結局分不相応
先日、「学校に通つてゐた時分に、「就職するまで家庭用ヴィデオゲームはやらない」と決めて守つた、といふ話を書いた。
だからといつて、当時のヴィデオゲームのことをまつたく知らないわけぢやない。
なぜなら買つて遊んだりはしなかつたけれど、ゲームの情報を遮断したりはしなかつたからだ。
なんでそんなことを書いたかといふと、Twitter で「こどものころ親にファミリーコンピュータ等を禁じられてゐたからドラゴンクエストだとかスーパーマリオだとか同世代なら知つてゐるはずのことがまるでわからない」といふやうな内容のつぶやきを見かけたからだつた。
その人とやつがれとの違ひはなにかといふと、ファミリーコンピュータの類には触れないと決めたのが他人か自分かといふ点だ。
誰かから云はれて禁じられると、そこに「ほんとだつたらできたはずなのに」だとか「ほんとだつたら知つてゐてしかるべきなのに」といふ恨みのやうな感情が芽生える。
自分のせゐぢやないもんね。
親がいけないんだもんね。
さうも思ふ。
恨み、とはちよつと違ふな。
あのときああできてゐたら。あれが可能だつたら。
「たられば」ばかり考へてしまふやうになる。
考へても仕方がないのに。
それは、やはり、自分で決めたことぢやないから、だらう。よそから押しつけられたことだからだ。
やつがれの場合はこれが歌舞伎になる。
九歳のときに、見たいと思つたけれどつれて行つてはもらへなかつた。
親が歌舞伎に興味がないし行つたこともないし、もつといへば家が貧乏だつたからだ。
もし、あのときつれて行つてもらつてゐたらどうだつたらう。
時々考へる。
いま思ふのは、歌舞伎を見るやうになつたのは間違ひだつたのではないか、といふことだ。
親がつれていかなかつた、といふことは、そこになにか理由がある。
さう思ふやうになつた。
有り体に云ふと、「分不相応だらう」といふことだ。
歌舞伎にだつて安い席はあるし、歌舞伎座など幕見席のある劇場もある。
お大尽でなくても見ることは可能だ。
分不相応といふのは、金銭的な話だけではない。
自分は、ちやんと見てゐる芝居を享受できてゐるのだらうか。
ゐないんぢやあるまいか。
いま自分が座つてゐる席を自分が買はなかつた場合、もつと芝居を楽しめる人が座れたのぢやないだらうか。
さう考へることがある。
歌舞伎は、そんなにむづかしく考へて見るものではないといふ話もある。
もともとは「大衆芸能」だし、とか。
でもこの場合の「大衆」つて、庶民ぢやない。ある程度財産があつて趣味や風流に時間をさくことのできる富裕層の教養人だからね。
だからとくに丸本物の詞章にはやたらと故事来歴だとかむつかしい四字熟語のやうなものが出てくる。
客にわからなければ、そんなことばを入れるはずがない。
客に通じるから、使つてゐるわけだ。
で、翻つて自分はそんな教養人か、と考へる。
たとへば「源氏店」で、藤八が床の間を見て「抱一ですな」といふ。
このとき抱一のどの絵だかわかるか。
わかんないんだよね。
たまーにわかることもある。
でも七月もわからなかつた。
遠い席から見たから、といふ云ひ訳もあるけれど、オペラグラスでしげしげと見てもわからなかつた。
一月の浅草は多分「寒牡丹」だつたと思ふんだけど。
抱一の例は単なる例で、一事が万事さうなのだ。
先日、橋本治が「以前の劇評には「ある役者はこの役でこんなしぐさをしてゐたけれど、それは役の性根に合はない」といふやうなことが書いてあつた」といふけれど、そんなのひとつもわからないしね。
しかも見たはしから忘れるしね。
さう考へると、九歳のあの日、もし芝居見物につれて行つてもらへてゐたとしても、なにも変はつたことはないのではないか。
ちつとも身にはならず、無駄な時間を過ごしただけといふことになつたのではあるまいか。
つまりはつれて行かなかつた親は正しかつたのぢやないか。
さう思ふのである。
そしてさうしてあきらめるのは、「たられば」ばかり考へるよりずつといいことなのだ。
さう思ふことにしたい。
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