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Wednesday, 31 August 2016

来年の手帳が決まらない

現在、システム手帳とMD NOTEBOOK COTTON の文庫サイズとを併用してゐる。

システム手帳には予定とToDo、MD NOTEBOOK COTTON にはその他のことを書いてゐる。

今年の二月に Bullet Journal をはじめて、このときはMD NOTEBOOK 新書サイズの方眼罫を使つてゐた。
使つてゐるあひだ、この一冊だけで予定もタスクもメモもなにもかも書けることと、この一冊だけ持つてゐればいいことにすつかりまゐつてしまつて、「これからは Bullet Journal だな」と思つてゐた。

Bullet Journal はしかし、ノートからノートにうつるときにうまいこと切れ目で移行しないといろいろ大変だつたりする。
そこで、システム手帳はどうだらうと思つて使ひはじめてみたのだが、予定やToDoはともかく、メモが取れない。
いや、取れてはゐるのだ。
取れてはゐるのだけれど、それまでのやうに思ふやうに書けない。
これは考へてみたら Bullet Journal をはじめた時点でさうだつたやうな気もする。

Bullet Journal は箇条書きを推奨してゐる。
Rapid Notetaking には箇条書きが最適だからだ。
それはそのとほりで、また、当初はやつがれも「なるほど、箇条書きのよさといふものもあるな」と思つてゐた。
たとへば、あまりリニアにものごとが並んでなくてもいい、とかね。
文章でダラダラと書くときは、ものごとはリニアに並んでゐないと書きづらい。
でも箇条書きなら多少前の内容と違ふ内容を書いてもそれはそれですんでしまふ。
あとで文章にするときにうまいこと取捨選択すればいいからだ。

それでずつとがんばつて箇条書きでメモをとつてきたのだけれど、どうやらこれがやつがれにはむかなかつたのらしい。
あるいは、単にシステム手帳のリフィルがよくないのかもしれない。

そんなわけで、エイムックの「システム手帳STYLE」を見て、「システム手帳は「公の手帳」、MOLESKINEは「私の手帳」」として使つてゐる人の例を見て、「これしかないか」といふのでMD NOTEBOOK COTTONを併用することにしたのだつた。

結果、以前よりずつと書くやうになつた。
箇条書きにはこだはらずに書いてゐる。
最初のうちは書けなくなつてゐたけれど、最近また書けるやうになつてきた。
そんな気がする。

しかしなあ、さうすると、せつかく一冊ですんでゐたものが二冊になつちやふんだよなあ。

やはり、来年の手帳には Rollbahn の手帳を選んでみやうか。
それも新書サイズに近い縦長のはどうだらう。
さう考へてゐる。

Rollbahn の手帳は、最初に月間予定表がついてゐて、あとは全部方眼罫のノートだ。あ、Rollbahn なので最後にポケットがついてゐるけれど、それくらゐ。
この「予定表+ノート」といふのがいいんぢやないかなあ。
さう思つてゐる。

予定表でなにが物足りないといつて、ノートの部分が少ないことだ。
ノートがあれば、そこになんでも書けるのに。
予定表に書かねばならないことはそこから拾つて書けばいい。
絶対いいと思ふんだけどなあ。

しかし、一冊ですませるならシステム手帳ともいへる。
リフィルの選びやうひとつでかんたんに実現できる。
いまのところリフィル・ジプシーだから「これ!」といふメモ用リフィルに出会へてゐないだけで、それさへ見つかればいふことはない。
ないんぢやないかな。

明日になればほぼ日手帳の予約受付もはじまる。
今年は例年になく出遅れてゐるんだよなあ、来年の手帳選びが。
ひとまづは Rollbahn を買つてみやうか。
リフィル探しも並行しつつ。
そんな風に考へてゐる。

Bullet Journal にこだはる必要は、いまはないと思つてゐる。
予定表とノートとが一緒になつたもの。
その条件さへ満たしてゐればいい。
さう思つてゐる。

