紡いだ結果はただの糸
糸を紡いでゐると「ことばを紡ぐ」といふ表現を思ひ出す。
「ことばを紡ぐ」と云ふ人は、おそらく糸を紡いだことがないのに違ひない。
なぜといつて、紡いでも糸しかできないからだ。
糸は糸として存在するだけでは素材でしかない。
糸を紡ぐのは、最終的になにかを作るための課程に過ぎない。
織つたり縫つたり編んだりしてできあがつたものが、作品になりまた人が身につけたりするものになる。
「ことばを紡ぐ」といふとき、人は紡いでできたものがそのまま最終形態になつてゐると考へてゐるやうに思ふ。
紡いでできるのは糸だから。
布ぢやないから。
無論、本を作るとして、「ことばを紡い」で作品を書いて、でもそれだけでは本にはならない。
いまだつたらコンピュータかなにかに入力したものを出力して本(紙であれ電子媒体であれ)の形にして、やつと本といふ作品の形ができあがる。
では、「ことばを紡ぐ」といふ表現を使ふ人々は、紡いだことばを本のかたちにすることを「紡いだことばを織る」だとか「紡いだことばを縫ふ」だとかいふ表現で語るのだらうか。
語らないね。
「ことばを紡ぐ」といふ表現を使ふ人々は、紡いだことばがそのまま布の状態になつてゐると考へてゐる。
そんな気がする。
それともあれか知らん。
「ことばを紡ぐ」といふ表現を使ふ人は、紡いだことばが昔なつかしSF映画やアニメのコンピュータから吐き出されるテープのやうなものになつてゐると思つてゐるのか知らん。
それだつたらなんとなくわかる。
やつがれの感覚だと、「ことばを紡ぐ」といふ行為は「語彙を増やす」とか「表現を磨く」とかいふ行為に近い。
ことばを紡いでおいて、いざといふときに使へるやうにする。
さういふ感じに近いんぢやないかなあ。
でもなあ、いざといふときのために糸を紡いでおく、といふことはあまりないやうに思ふんだよなあ。
やはりなにかを作るため、服だとか壁掛けだとか帆船の帆だとかを作るために紡ぐんだよな、糸を紡ぐときつていふのはさ。
さうすると、ことばを紡ぐとは、ゆくゆくは本(やほかの発表できる媒体)にするための原稿を作る行為をさすのか知らん。
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