三十七年は一昔
10/8(土)に、名古屋は金山にある日本特殊陶業市民会館のヴィレッジホールで錦秋顔見世興行を見てきた。
昼の部の喜利が「ぢいさんばあさん」だつた。
「ぢいさんばあさん」は森鴎外の小説を宇野信夫が芝居にしたもので、歌舞伎としては比較的新しい作品だ。
歌舞伎は古典の方が好きだ。それも時代物と呼ばれるものが好ましい。
それに「ぢいさんばあさん」は似たやうな配役で去年の七月に大阪松竹座で見たばかりだ。
そんなに期待してゐなかつた。
でも、いいものはやはりいいのだつた。
「ぢいさんばあさん」といふのは、第一子を授かつたばかりの若い夫婦の話からはじまる。ひよんなことから夫が単身赴任で京都に行くことになり、行つた先で不祥事を起こして、夫婦は三十七年間はなればなれになつてしまふ。三十七年後、夫は罪を許されて帰宅することになり、夫婦は再会する。
今回の「ぢいさんばあさん」では、この「三十七年間」の重みをしみじみと感じた。
松竹座で見たときもさうだつた。
三十七年。
口でいへばものの一秒もかからない。
芝居でも舞台転換だけなら十分もかからずに三十七年後の世界の幕が上がる。
さうした中で、どうしたら三十七年といふ歳月を感じさせることができるのか。
夫婦がはなればなれになつてゐるあひだ、夫婦の弟一家が、次いで甥夫婦が家を守つてゐる。
甥夫婦は新婚だ。まだ若い。せいぜい二十歳前後といつたところだ。
若妻・きく役の坂東新悟が、「三十七年なんてどれくらゐの長さだか、全然見当もつかないわ」とでも云ひたげなやうすで「三十七年」と呟く。
その夫・久弥役の中村梅枝が「自分にだつてわからないけれど、でも、きつと気の遠くなるやうな時間だよ」と答へるかのやうに「三十七年」と応じる。
今回はこれだけでもう三十七年の長さが身にしみる気がした。
そこに夫・伊織役の片岡仁左衛門があらはれ、次に妻・るん役の中村時蔵があらはれ、やがてふたりは再会する。
このあとのすばらしさはきつとあちらこちらに書かれてゐるだらうからここでは書かない。
三十七年の長さを客に感じさせる工夫はいくつもしかけられてゐるのだらう。
それと知らずにその手にひつかかるのが一番いい。
松竹座でもさうだつたけれど、今回の「ぢいさんばあさん」もさういふ芝居だつた。
ぢやあこの芝居を勧めるかといつたらさうはならない。
歌舞伎を見る人には「古典の方が好き」といふ人が多いやうに思ふからだ。
実をいへばやつがれもさうだ。
「ぢいさんばあさん」なんてほんたうは見たい芝居ぢやあない。
思ひ出はつねに先にゐる。
記憶は手の届きさうなところにある。
思ひ手も記憶も、いつも前にあつて、こちらを手招きしてゐる。
追ひかけて、手をのばしても決して手が届くことはないのに。
さういふ、すぎてしまつた時間、二度と返らない過去に執着してしまふやうな人にはお勧めする。
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