Tuesday, 30 August 2016

折り返し地点

タティングレースのネクタイは、やつともう片方のひし形モチーフをつなぐところまでたどりついた。

Jan Stawasz の Tatting Treasures に掲載されてゐるタティングレースのネクタイは、両端にひし形のモチーフがあつて、間をエジング状のレースでつなぐやうになつてゐる。
ずつと長さが足りない長さが足りないといふのでエジング部分ばかり作つてゐたが、やつともう片方のひし形をつなぐところまでやつてきた。
このあと、ひし形のモチーフの周りをぐるつと囲んで、エジング部分の折り返しに入る。

今年、はじめてのタティングレース完成作品になるのだらうか。
と、記録をくつてみたら、今年はビーズタティングのネックレスなんぞをふたつ作つてゐたんだな。
すつかり忘れてゐた。
ビーズタティングものつて、華美になり過ぎるところがあつて、作つてゐるときは楽しいけれど実際に使ふことはほとんどないんだよね。
使へるものを作りたいといふ気持ちもないわけぢやあないが、チトむづかしい。
作つてゐるときに楽しいものと作り終へて使ふのが楽しいものつて違ふんだよね。
あみもののときもよく思ふことだ。

これつて、なんでもさうなのかなあ。
たとへばまんが。
まんが家の人がまんがを描いてゐて、描いてゐるときはものすごく楽しかつたんだけど、実際読んでみるとそれほどでもない、とかあるんだらうか。
映画もさうだな。
撮つてゐる最中はとても楽しかつたのに、できあがつた映画を見てみたらそれほどでもなかつた、とか。
あるいはその逆とかね。
撮つてゐるときはものすごくつまらなかつたけど、できた映画を見てみたら異様に楽しかつた、とか。

なんだかありさうな気がする。
お料理なんかとくにありさう。
料理してゐる最中は全然楽しくないのに、できあがつたものはたまらなくおいしい、とか。
あるある。
絶対ある。

お料理は、作つてゐるときは楽しくてもできたものはおいしくない、なんてな場合にも結果をなんなとかしなければならないが。
あみものとかタティングレースはさうでもないと思つてゐる。
レースならとりあへず飾つておけばいい、とかさ。
しまつておけばいい、とか。
ほとぼりがさめたころにどうにかすればいいだらう、みたやうな。
さういふ気楽さはあるな。
とくにタティングレースの場合、個人的にはそんなに大きいものは作らないから場所もとらないしね。
さう考へると、タティングレースはやはり自分に向いた手芸なのかもしれないなあ。

まだまだ時間はかからうけれど、ネクタイも完成の見通しがたつた。
次になにを作らうかなあ。
「The Twirly をつなぐプロジェクト」に戻るか。
それとも別のものを作るか。
マクラメで時計をさげる紐を作りたいとも思つてゐる。
結びながら次の計画を練るのもタティングレースの醍醐味のひとつだな。

Monday, 29 August 2016

計画中

先週はなにも編んでゐない。
暑くて、といふよりは蒸してゐて、なにもする気にならなかつた。
かういふときは文明の利器・冷房に頼るべきなのかもしれないが、なんとなくそれは負けなやうな気がしてしまふ。
ほんたうにどうしやうもないときは使ふけれど、「蒸してやる気がしない」ていどのことでかけてもいいものか、と思つてしまふのだ。

Lacy Baktus は整形をしてみたものの、失敗してしまつた。
ピンをかなり省略してしまつたのが敗因らしい。
うーん、もつとちやんと整形しないとダメか。
昨日は東京マッハ18といふことで、群馬県は北軽井沢にあるルオムの森といふところに行つてきた。
「軽井沢は涼しいけど北軽井沢は寒い」といふ話を聞いて Lacy Baktus を持つて行つた。整形には失敗しているけれど、試してみるにはよい機会だと思つたからだ。
昨日は関東地方も全般的に涼しかつたのらしい。
北軽井沢は確かに寒かつた。
Lacy Baktus はきちんと活躍した。
綿のスカーフ(マフラー)、いいかも。

