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Monday, 31 October 2016

好きなんだけど

本格的に冷えてきた。
昨日は去年リッチモアのコパンで編んだブリオッシュ編みのネックウォーマを取り出してきてしまつた。
ショールを羽織つて調節してもよかつたのだが、「とりあへず首回りさへあたたかければいいだらう」といふのでネックウォーマにした。
それほど外を歩かなかつたので、これはこれで正解だつたかな、と思ふ。

ショールは好きである。
編むのも好きだし、肩にかけるのもいい。
マントが好きだからだらう。
ただ、ショールはなんとなく肩からすべり落ちがちだ。
「与話情浮名横櫛」は木更津の場で、お富さんに見とれた与三郎が肩から羽織のすべり落ちるのに気づかない、といふ場面がある。
市川海老蔵の与三郎で見たときに、まあ羽織が滑り落ちないことがあつた。
うらやましいなあ。
肩に掛けたかばんさへすべり落ちがちだといふのに。

そんなわけで、外出先でショールを使ふことに不安がある。
落ちさうだし。
忘れさうだし。
通勤電車では他人のかばんとかにひつかかりさうだし。

ショールはレース柄だつたりすると、穴が開いてゐる。
そこに他人のかばんのファスナーの引き手であるとか、上着のボタンであるとか、あるいはなにかもつと違ふものとか、さういふものがひつかかりさうな気がするんだよなあ。
レース柄でなくても、あみものの編み目といふのは思はぬものにひつかかりやすい。

実際はいふほどひつかかつたことはないのだが、なんとなく心配になる。
真冬などはコートの中にショールを羽織ることもある。
ひつかかつたり落としたりはしないからだ。
忘れはするかもしれないけどね。
でもコートの下に羽織るのなら、ショールである必要はない。
セーターとかカーディガンとかを編んだ方がいいんぢやないか。

ショール風のヴェストなんてのもありかな、とは思ふ。
デンマーク式に背中で結ぶのもいいよなあ。あれならコートの下に着てもいい。

「ショール用に」と思つて買つてある毛糸もたくさんある。
袖無し羽織のあとはショールかなあ。
まだ袖無し羽織など編み始めてもいないのに。

Friday, 28 October 2016

アウロラのシガロに憧れて

久しぶりにこれはほしいといふ万年筆に出会つてしまつた。
アウロラのシガロである。

たばこは吸はないし吸つたこともない。おそらく今後も吸ふことはないだらう。
家族はみな喫煙者か元・喫煙者ばかりだから受動喫煙はさんざんやらかしてゐるんだけれどね。

なぜ吸はないのか。
おそらくこどものころから気管支などの呼吸器周りが弱かつたからだらうと思ふ。
すぐ喉が痛くなるし、すぐ風邪をひく。
無意識のうちに防衛機能が働いてゐるんぢやないかと踏んでゐる。

それでも、煙管は一度は使つてみたいかなあ、といふ気がする。
小学生のときだつたか、修学旅行先で唯一買つてきたおみやげが煙管だつた。
ちよつと長めの羅宇の黒くて艶消しの、色気もそつけもないやうな煙管だつたが、気に入つてしばらくは手元においてゐた。
「鬼平犯科帳」で鬼平が使つてゐるやうな煙管もいいよねえ。鬼平の父親が京都の職人に頼んで数年がかりで手に入れたといふ、「大川の隠居」のエピソードも思ひ出されるあの煙管。
落語など聞きに入くと、職業によつて煙管の扱ひが違ふのもおもしろい。あれもやつてみたいよなあ。大工のやうな持ち方とかさ。

あとパイプね。
パイプにはあこがれる。
なんだらう。
シャーロック・ホームズかな。
あるいは坂田健かその両方か。

煙管やパイプなら、たばこをつめなくても単に口にくはへるだけていいやうな気もするしね。

たばこだつて、様子よく吸へるのなら吸つてみたい気もしないではない。
ローレン・バコールみたやうにたばこを喫することができるのなら、一度はのんでみたいものだ。
残念ながらローレン・バコールがすてきなのはローレン・バコールだからで、どう逆立ちしてもああはなれない。
だから結局たばこを体験することなくここまできてゐる。

葉巻にはあまりあこがれはない。
ないけれど、アウロラのシガロはいいなあ。
ちよつとたばこを吸ふやうに口元に近づけてみたりさ。頬杖をつくときにちよいと指にはさんでみたりとか。

インキはなにがいいだらう。
紫煙といふくらゐだから、紫を思はせるやうなインキがいいだらうか。
あるいはたばこ自体のやうな色もいいかもしれない。
Pen and message. にはそのものずばり Cigar といふ名前のインキがあつたやうに記憶する。

これ以上ペンは増やさないつもりでゐる。
それに、アウロラのシガロはやつがれには過ぎたペンだ。
万年筆売場のショーケースに展示された姿を見て、うつとりするくらゐかな。

Thursday, 27 October 2016

タスクに追はれて

Bullet Journal の使ひ方が、だいぶ自分にあつてきた。

まづ、朝、その日の予定やタスクを Daily Log に書き出す。
あとはそれにしたがつてタスクをこなしていく。
積み残したタスクがあれば翌日に回す。
または後日やればいいタスクリストにうつす。
そんな感じ。

これで結構うまくいつてゐるのだが、ひとつだけ問題がある。
自分で書いた予定やタスクに追はれてゐるやうな気がするのだ。
職場では、まだいい。
職場とは、仕事をしたりタスクをこなしたりする場だからだ。
でも家ではさうもいかない。
「あれやつてこれやつて、あ、まだあれが残つてゐる。でももう寝ないと睡眠時間が足らなくなつてしまふ」
といふ感じで、ものすごく追ひたてられてゐるやうな気がするときがある。
そして、「なんでこんなにいつぱいいつぱいなんだらう」と疲れきつてしまふのだ。

私的な予定やタスクは、Bullet Journal のおかげで以前よりもこなせてゐる。
でも、常にやることがあつて、「まだあれが残つてゐる」と思ふだけで疲れきつてしまふ。
やれやれ。
GTDとか、合はないはずだよね。

GTD では、とにかく自分が気になつてゐることをすべて書き出して、優先順位をつけつつこなしていく、んだと思ふ。
気になつてゐることをすべて書き出すと、「これをやればいいんだ」といふ感じですつきりするのらしい。
でもたぶん、やつがれはそれをやつてはいけないのだ。
「あれもこれもそれもやらなきや」と、さう思ふだけで疲れきつてしまふからだ。
それでもやらねばならぬことを書き出して見ることができるといふのはいいことだと思ふんだけれどもね。
いまも Bullet Journal の「すぐやらなくてもいいタスクリスト」みたやうなものは気がついたときにちよこちよこ書いてはゐる。

なんかもうちよつと、自分にあつた方法があるといいのだが。
でも、「タスクがいつぱいならんでゐるのを見ただけで疲れきつてしまふ」やうな人間はなにをやつても無駄なのかな、といふ気がする。

