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Friday, 30 September 2016

好きなものごとを書く

好きなことを書くと気分がよくなる。
つひ最近、そのことに気がついた。

考へてみれば去年劇団☆新感線の「五右衛門VS轟天」について覚えてゐることをありつたけノートに書き出してゐたときの昂揚感たるや。
千穐楽を迎へて「五右衛門VS轟天」ロスに陥るかと思ひきや、ずつとハイな状態がつづいてゐた。
さみしさは、書き終はつたときにやつてきた。
もう、書くことがない。
書いたことを見ながら思ひ出したことは書けるけれど、そんなのはたいした量ぢやない。
量も必要なんだな、気分をあげるには。

そんなわけで、ここのところこの blog にもできるだけ意識して好きなことについて書いてきた。
そのつもりだ。
「ウルトラ仲蔵」の話なんかは、もう書かずにゐられない感じだつたし、「じーんず屋ようこたん」もさう。

でも、ほんたうに好きなものについては、どうにも書けない。
直接書かうとしてうまく書けないから、どうしても搦手から書くことになる。
さうすると、なにがなんだかわからなくなつちやふんだよねー。

先日、國學院大學で川本喜八郎の「死者の書」を見てきた。
以前も書いた大伴家持のセリフに「この世を動かすのはあきらめない人間なのかも知れない」といふのがある。
世の中を動かしてゐるのは、好きを好きと正直に云へる人なのかも知れない。
「なのも知れない」ぢやなくて、さうなんだらう。

この世を動かせない、この世を変はられないのに、なにを書くのか。
思ひきつて、書けないことを書いてみるか。

書けるかなぁ。

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Thursday, 29 September 2016

惰性からの脱出計画

日々惰性で生きてゐる。
NHKラジオの語学講座も、ほぼ惰性で聞いてゐる。
よくつづくものだと我ながら思はないでもないのだが、惰性だからつづいてゐるのだ。
ものごとを positive にとらへる人なら「習慣になつてゐる」といふのかもしれない。
残念ながらやつがれは世の中をそんなに positive にはとらへられない。
'Cause I was born to be blue.
そんなわけで、惰性だけでNHKラジオ語学講座をつづけてゐる。

惰性のなにがいけないかといふと、無意識に聞くことがあることだ。
聞き流してしまふのだ。
これだと聞いてゐる意味がない。
平日は毎日やつてゐることだから、ふと意識がとぎれることがある。
さういふときに重要な文法の話とかされると、全部すつとんでしまふ。
格変化とかね。動詞の活用とかされても、記憶に残らない。
意味がない。
意味はなくても毎年聞いてゐると、意識があるときもあるから、そのときは記憶に残る。
残るけど……忘れるよね、大抵。

なぜ忘れるのかといふと、使はないからだ。
使ふことがない。
使ふ必要がないのである。
普段生きてゐて、日本語以外の言語が必要な状況が発生しない。
そら覚えないよね。

それに、一生外国語を身につけることはできない、といふことに最近気がついてしまつた。
最近、といふところが念入りに情けないが、仕方がない。気づいただけよいことにしたい。

なぜ外国語を身につけることができないのか。
必要がないから、といふのがひとつ。
もうひとつは、日本語でだつて碌々他人と意志疎通がとれてゐないぢやあないか、といふことだ。

ことばをなんのために使ふのかといへば、そらやはり意志疎通のために使ふのだらう。
(一応)母国語である日本語を使つてさへ他人と意志の疎通をはかれない人間が、外国語を覚えたからといつて意志疎通ができるやうになるだらうか。
ならないね。
ならない。
なるとは思へない。

そんなわけで、NHKの語学講座などもうすつぱりやめてしまはうかとも思つたのだが。
惰性なのでなかなかやめられない。
サンクコストでもあるのかもしれない。
これまでつづけてきたのにいまさらやめるなんて、といふ思ひは、サンクコストになつてしまつてゐるから浮かぶのだらう。

そこで、来月からは聞くことは聞くけど、つまらないなと思つたり、これ以上覚えるのはムリだな、と思つたら聞くのをやめることにしやうと思つてゐる。
それにはしばらく聞き続ける必要がある。
講座が初歩の初歩の内容からはじまるからだね。
惰性で聞きつつも、どうやら四月や十月の開講直後はそれなりに真面目に聞いてゐることが多いのらしい。
実際につづけるかどうか決めるのは十一月になつてからかな。
二ヶ月後にどうなつてゐるのか。
ちよつと楽しみではある。

やつぱり惰性でつづけてゐるやうな気がするけどね。

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Wednesday, 28 September 2016

呟き過ぎです

ここ一週間ほど Twitter に呟く回数が異様に増えてゐる。
呟く回数が多いときといふのは、なにか云ひたいことがあるときだ。
云ひたいのだが云ひ出せない、といふときに関係ないことをつひつひ呟いてしまふのだ。
不経済である。
非効率的である。
非建設的だ。
わかつてはゐるのだが、やめられない。

もうひとつ、呟きが増えるときがある。
TVを見てゐるときだ。
「TVを見る」と書いたが、最近リアルタイムでTV番組を見ることはほとんどない。
録画したものをあとで見るばかりだ。
録画して見る番組といつて、先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」、「必殺仕事人V 風雲竜虎編」、「新・座頭市」、「ドラゴンボール超」、「びじゅチューン!」といつたところか。
リアルタイムで見てゐるならともかく、録画したのを自分のタイミングで見てゐるのだから、呟いても意味がない。
世界に向かつてその時点で自分しか見てゐない(だらう)ことについて発信しても、無意味だ。

Twitter といへば「リアルで使ってみたい日本語」といふタグがある。
思はず呟いてしまふのは、さういふことばがあるから、といふこともある。

いづれも、呟く価値はない。

TV番組については、Evernote にでも吐き出せばいいんだよな、とは思ふ。
呟く理由はといふと、あとで呟いた内容を検索できるやうになるからだ。
「あの日なにをしてゐただらう」と調べたくなつたとき、呟いた内容を見るとだいたいわかる。
なにも Twitter に呟くことで記録を残すことはない。
それこそ Evernote にでも残せばいい。
なぜさうしないのか、といふと、結局世界に向かつて発信したいからなんだな。
自己顕示欲といふアレだ。

おそらく、無人島にひとりでゐて、どうにかしてガラスの瓶と紙と筆記用具とを手に入れて、なにかを書いて大海に流す心なんだらうな、と思ふ。
もしかすると誰かが拾つてくれるかもしれない。
そして、返事が来るかもしれない。
でも Police の「孤独のメッセージ( Message in a Bottle )」にあるとほり、返事がやつてくることはない。
Twitter を開けば、そこには a hundred billion ものメッセージが流れ着いてきてゐる。
ひとりなのは自分だけぢやない。
さういふことだ。

もつとも、呟きの多いときといふのはほかの人とのやりとりがあるときでもあるので、なにもひとりごとばかり呟いてゐるわけぢやないんだけどね。
と、我と我が身に云ひ訳することにする。

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Tuesday, 27 September 2016

ゴール目前

タティングレースのネクタイは、今日結び終へられる予定だ。

Jan Stawasz の Tatting Treasures に掲載されてゐるネクタイは、あと六模様を残すばかりとなつた。
あとは整形するのみ、となる予定である。
予定は未定であつて決定ではない、といふ話もあるが、まあ、それでも明日には整形に入れるやうになるだらう。
明日即整形できるわけぢやないけどね。

ゴールが見えてくると俄然やる気の出てくるもので、がんがん進んでゐる。
昼休みのあいた時間といふかぎられた時間だからがんがん進んでるつもりであまり進んでなかつたりもする。
でも短い時間の積み重ねでもできることはある。
できないこともあるが、それはまた別の話。

次になにを作るかはあひかはらず決まつてゐない。
今年使つたシステム手帳のリフィルを製本するつもりでゐるので、その背表紙をタティングレースで飾らうか、とは先週書いた。
しかし、背表紙は一年が終はつてみないとどれくらゐの厚さになるかわからない。
それまではおあづけかな。どんな背表紙にするかくらゐは考へておきたいけれども。

次の案は栞だ。
すぐできて、実用性がある。
実用性がある、といつて、あまり使ふことはないけれどね。
涼しくなればあみものの季節だし、本を見ながら編むのだつたらそこに栞をはさんでおくといとふことはよくする。
写真のページと編み図のページと両方に栞をはさんだりとかね。
この秋冬は袖無しの羽織を編むつもりでゐて、とくに本や編み図を見る予定はない。
予定はないけれど、書店にならぶあみものの本を見てゐると、今回は久しぶりに買ひたいな、と思ふ本が何冊かある。
羽織を編むのに時間がかかるだらうけれど、本を買つて掲載されてゐる作品をなにか編んでみやうか知らん。
さうしたら栞も使ふか知らん。

ほんたうはタティングレースでもなにか大きいものを作りたいんだがねえ。
「The Twirly をつなぐプロジェクト」は頓挫したままになつてゐて、この先もつづけるかどうかあやしくなつてきた。
なにか全然違ふモチーフや糸でショールかスカーフのやうなものを作りたい。
さう思ひもする。
大きいものを作るつもりで買つてあるレース糸もあるしね。
明日からすることがなくなつてしまふ可能性が高いので、ちよつとあせつてゐるが、ここはひとつ落ち着くところかな。
栞など作りつつ、のんびり考へるのも手かもしれない。