一方、袖無し羽織についてもいろいろ考へてゐる。
「鬼平犯科帳」で中村吉右衛門演じる鬼の平蔵こと長谷川平蔵が着てゐるのをぢつくりと見るのはもちろん(それは別段袖無し羽織がなくてもすることではある)、どうやつて編んだものかといふことも考へてゐる。

たとへば身ごろをどうするか、だ。
以前「毛糸だま」で見た茶羽織は、身ごろ部分ははいではゐなかつたやうに記憶してゐる。
前身ごろと後ろ身ごろとは肩と脇とでつないでゐたかと思ふが、後ろ身ごろは一枚、前身ごろは左右でそれぞれ一枚づつだつたと覚えてゐる。

今回は、後ろ身ごろは背中の中心でつなげやうかと思つてゐる。すなはち、二枚編むつもりでゐる。
その代はり、肩のはぎは入れずに前身ごろと後ろ身ごろとをつづけて編む計画だ。
多分、お頭の袖無し羽織もさうなつてゐるはずだ。

すこし幅の広いマフラーのやうなものを二枚編んで背中の部分だけつなげる。
それでかなり袖無し羽織に近いものができあがるんぢやないかな。
あとは脇をとじればいい。脇をとじなかつたら羽織ぢやなくてポンチョになりさう。
ポンチョもいいなあ。

問題は、ただまつすぐ編むと、縦方向にダレることだ。
今回はガーター編みで編むことを考へてゐる。
ガーター編みやメリヤス編みの編み地には縦方向に伸びる性質がある。
袖無しではあるが、羽織にはそれなりに長さがある。
その分糸も使ふから重さもそれなりになるだらう。
といふことは、縦にのびやすい羽織になるといふことだ。

これを解消するのに、編み地をバイアスにしたらどうかと思つてゐる。
以前、multidirectional diagonal scarf といふマフラーを編んだことがある。
角から編み始めるマフラーで、編み地が斜めになるものだ。multi なのでときどき斜めになる方向が反転するんだけど、これを反転させずに編んでみたらどうかなあ。
編み地がのびるのは避けられないけれど、縦にのびることはなくなるだらうし。

と、斯様にいろいろ考へてゐると、袖無し羽織も一枚だけでは足りないやうな気がしてくる。
experiment のためには二枚三枚と編まないとダメだ。

まだまだ端を編みつぱなしにするかとかi-cordを編みつけるかとかほかのことをするかとか、考へたいこともたくさんあるしね。

袖無し羽織、なんだか楽しさうだ。
完成は遠さうだけど。

Friday, 26 August 2016

歌舞伎の本を読んでゐたころ

芝居を見に行くやうになつたころは、東京からすこし離れたところに住んでゐた。
ゆゑにさう足繁く通ふわけにもいかなかつた。

最初のうちは友人を誘つてゐたこともあり、さうしよつ中誘ふのも気が引けた。
なんにでも興味を示しなんでもやつてやらうといふ人ではあつたが、こちらの趣味に引きずり回すのはどうだらう、といふ気持ちがあつた。
お互ひ frugal であつたからといふこともある。

それでどうしてゐたのかといふと、仕方がないので芝居に関する本を読んでゐた。
といつて、たいした本を読んでゐたわけではない。
地元や学校の図書館に行つてめぼしい本を借りて読んだり「演劇界」のバックナンバーを見たり江戸時代の役者評判記の類を読めぬなりに眺めてゐたりした。

「演劇界」バックナンバーや役者評判記を読むきつかけは、橋本治だつた。
芝居を見始めて「これは今後も見続けるな」と思つたころ、一番気に入つてゐたのが橋本治による歌舞伎の話だつた。
当時は「広告批評」に芝居の話や役者絵の話などを書いてゐたことがあつたやうに思ふ。
それと、当時発売されたものと記憶する三島由紀夫の「芝居日記」とがその後の芝居見物人生に影響を与へた二大柱だ、と自分では思つてゐる。