それとも、とりあへずタスクはおいておいて、なによりもまづ睡眠をとるやうにするべきなのだらうか。
さうなのかもしれない。

でもまあ、いづれにしても Bullet Journal で以前よりはタスクのつみのこしが減つてはゐる。
書いておくだけでやる確率も増えるしね。

この疲れやすい気持ちをなんとかすることさへできれば、あとはなにも問題はない。

Wednesday, 26 October 2016

芝翫型の「熊谷陣屋」

芝翫型の「熊谷陣屋」では熊谷直実は文楽のそれとおなじ衣装で登場する。
黒い別珍の着物に赤い錦の裃だ。
顔も赤く塗つて出る。

誰のなんといふ本だつたか忘れてしまつたので甚だ恐縮ではあるが、以前文楽の「熊谷陣屋」の熊谷について「衣装出で立ちが「壇浦兜軍記」の岩永とおなじである。つまり、「熊谷陣屋」の熊谷はもともとは岩永とおなじやうな性格の人物として描かれてゐた」といつた内容の文章を読んだことがある。

文楽の人形は頭や髪型・衣装などでその性格がわかるやうになつてゐる。
おなじやうな出で立ちなら、熊谷が岩永のやうだつたことはありうるし、もしかすると逆に岩永が熊谷のやうだつたかもしれない。
顔が赤いことを考へると、熊谷が岩永のやうだつたのだらう、ありうるとするならば。

残念ながら文楽では見たことがないのだが、「近江源氏先陣館」は「盛綱陣屋」に出てくる和田兵衛もおなじやうな出で立ちだ。
こちらは歌舞伎で見るかぎりはいい役に見える。
上の主張が正しいならば、彼もまた岩永・熊谷の仲間だつたのだらう。

歌舞伎でも、とくに古典の場合登場人物の髪型・顔の仕方・衣装にはその役の性根を観客に知らせる役割がある。
なぜ芝翫型の熊谷はあの出で立ちなのか。
文楽からそのままもつてきたからといふのなら、なぜ現在普及してゐる團十郎型の熊谷はまつたく違つた出で立ちなのか。
それを考へて演じないと、芝翫型の「熊谷陣屋」の存在意義は少ない。
ただ衣装や顔の仕方、大道具の作りや幕切れなどがすこし違ふだけの、「それ、やる意味あるの?」な型になつてしまふ。
新・芝翫は立役で、後継者も揃つてゐる。
今後、芝翫型で「熊谷陣屋」を演じる機会も増えることだらう。
でもいまのままでは演つて詮無いことになるのぢやあるまいか。

「熊谷陣屋」の熊谷が「壇浦兜軍記」の岩永のやうな性格だとするならば、今月歌舞伎座で見た熊谷はいいんぢやないかと思つてゐる。
むしろ違ふのは義経の方だらう。
文楽の「熊谷陣屋」の義経の衣装には緑色と朱色とが用ゐられてゐる。
義経にしてはめづらしい色合ひだ。
文楽において緑色と朱色(といふか橙色といふか)との衣装を着てゐる役は、大抵あまり頭がよくない。
武芸一辺倒の融通のきかない人物だ。
義経の衣装の緑は生地が透けたものなので明るい色合ひになつてゐて、武芸一辺倒の役の萌黄のやうな色とはちよつと違ふ。
だから義経はさういふ性根の人物ではない。
さう主張することもできる。
でも義経にあの色は妙だ。
絶対なにかあつたに違ひないと思ふのだが、現在では文楽でも「熊谷陣屋」の熊谷は分別のある武士のやうに見受けられるし、義経はどこからどう見ても御大将・御曹司であつて、先に紹介した文章を裏付けるものもやつがれの「なにかあつたに違ひない」といふ勝手な思ひつきを裏付けるものもまつたくない。

ただ云へることがあるとしたら、衣装の色や顔の色はその役の性根を表すものだ、といふことだけだ。

今後も芝翫型でいくといふのなら、なにかしら工夫がほしいところだ。
型は多い方がおもしろいからね。

Tuesday, 25 October 2016

お休み中

タティングレースはお休み中だ。
先日書いた極細毛糸の「なーんも考へてゐないモチーフつなぎ」もこんなところでとまつてゐる。

Mindless Tatting

このシャトルは、クロバーのタティングシャトルフローラのひとつだ。
フローラが出るまでは、クロバーの鼈甲模様のシャトルを愛用してゐた。
五色のシャトルは色合ひがあまり好きになれなかつたからだ。
明るい原色といふのが好みに合はなかつた。
フローラは赤紫色といふか、ちよつとしぶくて淡い牡丹色の濃淡で、わづかに透けてゐるところがいい。
鼈甲模様が好きなのもちよつと透けた感じがするからだらう。
シャトルの先にはあまり頼つてゐないつもりでゐた。
欠けてみて、かなり使つてゐることに気がついた。
毛糸は毛のせゐで糸がもけもけしてゐる。
ピコを作つても、細く短い毛のせゐで穴がふさがつてしまつて見える場合もある。
角つきのシャトルの先よりは細いかぎ針を使つた方がいい。
かぎ針を使つた方がいいのは毛糸の場合に限らないか。
そんなわけで、シャトルの先はできるだけ使はないやうにしてゐた。
そのつもりだつた。
でもさうでもなかつたんだな。

間違へた結び目をほどくときはシャトルの先を使つてゐる。
毛糸で結ぶと、きちんと結び目を芯糸にうつせたはずが次の目を結んだときにもとにもどつてしまふことがある。
かういふときはちよちよいとシャトルの先を使つてゐた、といふことに気がついた。
すまん、シャトルの先よ。
いままで君のことを軽んじてゐたやうだ。
許してくれたまへ。
そんな気持ちだ。

そろそろ年賀状用のモチーフの用意を始めないと間に合はない気もしてゐる。
「なーんも考へてゐないモチーフつなぎ」とかやつてゐないで、モチーフ作りためモードに入るときがやつてきたやうだ。

Monday, 24 October 2016

冷えてきてしまつた

相変はらず Twisted Tweed Socks を編んでゐる。
かかとが終はつて、脚部分を編んでゐるところだ。

編んでゐるあひだに、夏日が何日かあり、その後また冷えてきた。
冷えてきたといつても気温は平年並みなのださうだ。
一度暑くなつてゐるから妙に冷えがこたへる。

十月も終はらうとしてゐる。
袖無し羽織にはまつたく着手してゐない。
この秋冬も編めないかもしれない。
そんな気持ちになつてきてゐる。

だが待てよ。
袖無しといふことは、案外着られる期間が長いといふことぢやあるまいか。
春先のちよつと冷える日なんかに羽織つてもいい。
だとしたらいまから編んでも間に合ふかも。

