たすこともある。

かばんを選ぶときは、1の「手頃なサイズのポケットがたくさんある」ことを重要視してゐる。
きまつた場所にきまつたものをいれたいからだ。
さうすると、入つてゐないときにすぐ気付くし、なにより取り出しやすい。
最近はバッグインバッグも種類が増えてゐて、それでなんとかなるのかもしれない。
ミセスではまだ試したことがない。

ミセスは、外にピタポケットがひとつ、中にファスナーつきのポケットがひとつあるだけで、あとは広い空間があるだけだ。
正直云ふと、ときどきiPhoneを見失つてしまひ、即出てこなくて苛々することもないぢやない。
でもそれも「だいたいこの位置に入れる」ときめてゐるので、それほど大過のあるわけぢやない。

4のファスナーがないといふのが買ふ前は不安だつた。
やつがれは、かばんのファスナーは閉めることにしてゐる。
「閉めるだらう、普通」くらゐに思つてゐる。
世の中を見渡すとかばんのファスナーを開きつぱなしにして遣つてゐる人が多いので、少数派なのかもしれない。

遣つてみると、ミセスにファスナーがないのはあまり気にならない。
肩にかけたときに、うまいこと口が閉まるやうになつてゐるからだ。

6と7とは矛盾した条件だ。
なんでも入るのにちいさいかばんなんて、あるわけがない。
持ち歩く荷物のすくない人だつたらあるかもしれないが、やつがれはない。
でも今日はミセスひとつで済んでゐる。
6の条件を満たしてゐる。
分厚い四六判以上のサイズの本を持ち歩かなければ、6の条件は大抵は満たすと思つてゐる。

ちいさいかばんが好きだけど、A4サイズの書類は入るといいよなあ、と、これまた矛盾したことを考へてゐる。
ミセスはA4サイズの書類を入れるにはちよつとちいさい。
A4サイズのクリアファイルを入れて、その中に書類を入れて端の曲がるのをからうじて防止できるくらゐだ。ほかの荷物は最小限にして、ね。
国立劇場の筋書を入れるのはむづかしいが、歌舞伎座の筋書なら問題なし。
最近は筋書・番付も買はなくなつて久しいけどね。
ミセスは、また肩にさげたときはちいさく感じるかばんでもある。
実際にはそんなにちいさいわけではないので、通勤時の満員電車では邪魔にされることも多いんだけどね。

やつがれのミセスの色はヴァイオレットだ。
シュランケンカーフのヴァイオレットは大変に好きな色である。
でも春先とか夏に遣ふのはちよつとためらはれたりもする。
遣つてるけどね。
余裕さへあれば、もうちよつと明るい色のミセスもほしいんだけどな。
そんな贅沢は許されさうにない。

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Wednesday, 09 November 2016

影響受け過ぎ

「火星年代記」を読み始めた。

きつかけは、「敵は海賊 短編版」を読んだことだ。すこし前に「太陽の黄金の林檎」を読んだこともある。
「敵は海賊」には火星がよく出てくる。
それで「火星年代記」を読み返したくなつてしまつた。

「敵は海賊 短編版」を読まうと思つたきつかけは、TVドラマの「逃げるは恥だが役に立つ」を見たことだつた。
登場人物に「津崎」といふ名字の人がゐる。
ツザキ。
「敵は海賊」でせう。

「逃げるは恥だが役に立つ」を見てゐるのは、録画機が勝手に録画してゐたからだ。
古田新太が出てゐると率先して録画してくれる。ときどき逃すこともあるけれど、TVドラマについてはそこそこいい確率で録画してゐる。
「警視庁 ナシゴレン課」もとつておいてくれてゐる。

「太陽の黄金の林檎」を読んだのは、「シン・ゴジラ」を見たからだつた。
なんとなく「霧笛」を思ひ出したからだ。といふ話は、ここにも書いた。

「太陽の黄金の林檎」を読んで、レイ・ブラッドベリをもうちよつと読み返してみたいと思つたし、「敵は海賊」もその他の本を読み返したい。
「敵は海賊 短編版」には戦闘妖精雪風が出てくる話も掲載されてゐて、さうなると当然雪風も読みたくなる。
あちこち派生しすぎて、収拾がつかなくなつてゐる。