「演劇界」のバックナンバーを読むやうになつたのは、橋本治が「昔の劇評には、「誰某のなんといふ役はこれこれかういふしぐさをしてゐたが、それは役の性根とあつてゐない」みたやうなことが書かれてゐる」と書いてゐるのを読んだからだ。
しぐさで役の性根とあふかどうかだなんて、当時のやつがれにはわからなかつた。
いまでもわからない。
当時の「演劇界」その他の劇評には、そんな内容は書かれてゐなかつた。
それで昔の劇評を読み始めてみたのだけれども、これがてんでわからなくてねえ。

そもそも芝居自体を知らないし、見たことのない芝居について書かれてもさつぱりわからない。
結局、写真を見たり役者へのインタヴュー記事を読んだりするばかりだつた。
「演劇界」はたまに「梨園の奥様特集」をすることがあつて、片岡秀太郎と高田美和とが仲よく写つてゐる写真を見た記憶がある。おなじページか向かひのページに坂東彦三郎夫妻の写真が載つてゐた。
そんなことしか覚えてゐないのが我ながら情けない。

役者評判記の方はもつとわからなかつた。
古文を読む素養がなかつたといふのが大きい。
江戸時代のものではあるけれど、いまの文体とはやはり違ふ。
それに、「わかる人にはわかる」書き方をしてゐるのもわからない理由のひとつだ。
いま読んだらもつとわかるのかなあ。
とにかく「おもしろいことおもしろいこと」を求めて読めぬなりに眺めてゐた。
それくらゐ、芝居に飢ゑてゐたといふこともあらう。

結果、なんだか頭でつかちな芝居好きになつてしまつた。
でも考へてみたら、歌舞伎を見たいと思ふやうになつたのはそれよりももつと前だし、学校の音楽室の準備室にあつた歌舞伎のムック本を音楽の教師に頼みこんで貸し出してもらつたりしてゐたことを考へると、もともと頭でつかちではあつたのだ。
このときのムック本で中村歌右衛門と実川延若とを覚えたんだもんね。
ふたりともビジュアルが強烈だつた。
梅幸の「藤娘」を見たいと思つたのもこのころ読んだ本のせゐだし、「切られ与三」のお富は雀右衛門(先代)がいいらしいと知つたのもさうだ。
いづれも実際に見ることが叶つたのは、幸せなことだと思つてゐる。
さうさう、宗十郎と先代の時蔵、先代の錦之助の三人が赤姫のこしらへで一緒に座つてゐる写真なんかもこのとき見たんだよなあ。白黒写真だつたけど、いい写真だつた。なんの役だかさつぱりわからなかつたけどさ。やつがれの小川家推し人生はこのあたりからはじまつたのかもしれないなあ。

二段階で頭でつかち養成ギプスをはめられたやうなものなので、この性質はおそらく今後もなほらないだらう。
とはいへ、だからといつて理屈とか理論とかはさつぱり頭に入つてゐないので、そこらへんでバランスがとれてたりしないかな、と思つてもゐる。

Thursday, 25 August 2016

死人のことしか考へない

死んだ人のことばかり考へてゐる。

予定のない休みの日はお酒を飲みつつ本を読む。
すでに死んだ人が、自分より前に死んだ人のことを書いた本だ。
司馬遷の「史記」ともいふ。
読み進むうち次第に酔ひも手伝つて、著者の気持ちになつたり登場人物の気持ちになつたりもして、ふはふはとした心持ちになる。
即ち自分も死んでゐる。
すくなくとも現代を生きてはゐない。