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Monday, 26 September 2016

メビウスの輪を編む

パピーのアンパトスーリで編んでゐる cowl はあと少しといふところまできてゐる。

三玉あつて全部使ひきるつもりでゐたけれど、一玉で終はりにすることにした。
のこりの二玉でなにか違ふものを作らうと思つてゐる。
一玉で終はりにする所以は思つたよりネックウォーマが長くできたのと、編み始めにうつかりねぢつてしまつてメビウスの輪状態になつてしまひ、あまり長いと編みづらくなるからだ。
メビウスの輪状にしてしまふと、編みながら編み地を針の先に送るのがちよつとやつかいなんだよね。普通の状態よりもたつくのだ。
最初からメビウスの輪にするつもりなら、長くなると編みづらくなるのも覚悟するんだけどね。
うつかりだからね。
うつかりを修正せずにきたのは、メビウスの輪状態のネックウォーマが好きだからだけどさ。

メビウスの輪にする手法には大きくは二つある。
最初からメビウスの輪状態にして編む方法と、長く編んで最後にねぢつて両端をつなぐ方法だ。
どちらが楽かといふと、おそらく長く編んで最後にねぢる方だらうといふ気がする。
長さをはかりながら編めるし、編みながら編み地を送るときの手間がはぶける。
この方法の問題は、両端をつなぐのが手間だ、といふことだ。
メビウスの輪には裏表がない。
ないことはないが、裏も表も外に出てしまふ。
したがつて、つなぐときも裏表のできない方法を選ぶ必要がある。
単にメリヤス編みならメリヤスはぎで解決するのかな。
かのこ編みとか縄編みを入れた裏目表目がある編み地のやうな場合、目を見ながらはぎ方を変へる必要がある。
つなぎ目くらゐわかつてもいいよ、といふのなら一番やりやすい方法でつなげばいいんだけどね。

最初からメビウスの輪にして編む場合は、最初の編み目と最後の編み目をつなぐときにうまいことねぢる必要がある。
またはメビウスの輪の作り目をして編むか、普通に作り目をして作り目の下からも目を拾ふやうにするか、だ。
うまくねぢれればこれが一番かんたんかもしれない。
メビウスの輪の作り目は作り目から目を拾ふのに結構苦労する。しない方法もあるのかもしれないが、残念ながら知らない。

そんなにまでしてメビウスの輪状のネックウォーマを編む必要があるのか。
ないね。
ないけど編むんだね。
楽しいもの。
できあがつたものも普通の輪に編んだものとはちよつと違ふしね。
「躰に沿ふ」感じがするんだよね。

先週、突然気温が下がつてきたが、今週は上がる予報だ。
暑さ寒さも彼岸まで、といふことばはもう通用しないのらしい。
この秋冬は念願の羽織、それもひとまづは袖無しの羽織を編むつもりでゐる。
まだ着手には早いかなあ。
編めたら俳諧の宗匠みたやうな気分で羽織るつもりでゐる。
それには頭巾状の帽子も必要か知らん。
帽子なら多少は暑くても編めるかな。

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Friday, 23 September 2016

来年の手帳二転三転す

来年の手帳はシステム手帳に一本化するつもりでゐた。
今週、その考へをあらためた。
スケジュール帳はシステム手帳、だらだら長い文を書くのは綴じ手帳といふ、いまの二冊体制で行くことにした。

なぜ一本化をあきらめたのか。
有り体に云ふと、我が家には未使用の綴じ手帳がたくさんあるからだ。
Smythson の Panama で六冊、Moleskine のポケットサイズはちよつと数へるのが怖いくらゐある。といつて、まあ十数冊といつたところだとは思ふ。

Moleskine のポケットサイズ一冊をだいたい三ヶ月くらゐで使ひ終はるので、補充しなくても五年はいける寸法だ。
使ふだらう? かういふ状況ならさ。
好きで買つたんだもの。
なにを云つても、Panama と Moleskine とは使ひやすい。
使つてゐて一番書き込む手帳がこの二冊だ。
綴じ手帳を使はない手はない。
余分なことを書き散らしてほかのしなければならないことをしないといふ弊害はないわけぢやあないけれど。

それに、システム手帳は、長い文を書くのには向かない気もしてゐる。
一番問題なのは中央のリングだ。
右利きの人なら左側、左利きの人なら右側のページが書きづらい。
リングに手があたるからだ。
あたりにくくする工夫といふのはあつて、やつがれもそれを採用してはゐる。
書きづらい方にリフィルをできるだけ入れて、かさ上げするといふ方法だ。
これは確かに利く。
利くけれど、ものすごく書きやすくなるかといふとさうでもない。

リフィルをリングからはづして使ふとか、書きづらい方には書かないやうにするといふ手もある。
でも一々リングからはづすのつて、めんどくさいよね。
絶対つづかない気がする。
すくなくともやつがれは。
書きづらい方には書かない手法は、実は綴じ手帳を使ひはじめたときに採用してゐた。
書かずにあけておいて、見返したときに追記しやいやうにしてゐたのだ。
つまり、書くことが前提で空白にしてゐた。
だからこの手法も使ひづらい。

ぢやあシステム手帳が全然ダメかといふと、そんなことはない。
ちよつとしたメモを書くにはいいし、スケジュール管理にもいいんぢやないかな。
必要なリフィルだけ選んで入れればこれ一冊で済む。

「シン・ゴジラ」を見てゐると、官僚にはシステム手帳派が多いんぢやないかといふ気がする。
巨災対の森課長がさうだし、大臣にメモを渡すときの用紙がシステム手帳のリフィルのやうに見受けられるからだ。

といふことは、システム手帳つてやつぱりいいんぢやない?

それと、最近、自分なりの Bullet Journal の使ひ方ができるやうになつてきたな、と思へるやうになつてきたのも大きい。
Bullet Journal はもともとは綴じ手帳を使ふことを想定してゐる。
でも、システム手帳でもいいと思つてゐる。
以前も書いたやうに、綴じ手帳で Bullet Journal を実践する場合、ノートが中途半端な状況のときに月をまたぐことがある。
ページがあまるときは、個別INDEXなどのまとめページにするなどの使ひ道があるからいい。
でも、あと二三日で来月になるのに、もうノートがない、なんてなときはどうする?
付箋でも使ふか。
それともおなじサイズの紙を貼り足すか。
いづれにしてもめんどくさい。

そこいくと、システム手帳ならリフィルを追加するだけでいい。
ふり返りだけは一週間なり一ヶ月なり自分で決めた期間できつちりすれば、いいんぢやないかな。
いまのところ、予定の管理はスライド手帳、日々の細かいタスク管理と実績管理は Bullet Journal といふ感じで行つてゐる。
これが結構しつくりきてゐる。
そんなわけで、来年もこの方式でいくつもりだ。
いまのところは。

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Thursday, 22 September 2016

題名を訳す

「座頭市と用心棒」の英語題が「Zatoichi
And Yojimbo」ではなく「Zatoichi Meets Yojimbo」であることを知つた。

え、それつて「A boy meets a girl.」みたやうな?
と思うたが、「粗にして野だが腐ではない」ので、そこで思考は途切れた。
精々、握り飯を頬張りながら走つてきた座頭市が、曲がり角(のちよい手前からやや見下ろすアングルで曲がり角を中心に写す感じ)で用心棒とぶつかつて、「なんだこのヤロー」的な展開になるのだらう、といふのが関の山である。
その前に、座頭市なら曲がり角で人とぶつかつたりしないか。
あ、でも、市つつあん、この映画でなんかにぶつかつてなかつたつけか。
ま、いいか。

さういへば、「もののけ姫」は「Princess Mononoke」だつた気がする。
正しい。
間違つてないけど、なんだか笑ひを禁じ得ない。
なぜだらうか。
「Princess」といふことばと、もののけ姫の佇まひとが一致しないからかな。
なんか違ふよね、「Princess」つて。

といふのは、しかし、やつがれの感想であつて、やはり「もののけ姫」は「Princess Mononoke」でいいのぢやあるまいか。

「蜘蛛巣城」は「Throne of Blood」ださうな。
「血の玉座」か。
あるいは「血まみれの玉座」かな。
それだとホラーつぽくなり過ぎるか知らん。
「蜘蛛巣城」つて、やつがれ的にはホラーなんだよなぁ。
なにしろ山田五十鈴が怖すぎる。
夢に出るレヴェル。
そんなわけで見返す機会があれば是非見たいと思ひつつも腰が引けてしまふのだつた。
いま見たらそんなに怖くないかなぁ。

ところで、「An Officer And A Gentleman」が「愛と青春の旅立ち」になつたり、「Vicky Cristina Barcelona」が「それでも恋するバルセロナ」になるやうなことは、ないのだらうか。
つまり、邦画が英米などに進出する場合。

舶来の映画の題が妙ちきりんになる例はいくらでもあるけれど。
最近も、舶来の女の人向け映画が本邦で上映されるときのあれやこれやが取り沙汰されてゐて、中には邦題がヘンなものになつてしまふ、といふのがあつたやうに思ふ。

邦画に関する知識がほとんどないので、わかんないんだよなー、そこんとこ。

能や狂言、文楽に歌舞伎の作品はどうなんだらう。
ちやんと英訳されるのか知らん。
劇場に行つて英語の説明を見ればわかるか。

個人的には「愛と青春の旅立ち」的な邦題にそれほど文句はない。
おもしろいからね。
話のタネになる。

問題は、「それつてほんとに映画の本質にあつてるの?」といふところだらう。
「蜘蛛巣城」は直訳したら「Spider Web Castle」とかになるのかもしれないが、「Throne of Blood」の方がいい。
「座頭市と用心棒」は、座頭市と用心棒とが出会ふことに違ひはない。出会つて、なんか起こるわけぢやあない(よね?)ので、ちよつと強引な気もするけど、でも「And」でもないんだよなぁ。