どうするのがよいのだらうか。
ブラッドベリを読みたいと思つたら、ひたすらブラッドベリを読んだ方がいいのか。

どうも、ひとつのことに集中することができない。
きつと、ブラッドベリを読みたいといふ気持ちも「敵は海賊」シリーズを読みたいといふ気持ちも、そのうち消へてしまふ。

それはそれでいいのかな。
その瞬間瞬間の好きずきで。
別に研究家といふわけでなし。

実をいふと「七胴落とし」も読みたい。
もともと「敵は海賊」は「七胴落とし」に入つてゐた。
「七胴落とし」が新版になつた際、「敵は海賊」をはぶいてほかの短編を追加したのだといふ話を聞いた。
それで「敵は海賊 短編版」を入手したわけだけれど、それはそれで「七胴落とし」も読みたい。

かうしてゐるあひだにも読めばいいのか。
さうかなさうかも。

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Tuesday, 08 November 2016

単に気分が沈んでゐるだけ

Twitter のアイコンは自分で作つた GR-8 Butterfly だ。
このアイコンからは

1. タティングレースをたしなむ
2. シャトルの二つ遣ひができる
3. Self-Closing Mock Ring を作ることができる
4. オリムパスの糸を遣ふ

といふことが読みとれるやうになつてゐる。
さういふつもりで選んだ写真だ。
「できる」つたつて、英語における「I can tat.」くらゐのアレですけどね。
日本語の「できる」はハードル高いからね。
やつがれがはじめたころは Twitter には日本語を用ゐる人がまだまだ少なくて、「いいか、I can tat.で」と思つたのだつた。
いひわけである。

作らなくなると、ほかの人はどんなものを作つてゐるのだらうかと気になる。
25 Motif Challenge のブログはずつと見てゐる。でも長いこと見てゐると、「この人はこんな感じ」「あの人はあんな感じ」といふのがわかつてきて新鮮味に欠けることもある。
「タティングレース」でWeb検索をかけてみると、それはそれはいろんな写真が出てきて目移りするくらゐだ。
ドイリーやモチーフ、ネックレスやイヤリングといつたところが多いのかな。
ショール、いいよねえ。
人が作つたブレスレットなんか、実にすてきに見える。
自分も作らうと思つて、自分で作るとたいしてすてきにならないのはなんでなんだらう。
下手だからかな。
それもあるけど、やつぱりセンスがないからかな。
と、一度作らなくなるとどんどん negative spiral にはまつていく。
もとが不器用だから仕方がないんだけどね。

作らないなら Twitter のアイコンも下げなければならないのだが。
だからといつてほかになににするといふ案もない。
いま自分はなにが好きだらう。
なににはまつてゐるだらうか。
うーん……

ない。
ないんだな、これが。

つまり、タティングレースをしないのも、別にタティングレースがイヤになつたからではない。
単に、気持ちが全体的にもり下がつてゐるだけなのだらう。
あみものはくつ下はなんとか仕上げたものの、去年から編んでゐるショールはやつぱりなかなか進まないしね。
ちよつと気持ちがもり上がれば、タティングも進むのかも。
そんな気のする秋のゆふぐれ。

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Monday, 07 November 2016

すべり目の模様をきれいに編みたい

Twisted Tweed Socks

Twisted Tweed Socks を編み終へた。

九月二十九日に編み始めて、編み終はつたのが十一月五日。
水通ししてできたのが十一月六日。
毛糸のラベルの写真を撮つたつもりで忘れてゐたやうだ。
毛糸は Opal のものだ。
針は0号五本針を用ゐた。
編み方には輪針を遣つて Magic Loop で編むことになつてゐる。模様の関係だらうとはここにも書いた。
模様編みの部分は、すべり目三目の表目三目のくり返しだ。すべり目が針と針とのあひだにくると裏に渡す糸の加減が面倒くさいので、針二本で編める輪針を用ゐるやうに指定してあるのだらうと思つてゐる。

このくつ下は、螺旋状に模様が浮き出るやうになつてゐる。
水通しして整形したらちよつとは模様が出るやうになるか知らんと思つたが、さうでもなかつた。
「すべり目にすると裏に糸が渡つて編み地が二重になるのであたたかいくつ下が編める」といふ当初の目的は果たせてゐるのでよしとしたい。

すべり目を用ゐた模様に、eye of partridge stitch といふ模様がある。
四段二目一模様で、一段目ですべり目と表目を編む。
二段目は前の段のすべり目も表目も全部編む。
三段目は一段目ですべり目にした目は表目、表目にした目ははすべり目にする。
四段目は二段目とおなじ。
かういふ編み方だ。
かうすると、編み地がでこぼこして、ヤマバトの目のやうな模様になる、といふんだらうな、たぶん。

eye of partridge stitch は、かかとに用ゐることがある。
かかとの flap 部分に用ゐると、ちよつと可愛い。
かかとの flap 部分は、よくある編み方では奇数段はすべり目と表目をくり返し、偶数段は全部編むものだ。
eye of partridge stitch にすると、おなじやうな編み方で編み地に変化が起きる。ここが楽しい。
たまには気分を変へて eye of partridge stitch にしてみやうと思つて編んでも、あまり効果がなかつた。
編み地のでこぼこがきれいにでないのだ。