問題は、Twisted Tweed Socks が思つたより進んでゐないことかな。
かかとは一気に編んだのだが、その後あまり進んでゐない。

あと、寒くなつてくるとやはり肘のあたりから冷えるので、アームウォーマなりマーガレットなりを編みたい気もしてゐる。
マーガレットがいいかな。先週買つた毛糸で編むつもりだ。
袖無し羽織には袖がないからねえ。肘の冷えには役にたたない。
いつそ袖ありにすればいいのかもしれないが、最初の一枚は experiment のつもりなので袖無しがいいんぢやないかと思つてゐる。

もつとがんがん編めるといいんだけどねえ。
くつ下は持ち歩いて出先でも編むやうにしやうか知らん。
最近とんとご無沙汰の Knit out をひとりでやるのもいいかもしれない。
なんだか追ひつめられてゐるやうでいやな気もしないではないがな。

Friday, 21 October 2016

紡いだ結果はただの糸

糸を紡いでゐると「ことばを紡ぐ」といふ表現を思ひ出す。
「ことばを紡ぐ」と云ふ人は、おそらく糸を紡いだことがないのに違ひない。
なぜといつて、紡いでも糸しかできないからだ。
糸は糸として存在するだけでは素材でしかない。
糸を紡ぐのは、最終的になにかを作るための課程に過ぎない。
織つたり縫つたり編んだりしてできあがつたものが、作品になりまた人が身につけたりするものになる。

「ことばを紡ぐ」といふとき、人は紡いでできたものがそのまま最終形態になつてゐると考へてゐるやうに思ふ。
紡いでできるのは糸だから。
布ぢやないから。

無論、本を作るとして、「ことばを紡い」で作品を書いて、でもそれだけでは本にはならない。
いまだつたらコンピュータかなにかに入力したものを出力して本(紙であれ電子媒体であれ)の形にして、やつと本といふ作品の形ができあがる。

では、「ことばを紡ぐ」といふ表現を使ふ人々は、紡いだことばを本のかたちにすることを「紡いだことばを織る」だとか「紡いだことばを縫ふ」だとかいふ表現で語るのだらうか。

語らないね。
「ことばを紡ぐ」といふ表現を使ふ人々は、紡いだことばがそのまま布の状態になつてゐると考へてゐる。
そんな気がする。

それともあれか知らん。
「ことばを紡ぐ」といふ表現を使ふ人は、紡いだことばが昔なつかしSF映画やアニメのコンピュータから吐き出されるテープのやうなものになつてゐると思つてゐるのか知らん。
それだつたらなんとなくわかる。

やつがれの感覚だと、「ことばを紡ぐ」といふ行為は「語彙を増やす」とか「表現を磨く」とかいふ行為に近い。
ことばを紡いでおいて、いざといふときに使へるやうにする。
さういふ感じに近いんぢやないかなあ。

でもなあ、いざといふときのために糸を紡いでおく、といふことはあまりないやうに思ふんだよなあ。
やはりなにかを作るため、服だとか壁掛けだとか帆船の帆だとかを作るために紡ぐんだよな、糸を紡ぐときつていふのはさ。

さうすると、ことばを紡ぐとは、ゆくゆくは本(やほかの発表できる媒体)にするための原稿を作る行為をさすのか知らん。

Thursday, 20 October 2016

かな遣ひをあらためる

このかな遣ひも、そろそろやめやうかと思つてゐる。
当初の目的を果たしたからだ。

かういふかな遣ひをするやうになつた理由は、旧かな旧漢字で書かれた書物を読むのが苦痛だつたからだ。
授業でどうしてもさうした本を読む必要があつた。
もともとは英語で書かれた本で、原書で読むか戦争直後に翻訳された旧かな旧漢字の本を読むかしかなかつた。
結局どうしたのだつたか。
評判は悪いが新かな新漢字で出てゐる翻訳本があつて、それを読んだやうな記憶がある。

それより前から旧かな旧漢字で書かれた本は避けてきてゐた。
読みづらかつたからだ。
古文が読めなかつたといふこともある。

でも、それはなんか違ふんぢやないか。
さうした本を読まないといふことは、先達との交流を絶つてゐるとおなじことなんぢやあるまいか。
ではどうすれば読めるやうになるのか。
自分で書くやうにすればいいんぢやないか。
さう思つて、かう書くやうになつたのだつた。

あれから幾星霜。
いつのまにか、旧かな旧漢字の文章を読むのが苦痛ではなくなつてゐる。
旧漢字にはまだまだ読めない字がたくさんあるし、古文にもわからないことばはずいぶんとある。
でも、この書き方をするまへよりはずつとまし。
さういふ状況だ。

当初の目的は果たせた。
みづからかういふかな遣ひをすることで、おなじやうなかな遣ひで書かれた文章を読むのが苦ではなくなつた。
もうかういふかな遣ひをする必要はない。
やめちやはうかな。
読む方は、今後もつづけて読みつづけてゐればいまの状態を維持できさうだし。

でもやめられないのは「ゐ」の字が好きだから、とは以前ここにも書いたやうに思ふ。
ひらがなの中で一番好きなのが「ゐ」の字だ。
「る」でもない「み」でもない。
手で書いたときの「くるくるりん」といふ感覚が好きでたまらない。
字面も好きだ。
いはゆる新かな遣ひでもこの「ゐ」の字を用ゐていいのなら、即そちらに乗り換へるのになあ。

Wednesday, 19 October 2016

なんでもメモ帳の選び方

Notebooks

なんでも書き込むノートを選ぶとき、なにを基準に選んでゐるだらうか。
自分の場合は、手帳のサイズ、ページ数、縦横比とぱらぱらめくりやすいことの四点を重要視してゐるやうな気がする。
無意識のうちにね。

今月に入つてから Smythson の Panama を使ひはじめた。
Panama は預金通帳サイズだ。Moleskine のポケットサイズとほぼおなじ大きさである。

Smythson の Panama だとか Moleskine のポケットサイズを使ふやうになると、やたらと書き込む量が増える。
紙面が狭いなと思ひつつ、なんとなく書きたくなるサイズなのだらう。
一ページに書ける量が限られてゐるからページ数ばかり進むのかもしれないけどね。

サイズもさうだけれど、縦横比が自分の好みに合ふのぢやないかという気もする。
文庫サイズよりも新書サイズの方が書きやすいやうに思ふのは縦横比のせゐなんだよな、たぶん。

システム手帳もバイブルサイズがいいのは、縦横比のせゐだと思ふのだ。
A5の方がたくさん書けるしリフィルも紙面の広さを生かしたものがあるのはわかつてゐる。
持ち歩きの不便ささへなけれはばA5のシステム手帳の方がいい。
でもバイブルサイズが好きなんだよなあ。

縦横比でいふと、トラベラーズノートも好きだ。
トラベラーズノートは大きいけれど、カヴァをはづすと案外どんなかばんにもおさまるところもいい。薄いからといふのもあらう。
カクリエはまだ使つたことがないが、おそらく好きだらうと思つてゐる。