とか、考へて楽しい邦題がつくやうになるといいなぁ。

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Wednesday, 21 September 2016

ゆらぐ世界の「ウルトラ仲蔵」

九月十八日(日)、国立演芸場の第69回扇辰・喬太郎の会に行つてきた。
この回は、互ひにネタ卸しを一席づつ、それとは別にもう一席づつ披露することになつてゐる。

別にもう一席の方で、柳家喬太郎がかけたのが「ウルトラ仲蔵」だつた。

といふわけで、この先「ウルトラ仲蔵」の核心に触れる部分があるのでネタバレを厭ふ向きにはこれでおさらばでござんす。

「ウルトラ仲蔵」は、古典の「中村仲蔵」をウルトラマンの世界にうつした噺、とでもいはうか。
「中村仲蔵」では梨園の出身ではない中村仲蔵が役者として大成し、いまも(若干)残る歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」五段目の斧定九郎の型を生み出して名声を得るといふ噺だ。
「ウルトラ仲蔵」は、歌舞伎役者ではなくてウルトラマンのひとり・ウルトラ仲蔵がウルトラマンとしての地位を確立するまでの噺である。

「ウルトラ仲蔵」の世界は、基本的にはウルトラマンの世界だ。
数多存在するウルトラマンのなかのひとりであるウルトラ仲蔵は、いつかは地球で怪獣と戦ひたいと願ひつつ、無人の惑星の防衛に励んでゐる。
そこそこ認められてはゐるのだが、いまひとついい星にはありつけない。
そんなある日、アール星でバルタン星人を退治するといふ任務を帯びる。
アール星なんて人も住んぢやゐないし、バルタン星人なんてスペシウム光線でかたづく相手とわかつてゐる。
見せ場がない。
でも、もしかしたら、ここで工夫をすることができたら、自分も認められるんぢやあるまいか。
といふわけで、ウルトラ仲蔵は妙見さまに願掛けに通ふのであつた。

ウルトラマンが妙見さまに願掛けに通ふ。
なんだよ、それ。
ここから本仕掛けがはじまる。

妙見さまの満願の日、なにも工夫の思ひつかないウルトラ仲蔵はそば屋に行く。
外は雨。
そこに、黒い着流しを尻つ端折りにして白献上の帯を締め、朱鞘の大小をさした浪人態のケムール人があらはれる。
まんま「中村仲蔵」なわけだが、ケムール人といふ人選(怪獣選)がいい。
ケムール人が触覚についた雨滴を払ふと、仲蔵のところに水滴が飛んでくる。
仲蔵は顔を上げてケムール人を見る。
やうすがいい。
黒の着流しと書いたが、すでに着古して羊羹色になつてゐて、白い紋も薄茶けてゐる。
これだ。
これだよ、と仲蔵は思ふ。
妙見さまの御利益だ。

といふ、この場面が、とにかくたまらならかつた。
「中村仲蔵」かと思ふと「ウルトラ仲蔵」なんだよ。
妙見さまに願を掛けて、なにも工夫が思ひつかぬままにそば屋に行くのは中村仲蔵だ。
外は雨で、そこに黒い着流しを尻つ端折りにして白献上の帯(噺によつては茶献上を芝居の時には白献上にする)に朱鞘の大小をさした浪人が入つてくるのも「中村仲蔵」。
その浪人が髪についた雨を払ふのもさう。
そんなわけで、「いま自分は「中村仲蔵」の世界にゐるんだな」といふ気になつたかと思ふと、ふつとウルトラマンの世界に引き戻される。
たとへばウルトラ仲蔵はそばを一本一本たぐる。「でも口は開かない」とかね。
ケムール人が酒を頼んで触覚から摂取するとか。
「中村仲蔵」の世界にゐたはずなのに、気がつくとウルトラマンの世界にゐる。

この、足下の一瞬ゆらぐ感覚。
ゆるぎない大地をしつかりと踏みしめてゐたはずが、いきなり不安定になる。
この感覚。
これだよこれ。
「自分が確かだと信じてゐたものが実はさうではないかもしれない」といふ、刹那のあひだ不安に揺れるスリルとサスペンス。

日常に潜む怪奇/異世界/異次元を垣間見る感じといふのは、なんだかウルトラだ。
ウルトラマンシリーズにもあつたけれど、「ウルトラQ」の方がそれつぽいかな。「怪奇大作戦」もかな。

喬太郎の新作落語「孫帰る」には百八十度回転させられるといはうか、頭と足との天地をひつくり返されるやうな感じがある。
「ウルトラ仲蔵」は、それよりももつと subtle な、「あれ? いまの、なに?」といふ感じかな。
かういふのに弱いんだよなぁ。

鈴本演芸場で催された「ウルトラ喬タロウ」には行けなかつたのだが。
その後「あの頃のエース」と「ウルトラ仲蔵」とを聞くことができた。
今年はウルトラマン五十周年で、来年はウルトラセブン五十周年だ。
まだ聞けるかな。
聞けるといいな。

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Tuesday, 20 September 2016

背表紙、いいかも

タティングレースのネクタイは、今月中には作るところまでは終はるのではないかと思つてゐる。
整形をいつするか、といふのが問題かな。

Jan Stawasz の Tatting Treasures に掲載されてゐるネクタイを作つてゐる。
昼休みのあいた時間にだけ作つてゐて、糸接ぎがなければ一日八模様くらゐできる。
残りが三十模様弱で、一度は糸接ぎをするやうだから、今月中にはできあがるんぢやあるまいか。
楽観的過ぎるかな。

できあがつたところで使ふあてもないし、次に作るものも全然考へてゐない。
いや、考へてはゐる。
決まつてゐないだけで。

来年になつたら、今年使つたシステム手帳のリフィルを製本するつもりでゐる。
Nina Libin が背表紙やブックカヴァーを作つてたよなあ、などと不意に思ひだす。
まさか自分がタティングレースで本の背表紙だのブックカヴァーだのを作ることはあるまいと思つてゐたが。
それ、ちよつといいんぢやないかな。
特に、背表紙は作つてみたい。
製本するのはまだ先のことだし、製本してみないと背表紙の厚みがわからないからいまから作り始めるわけにはいかないが、Nina Libin は厚みの違ひに対応できる背表紙も用意してゐたはずだ。

さう考へると、システム手帳を使ふのもちよつと楽しくなつてくるな。

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Monday, 19 September 2016

思つてゐたより糸が長い

Cowl in Progress

パピーのアンパトスーリで編んでゐるネックウォーマはちよこちよこ進んでゐる。
糸が細いのでなかなか大きくならないのだつた。
手元には三玉あつて全部使ひ切るつもりでゐたが、このままだと一玉で十分な大きさになりさうな気がする。
残りの二玉で三角ショールでも編まうかなあなどと思つてゐる。

フード付のマフラーといふのがある。
かつて一度編んだことがある。
編むのはいいが、使つてゐると案外フード部分が重たい。
フードを使はないとき、邪魔になるのだ。
でもこれくらゐ軽い糸なら大丈夫かな。

などと書きつつ、別段フード付のマフラーを編むつもりはない。
普通に長いマフラーを編んで真知子巻きにするのが一番なんぢやないかなあ。
真知子巻きはよくできてるよね。
真知子巻きにすれば帽子は不要だ。チト長いマフラーがあればいい。

Cowl もいい。ネックウォーマといふかね。
頭からかぶつて肩まで覆ふやうなネックウォーマがひとつあれば、頭から首、肩をあたためることができる。
さういふのを編まうとして、まあ、実際何度か編んではみた。
実際に寒くなると使つてゐるものもある。
でもなかなか頭からかぶることはない。
有り体に云ふと、そんなことしてる人がほかにゐないからだね。

それを云ふと真知子巻きもさうだ。
最近あまり見ない。
そんなに寒くないといふことなのかな。
真知子巻き自体は、北海道でのロケで寒くて岸恵子が巻いてゐたのがそのまま映画に使はれたといふ話だ。

いま編んでゐる cowl は頭からかぶれるくらゐ長いものにするつもりだつた。
とりあへず一玉使ひきつてみて、それからどうするか決めるかなあ。
ねぢれてメビウスの輪状になつてしまつたので、あんまり長いのは編みづらいかなあ、とも思つてゐる。
それに、あまりこのネックウォーマにかかりきりになつてゐると、今年こそ編まうと思つてゐた羽織が編めないしね。

すこし涼しくなつてきたやうだし、しばらくはこの cowl を編みつつ、この先のことを考へてみやうかな。

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Friday, 16 September 2016

手帳の組み合はせを考へる

すこしづつ、システム手帳の使ひ方が変はりつつある。

システム手帳のバインダは HIRATAINDER のバイブルサイズを使つてゐる。
これに、月間予定表とスライド手帳、あとメモ用紙として LIFE NOBLE PAD の方眼罫をはさんでゐる。
予備としてメモ帳状態のダ・ヴィンチの方眼罫のリフィルを持ち歩いてゐる。
以前ちらつと書いた「公の手帳」がシステム手帳なら、「私の手帳」としてMD NOTEBOOK のコットン〈文庫〉を使用してゐる。
あとは文庫本サイズの三年手帳を日記として使つてゐる。

