Immortal なてふてふの話
ワイズ出版から文庫として発売された「不死蝶 岸田森」を読んだ。
ところで、播磨屋と死んだ天王寺屋との競演(共演)がもうせん好きだつた。
なんだらう、舞台上にはふたりしかゐないのに、なんだかふたりともものすごく大きく見えてくるんだよね。
播磨屋はともかく、天王寺屋なんてそんなに大きい人ではなかつたのに。
ふたりの醸し出す雰囲気に飲み込まれる感じといふか、それが三階席の片隅でもそんな気分になるといふか、さういふところがたまらなく好きだつた。
最近でいふと、去年の六月歌舞伎座で「新薄雪物語」の花見の場だな。
播磨屋の団九郎と松嶋屋の大膳との、それぞれ異なる悪の競演のすばらしさよ。
ほんの数分のことなのに、それだけで「うわー、お芝居見に来てよかつた」といふ満足感。
背景が雲英刷なんぢやないかといふ気がしてくるくらゐの動く錦絵を見てゐる感覚。
今年でいふと六月博多座の「本朝廿四孝」は「十種香」の京屋の八重垣姫と萬屋の濡衣との「競つてこそ華」みたやうな競演が、なあ。「ああ、ずーつとずーつとかういふのが見たかつたんだよ。萬屋と京屋と、ふたりそろつてかうして競ひあふやうな芝居がさー」と、これまた客席の片隅でひとりジタバタしたい気持ちを必死で抑へこんでゐたことだつた。
これつて、なぜだか不思議だけど男女ふたり(歌舞伎の場合だと立役と女方だけど)には感じない。
不思議。
「寺子屋」の松王丸と源蔵とか、「勧進帳」の弁慶と富樫とか、さういふ組み合はせでこられると弱い。
それつて、ここに書いてあつたんだな。
ここ、即ち「不死蝶 岸田森」のことだ。
岸田森のマネージメントを担当してゐた佐藤淑雄の聞き書きにそのくだりが出てくる。
蟹江敬三からいまゐる劇団を辞めて別の劇団に移らうかと思つてゐるといふ相談を受けたといふ話だ。
このとき佐藤淑雄は蟹江敬三に「石橋蓮司と別れちやダメだ」と答へたといふ。
劇団には腕が五分で顔の違ふ俳優がふたり必要だ、といふのだ。
滝沢修と宇野重吉とかね、ここには出てこないけど辰巳柳太郎と島田正吾なんかもさうなのかなあ(え、辰巳と島田とを比べるな? こりやまた失礼致しました)。
佐藤淑雄の念頭にあるのは岸田森と草野大悟とだ。
「文学座だけは杉村春子がゐるけれど」といふのが念入りにをかしい。が、それはまた別の話。
この「腕が五分で顔の違ふ」といふのを「個性が違ふ」と覚えてゐたのだが、今回読み返して「顔」であつたことを知つた。
記憶つていい加減ね。
でもまあ、「個性」でもさう間違つてはゐないと思ふ。
全力で切り結ぶことのできる、持ち味の違ふ相手がゐるのがいい。
さういふことでせう。
死んだ中村屋と大和屋と、みたやうなさ。
といふ、なんといふか、やつがれの芝居観の原点みたやうな話が出てきて、「これつてこの本だつたんだ」といふのがちよつと意外といふか、おもしろかつた。
ほんと、記憶つてあてにならないのねえ。
本自体は、単行本でもずいぶんと出回つたことであるし、あまり云ふことはない。
故人を偲ぶ内容なので、悪いことは基本的には書かれてゐない。
如何にいい人であつたか、如何にすばらしい俳優であつたか、さういふ話に終始してゐる。
さうなつてくると、たとへば剣道の話なんかが出てくると、「あー、九頭竜だつたか(違ふかも)の立ち回りで、時折なんとなく安定感を欠くやうなあれは、踊り由来ぢやなくて剣道由来の殺陣だからつて云ひたいんだな」とか、妙に深読みしたくてたまらないのをぐつと抑へて、「惜しい人を……」と思ふのが正しいんだらうな。
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