それではなぜ Panama や Moleskine のポケットサイズより大きいトラベラーズノートを使はないのか。
ぱらぱらと見返すときの具合は、Panama や Moleskine の方が断然いいからだらう。
Panama と Moleskine のポケットサイズと、どちらがいいかと訊かれると困るけどね。
紙質でいへば間違ひなく Panama だけれど、どこでも書きやすいといふ点でいへば Moleskine だ。

そんなわけで、たまに「もつと広いところに書きたい!」と思つてちよつと大きめのノートを使つてみては、預金通帳サイズの手帳に戻つてきてしまふ、といふのをここ数年くりかへしてゐる。
そのうち預金通帳サイズで落ち着くんだらうとずつと思つてゐるが、なかなかそこまで思ひ切ることはできないやうだ。
世の中は魅力的なノートで満ちてゐるからね。

Tuesday, 18 October 2016

モチーフかエジングか

ネクタイを作つて以来、タティングレースではこれといつたものを作つてゐない。

ここには「栞のやうなちいさいものでも作らうか」と書いた。それで仕上げの手順まできちんとやつて技能向上につとめやうと思つたわけだ。

しかし、いまタティングレースで作りたいものを思ひ浮かべると、大きいものになつてしまふ。
最低でもスカーフのやうなものを作りたい。

スカーフの作れるくらゐの糸はあるしね。
もともとスカーフ、あはよくばショールを作りたいといふので買つておいた糸もある。

糸はあつて、作りたいといふ気持ちもある。
それでも作りはじめてゐない理由といふのは、どんなものを作つたものかが決まらないからだ。

モチーフつなぎにするのかエジングを長くつないだやうなものにするのか、とか。
モチーフつなぎにするんだつたらどんなモチーフにするのか、とか。
エジングにしても、どんなエジングにするのか、とか。

たくさんつなげてみたいモチーフといふのはある。
Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる Masquerade なんか、つなげてみたいんだよなあ。
このモチーフはかなり好きで、ずいぶん作つた。
でも一度につないでもせいぜい本に載つてゐる数くらゐかな。すなはち3x4くらゐ。3x3くらゐのものを三枚か四枚くらゐ作つた気がする。2x2もあるな。
どなたかのblogで Masquerade をたくさんつないでショールにしたものを身につけてゐる写真を見て、「いつか自分も」と思つてゐるのだが、果たせてゐない。

いつか自分も、と思つてゐるのなら、このモチーフをつないだものを作ればいい。
しかし、ネクタイを作つたときに、モチーフつなぎの端糸の始末にちよつと難儀をしてしまつて、な。
糸始末が好きではないのでモチーフつなぎに挫折しがちなのだつた。

だつたら長くエジングを作つてみてはどうか。
七宝模様を延々とつないだタティングレースのショールを一度作つてみたい。
これもさう思ひつつ、果たせてゐない。
模様を縦にするか横にするかが決められないのだつた。
長さを調節しながら横にした方がいいのか。
縦に作つて長さを決めつつ作る方がいいのか。

悩むくらゐなら作りはじめればいいぢやん。
さうなんだけど、タティングレースつて失敗したときにもとの状態に戻すのが大変だから、つひ躊躇しちやふんだよね。

いつそモチーフつなぎとエジングつなぎとを両方作りはじめてみるといふのもひとつの手かもしれない。

無謀だなー。

Monday, 17 October 2016

伸縮性のある伏せどめ

Sock in Progress

あひかはらずくつ下を編んでゐる。
パターンは Twisted Tweed Socks (Rav) だ。

片方編めたので、即もう片方にも着手した。
つま先から編みはじめたので、伏せどめをどうしやうか悩んでゐた。
通常なら一目ゴム編みか二目ゴム編みなのでゴム編みの止め方を用ゐる。
今回は三目ゴム編みなのだつた。
模様の関係でさうなつてゐる。
二目ゴム編みにしてもよかつたかな、とは思ふ。
編み方通りに編むか変更してしまふかは悩むところだ。
一度は書いてあるとほりに編まう。
大抵はさう思ふ。
変へるなら二度めからでいい。
二度めがあるなら、だけれども。

たぶん、このくつ下は一度しか編まない。だつたら書いてあるとほりに編むことにしやう。
さう思ひつつ、「でも書いてあるとほりに編むとかかとが大きくなりさうだよなー」と思ふこともある。

今回は書いてあるとほりに編んだ。
伏せどめには、Jenny's surpisingly stretchy bind off を用ゐた。
このやり方は以前も使つたことがあつて、とても伸縮性に富んでゐてよかつた記憶がある。
そのときに「今後もこの止め方を使はう」と思つてゐて、すつかり編み方を忘れてゐた。
基本的には、かけ目をして次の目をかけ目で伏せて、次も同様にかけ目をして次の目をかけ目で伏せて、最初にかけ目で伏せた目で次の目を伏せる、といふやり方だ。
表目のときはかけ目の糸をかけるときに普段と反対方向にかける。
これだけだ。
それでこんなに広がるんだよね。おどろき。

Sock in Progress

やつぱり今後もこの止め方は使つていきたい。
覚えてゐれば、だけど。

くつ下を編みながら、例によつて袖無し羽織についても考へてゐる。
いまは普通に編むかバイアスに編むかを考へてゐるところだ。
普通に編むんぢやないかな。
そんな気がしてゐる。

一方で、くつ下毛糸を増やしてしまつた。
この秋冬は毛糸は増やさないつもりでゐたのだがなあ。
一玉でくつ下を編んで、のこりの二玉はなにか別のものを編むつもりでゐる。

Sock in Progress

Friday, 14 October 2016

Born to Be Blue Black

Blue Blacks

萬年筆のインキといつたらブルーブラックだ。
すくなくとも萬年筆を使ひはじめたころ、いや、萬年筆に憧れてゐたころはさう思つてゐた。
萬年筆にしかない色だつたからだ。
いまでは水性やゲルインキのボールペンにいろんな色で書けるものがあるけれど、以前はそんなことはなかつた。
ボールペンは黒、赤、青、あつて緑。
鉛筆には色鉛筆があるから選択肢は豊富だけれど、色鉛筆で文字を書くと字が太くなり勝ちなのが苦手だ。

萬年筆のブルーブラックといふのは絶妙な色だ。
青でゐて、ボールペンの青とは違ふ。
暗くて、でも真つ黒とも違ふ。
クリーム色の紙の上に書いたときの絶妙な色合ひ。
太めのペン先で書いたときの微妙な濃淡もいい。

最初のころはモンブランとパイロットとのブルーブラックを使つてゐた。
クルトゥールライトを手にしたときからウォーターマンのブルーブラックを愛用するやうになつた。
モンブランやパイロットのものよりもちよつと明るいところが気に入つた。
クルトゥールライトが出たころのウォーターマンのブルーブラックはいまのやうな緑色がかつた印象はなかつた。
カートリッジはいまでもさうなのかもしれない。
金ペン堂でペンを求めたときにウォーターマンの瓶入りブルーブラックを買つたら、インキが乾いたあとかなり緑色の強い色合ひになるのに驚いた。
そこがまた気に入つて、いまでもよく使つてゐる。