この三冊がいまのところ使用してゐる手帳だ。
三年手帳は今年が一年目なので来年も使ふ。
MD NOTEBOOKはこれを使ひ終へたら多分しばらくは使はない予定。「私の手帳」もシステム手帳に併合していきたいと思つてゐる。

現在、システム手帳は予実管理として使用してゐる。
原型は Bullet Journal だ。
月間予定表にその月の予定、スライド手帳で予定管理、メモ用紙に日々のタスクを書いてゐる。
メモのやうなものは、当初はMD NOTEBOOKに書いてゐた。
これが最近ちよつと変はつてきた。

長々と文を書き流すときはMD NOTEBOOKを使つてゐてこれは変はらないのだが、ちよつと思ひついた一文や書き留めておきたいやうなことはシステム手帳に書くやうになつてきた。
たぶん、Bullet Journal の最初の説明と似たやうな形になつてきてゐる。

MD NOTEBOOK を使ひ終へたら、長々とした文を書くのもシステム手帳にするつもりだ。
そのためにリフィルを選ばないとなあ、と思つてゐる。
LIFE のリフィルはいいのだけれど、ちよつと紙が厚いし、愛用してゐるペンとの相性がいまひとつなのだつた。
いま使つてゐる集文館の三年手帳の紙のリフィルがあるといいんだけどなあ。探せばあるか知らん。

月間予定表は、Bullet Journal では縦に日付を並べて書くやうになつてゐる。
これよりもカレンダー形式の方が見やすいのではないかと思つて専用のリフィルを購入した。
紙が厚いのでプロテクター代はりとして重宝してゐるが、なんとなく使ひづらい。
ちやんと日曜始まりを選んだんだけどな。
年間カレンダーもついてゐて便利なのだが、これは縦に日付を並べたものに変更するつもりでゐる。
わざわざ専用リフィルを買ふ必要もないかな、とも思つてゐる。
カレンダー形式のなにがダメなのかといふと、書き込めるスペースが狭いんだな。
そんなのわかつてゐて使つてゐるはずなのだが、横にべたつと書ける方が視認性がいい。
あとは何時に何、といふのがわかりやすいといいのだけれど、そちらはスライド手帳で管理すればいいかな、とも思つてゐる。

スライド手帳は週間予定表で、もともとのBullet Journal にはないものだ。
最初は、スライド手帳とメモ帳だけで使つてゐた。
Bullet Joural では、月に一度タスクの棚卸しをする。
これが結構大変だつた。
週に一度ならもうちよつと楽かな。
さう思つてスライド手帳の方眼罫の部分にやりたいことややることを書くやうにした。
週に一度の方が楽だし、頻繁に見直すことで「やつぱりこれはやらない」といふ見極めもついたりしていい。
でも、やつぱり月間の予定も見渡したいんだよね。

あと、タスクとスケジュールとがもうちよつとうまく機能し合ふといいなあ、と思つてゐる。
いまはあまり機能しあつてないんだよね、残念ながら。

そんな感じで、来年は、といふか、MD NOTEBOOK を使ひきつたらシステム手帳一冊で(三年日記以外は)すべてまかなへるやうになつたらいいな、と思つてゐる。

システム手帳の問題点には、外出先でぱつとメモを取りたいときに取りづらい、芝居の幕間などに感想を書きづらいといふこともある。
ここもうまいことクリアできたらなあと思つてゐる。

年が明けたら「システム手帳STYLE」に書いてあつたやうに一年分を製本するつもりだ。
製本は楽隊時代に譜面係として鍛えてゐる。もうとつくに腕は落ちてゐるだらうが、忘れてはゐないはずだ。
これもちよつと楽しみではある。

そのためにもメモ用紙に向いたリフィルを探し出す必要がある。
なんかいいリフィルはないかのう。

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Thursday, 15 September 2016

「シン・ゴジラ」とか「霧笛」とか

「太陽の黄金の林檎」を読み返してゐる。

ハヤカワNV文庫をもらつたのは、中学生のとき、ある年の誕生日だつたと思ふ。
友人がくれた。
この友人は萩尾望都が大好きだつた。それまで萩尾望都をほとんど読んだことのなかつたやつがれは、この友人から「スター・レッド」や「それこそ「ウは宇宙のウ」とかを教はつたのだつた。

「太陽の黄金の林檎」はこのとき読んで、確か高校生になつてから萩尾望都の「霧笛」を読んだのでまた読み返して、それつきりだと記憶してゐる。

今回読みなほすきつかけのひとつは「シン・ゴジラ」だ。
海からあらはれるゴジラと、「霧笛」の巨大生命体とがなんとなくリンクしたのだつた。
もうひとつの理由は、まあ、わかる人にはわかると思ふ。

読み返して、「霧笛」は、ほんたうにこの内容でいいのだらうか、と思つた。
この内容でいいのだらうか、といふのは、登場人物による巨大生命体の行動理由や心理の解釈をそのまま受け取つていいのか、といふことだ。

以前読んだときは、そのまま受け取つて、そして、なんかもうたまらない気持ちになつたものだつた。
でも、今回読み返してみて、「いや、それ、勝手に想像しただけでせう」といふ気持ちになつたのだつた。
「霧笛」の巨大生命体は、ほんたうに同族を求めてやつてきてゐたのだらうか。
なにか違ふんぢやないか。
ほかに理由があるのぢやないか。
人間の考への及ばないやうな、そんなわけのわからない衝動が、この巨大生命体にはあつたのではあるまいか。
そんな気がしたのである。

そんな気がしたのも「シン・ゴジラ」を見たからかもしれない。
「シン・ゴジラ」のゴジラがなぜああいふ行動を取つたのかつて、全然わからないもんね。
手がかりを見つけて「ああぢやないか」「かうぢやないか」といふことはできても、ぢやあほんたうにさうなのかどうかはわからない。
それは「霧笛」の巨大生命体も同様だ。

さう思ふと、「人間とはなんと感傷的な生き物だらうか」と天を仰ぎたくなつたりもする。
また、「人間とは、なににでも理由をつけたくなる生き物なのだなあ」、とかね。

「霧笛」は、登場人物による巨大生命体の行動理由をそのまま受け取つて読むのが正しいのだらう、とは思ふ。
思ふけど、一度芽生えた疑問はなかなか頭から去らないのだつた。

「太陽の黄金の林檎」自体はまだ読んでゐる途中だ。
頭の中に萩尾望都の絵が浮かぶこともあり、ときに「トワイライト・ゾーン(あるいは「ミステリー・ゾーン」)」の映像が浮かぶこともある。
ロッド・サーリングが不気味に登場して、ひとくさり蘊蓄を傾けて去つたりね。
いづれにしても、白黒めいた濃淡だけの世界だ。

はじめて読んだときからなんとなくノスタルジーを感じる作品が多かつたけれど、いま読むとノスタルジーを感じずにはゐられない。
この調子でほかのブラッドベリ作品を読み返すか、それとも当時読んだ別のSF作家の本を手にしてみるか。

さう考へると、ちよつと楽しい。

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Wednesday, 14 September 2016

「自分、不器用ですから」だと?

「自分、不器用ですから」といふのはかつて高倉健がCMで云つてゐたことばである。

このことばに大変に怒つた友人がゐた、といふ話は以前ここにも書いたやうに思ふ。

「不器用であるつてことはね、かなしいことなんだよ!」

その友人は、まつたくもつて許し難いといつた調子で叫ぶやうにさう云つた。

不器用であることのかなしみは、どうにも気持ちのやり場のないやるせなさに満ちてゐる。
ほんとに、どうしやうもないのだ。
だつて器用になんてなりやうがないんだもの。
それを、言ひ訳のやうに「自分、不器用ですから」とか云ふ人間のゐることが許せないとしても、なんの不思議もない。
まあでも、任侠ものの一形態ではあるよね、「自分、不器用ですから」つていふのは。それは、また別の話。

あれは、高倉健だから許されるのであつて、余人は云つてはいけないことだ。
さう思つてゐる。

ここでいふ「不器用」といふのは、人づきあひがうまくないとか世渡りが下手とかいふ意味なのだらう。
多分、友人もそのことを云つてゐたのだと思ふ。

一方で、「不器用」といふのは手先のことにも用ゐることばだ。
器用な人は、料理や裁縫その他家事一般、なにごとも丁寧かつうつくしくすみやかに為す。当然字もきれいだし、佇まひもすつきりしてゐることだらう。云ふことなし。
不器用な人は、包丁など手にした日には周囲の人間をハラハラさせ、縫ひ針で指をつくから布地に血がたれてしまひ、いはゆる「ミミズののたくつたやうな」醜い字をさらし、身につけるものもなんとなくをかしい。

手先のことは、練習すればある程度はまともにはなる。
その証拠にやつがれはあみものやタティングレースは一応できる。
しかし、「できる」といへるやうになるまでにどれだけ時間を費やしたことか。
考へると気が遠くなる。

器用な人はそんなことはないはずだ。
編み棒を手にすれば、ちよつと試してみただけですいすいと整つた編み地を生み出す。
タティングシャトルも同様だらう。ちよつとやつてみて、即こつを飲み込む。
器用な人といふのはさういふものだ。
おそらく。