下手だからだなあ。
ずつとさう思つてゐたのだが、あるとき eye of partridge stitch の編み地がきれいにできたことがあつた。
脚と甲とが全体的に eye of partridge stitch の模様のくつ下を編んだときのことだ。
心持ちゆるめに編むと、編み地のでこぼこがきれいに出るのだつた。
かかとを編むときはいつもできるだけきつく編むやうにしてゐる。
もともと手がちよつとゆるいんだよね。

そんなわけで、Twisted Tweed Socks も心持ちゆるめに編んでみた。
その方が模様がきれいに浮き上がるのではないかと思つたからだ。
しかし、思つたほどきれいにはならなかつた。
毛糸自体の模様がよくないのかとも思つたが、どうもそれだけではないやうだ。
おそらく模様がきれいに浮き出るやうに編むコツがあるはずだ。
一足編むあひだに、そのコツに気づくことができなかつた。
無念である。

くつ下が仕上がつたので袖無し羽織に着手するかと思つたところ、先の秋冬に編みかけのまま放置してゐたショールがあることを思ひ出した。
昨日はそれを引つ張り出してきてせつせと編んでゐた。
今月いつぱいはかかるかなあ。
袖無し羽織は遠いなあ。

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Friday, 04 November 2016

甘えんぼ

先週の月曜日のこと、職場に着いてもなにも手に着かない。
いつものことなんだけれども、なぜだか心がひどくしづんでしまひ(それもいつものことではあるが)、なにもできない状態だつた。
いつもは「なにもしたくない」状態で、「できない」と思ふことはない。

なぜだらうと考へて、もうこの世に平幹二朗が存在しないと知つてしまつたからだなあ、としみじみ思つたことだつた。

そんなに好きといふわけではなかつた。
追ひかけてもゐなかつた。
それでも、訃報を聞けばショックを起こすくらゐには好きだつたわけだ。

「篤姫」を第一話しか見てゐない所以は、第一話で平幹二朗演じる家老が死んでしまつたからだ。
平幹二朗を出しておきながらもう出ることのない(回想場面では出るかもしれないけど)大河ドラマなんて、見る価値がない。
それくらゐは好きだつた。

あんまりにもなにもできる気にならないので、その日、小林正樹監督作品「切腹」を見に行つた。
平幹二朗は出てはゐないが、俳優の死のショックから立ち直るには、なにか優れた芝居・映画・ドラマを見るしかない。
さう思つたからだ。

正解だつた。
「切腹」を見て元気になるつてなにかがとつても違ふ気がするけれど、でも、ちよつと気分を持ち直した。
「切腹」、おもしろいよね。
主題は重たいけれど、エンタテインメントとして楽しく(といつたら語弊があるかもしれないが)見られる。

「切腹」については双方の甘えが原因と思つてゐる。
おなじ武士だもの、云はなくたつてわかつてくれる。云はなくたつて、武士とはかうしたものだらう?
さういふ互ひの思ひ込み、もつといへば甘えがああした事件を生んだ。
当事者たちが侍だつたから、extreme なことになつてしまつた。
それだけのことだ。

なので、「侍としてのあり方の非情さ」とかはあまり感じない。
「云はなくてもわかつてくれる。おなじ人間だもの」といふのは侍でなくても持つてゐるものだからだ。

それにしても平幹二朗の訃報はショックだつた。
生きてゐて好きな俳優がまたゐなくなつてしまつた。
「ま、まだあの人が生きてるもんね」とか「あの人も存命だ」とか、一生懸命指折つて数へちやつたよ。
あまりにもショックで。

そんなことはあんまり口にしたりしないから、全然通じてないんだらうけどね。

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Thursday, 03 November 2016

映画、見に行く?