いま一番使つてゐるのはプラチナのブルーブラックだ。
一番使つてゐる中屋の萬年筆に入つてゐるといふのが大きい。
ブルーブラックといふ名前ではないけれど、日本橋丸善限定のエターナルブルーも使つてゐる。
エターナルブルーはパイロットの石目に入れてゐる。
どちらも色が好きといふこともあるけれど、もつと実用的な理由がある。
Moleskine に使つてもにぢんだり裏抜けしたりないからだ。
先日までMD Notebook のコットンを使つてゐた。
コットンが20%配合されてゐるといふ紙は、なぜか小口付近に書くと文字がにぢんで裏抜けする。
ちよつと内側にかけば問題ないんだけれどね。
それで仕方がないので日付とページ数とだけはプラチナのブルーブラックで書いてゐた。
MD Notebook のコットンの小口付近は、エターナルブルーでもちよつとにぢんだ。
買つた直後は気にならなかつたので、長く手元においておくと紙が水気を含んだりするのかもしれないな。

あたぼうステーショナリーのスライド手帳も、萬年筆で書くとにぢむし裏抜けするけれど、プラチナのブルーブラックだつたら大丈夫。エターナルブルーは細字ならいけるかな。
いはゆる古典ブルーブラックだつたら大丈夫なんだらう。

セーラーの青墨も古典ブルーブラックに近いといふので使つてゐる。
あとやつがれの場合は筆圧の低さが役にたつてゐるのかもしれない。
ローラー&クライナーの色褪せたあんこ色のインキも Moleskine に使へるといふ話を聞いてゐるが、試したことがない。いつかは、と思つてゐる。

ブルーブラックに近いといふと、パイロットの色彩雫にある月光もさうかな。
これはパイロットのフォルカンに入れてゐる。
思つてゐたよりも濃淡が出づらいインキだつたが、これはこれで気に入つてゐる。

Thursday, 13 October 2016

モンブランのボルドーとバーガンディレッド

モンブランのインキ・バーガンディレッドを愛用してゐる。

その昔、おなじモンブランのボルドーといふインキを愛用してゐた。
当時の Moleskine はいまのやうに万年筆で書くとにぢんだり裏抜けしたりといふことはあまりなかつた。思ひ出せる範囲では、モンブランのボルドー、ブルーブラック、レーシンググリーン、パイロットのブルーブラック、Dr.ヤンセンのシェークスピア、アウロラのブルーを使つてゐて、にぢみだとか裏抜けで悩んだことはなかつた。
Moleskine はもう当時の紙質にはもどらないのかな。
もどらないんだらうな。

ボルドーのインキはファーバー・カステルのペルナンブコの細字に入れてゐた。
はじめての Moleskine は2004年に使ひはじめて、ボルドーを入手したのは2005年になつてからだ。

Montblanc Bordeax & Burgundy Red

Moleskine のクリーム色の紙に、ボルドー色がよく映える。
とても気に入つて使つてゐた。
クリーム色の紙に、ボルドーとブルーブラックとで交互に書くと、いい感じのコントラストになつた。そこもよかつた。

バーガンディレッドの字は、ツバメノートの Rhodia 風メモ帳に書いたものだ。
こちらもクリーム色がかつた紙で、やはりバーガンディレッドがよくうつる。
比べやうもないけれど、ボルドーに比べて赤味が強いやうに感じる。
ボルドーはもうちよつと青がかつてゐるやうな気がする。
十年以上も前に書いたものしか残つてゐないから経年変化で実際のところはよくわからなくなつてゐるけれどね。
バーガンディレッドの方が赤い。
名前のせゐでさう思ふのかもしれない。
どちらも赤ワインで字を書いてゐるやうな気分になる。
バーガンディレッドは、血文字を書いてゐるやうな気分でもある。

Montblanc Bordeax & Burgundy Red

そんなわけで、「トミノの地獄」の冒頭部分なんだな。

姉は血を吐く
妹は火吐く
可愛いトミノは寳玉を吐く

ボルドーやバーガンディレッドにふさはしい詞章ぢやあるまいか。

こんな色、使ひ道がないでせう。
さういふ意見もあるだらう。
赤いから手紙には使ひづらい。
公的な場では使へない。
朱を入れるならいいかもしれないが、それ以外だとひたすら個人的な用途で使ふしかない。

いいんぢやないかな。
他人には云へないやうなことを書き記すのに使へば。
血を吐くやうな思ひがあるならそれを綴つてもいい。
あるいは目一杯おどけた内容を書くのも一興だ。

最近使ひはじめたばかりの手帳をぱらぱらめくつてみると、「使ひたくないことば」だとか「狂鬼人間」、「インテリの悪」、「悪い奴が悪いことをするときはもつと用意周到にやるものだ」とかいふ文字をバーガンディレッドで書いてゐる。

「狂鬼人間」あたりはもつと違ふ色で書きたいところだねえ、ほんたうは。

Montblanc Bordeax & Burgundy Red

Wednesday, 12 October 2016

三十七年は一昔

10/8(土)に、名古屋は金山にある日本特殊陶業市民会館のヴィレッジホールで錦秋顔見世興行を見てきた。
昼の部の喜利が「ぢいさんばあさん」だつた。
「ぢいさんばあさん」は森鴎外の小説を宇野信夫が芝居にしたもので、歌舞伎としては比較的新しい作品だ。
歌舞伎は古典の方が好きだ。それも時代物と呼ばれるものが好ましい。
それに「ぢいさんばあさん」は似たやうな配役で去年の七月に大阪松竹座で見たばかりだ。
そんなに期待してゐなかつた。
でも、いいものはやはりいいのだつた。

「ぢいさんばあさん」といふのは、第一子を授かつたばかりの若い夫婦の話からはじまる。ひよんなことから夫が単身赴任で京都に行くことになり、行つた先で不祥事を起こして、夫婦は三十七年間はなればなれになつてしまふ。三十七年後、夫は罪を許されて帰宅することになり、夫婦は再会する。

今回の「ぢいさんばあさん」では、この「三十七年間」の重みをしみじみと感じた。
松竹座で見たときもさうだつた。
三十七年。
口でいへばものの一秒もかからない。
芝居でも舞台転換だけなら十分もかからずに三十七年後の世界の幕が上がる。
さうした中で、どうしたら三十七年といふ歳月を感じさせることができるのか。

夫婦がはなればなれになつてゐるあひだ、夫婦の弟一家が、次いで甥夫婦が家を守つてゐる。
甥夫婦は新婚だ。まだ若い。せいぜい二十歳前後といつたところだ。
若妻・きく役の坂東新悟が、「三十七年なんてどれくらゐの長さだか、全然見当もつかないわ」とでも云ひたげなやうすで「三十七年」と呟く。
その夫・久弥役の中村梅枝が「自分にだつてわからないけれど、でも、きつと気の遠くなるやうな時間だよ」と答へるかのやうに「三十七年」と応じる。
今回はこれだけでもう三十七年の長さが身にしみる気がした。
そこに夫・伊織役の片岡仁左衛門があらはれ、次に妻・るん役の中村時蔵があらはれ、やがてふたりは再会する。
このあとのすばらしさはきつとあちらこちらに書かれてゐるだらうからここでは書かない。