器用な人がほんのわづかの時間で飲み込むことを、不器用な人間は長い時間をかけてやつととつかかりにさしかかることができるか否かといふ感じでなかなか飲み込むことができない。
手先が不器用に生まれた人間は、どんなにがんばつても器用にはなれない。
以前よりましになるのが関の山だ。
そして、応用がきかない。
応用がきく人のことを「不器用な人」とは云はない。

自分が器用になることはこの先一生ない。
おそらく、この先もあみものやタティングレースはつづけることと思ふ。
でも、ある程度のレヴェルのものしか作れない。
おなじものを器用な人が作つたら、すばらしい出来映えになるのだらう。
やつがれが作つても、「ああ、作つたのね」くらゐのものしかできない。
それはもう、仕方のないことなのだ。

さう思ふと、「自分、不器用ですから」といふのは如何にも不用意な発言に思はれてならない。
それが言ひ訳になるのなら、やつがれだつてさう云ふよ。
ならないんだよね。
そんなのは言ひ訳にならない。
なぜ自分は不器用にこそは生まれたか。
嘆くしかない。
図画・工作や美術、家庭科などといふ教科の授業を受けてゐたころには、とにかく人の倍以上の時間をかける。かけてもムダだつたりする。
なんのためにこんなことをやつてゐるのか。
授業だから仕方がないんだけど、でも、できる範囲の出来でかまはないぢやあないか。

家事にしても、器用な人だつたらこんな苦労はするまいに、とよく思ふ。
なぜ自分はアイロンひとつまともにかけることができないのだらう。
どうして手際が悪いのか。
考へてやらないから?
それもあるかもしれない。
でも、やつぱり、手が指が思ふやうに動かないから、といふのが一番の理由だ。

My fingers are all thumbs.
そのとほりだよ、といつも思ふ。
多分、大半の神経が手首のあたりで切れてゐるんだらう。

ついでにいふと、ほんたうに不器用な人間は不器用なことを隠したがる。
さういふものだ。
ゆゑに「自分、不器用ですから」なんぞと云へる人間が不器用なわけがない。
そんなことはあらためて書かなくてもみんな知つてゐるとは思ふけどさ。
高倉健が不器用なわけがないもんね。

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Tuesday, 13 September 2016

進んでゐるはずなのにさうは思へない時

タティングレースのネクタイは進んではゐる。
進んではゐるが、「進んでゐるなあ」といふ実感に乏しい。
さういふ状況だ。

Jan Stawasz の Tatting Treasures に掲載されてゐるネクタイを作つてゐる。
このネクタイは両端にひし形のモチーフがあつて、そのモチーフをエジングで縁取りつつモチーフをつなぐ部分も作る、といつた形をしてゐる。
現在は両端のモチーフはつなぎ終へて、モチーフとモチーフとのあひだのエジング部分の復路に入つたところだ。

平日は昼に毎日作つてゐるので、まつたく進んでゐないといふことはあり得ない。
だが進んだといふ感覚があまりない。
糸を接いだりするとその分手間がかかるから、といふこともある。
また、糸接ぎがない場合でも一日八模様くらゐしか進まないから、といふこともある。
往路は長さを見ながらだつたからちよつと時間がかかつたけど、復路は往路分につないでいけばいいだけなので、ちよつとは進みが早いかな、といつたところだ。
気分的な問題だけれども。

あみものでもさうだけれども、かういふ「進んでゐるんだけれども全然さうは見えない」といふ状況をどう乗り切るか。
ここが案外大事な気がする。

あみものだと、セーターやカーディガンの袖を編んでゐるときにありがちだ。
袖は、案外編みでのあるパーツである。
肩から袖口までつて結構長さがあるし、増減目はあるし(ない場合もあるけれど)、思つてゐたよりも時間がかかることが多い。
しかも、左右両方編む必要がある。

これを乗り切るには、左右同時に編む、といふのが好手だ。
長めの輪針を使へばそんなにむづかしいことではない。
左右同時に編むと、増減目もおなじ段でできるのがいい。
これは、前開きのカーディガンやヴェストの前身ごろにも使へる手だ。
左右の前身ごろは同時に編むやうにしてゐる。その方が増減目の間違ひが少ないからだ。

でも今回の場合はかういふ手は使へないんだよなあ。
ひたすらひたすらリングを作つてはつなげ、ブリッジを作つていくしかない。

進まない状況がつらいか、と訊かれると、実はそれほどでもないんだけどね。
問題は、ここにかうして書いてゐても載せるに足るやうな写真が撮れない、といふことだ。
先週となにが違ふの、といふやうな写真にしかならないからだ。
先週分と並べて掲載するといいのかもしれない。
と、これはいま思ひついた。
でも、先週分の写真が今週分と比べてわかりやすいやうなものかといはれると、さうぢやないんだよな。
写真も考へて撮らねばならないといふことか。
やれやれ。

そんなわけで、タティングレースのネクタイは楽しく作れてはゐる。
先週も書いたとほり、これができあがつたあと、なにを作るかはまつたく思ひつかないのだが。

極細毛糸が見つかつたから、ちいさいショールのやうなものでも作らうかなあ。

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Monday, 12 September 2016

いきあたりばつたりにネックウォーマ

Cowl in Progress

涼しくなると毛糸が戀しくなる。

といふわけで、昨日、突然そのあたりにあつた毛糸を取り出して編み始めたのがこの cowl である。

糸はパピーのアンパトスーリ。アルパカ八割羊毛二割の糸だ。合細、かな。いづれレースを編むやうな糸である。

この糸が三玉あつた。レースにしなかつた理由は、前回 Lacy Baktus を編んで整形し損ねたのでちよつと懲りたからだ。
あと、手触りのいい糸なのでメリヤス編み部分を多くしたかつた、といふのもある。
なんだかんだいつて、一番手触りのいいのはメリヤス編みだと思ふんだよね。

25gの糸が三玉しかないので、マフラーよりはネックウォーマかな、と思つて編み始めた。
針は六号。指定が二号とかだから、かなり太い針ではある。
表編み三目裏編み二目のゴム編みにしてみた。
表編みの方が多いのは、上にも書いた手触りの理由からだ。
ゴム編みなのでリヴァーシブルになるから、表編みの多い方少ない方どちらが内側に来てもいいやうになる。はず。

かぎ針で編みつける作り目で百二十目作つて編み始めた。
かぎ針で編みつける作り目にしたのは、ギリギリまで毛糸を使ひたいからだ。

途中まで編んで輪がねぢれてゐることに気がついた。
そのままメビウスの輪になるはずだからそれでいいかな、といふので放置してゐる。ゴム編みだから伸縮性もあるだらうし、そんなに心配してゐない。
輪がねぢれてしまふことつてほとんどないんだけどなあ。
ねぢらうとしてねぢれないことなら何度もあるんだけど。
輪がねぢれて編みなほしたといふ記憶は少なくともここ十年くらゐない。
耄碌したもんだな。

輪がねぢれるでちよつと思つたことに、くつ下はつま先から編み始めるのがいいのかもしれないな、といふことだ。
つま先から編み始めれば輪のねぢれを気にする必要がないからだ。
履き口から編み始めると、どうしてもねぢれを気にしないといけないからね。

この秋冬は、普通のマフラーを編むつもりてゐたんだがなあ。
それも、この色とはちよつと違ふけど紫色の糸で。
いま作つてゐるタティングレースのネクタイもこんな色だ。
かういふ色が好きなのか、と訊かれれば、まあそのとほりと答へるしかないのだが。
でもどちらかといふと、毛糸の色の選択肢が少ないんぢやないかといふ気がしてゐる。
ほかにも好きな色はいろいろあるんだけどな。
でもまあ、派手すぎず地味すぎず、ちよつと赤味もあつて無難な色、と自分には思へるのでつひ店頭で手にしてしまふのだらう。

とりあへず編むものがある、といふのは、なぜか心安まるものである。
いいことだ。
さう思ふことにしたい。

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Friday, 09 September 2016

Three's a Crowd

「ヘンな人が好きだよね」と云はれることがある。
この場合の「人」は、現実の人間ぢやなくて、映画・ドラマ・まんが・小説・芝居などの登場人物をさす。

多分、その起源は「大岡越前」の徳川吉宗だ。
山口崇の演じる八代将軍が好きだ。
山口崇が好きなわけではない。
その証拠に「タイムショック」はやつぱり田宮二郎がよかつたし、ほかのドラマで山口崇を見て「いい」と思ふことがなかつたからだ。

「大岡越前」の吉宗は、いつでもなんだか妙だ。
エキセントリックといふのは、ああいふ人を表現することばなのかもしれない。
いつもわりとテンションが高くて、どうにかするとバカ殿とほぼ変はらないやうな言動をとる。
大抵身分を偽つて登場するから、ときに町娘なんかにぎやふんとやられることもある。
いいなあ。
なんか、ヘンな人でさ。

もうひとつ、「大岡越前」の吉宗でいいところは、加藤剛演じる大岡忠相と竹脇無我演じる榊原伊織とのあひだに入ると、また一風変はつた雰囲気が生じたりすることだ。

世に「Two's company, three's a crowd.」といふことばがある。
「ふたりで気楽にゐるところに別の人が来るとちよつと微妙な空気になるよね」といつたところか。
でもこの「微妙な空気」がたまらないのだ。

さういえば「宇宙大作戦」といふか「スタートレック」でもDr.マッコイが好きなんだけど、これも同様で、カークとスポックとのあひだにボーンズが入ると、ちよつと雰囲気が変はつていいんだな。
まあ、Dr.マッコイはそんなに妙な人といふわけではないけれど。
そんなわけで最近の映画の「スタートレック」はいまひとつ物足りない、といふのはまた別の話。