「スタートレック ビヨンド」を見てきた。
上映前の予告篇を見て、「自分は今後も映画を見続けるのだらうか」と考へてしまつた。

今後も映画を見続けるのだとしたら、「Dr.ストレンジ」のやうな映画を「楽しみ!」と思へるやうでないとダメだらう。
「Dr.ストレンジ」は、ちよつと楽しみにしてゐた映画だつた。
でも予告篇を見て「見には来ないだらうなあ」と思つてしまつた。
なぜさう思つたのか。
壊れてゆく都市の映像とか、なんかもう見飽きたよ、と思つてしまつたからだ。
うん、CGだね。すごいね。真に迫つてるよね。きつと3Dで見てほしいんだよね。

CGが嫌ひなわけではない。
どちらかといへば好きな方だ。
嫌ひだつたら「スタートレック ビヨンド」とか見に行かないもの。いくら「スタートレック(宇宙大作戦)」が好きだとしても。

黒澤明だつたか、業火に焼かれた廃墟を撮るときに、大道具担当に「これぢやダメ」的な話をしたといふのを聞いたことがある。
焼ける前の建物がどういふ状態だつたのか、考へて作つてないだらう。
さういふのである。

CGだつておなじことだと思ふんだよね。
もしかすると最近では壊れゆくスカイスクレイパー(とはいまは呼ばないのかもしれないが)のやうすを描かうとしたら、元の形と壊れたやうすとを指定すればあるていどはコンピュータが計算してそれらしく壊れてゆく姿を描き出してくれるのかもしれない。
つまりその計算するプログラムなりなんなりを作つた人がゐるつてことだよね。
それつて、すごくない?

または「スター・ウォーズ」だ。
エピソード1のときにはいかにも「CGで作りました」「CGで作れるのはここまでです」みたやうな映像だつた。
それが、エピソード2、エピソード3と進むにつれてどんどん進化していく。
エピソード1のなにがダメかといふと、映像がすごすぎてエピソード6より前のことのやうには見えないことだ。
過去のことなんだよね?
過去のことのはずなのに、どこからどう見ても未来のことに見える。
それがどうだらう。
エピソード7の映像なんか、ちやんとエピソード6につづくものに見えたぢやあないか。
すごい。
でもそれも、エピソード1あつての進化なんだよね、たぶん。

それを考へると、壊れゆく都市の映像を見て「もう見飽きたよ」と思ふのは、映像のせゐばかりぢやあないといふことだ。
さういふ話の展開に飽きた、といふことでもある。

世の中の映画はさういふ話ばかりでもない。
予告篇の中には「聖の青春」もあつたし。

「聖の青春」を見に行くのだらうか。
「見に行くんだらうな」と思ひつつ、そんなに積極的に見たいとは思はない。

将棋を扱つたフィクションを見たり読んだりしても、実際の対局よりおもしろいものに出会つたことがないからだ。
将棋を扱つたフィクションを鑑賞して「おもしろい」と思つたあとに実際の対局を見ると、後者の方がはるかにおもしろい。

「聖の青春」は実際にあつた話をもとにしてゐる。
対局の内容などは実際の対局にかなり近いだらう。
ゆゑに「見に行くんだらうな」と思つたわけだけどもさ。
でも「見に行かなくちや」といふ気にはならない。
お涙頂戴もの系は苦手なのだ。
苦手といふか、好んで見に行くといふのがわからない。
楽しいものの方がいいぢやん、と思つてゐるからで、それはもう個人の好みの問題だ。

たまたま今回は予告篇にあつた映画で「これが見たい!」といふものがなかつただけ、といふ話もある。
でも何作も紹介されたのになー、といふ思ひもある。

などと云ひつつ、「Dr.ストレンジ」は見に行つてゐるやうな気もしないではない。
予告篇と本篇とはまた別ものだつたりするからね。

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Wednesday, 02 November 2016

理想の言葉遣ひがない

自分が「これ!」と思ふやうな言葉遣ひで書けたらなあと思ひつつ書けてゐない。

結局、自分が「これ!」と思ふやうな言葉遣ひといふのが具体的にはないんだな。

かういふことばを遣つてみたい、といふのはある。
いまはもう店じまひしてしまつた喫茶店の女将に年を訊かれたことがある。
通勤途中ずつと気になつてゐて、帰りしなに覗いてみたら席があいてゐたので入つた店だつた。
閉店間際ほかの客がゐなくなつて、なぜかやつがれは女将と話し込むことになつた。
遠くに転勤になりさうなのだと話したら、「そんな仕事、やめちやひなさいよ。このあたりにならいくらでも仕事があるわよ」と云はれた。
このときに「いくつなの」と訊かれたのだつたと思ふ。
「もうすぐ四十郎です」
さう答へた。
一度云つてみたかつた。
この機会を逃したら、もう絶対口にすることも遣ふこともないことばだつた。
すくなくともそのときはさう思つた。
使へる期間は限られてゐる。
しかも、通じる相手に云ふ必要がある。
通じなくてもかまはないのかもしれないが、通じた方がいい。
結局その後「もうすぐ四十郎」と答へる機会がなかつたので、このとき口にして正解だつた。