三十七年の長さを客に感じさせる工夫はいくつもしかけられてゐるのだらう。
それと知らずにその手にひつかかるのが一番いい。
松竹座でもさうだつたけれど、今回の「ぢいさんばあさん」もさういふ芝居だつた。

ぢやあこの芝居を勧めるかといつたらさうはならない。
歌舞伎を見る人には「古典の方が好き」といふ人が多いやうに思ふからだ。
実をいへばやつがれもさうだ。
「ぢいさんばあさん」なんてほんたうは見たい芝居ぢやあない。

思ひ出はつねに先にゐる。
記憶は手の届きさうなところにある。
思ひ手も記憶も、いつも前にあつて、こちらを手招きしてゐる。
追ひかけて、手をのばしても決して手が届くことはないのに。

さういふ、すぎてしまつた時間、二度と返らない過去に執着してしまふやうな人にはお勧めする。

Tuesday, 11 October 2016

タティングレースのネクタイ

Tatted Necktie

タティングレースのネクタイを整形してみた。

Jan Stawasz の「Tatting Treasures」に出てゐるネクタイを DMC Cebelia #20 で作つた。

整形するときにピンは打たなかつた。広げて気になるところを手でのばしただけ。
ゆゑにだらしない部分もある。
でも糊付けするとカビが生えやすいしさ。
ピンを使はなくてもある程度はのびるし。
使つてゐたら皺も寄るわけでね。

云ひわけである。
ピンを打つのがめんどくさいだけだ。
方眼罫の上で整形するわけでもないしね。
ちいさいモチーフを九つつないだ菱形部分の真ん中のモチーフの周囲がきれいに円になるやうに整形できてゐるから、それでいいかな、といふ気もしてゐる。

整形のときにピンを打つのは、作つてゐる最中にどうにも波打つて仕方がないときだ。
波打つても手でのばせば大抵の場合はなんとかなる。
どうにもならないときに仕方なくピンのお世話になる。

ほんたうは、整形するときは方眼罫の上でピンをきちんと打つものだ。
わかつてゐてなぜできないのか。
できないのに「タティングレースをたしなみます」と公言してもいいのか。
いけない。
整形が終はつてはじめてレースはできあがる。

さうか。
やはり、やつがれにはタティングレースはムリか。

整形をきちんとするやうにするには、ちいさいものから作るのがいいのかな。
さうするとやはり栞かな。
今朝、即糸を巻けさうなタティングシャトルを並べてみて、そんなことを考へてゐた。
整形するときにはちやんとピンを打つことにして、さ。

と、書いておけばするだらうか。
しないやうな気もしてゐる。

ところでこのネクタイを使ふ場面を思ひつかない。
お蔵入りかな。
だとしたら、糊付けしなかつたのはやはり卓見だつたのかもしれないな。
自分で云ふのもなんだけど。

Monday, 10 October 2016

くつ下を編んだり履いたり

Sock in Progress

Twisted Tweed Socks (Rav) はまだ最初の片方を編んでゐて、やつとゴム編みに入つたところだ。
ちよつと脚部分を長くし過ぎてしまつた。
いつもは、だいたいつま先を除いた足部分とおなじくらゐの長さにする。
今回はちよつと長くするつもりで、「あと一模様編めばいいや」と思つてゐたらうつかり二模様編んでしまつてゐた。
ぼんやりしてゐるとよくない。
毛糸はなんとか足りさうなので、まあよしとするか。

今日は自分で編んだくつ下を履いてゐた。
すこし前にもいきなり冷えたことがあつて、そのとき履いたのが最初かな。
今日履いてゐたのは Jaywalker (Rav) だ。

Jaywalker

整形したあと写真を撮るのを忘れてゐた。
いまのうちはこの一足であたたかいが、そのうちこれだけぢや足りなくなるだらう。
ほんたうは編み込みのくつ下を編めばいいんだらうが、生憎と編み込みが苦手でなあ。
もうちよつと余裕がないと編み込みはできさうにない。
編み図を見ながら編むやうだしね。

なんでこんなに余裕がないかなあ。
タティングレースも次に作るものが決まらなくて……。とほほ。
現在、The Mists of Avalon といふアーサー王伝説を下敷きにした物語を読んでゐる。
登場人物がスピンドルで糸を紡ぐ場面が出てくるので、つひ自分もやりたくなつて先週紡ぎはじめた。
しばらくはそんなことをしてるのかなあ。

あ、Twisted Tweed Socks は編むけどね。

Friday, 07 October 2016

気持ちよく芝居に行つて帰るには

芝居の好きな人は出かけるのも好きなのだらうか。

時々疑問に思ふ。
自分は出かけるのが嫌ひだからだ。
出かけるのが嫌ひといふよりは、人混みの中に出て行くのがイヤだ。

芝居は繁華なところで上演されるものだ。
ちやうど自分の行く時間とおなじころおなじ方向に向かふ人がたくさんゐる。公共交通機関もさうした人を乗せるから必然的にちよつと込み合ふ。
「いい芝居を見たなあ」と思つても、帰りの道や電車の混雑でそのいい気分が全部消へてしまふこともある。
いつたいなにをしに行つたのだらう。
バカげてゐる。
もう芝居になんぞ行くものか。

でも次に見に行くときにはそんなことは忘れてしまつてゐる。
そんな感じでここまで来てしまつた。

家で本を読んだりTV番組を録画したものを見た方がいい気分が続く気もする。
今週は「新・座頭市」で菅貫太郎を見て、また先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」で天本英世を見て、「いいもん見たー」とかしみじみ感じ入つてしまつた。

舞台を収録したものでも、あまり知らない芝居はTVでおもしろく見られることはある。
でもよく知るものだとむづかしい。
舞台の場合、「ここが見たいのに」といふ部分を写してくれてゐないことがある。
「かう見たいのに」といふやうに写してくれてゐないといふこともある。
見得をする場面などは全身を写しておいてほしいのに、なぜか顔のアップになつてしまふ、とかね。
舞台の手前で派手な立ち回りをしてはゐるけれど、その奥にしづかに座つてゐるお殿さまがゐるのにな、とかね。
さういふもどかしさがTVの舞台中継にはある。

芝居のあとはいつそ飲んで帰ればいいのだらうか。
マチネならそれもいいかもしれない。
ソワレだと飲むと帰りの電車がなくなる可能性が高い。
八時くらゐに終演してくれればそんな心配をしなくても済むのだけれど、それだと芝居自体がもの足りなくなるだらう。
帰りの足を心配しながら飲む。
これほど楽しくないことはない。