三といふ数字の、不安定さうでゐて実は安定してゐるのがいいのかな、とも思ふ。
女の子同士だと、三人組といふのはなにかと問題を起こしがちだ。いつも二対一にわかれてしまつて、だれか一人が仲間外れになる。そんな様を何度も見てきた。
「カリキュラマシーン」といふ番組でも、三人組は二対一にわかれてしまつて、「♪三は嫌ひだよ~」と歌つてゐたやうに覚えてゐる。ことは女の子に限らないのかもしれない。
Two's compnay, three's a crowd とはよく云つたものだ。

ただ、三は鼎の足のやうにうまく機能することもある。三脚とかね。あれは二脚とか四脚ではグラついていけない。
そんなわけで、しばらくは「三」についてちよつと考へてみやうかな、とか思つてゐる。

それとはまつたく別に、やつぱり「ヘンな登場人物」はたまらなく好きなんだけれどもね。

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Thursday, 08 September 2016

結局分不相応

先日、「学校に通つてゐた時分に、「就職するまで家庭用ヴィデオゲームはやらない」と決めて守つた、といふ話を書いた。
だからといつて、当時のヴィデオゲームのことをまつたく知らないわけぢやない。
なぜなら買つて遊んだりはしなかつたけれど、ゲームの情報を遮断したりはしなかつたからだ。

なんでそんなことを書いたかといふと、Twitter で「こどものころ親にファミリーコンピュータ等を禁じられてゐたからドラゴンクエストだとかスーパーマリオだとか同世代なら知つてゐるはずのことがまるでわからない」といふやうな内容のつぶやきを見かけたからだつた。

その人とやつがれとの違ひはなにかといふと、ファミリーコンピュータの類には触れないと決めたのが他人か自分かといふ点だ。
誰かから云はれて禁じられると、そこに「ほんとだつたらできたはずなのに」だとか「ほんとだつたら知つてゐてしかるべきなのに」といふ恨みのやうな感情が芽生える。
自分のせゐぢやないもんね。
親がいけないんだもんね。
さうも思ふ。
恨み、とはちよつと違ふな。
あのときああできてゐたら。あれが可能だつたら。
「たられば」ばかり考へてしまふやうになる。
考へても仕方がないのに。
それは、やはり、自分で決めたことぢやないから、だらう。よそから押しつけられたことだからだ。

やつがれの場合はこれが歌舞伎になる。
九歳のときに、見たいと思つたけれどつれて行つてはもらへなかつた。
親が歌舞伎に興味がないし行つたこともないし、もつといへば家が貧乏だつたからだ。
もし、あのときつれて行つてもらつてゐたらどうだつたらう。
時々考へる。

いま思ふのは、歌舞伎を見るやうになつたのは間違ひだつたのではないか、といふことだ。
親がつれていかなかつた、といふことは、そこになにか理由がある。
さう思ふやうになつた。
有り体に云ふと、「分不相応だらう」といふことだ。

歌舞伎にだつて安い席はあるし、歌舞伎座など幕見席のある劇場もある。
お大尽でなくても見ることは可能だ。

分不相応といふのは、金銭的な話だけではない。

自分は、ちやんと見てゐる芝居を享受できてゐるのだらうか。
ゐないんぢやあるまいか。
いま自分が座つてゐる席を自分が買はなかつた場合、もつと芝居を楽しめる人が座れたのぢやないだらうか。

さう考へることがある。

歌舞伎は、そんなにむづかしく考へて見るものではないといふ話もある。
もともとは「大衆芸能」だし、とか。
でもこの場合の「大衆」つて、庶民ぢやない。ある程度財産があつて趣味や風流に時間をさくことのできる富裕層の教養人だからね。
だからとくに丸本物の詞章にはやたらと故事来歴だとかむつかしい四字熟語のやうなものが出てくる。
客にわからなければ、そんなことばを入れるはずがない。
客に通じるから、使つてゐるわけだ。

で、翻つて自分はそんな教養人か、と考へる。
たとへば「源氏店」で、藤八が床の間を見て「抱一ですな」といふ。
このとき抱一のどの絵だかわかるか。
わかんないんだよね。
たまーにわかることもある。
でも七月もわからなかつた。
遠い席から見たから、といふ云ひ訳もあるけれど、オペラグラスでしげしげと見てもわからなかつた。
一月の浅草は多分「寒牡丹」だつたと思ふんだけど。

抱一の例は単なる例で、一事が万事さうなのだ。
先日、橋本治が「以前の劇評には「ある役者はこの役でこんなしぐさをしてゐたけれど、それは役の性根に合はない」といふやうなことが書いてあつた」といふけれど、そんなのひとつもわからないしね。
しかも見たはしから忘れるしね。

さう考へると、九歳のあの日、もし芝居見物につれて行つてもらへてゐたとしても、なにも変はつたことはないのではないか。
ちつとも身にはならず、無駄な時間を過ごしただけといふことになつたのではあるまいか。
つまりはつれて行かなかつた親は正しかつたのぢやないか。
さう思ふのである。

そしてさうしてあきらめるのは、「たられば」ばかり考へるよりずつといいことなのだ。
さう思ふことにしたい。

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Wednesday, 07 September 2016

戀とか愛とか落語とか

戀は愛より上等だ。

戀には「博戀」だとか「純戀」、「家族戀」だの「人類戀」だのといふやうなイヤラシいことばがない。
それに、戀には「戀わづらひ」だとか「戀占ひ」だとかなんとなくゆかしいことばがある。
「愛占ひ」だと話が壮大になりすぎる気がするし、「家族愛わづらひ」なんてどんだけ病んでるんだよ、といふ話だ。

といふやうなことは、すでにここで書いたやうにも思ふ。

戀わづらひといふと思ひ出すのは落語の「崇徳院」だ。
若旦那が寝込んでしまふ。その理由が「戀わづらひ」。
春風亭昇太で聞いたとき、この「戀わづらひ」といふことばをなんとも嬉しげな不思議な調子で口にするのがをかしかつた。
さう、戀わづらひといふのは、どこかちよつと嬉しげなものだ。
わづらつてゐる本人はつらいのかもしれない。
でも周囲から見ると「戀をしてゐるのね」といふ、ちよつと羨望まぢりの目で見たくなるやうな晴れがましさがある。

土曜日によみうりホールの「Tatekawa Blood」に行つてきた。
立川談笑が「紺屋高尾」を改編した「ジーンズ屋ようこたん」をかけた。戀わづらひの話だ。
立川談笑はかういふ古典を現代版にしたやうな話をよくする。
「壺算」が元の「薄型テレビ残」とか、「芝浜」を元にした「シャブ浜」とかは聞いたことがあつて、好きなんだな。
そんなことしないで古典をそのままやればいいぢやないか、といふ向きもあるかと思ふ。
でも改編した話を聞くと、談笑師匠はかういふ風に解釈して、それを表現するには現代版に置き換へる必要があつたのかな、といふ気もしてくる。

「ジーンズ屋ようこたん」もそんな話だつた。
以下、「ジーンズ屋ようこたん」の核心に触れる部分があるので、ネタバレを避ける向きにはここでおさらばでござんす。

「ジーンズ屋ようこたん」を聞いて思つたことは、「戀は、三次元の生きてゐる相手にしないとダメなんだな」といふことだ。
たとへ相手が手の届かないやうな存在でも、おなじ次元に生きてゐれば、会へることもあるかもしれない。必死でがんばれば、どうにかして会はうと思へば、きつと会へる。
そして、「きつと会へる」ことを心の支へにして生きていける。
さう思つたのだつた。

「ジーンズ屋ようこたん」は、岡山県は倉敷市の児島に住まひするジーンズ職人の若者・久三が出社しなくなるところからはじまる。
ちいさな会社だから社長が心配して見舞ひにくる。
久三は戀わづらひで身動きがとれなくなつてゐた。戀の相手はアイドルの近藤ようこたん。
社長はそこは企業のことだから、事務所に申し入れて社の忘年会に近藤ようこを呼ばうとするが、八百万円かかると云はれて引き下がる。
東京で会ふだけでも七百万円はかかるといふ。
久三の月給は手取りで二十万円だ。
三年間必死で働いてためれば近藤ようこたんに会へる。
そこから久三は必死で働き、七百万円の貯金をもつて近藤ようこたんに会ひに行くのだつた。

「紺屋高尾」ぢやん。
いや、まあ、さうなんですけどね。

社長は久三に「IT企業の社長で六本木ヒルズに社を構へてゐることにしろ。倉敷のジーンズ職人だなんて云ふなよ」と云ひふくめる。
久三は近藤ようこたんに会ふ。
近藤ようこはみづから「近藤ようこたんです」と名乗つたあと、微妙なポーズとともに「きゃぴっ」とかいふやうなちよつとイタいアイドルだ。
七百万円払つても、会へる時間は限られてゐる。
「近藤ようこたんです」「きゃぴっ」のあと、「IT企業の社長さんなんですかぁ? ぢやあ六本木ヒルズとかで働いてゐるんですねぇ?」などと、近藤ようこたんばかりぽつぽつと喋る。
久三はなにも云へない。
ろくに会話もしないうちに近藤ようこが帰らうとしたところで、久三はほんたうのことを語る。
実は自分は倉敷のジーンズ職人で、ジーンズにダメージを加へる仕事をしてゐる。どうしても近藤ようこたんに会ひたくて、三年間必死で働いて七百万円ためた。今日からまた働いてお金をためるので、三年したらまた会つてください。

