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Thursday, 18 August 2016

無用の用考

「人皆有用の用を知る。而るに無用の用を知る莫きなり」とでも読み下すのだらうか。
「荘子」に出てくることばである。
最近読みなほしたときだらう、メモ帳にこのくだりを書き出したあとがあつた。

「無用に思へるものこそ実は有用なのだ」といふ解釈がある。
果たしてさうだらうか。
「無用の用」は、「有用の用」とは違ふ。
有用でないところに無用の用があるのぢやあるまいか。

「荘子」に、巨大な木の話が出てくる。
その木は枝や根はやたらとこぶがあつて曲がりくねつてゐて使ひものにならないし、柔らかくて弱いので建築や家具には使へないし、芽や実が食べられるわけでもない。
まつたく役に立たない木である。
だが、それゆゑに、ここまで巨大になるほど長生きできたのだ、といふ話だ。

この話でいふ「有用の用」とは、枝や根はこぶがなくて使ひやすく、あるていどの強さがあつて建築や家具の材料にしやすく、芽や実を楽しむことができるものだ。えうは他人のためになることをさしてゐる。
「無用の用」は、巨大になるほど長生きできること、だらう。使ひものにならない木が大きくなつたところで他人の役にたつわけではない。しかし木自身にとつてはこんなにいいことはない。

「無用の用」が自分自身にとつてのいいことをさす、といひたいわけではない。
「有用の用」とはまつたくべつものだ、といひたいわけだ。

そもそも「無用と思はれるものほど実は有用だ」と、無用であることよりも有用であることの方が尊いと考へるあたりが違ふんぢやないかなあ。
「無用の用」とは、役にたつとかたたないとか、そんな了見の狭い話ぢやあないと思ふ。
といふか、さう思ひたい。

「「無用の用」とはこれこれかういふもの」と理解してゐるわけぢやあない。
中国文学とか中国哲学を勉強したことはない。
ごくまれに文庫本の「老子」とか「荘子」とかをひつぱり出してきてぱらぱらとめくる程度で、読み返すたびに「……こんな話だつたつけか」といふことばかりである。
さうか、この読み返し自体がまさに「無用の用」なわけだな。

そんなわけで、やつがれの勝手な解釈は間違つてゐるのかもしれない。
「無用の用」といふのは世間一般でいふとほり、「無用に見えるものほど実は有用である」といふ解釈が正しいのかもしれない。
でも、なんかそれ、しつくりこないんだよなあ。

「昼行灯」の次が「無用の用」といふあたり、有用の用に縁のないことを露呈してゐる気がする。
お恥づかしい限りである。

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