まだしばらくは芝居見物をするつもりなので、出かける苦痛をやはらげる方法を探してゐるのだが、いまのところ見つからない。

そのうち交通費さへ出せないやうになるのだし、さうしたら行きたくても行けなくなるんだから人混みくらゐは我慢して出かけることにするか。
さう考へることにしてゐる。

Thursday, 06 October 2016

飯田市川本喜八郎人形美術館 2016秋 再訪 その二

九月三十日、十月一日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
昨日、ちよつと感想を書いた

曹操の表情が切なくてねー。
曹操は、メインケースの向かひにあるケースの向かつて右端にゐて、左端にゐる関羽を見てゐる。曹操と関羽とのあひだには十五人くらゐ人形が飾られてゐる。
曹操は横顔を見せてゐて、ちよつと躰をひねつた感じで背中が見えるあたりとか、重心が前にあるあたりとかもいい。
ちよつと離れて正面から見た顔の表情が一番切ない。

メインケースの向かつて右隣のケースに江東の人々と荊州の人々とが展示されてゐる。
孫権・孫堅・孫策のやうすがいい。
左に立つてゐる孫権が意見を述べてゐる。
座してゐる孫堅が孫権に意見を求めたんだらう。
その孫権のやうすを孫堅の右側に立つてゐる孫策が頼もしげに見つめてゐる。
そんな感じかと思ふ。
人形劇ではあり得ない構図で、それがまたいい。

その隣の荊州の人々はなんだかバラバラな感じで、中でも劉琦を見下ろしてゐる劉表の表情が心配げなやうすに目が止まる。
ケースの端といふか角のあたりから見たときが一番心配さうだ。
しつかりしてほしいと願つてゐるといふよりは心配さうなんだよなあ。
頼もしい息子たちと忠義な部下とに囲まれた孫堅と比べて見るからよけいにさう思ふんだらう。

江東と荊州のケースの向かつて右隣、展示室の奥にあるケースには、水鏡先生とその弟子たちがゐる。
孟公威・崔州平・石広元の酒盛りが楽しい。
今回は酒の肴も用意されてゐる。実に精緻な肴だ。
崔州平は箸を手にしたままで、孟公威と石広元とは箸を皿の上においてゐる。石広元の箸の置き方が孟公威のそれに比べてフリーダムだ。人形劇の石広元つてさういふ感じだよね。あるいは石広元の方が酔つてゐるのかもしれない。

この酒盛りを見たあとに、人形アニメーションの李白を見るとますます「お酒つていいよねえ」といふ気分になる。
孟公威・崔州平・石広元は水鏡門下生で集まつて口角泡を飛ばしつつときに険悪な雰囲気にもなりながら酒を楽しんでゐるといふ感じだ。
李白は、ひとり風の中に立つてゐて、だいぶきこしめしたやうすで月を見上げて独吟してゐるといふ感じだらうか。
あるいはただただ口を開けて月を見上げてゐるのかもしれない。
黒い雲の隙間から月が顔を出した、それを見上げてゐる。
さうも見える。
李白はアブソルートウォッカのCMに出てゐるのだといふ。動画を見てみたいと思つてゐるのだが、まだその機会がない。

飯田市川本喜八郎人形美術館で今月上映されるアニメーションに「鬼」がある。
その人形が展示室にも飾られてゐる。
展示を見て、アニメーションを見て、また展示を見ることができる。
贅沢だよねえ。
「鬼」は七分ていどの作品で、鶴澤清治の三味線に山口五郎の尺八の音楽に乗つて人形の動く様が実に生き生きとしてゐる。
美術館の方の解説では「文楽の人形や動きを意識した」と云つてゐたやうに思ふ。
「糸に乗る」といふ表現があつて、まさにそんな感じの動きなんだよなあ。

今回の展示を見るのはこれで最後と思つて行つたけれど、もう一度見に行けたらなあと思つてゐる。たぶんムリだけど。

Wednesday, 05 October 2016

飯田市川本喜八郎人形美術館 2016秋 再訪

九月三十日、十月一日と飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
六月の展示替へ後に行つて以来だ。

今回の展示は人形劇は「人形劇三国志」の人形、人形アニメーションは李白、「花折り」「鬼」「道成寺」「不射の射」「火宅」だ。
どの人形がゐてどんなやうすかといふ話は、六月に見てきたあと書いた。

あらためて書くと、今回はいつにも増して立ち止まる部分が多いやうに思ふ。
何后に見とれる日がやつて来やうだなんて、六月に見に行くまで思つてもみなかつた。
毒の入つてゐるだらう青磁とおぼしき水差しを手にすつくと立つ姿が凛然としてゐる。
とてもドラマチックだ。
すつくと立つて、毒に苦しみ倒れ伏す董太后を見下ろす表情の冷たくも美しいこと。
どの角度から見てもいい。

いきなり展示室のちよいと奥にゐる人形から書いてしまふくらゐ、今回の何后はいいんだなあ。

展示室を入るとすぐゐる呂布と貂蝉ともいい。
貂蝉、やつぱりきれいねえ。
いま渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーに行くと、ギャラリーの外にあるケースに貂蝉がゐる。こちらも「きれいねえ」とは思ふのだが、やはり飯田にゐる人形劇に出た方の貂蝉の方が表情がある気がする。
角度によつては微笑んでゐるやうにも見え、また別の角度から見ると無表情でなにを考へてゐるのかわからないやうすにも見える。
mysterious でせう。

今回あらためて張角とその兄弟とは衣装に秋の花が用ゐられてゐることに気がついた。
たぶん秋の花だ、と思ふ。
三人それぞれ違ふ柄だけど、秋の花でそろへたんぢやないかな。
張角・張宝・張梁のやうなをぢさんの衣装に花が散らしてあるといふのがおもしろい。それも結構目立つ柄のはずなのに、全然妙には見えない。
考へてみたら、三国志の人形はほとんどをぢさんおぢいさんばかりなのによくよく見ると衣装は花柄な人が多い。
甘寧とか、これでもかといふくらゐ花柄ばかりだし。甘寧なのに。
それで男らしさが損なはれるかといふと、そんなことは全然ない。
男の人の衣装に大胆な花柄といふのはいいかもしれないな。

展示室のメインケースである「三顧の礼」では、「実相寺アングル」を楽しむことができる。
ケースの向かつて左端から見ると、張飛の馬の蔵越しに諸葛均が見える。
反対側から見ると、孔明の寝床越しに玄徳・張飛・関羽が見える。
「物を手前において奥にゐる人物を撮る」ことを実相寺昭雄にちなんで「実相寺アングル」と呼ぶことがある。
ケースの端から「うわー、実相寺だわー」などと思ひつつ見られるのも、今回の展示ならではだ。
メインケースは、これまで見てきた例からいふと通常十五名前後は展示するケースだ。
今回は馬が三頭と人間が五人しかゐない。
背景には竹が飾られてゐて、枝折り戸などもあつて、両手の人差し指と親指とでフレームを作つて動きながら見ると、実際に人形劇を撮つてゐるやうな気分が味はへる。