「紺屋高尾」ですね。
わかります。

そこで、近藤ようこたんが云ふのだ。
アイドルになつたばかりのころには、自分にも夢があつた。芸能界でああなりたい、かうなりたいといふ理想があつた。
だから、ものすごく大胆な水着なんかも喜んで着た。
でも何年もアイドルをやつてゐると、どんどん若い子が出てきて、気がつくと「あの子、調子を崩して休んだりしないかしら」「あの子がゐなくなればいいのに」とかいふことばかり考へてしまふ。
いまは事務所のために働くばかりで、自分の夢がなんだつたか、もうわからなくなつてしまつた。
「あたしは、こんなあたしが大嫌ひ」

ようこたん……。

すると、久三が云ふのだ。
よくわからないけど、たとへばジーンズといふのは新品がいいわけぢやあない。
何度も着て着古して、着る人の躰の形や動くときの癖にぴつたりしてきたジーンズ、それがいいジーンズなんだ。

ようこたんは思ふ。
「こんな、あたし自身が大嫌ひなあたしのことをそんなに思つてくれる人がゐるなんて」
ようこたんは云ふ。
事務所との契約は来年の三月十五日で切れる。
さうしたら、あなたに会ひに行きます。

「紺屋高尾」だ。
「紺屋高尾」なんだけどさ。
吁嗟、ようこたん。

結末も「紺屋高尾」なんだけどさ。
いい話なんですよ。

でもこれつて、戀わづらひの相手が三次元の生きてゐる相手だから成り立つのであつてさ。
異次元の相手だつたり、三次元の相手でももう死んでる人が相手だつたら成り立たないんだよね。
たとへば、まんがやアニメといつた二次元やお芝居といつた二.五次元の登場人物が相手だつたらかうはいかない。
三次元の人間だつて、戦国武将だとか幕末維新の志士が相手でも同様。

でも、さういふ相手にも戀つてしちやふよね?
え、しない?
しないとしたら、それはしあわせなことだと思ふ。

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Tuesday, 06 September 2016

はかどる時 はかどらない時

Tatted Necktie in Progress

タティングレースのネクタイは、すこしづつ進んでゐる。

Jan Stawasz の Tatting Treasuresに掲載されてゐるネクタイだ。
ひし形のモチーフを両端に配したネクタイで、現在ふたつめのにモチーフをつないでゐる途中だ。もう半分は過ぎたかな。
このままだと中間部のエジング部分がちよつと細くなるのではないかと危惧してゐるが、そこはさういふものなのだらう。

できあがりが見えてくると、手が進むときとその反対のときとある。
進む場合は早く作つてできあがりを見てみたい。あるいはできあがつたものを早く使つてみたい。
進まない場合は、できあがつたあとの整形が面倒に感じるときだ。あるいは次になにを作つたらいいのか考へあぐねてゐるときもさうだ。

さうなんだよ。
このネクタイができあがつたとして、つぎはなにを作つたものか。
それが思ひつかないのだ。

あみものはここ二週間ばかりなにもしてゐない。
でもそんなに心配してはゐない。
袖無し羽織(あるいは陣羽織)といふ目標があるからだ。
いづれにしても今年の秋冬にはそんなやうなものを編むつもりでゐる。
もともと袖無し羽織を編むつもりだつたフェルテッドツイードはたんとあるしね。
涼しくなつたらすぐにでもはじめられる。
さう思つてゐる。

タティングレースは、なあ。
次になにを作つたものか。
ちよつと思ひつかない。
どうしたものかな。
先週も書いたやうに「The Twirly をつなぐプロジェクト」を再開するか。
それともまつたく別なものを作るか。

糸とビーズとの組み合はせさへ決まれば、ビーズタティングをしてみたい着もする。
さうしないと手持ちのビーズがいつまでたつても減らないからといふこともあるけれど、なにかきらきらとした美しいものを作りたいといふ気持ちもある。

どうしたものかのう。

ネクタイを作つてゐるあひだに思ひつけばいいんだけどね。
時折タティングレースでドイリーを作りたいといふ気持ちに駆られることもあるが、いまのところそれはない。
先日、Lacy Baktus の整形で懲りたからだな。
レースものの整形は手間がかかるし苦手である。
ぢやあレース作りなんかするなよ、といふ向きもあらう。
そのとほりである。
でもつくるののは好きなんだよなあ。
困つたものだ。

ネクタイが進まない理由には、「できあがつても使ふことはないだらう」といふことにもある。
できあがつたら使へるのであれば、もう少しさくさくと進むであらうに、な。
とにかく「タティングレースでネクタイを作りたい」といふ思ひだけでここまできてしまつた。
作りたいんだから仕方ないよね。
たとへできあがつたものを使はないとしてもさ。

ビーズタティングものも、できあがつても使ふことはないだらう。
いままでさうだつたからね。
そもそもタティングレースで作つたもので使つたものつていままであつたらうか。
あ、栞か。
栞ね。
栞はいいかもしれないね。
その路線でちよつと考へてみるかなあ。

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Monday, 05 September 2016

ヴェストとか陣羽織とか

先週はなにも編んでゐない。

袖無し羽織を編むつもりで、ここにも書いたデビー・ブリスの糸を出してきたら、コットンではなくてコットンカシミヤだつた。
なんと。
それでなんとなくもつたいなくなつてしまつて、編みはじめられずにゐる。

袖無し羽織は家でしか着ないつもりだ。
あたりまへだ。洋装に羽織なんぞ合はせたら妙な人ぢやあないか。
しかるにコットンカシミヤである。
いい糸だ。
できることなら外に着ていけるやうなものを編みたい。
「着ていける」といふのは、着分の毛糸があるからだ。
まゐつたな。なにを編まう。

Ravelry を見ても、案外 suggestions が少ない。それよりもこの糸を使つてなにを編んだかを見た方がいいのかなと思つたが、それはそれで数が多い。
むう。

膨張色なんだよね。
シュランケンカーフのスカイと似たやうな灰色がかつた水色だ。
どうしたものかなあ。
だいたい、なにを編むつもりで買つたんだらう。
おそらく、廃番になるし安売りだといふので無計画に買つたんだらうな。
愚かだな、過去のやつがれ。

袖無し羽織がダメならヴェストでも編まうか。
そんなことも考へてゐる。
かのこ編みのちよつとシェイプした形のヴェストなんかどうかな。
かつて「毛糸だま」に身ごろを五枚くらゐはぐやうなちよつと本格的な感じのヴェストが掲載されてゐたことがある。
後ろ身ごろが一枚で、前身ごろは二枚づつとかだつたんぢやないかな。ひよつとしたら後ろ身ごろも三枚とかだつたかもしれない。
編んでみたかつたねえ。
あれ以降、さいういふちよつと凝つた編み図のヴェストは見たことがない。
最近ははがないとか編み終はると同時にできてゐるみたやうなものの方が流行つてゐるものね。
かく云ふやつがれも、できるだけ縫ひ針は手にしたくないので、さうした作品をつひ編んでしまふ。
そして「……なにかが違ふ」と思ふわけだ。

ゲージをとつて、手持ちのヴェストの中から参考になりさうなものを選んで、それに合はせて編まうか知らん。
さうも思ふ。
これはこれでめんどくささうだし、うまくできあがるといふ保証はない。
でも世の中に「これが編みたい」といふものがないんだつたら仕方がないやね。

などと考へてゐたら「びじゅチューン!」で「噴火する背中」といふ歌を流してゐるぢやあないか。
いいなあ、「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織」! 覚えちやつたぢやないか。
さうか。陣羽織か。いいな、陣羽織。
陣羽織のなにがいいかといふと、スリットが入つてゐることだ。
この方が着やすさう。
そんなわけで狂ほしく「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織!」が編みたくて仕方がない。
いや、別に「富士御神火文黒木羅紗陣羽織」でなくてもいいけどさ。
そもそも、手持ちの毛糸ぢや編めないし。

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Friday, 02 September 2016

Immortal なてふてふの話

ワイズ出版から文庫として発売された「不死蝶 岸田森」を読んだ。

ところで、播磨屋と死んだ天王寺屋との競演(共演)がもうせん好きだつた。
なんだらう、舞台上にはふたりしかゐないのに、なんだかふたりともものすごく大きく見えてくるんだよね。
播磨屋はともかく、天王寺屋なんてそんなに大きい人ではなかつたのに。
ふたりの醸し出す雰囲気に飲み込まれる感じといふか、それが三階席の片隅でもそんな気分になるといふか、さういふところがたまらなく好きだつた。

最近でいふと、去年の六月歌舞伎座で「新薄雪物語」の花見の場だな。
播磨屋の団九郎と松嶋屋の大膳との、それぞれ異なる悪の競演のすばらしさよ。
ほんの数分のことなのに、それだけで「うわー、お芝居見に来てよかつた」といふ満足感。
背景が雲英刷なんぢやないかといふ気がしてくるくらゐの動く錦絵を見てゐる感覚。

今年でいふと六月博多座の「本朝廿四孝」は「十種香」の京屋の八重垣姫と萬屋の濡衣との「競つてこそ華」みたやうな競演が、なあ。「ああ、ずーつとずーつとかういふのが見たかつたんだよ。萬屋と京屋と、ふたりそろつてかうして競ひあふやうな芝居がさー」と、これまた客席の片隅でひとりジタバタしたい気持ちを必死で抑へこんでゐたことだつた。

