死人のことしか考へない
死んだ人のことばかり考へてゐる。
予定のない休みの日はお酒を飲みつつ本を読む。
すでに死んだ人が、自分より前に死んだ人のことを書いた本だ。
司馬遷の「史記」ともいふ。
読み進むうち次第に酔ひも手伝つて、著者の気持ちになつたり登場人物の気持ちになつたりもして、ふはふはとした心持ちになる。
即ち自分も死んでゐる。
すくなくとも現代を生きてはゐない。
TVは見ないが録画した番組は見る。
ここにも何度か書いたとほり、「鬼平犯科帳」「必殺仕事人V旋風編」「新・座頭市」を見てゐる。
いま見ると、死んだ人ばかりが出てゐる。
ま、さうでもないか。
さうでもないけれど、「鬼平犯科帳」にしても「この人はもうゐない」「この人ももうあの世だ」といふことが多い。
すでに佐嶋は出てゐないしね。
昨日は加藤武回だつたが、加藤武もゐなければ、その加藤武演じる役と古いなじみの彦十役の江戸屋猫八もゐない。
沢田もゐない。
粂八もゐない。
夏八木勲が出ることもないし、北村和夫の役は橋爪功になつたんだつけか。
ゐない人だらけだ。
「鬼平犯科帳」がほぼ二十年前の番組だ。
その十年以上前の「必殺仕事人V旋風編」、そのさらに十年近く前の「新・座頭市」になると点鬼簿に名前の載つてゐる人の方が多いこともある。
仕事人にしても座頭市にしても、そもそも主役がもうゐない。
「新・座頭市」はさういへばこのまへめづらしくゲスト俳優がみな存命なんてなことがあつた。十朱幸代に津川雅彦、江幡高志に石橋蓮司だつたかな。でもこんなことは滅多にない。
辰巳柳太郎、岸田森、石原裕次郎、丹波哲郎。
みんなゐない。
ゐない人だらけだ。
芝居を見に行くくらゐだから、生きてゐる人のことも考へないわけぢやあない。
でも、一昨日だつて双蝶会で「車引」を見ては「十三代目仁左衛門の時平は出てきたときに陽炎のたつやうなゆらめく妖気があつたんだよなあ」だとか「先代の山崎屋の時平は如何にもな雰囲気でさー」とか考へてゐるし、「寺子屋」だつて「宗十郎の千代はほんとに泣いてるみたやうで、でもちやんと丸本だつたよなあ」だとか、中村屋と大和屋との「寺子屋」とか、舞台を見ながら別の舞台を反芻することが多くて、な。
この先何年かしたら芝居を見に行くこともないかもしれない。
さう考へることもある。
でも五月と今月と「寺子屋」を見て、やつぱり芝居としてうまくできてるな、と思つた。
今後も見たい。すなはち、生きてゐる人々の関はる芝居を見ていきたい。
さう思ふ一方で、「寺子屋」がこんなにおもしろいのは、長年にわたりいろんな役者やその他の人があれこれ手を入れ工夫した結果なんだらう、といふことに思ひ至る。
やはり彼岸に行つてしまつた人々のことにたどりついてしまふ。
この世に思ひ出してくれる人のゐるかぎり、死んでなどゐない。
さういふ説もある。
といふことは、司馬遷はまだ生きてゐるといふことか。
「史記」に出てくる人々もみなさうか。
もしかすると、世間的には死んでゐるのかもしれないけれど、やつがれの中では死んではゐない。
佐嶋も沢田も彦十も、主水も市もその他の人も、みんなみんな生きてゐる。
さういふことなのかな。
ただ、さうした人々を生きてゐるやうに語ると周囲から奇異の目で見られることがある。
それだけのことなのかもしれない。
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