思つてゐたより長くなつてしまつた。
つづきはまた後ほど。

Tuesday, 04 October 2016

目的なきタティング

タティングレースのネクタイは端糸の始末まで終はつて、まだ整形をしてゐない。

次に作るものも決めてゐない。
とりあへず糸のいつぱい巻いてあつたシャトルがあつたので、それでモチーフを作つてゐる。
糸は Puppy の New 2Ply。極細毛糸だ。
極細毛糸で試してみたかぎり、いまのところこれが一番毛糸に向いてゐるといふモチーフを作るつてゐる。
中央に十二個のピコのあるリングがあつて、周囲をリングだけで囲む円形に近いモチーフだ。
すなはち、シャトルひとつだけで作るモチーフである。
いはゆるロゼッタモチーフなどのリングとチェインとをくりかえすかたちのモチーフも作つてはみたけれど、毛糸にはあまり向かないやうに思へた。

なぜ向かないかといふと……うーん、なんでだらう。
毛糸は綿のレース糸に比べて弱いので、巻いたりほどいたりをあまりくりかえしたくない、といふこととはある。撚りも弱いしね。
八重洲の展覧会のときに盛本知子は「最近の極細毛糸でタティングすると糸が切れるのでできない」と説明してゐた。
藤戸禎子が一等を受賞した極細毛糸で作つたおくるみが展示されてゐたのだつた。
パピーの New 2Ply ならできるけどな、と思つたけれど、赤ちやん用の毛糸の極細ではできないのだらう。おそらく。

それに、パピーの New 2Ply だつて、シャトルへの巻きほどきをなんどもくり返してゐたら切れてしまふのかもしれない。
そんな状態だつたら「タティングできない」つていふよね。
展示されてゐたおくるみの大半はシャトルひとつでできるモチーフで作られてゐたと記憶してゐるけれどもね。

いづれにしても、極細毛糸でタティングするのは楽しい。
スティッチがふつくらとしていい感じだし、端糸の始末が楽だ。
リングやチェインの大きさ長さがそろへづらいといふことはあるけれど、それよりもふつくらしたスティッチを見てゐると楽しい気分になる。
それと、綿のレース糸より弱いのでゆつたりした気持ちでタティングするといふのもあるかもしれない。
せかせかした気持ちでタティングするには極細毛糸は向いてゐないかも。

そんなわけで、なにを作るといふ目標もなく毛糸を結んでゐる。
たまにはさういふのもいいんぢやないかな。
なにかを作らうと必死になるばかりがいいわけぢやない。
ただ目的なくシャトルを動かすのもいいものだ。

Monday, 03 October 2016

酷寒の冬に備へる

Sock in Progress

くつ下を編み始めた。

Twisted Tweed Socks (Rav) を Opal のくつ下毛糸で編んでゐる。
9/29(木)に開始した。
針は0号だ。

編み方を見ると、このくつ下は輪針で編むことになつてゐる。
輪針なのは、おそらく模様の都合が大きい。
三目連続ですべり目をするからだ。
目の裏に糸がわたるから、針と針とのあひだで糸がつれたり逆に長すぎたりしがちなんだと思ふ。

このくつ下を編むことにしたのは、すべり目を多用するからだ。
すべり目があると、目の裏に糸がわたる。すなはちその部分が二重になるのでよりあたたかくなる。

Sock in Progress

そもそもくつ下を編み始めた理由は、「この冬はきつと職場で手編みのくつ下を履くやうだらう」と思つたからだつた。

前回の冬は、あまりの寒さにヨガソックスを編んだ。
ヨガソックスだとつま先とかかとがない。足首と甲とをあたためるようなくつ下になる。
それでわりと十分だつたんだよね。
電車の中も冷えてゐたので、ヨガソックスは必須だつた。
ヨガソックスを履かないときは、厚手のくつ下を履くやうにしてゐた。

今度の冬はヨガソックスでは足りないかもしれない。つま先やかかともほしいかもしれない。
いま働いてゐる部屋が異様に冷え得る部屋だからだ。
館内空調はもちろん入つてゐるのだが、それだけでは足りないくらゐ冷える。
くつ下、必要だよな。
さう思つたのである。

考へてみたら、膝掛けとかアームカヴァとかもほしいやうな気がする。
どうも膝や肘から冷えてくるやうな気がするからだ。
膝掛けは大きくなるからいまの時期まだ暑すぎてちよつと編めないけれど、アームカヴァは編んでおいた方がいいかもしれないな。

ところでくつ下を編むのは楽しい。
ときどき、もうくつ下だけ編んでゐればいいかな、と思ふくらゐ楽しい。
この秋冬は袖無し羽織を編む、とここにも何度も書いてゐるけれど、ほんたうに編むかどうか、不安になつてきた。
いつまでも暑いからね。
それに、くつ下を編むのが楽しすぎる。

Sock in Progress

とりあへずはこのくつ下を編まう。

Sunday, 02 October 2016

2016年9月の読書メーター

2016年9月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:1490ページ
ナイス数:9ナイス

ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)感想
学校に通うてゐるころ読んだんだけど、こんなに読みづらい本だつたつけか。直訳に近いのかな。当時は倉多江美の「静粛に! 天才只今勉強中」の主人公の元ネタといふので読んだ。今回もフーシェの容貌に関する記述が出てくるたびに倉多江美の絵で思ひ出してしまつた。だつて書いてあるとほりなんだもの。
読了日:9月2日 著者:シュテファン・ツワイク
真田太平記(五)秀頼誕生真田太平記(五)秀頼誕生感想
副題に偽りはないが、秀吉も死ぬ。利家も死ぬ。以前読んだときは楽しかつたはずの草のものの活躍が、いま読むと「それはわかつたから話を先に進めやうよ」と思つてしまふのはなぜか。余裕がないのか。ないんだらうなあ。無念。
読了日:9月6日 著者:池波正太郎
Golden Apples of the SunGolden Apples of the Sun感想
「シン・ゴジラ」を見たら突然「霧笛」を読みたくなつて読み返してみた。昔は書いてあるとほりに読んだけれど、「いや、それ、単に思ひ過ごしなんぢやない?」と思ひながら読んでしまつた。怖い話は苦手なのでポーとから
読了日:9月17日 著者:RayBradbury
コワイの認知科学 (認知科学のススメ)コワイの認知科学 (認知科学のススメ)感想
怖いものを見たら大声で叫べばいいのだらうか? さうしたら「エクソシスト」も見られる? セロトニンが関係するといふことは、恐怖を感じやすい人はあまり幸せではない人なのだらうか? はてなマークでいつぱいだ。入門書としてはいいのかも。
読了日:9月21日 著者:川合伸幸
恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)感想
ホラーが楽しいと思つたことがないので、「人間はホラーを楽しめるもの」といふ前提につまづいたが、さうね、ジェットコースターとかは好きね、といふのでそのあたりは読み替へつつ読んだ。自分がホラーを楽しめないのは神経症のせゐなのかもしれない。できればホラーを楽しみたいんだけどなー。
読了日:9月26日 著者:戸田山和久

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