これつて、なぜだか不思議だけど男女ふたり(歌舞伎の場合だと立役と女方だけど)には感じない。
不思議。
「寺子屋」の松王丸と源蔵とか、「勧進帳」の弁慶と富樫とか、さういふ組み合はせでこられると弱い。

それつて、ここに書いてあつたんだな。
ここ、即ち「不死蝶 岸田森」のことだ。

岸田森のマネージメントを担当してゐた佐藤淑雄の聞き書きにそのくだりが出てくる。
蟹江敬三からいまゐる劇団を辞めて別の劇団に移らうかと思つてゐるといふ相談を受けたといふ話だ。
このとき佐藤淑雄は蟹江敬三に「石橋蓮司と別れちやダメだ」と答へたといふ。
劇団には腕が五分で顔の違ふ俳優がふたり必要だ、といふのだ。
滝沢修と宇野重吉とかね、ここには出てこないけど辰巳柳太郎と島田正吾なんかもさうなのかなあ(え、辰巳と島田とを比べるな? こりやまた失礼致しました)。
佐藤淑雄の念頭にあるのは岸田森と草野大悟とだ。
「文学座だけは杉村春子がゐるけれど」といふのが念入りにをかしい。が、それはまた別の話。

この「腕が五分で顔の違ふ」といふのを「個性が違ふ」と覚えてゐたのだが、今回読み返して「顔」であつたことを知つた。
記憶つていい加減ね。
でもまあ、「個性」でもさう間違つてはゐないと思ふ。
全力で切り結ぶことのできる、持ち味の違ふ相手がゐるのがいい。
さういふことでせう。
死んだ中村屋と大和屋と、みたやうなさ。

といふ、なんといふか、やつがれの芝居観の原点みたやうな話が出てきて、「これつてこの本だつたんだ」といふのがちよつと意外といふか、おもしろかつた。
ほんと、記憶つてあてにならないのねえ。

本自体は、単行本でもずいぶんと出回つたことであるし、あまり云ふことはない。
故人を偲ぶ内容なので、悪いことは基本的には書かれてゐない。
如何にいい人であつたか、如何にすばらしい俳優であつたか、さういふ話に終始してゐる。
さうなつてくると、たとへば剣道の話なんかが出てくると、「あー、九頭竜だつたか(違ふかも)の立ち回りで、時折なんとなく安定感を欠くやうなあれは、踊り由来ぢやなくて剣道由来の殺陣だからつて云ひたいんだな」とか、妙に深読みしたくてたまらないのをぐつと抑へて、「惜しい人を……」と思ふのが正しいんだらうな。

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Thursday, 01 September 2016

2016年8月の読書メーター

2016年8月の読書メーター
読んだ本の数:6冊
読んだページ数:1389ページ
ナイス数:13ナイス

The World According to Star WarsThe World According to Star Wars感想
最初のうちは「ものすごく好きなことを書いてるのを読むのつておもしろい」と思へてゐたのだが、段々と「いや、それは贔屓目に見過ぎだらう?」「憑拠を示せよ、憑拠をよ」といふことが増えてきてちよつと萎える。スターウォーズとスタートレックを比べる必要とか、ないと思ふんだよね、ボカァ。でもまあ、「仕方ないな、この人、スターウォーズが大好きなんだもの」と流して読めばいいのかもしれない。
読了日:8月5日 著者:CassR.Sunstein
桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活 (文春文庫)桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活 (文春文庫)感想
過去に図書館で借りて読んでひどく落ち込んだのだけれども今回買つてしまつた。そして読んでまた落ち込む。まるで学習してゐない。クワコーが他人とは思へない。この、自分ではなにひとつ責任を取らうとはしない、なにもかも人やもののせゐにする、クワコーの態度・姿勢はまるで自分だ。なんてダメでヘタレで最下流なんだらう。違ふところがあるとしたらそれはあちらは作り話でこちらは現実といふことだ。ああなんていふことだらう。
読了日:8月10日 著者:奥泉光
戦争とは何だろうか (ちくまプリマー新書)戦争とは何だろうか (ちくまプリマー新書)感想
あとがきに「この本は、戦争が善いとか悪いとかの立場から書かれたものではありません。(p183)」とある。さう思ひつつ書いたのだらうとは思ふが、読んでゐると「やつぱり戦争は悪いと思つてるんでせう?」と思つてしまふ。「テロ」といふ略語については同感。「反省排除の作用がこの語にはあります。(p138)」そのとほりだよ。安易に「テロ」とか云うてちやいかん。
読了日:8月15日 著者:西谷修
酒肴酒 (光文社文庫)酒肴酒 (光文社文庫)感想
読んでゐると食べるよりも飲みたくなつてくる。それこそ時間など考へずに朝から晩までそれもおいしいと思ふお酒を飲みつつ、「あら、日が暮れてしまひましたねえ」なんぞと長閑にかまへつつ飲みたい。このあたりから「時間」につながるのかな、などとも思ふ。
読了日:8月23日 著者:吉田健一
The Art of War (Chiron Academic Press - The Original Authoritative Edition)The Art of War (Chiron Academic Press - The Original Authoritative Edition)感想
「費留」をどう訳してゐるのか気になつてゐたのだが「戦には勝つてゐるのに成果があがらない場合、it's disastrous.」つてなつてて、そらそーなんだけど、でもでも、「費留=disastrous」ぢやないだろー? 日本語にもちよつとないしなあ。むづかしいのかなあ。あと、「死生之道」とかの道が全部大文字の「Tao」になつてるのも気になつた。それは「Tao」ではないのでは? それとも英語では「Tao」は老荘的な「道」よりも広い意味を持つてゐるのか知らん。アミオ訳のやうなことはなくてよかつた。
読了日:8月25日 著者:SunTzu
不死蝶岸田森 (ワイズ出版映画文庫 13)不死蝶岸田森 (ワイズ出版映画文庫 13)感想
故人を偲ぶ書なので「いい人だつた」「いい俳優だつた」話満載で、わづかに岸田今日子がチラリと弱点を口にする程度。ただ「剣道」といふのはさ、九頭龍だつたか(違つたかも)の立ち回りで時折どうにも安定感に欠けるあれは踊りから来た殺陣ぢやなくて剣道のだからだよねつていふ話なんぢやないの、とかつひ深読みしたくなるところをぐつと抑へて、「惜しい人を……」と思ひつつ読む本。「徳川家康」の明智光秀は見てみたかつたねぇ。
読了日:8月28日 著者:

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吸血鬼とか芝居とか

先日、赤坂ACTシアターで劇団☆新感線の「Vamp Bamboo Burn (ヴァン! バン! バーン!)(以下、「VBB」)」を見てきた。

まだ上演期間中だしこれから大阪公演とか富山公演とかあるといふ話なので、内容についてはふれない。

「VBB」の出演俳優が発表になつたとき、「さうか、その手があつたか」と思つた。
なるほど、いま日本で一番吸血鬼が似合ふ俳優といつたらこの人だらうといふ人物の名前があつたからだ。

篠井英介である。

ちよつとほかに思ひつかないでせう。
考へてもごらんよ。

たとへば金沢の古い街並みのどこかにひつそりと篠井英介演じる吸血鬼が棲んでゐるところを。
普段はしづかに微笑むばかりで決して口を開けたりしない。
なにかの拍子ににつこり笑顔になつたときに、ちらりとのぞく光る牙。

雰囲気だけで吸血鬼だよ。

と、そのときはさう思つたわけだ。
篠井英介ならそれなりに上背もあるからシークレットブーツとか必要なささうだし、そんなに塗らなくても白いし、どこか年齢不詳(ついでにいへば時に性別も不詳)だし。
カラヤンかジョブズみたやうな出で立ちで、街の片隅に佇んでゐるところだけで絵になるよ。

さう思つたわけだが、「VBB」はさういふ芝居ではない。
予想はしてゐたけれどね。

おそらく、さういふ「雰囲気が吸血鬼」みたやうなのは昨今流行らないのだ。
芝居向きでもない。
やるとしたら映像だらう。

しかも考へてゐるやつがれがホラーが苦手といふこともあるけれど、ここで書いてゐる吸血鬼には怖いところが微塵もない。
不気味な雰囲気はあるかもしれない。
でもどちらかといふと、その雰囲気は不思議。
さういふのつて流行らないよねえ、いまどき。

かういふ、雰囲気の芝居といふのが受け入れられないのだなあ、といふのは芝居を見てゐるとよくわかる。
客が求めてゐるのはわかりやすさと安心感だ。
不安だつたりわからなかつたりむづかしかつたりするものは求めてゐないのだ。
映画になるとちよつと事情が変はつてくるやうだが、少なくとも歌舞伎座に来るやうな客は自分の理解できないものは笑ひとばしていいものと思つてゐる人が大半だ。

おそらく篠井英介が吸血鬼を演じるのを見ることはあるまい。
あんなに似合ふのに。
いまだつたら日本一なのに。

あ、「VBB」でちらつと拝むことはできるけどね。
でもそれもチト違ふんだけどね。

この吸血鬼、坂田靖子か波津彬子の絵でもいいと思ふんだよなあ。
森川久美だとちよつと違ふ。
いまどきまんがだつてこんなのは流行らないだらうから、仕方がない。
仕方がないので、脳内でせつせと妄想するばかりだ。

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