反対に遣ひたくないことばといふのもある。
たとへば「奴」とか「ヤツ」。
ことばの並びでどうしても「奴」と云ひたいこともあるので、完全に遣はないとはいへないが、できるだけ避ける。
それで「アレ」とかになつてしまふのが目下の悩みだ。
なにかいい言ひ換へがあるといいんだけどな。

「やる」よりも「する」の方が好ましいと思つてゐるけれど、これもやつぱり「やる」を遣つてしまふときもある。意識しないと「やる」になりがちかもしれない。

あと絶対遣はないのが「エロス」を省略したことばとその派生語だ。
これはなにがあつても遣はない。
と云ひたいところだが、引用するときには仕方なく遣ふ。
でもあんなイヤなことばはちよつとほかにはない。
しつかりとしたご両親の膝下でお育ちになつたらう人でも普通に遣つてゐるのを見聞きすると、自分の方がをかしいのだらうかと思ふこともある。
でもイヤなものはイヤなのだ。

そんな感じでことばに関する好き嫌ひはある。
でも文体となるとどうかなあ。
「かう書きたい」「かう喋りたい」といふ具体的なイメージはない。
ぼんやりとしたものならあるのだが、つかみきれない。
できるだけかつちりした言葉遣ひをしたいと思ひつつ、くだけてぞんざいな言葉遣ひも好きだ。
必要に応じて遣ひわけられるといいのかもしれない。ほんたうはね。
むづかしさうだけれどもね。

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2016年10月の読書メーター

2016年10月の読書メーター
読んだ本の数:1冊
読んだページ数:912ページ
ナイス数:10ナイス

The Mists of AvalonThe Mists of Avalon感想
登場人物が軒並み親からの愛情が薄かつたり望まぬ結婚に不満があつたり不幸だつたりしてつらいのに、なぜかガンガン読み進めてしまふ。アーサー王伝説ものだから? 理由はそればかりではないだらう。キリスト教徒の頑迷さにはほとほと嫌気がさすけれど、でも最後には主人公も悟るといふか開眼する、んだよな。多分。時折モンティ・パイソンの「ホーリー・グレイル」を思ひ出してしまふのはやつがれのせゐなので仕方がない。
読了日:10月28日 著者:MarionZimmerBradley

読書メーター

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Tuesday, 01 November 2016

得体が知れない

タティングレースでは、タティングシャトルの整理などをしてゐる。

さうすると、なにを作るつもりだつたのかさつぱりわからないがとりあへずなにかを作つてみたやうなシャトルが出てくることがある。

Curds & Whey

Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に出てゐる Curds and Whey を作れるところまで作つてみました、といつたところだらうか。

おそらく、なにかにするつもりはまつたくなかつたらう。
ボビンに糸が巻いてあり、それがそれなりの長さだつたので、ちよつとなにか結んでみやう。なにがいいかな。シャトルひとつでできるもの、Curds and Whey かな、といつたところだつたのだと思ふ。

Curds and Whey も何度も作つた。
大抵は五回か六回くらゐ模様をくり返して栞にした。
ビーズを入れてネックレスを作つたこともある。

Curds and Whey といふのは、ヨーグルトのやうなもの、だらうか。
ここにも何度か書いたやうに、マザー・グースの「Little Miss Muffet」に出てくることでも有名だ。
マフェットちやんが腰掛けに座つて curds and whey を食べてゐると、いきなりクモがやつてきて、怖くなつたマフェットちやんはその場を逃げ出してしまふ、といふ、そんなやうな内容の詩だ。

Curds and Whey は、白もしくは白に近い色だらう。
本でも白い糸で作つてゐる、とはこれまた何度も書いたことだ。
白くない糸で作つた Curds and Whey はいつたいなんだらうか。
以前、白い糸に青いビーズを通して Molded Curdds and Whey なんてのを作つたことがある。
緑のビーズでもいいんぢやないかな。
イヤか。

あみものの場合、かうした「なにを作るつもりだつたかわからないがなにか作らうとした編みかけ」のやうなものが出てくることはあまりない。
以前はないこともなかつたが、ここのところはない。
一度にひとつのものしか手がけないし、あまり毛糸はあまり毛糸としてとつておいてちよこつとしたものを作らうとはしないからだらう。

タティングレースはあみものほど慣れてゐないので、experiment と称してつまらないものを作りがちなんだよな。
それはそれでいい気がしてゐる。

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