「自分、不器用ですから」だと?
「自分、不器用ですから」といふのはかつて高倉健がCMで云つてゐたことばである。
このことばに大変に怒つた友人がゐた、といふ話は以前ここにも書いたやうに思ふ。
「不器用であるつてことはね、かなしいことなんだよ!」
その友人は、まつたくもつて許し難いといつた調子で叫ぶやうにさう云つた。
不器用であることのかなしみは、どうにも気持ちのやり場のないやるせなさに満ちてゐる。
ほんとに、どうしやうもないのだ。
だつて器用になんてなりやうがないんだもの。
それを、言ひ訳のやうに「自分、不器用ですから」とか云ふ人間のゐることが許せないとしても、なんの不思議もない。
まあでも、任侠ものの一形態ではあるよね、「自分、不器用ですから」つていふのは。それは、また別の話。
あれは、高倉健だから許されるのであつて、余人は云つてはいけないことだ。
さう思つてゐる。
ここでいふ「不器用」といふのは、人づきあひがうまくないとか世渡りが下手とかいふ意味なのだらう。
多分、友人もそのことを云つてゐたのだと思ふ。
一方で、「不器用」といふのは手先のことにも用ゐることばだ。
器用な人は、料理や裁縫その他家事一般、なにごとも丁寧かつうつくしくすみやかに為す。当然字もきれいだし、佇まひもすつきりしてゐることだらう。云ふことなし。
不器用な人は、包丁など手にした日には周囲の人間をハラハラさせ、縫ひ針で指をつくから布地に血がたれてしまひ、いはゆる「ミミズののたくつたやうな」醜い字をさらし、身につけるものもなんとなくをかしい。
手先のことは、練習すればある程度はまともにはなる。
その証拠にやつがれはあみものやタティングレースは一応できる。
しかし、「できる」といへるやうになるまでにどれだけ時間を費やしたことか。
考へると気が遠くなる。
器用な人はそんなことはないはずだ。
編み棒を手にすれば、ちよつと試してみただけですいすいと整つた編み地を生み出す。
タティングシャトルも同様だらう。ちよつとやつてみて、即こつを飲み込む。
器用な人といふのはさういふものだ。
おそらく。
器用な人がほんのわづかの時間で飲み込むことを、不器用な人間は長い時間をかけてやつととつかかりにさしかかることができるか否かといふ感じでなかなか飲み込むことができない。
手先が不器用に生まれた人間は、どんなにがんばつても器用にはなれない。
以前よりましになるのが関の山だ。
そして、応用がきかない。
応用がきく人のことを「不器用な人」とは云はない。
自分が器用になることはこの先一生ない。
おそらく、この先もあみものやタティングレースはつづけることと思ふ。
でも、ある程度のレヴェルのものしか作れない。
おなじものを器用な人が作つたら、すばらしい出来映えになるのだらう。
やつがれが作つても、「ああ、作つたのね」くらゐのものしかできない。
それはもう、仕方のないことなのだ。
さう思ふと、「自分、不器用ですから」といふのは如何にも不用意な発言に思はれてならない。
それが言ひ訳になるのなら、やつがれだつてさう云ふよ。
ならないんだよね。
そんなのは言ひ訳にならない。
なぜ自分は不器用にこそは生まれたか。
嘆くしかない。
図画・工作や美術、家庭科などといふ教科の授業を受けてゐたころには、とにかく人の倍以上の時間をかける。かけてもムダだつたりする。
なんのためにこんなことをやつてゐるのか。
授業だから仕方がないんだけど、でも、できる範囲の出来でかまはないぢやあないか。
家事にしても、器用な人だつたらこんな苦労はするまいに、とよく思ふ。
なぜ自分はアイロンひとつまともにかけることができないのだらう。
どうして手際が悪いのか。
考へてやらないから?
それもあるかもしれない。
でも、やつぱり、手が指が思ふやうに動かないから、といふのが一番の理由だ。
My fingers are all thumbs.
そのとほりだよ、といつも思ふ。
多分、大半の神経が手首のあたりで切れてゐるんだらう。
ついでにいふと、ほんたうに不器用な人間は不器用なことを隠したがる。
さういふものだ。
ゆゑに「自分、不器用ですから」なんぞと云へる人間が不器用なわけがない。
そんなことはあらためて書かなくてもみんな知つてゐるとは思ふけどさ。
高倉健が不器用なわけがないもんね。
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