TVは見ないが録画した番組は見る。
ここにも何度か書いたとほり、「鬼平犯科帳」「必殺仕事人V旋風編」「新・座頭市」を見てゐる。
いま見ると、死んだ人ばかりが出てゐる。
ま、さうでもないか。
さうでもないけれど、「鬼平犯科帳」にしても「この人はもうゐない」「この人ももうあの世だ」といふことが多い。
すでに佐嶋は出てゐないしね。
昨日は加藤武回だつたが、加藤武もゐなければ、その加藤武演じる役と古いなじみの彦十役の江戸屋猫八もゐない。
沢田もゐない。
粂八もゐない。
夏八木勲が出ることもないし、北村和夫の役は橋爪功になつたんだつけか。
ゐない人だらけだ。

「鬼平犯科帳」がほぼ二十年前の番組だ。
その十年以上前の「必殺仕事人V旋風編」、そのさらに十年近く前の「新・座頭市」になると点鬼簿に名前の載つてゐる人の方が多いこともある。
仕事人にしても座頭市にしても、そもそも主役がもうゐない。
「新・座頭市」はさういへばこのまへめづらしくゲスト俳優がみな存命なんてなことがあつた。十朱幸代に津川雅彦、江幡高志に石橋蓮司だつたかな。でもこんなことは滅多にない。
辰巳柳太郎、岸田森、石原裕次郎、丹波哲郎。
みんなゐない。
ゐない人だらけだ。

芝居を見に行くくらゐだから、生きてゐる人のことも考へないわけぢやあない。
でも、一昨日だつて双蝶会で「車引」を見ては「十三代目仁左衛門の時平は出てきたときに陽炎のたつやうなゆらめく妖気があつたんだよなあ」だとか「先代の山崎屋の時平は如何にもな雰囲気でさー」とか考へてゐるし、「寺子屋」だつて「宗十郎の千代はほんとに泣いてるみたやうで、でもちやんと丸本だつたよなあ」だとか、中村屋と大和屋との「寺子屋」とか、舞台を見ながら別の舞台を反芻することが多くて、な。

この先何年かしたら芝居を見に行くこともないかもしれない。
さう考へることもある。
でも五月と今月と「寺子屋」を見て、やつぱり芝居としてうまくできてるな、と思つた。
今後も見たい。すなはち、生きてゐる人々の関はる芝居を見ていきたい。
さう思ふ一方で、「寺子屋」がこんなにおもしろいのは、長年にわたりいろんな役者やその他の人があれこれ手を入れ工夫した結果なんだらう、といふことに思ひ至る。
やはり彼岸に行つてしまつた人々のことにたどりついてしまふ。

この世に思ひ出してくれる人のゐるかぎり、死んでなどゐない。
さういふ説もある。
といふことは、司馬遷はまだ生きてゐるといふことか。
「史記」に出てくる人々もみなさうか。
もしかすると、世間的には死んでゐるのかもしれないけれど、やつがれの中では死んではゐない。
佐嶋も沢田も彦十も、主水も市もその他の人も、みんなみんな生きてゐる。
さういふことなのかな。

ただ、さうした人々を生きてゐるやうに語ると周囲から奇異の目で見られることがある。
それだけのことなのかもしれない。

Wednesday, 24 August 2016

Writer's Block考

世の中には、思つたこと感じたことを文章として書くのが大層苦手といふ人が一定数ゐるのださうだ。

ちよつと前にTwitterのTimeLineにRTされてきたつぶやきから知つた。

そのつぶやきは、なぜ読書感想文はむづかしいのかについて述べてゐた。
Twitterでつぶやいてゐる人々にはわからないかもしれないが、と前置きして、世の中には自分で思つたこと感じたことを文章として書き表すことを苦手とする人がゐる、といふやうな内容で、さらに読書も必要とする読書感想文といふのはさういふ人にとつては非常な難関なのだ、といふ。

Twitterで日々つぶやいてゐる人があれだけゐて、それでもさうなのか、とちよつと感慨深く思つた。

だが待てよ。
もしかしたらTwitterで日々つぶやいてゐる人のつぶやきの大半は、なにかしら interactive なものなのかもしれない。
フォロワーとのやりとりとか、連絡とか、そんな内容が多いのぢやあるまいか。
#この際botのことは考へないことにしたい。

人とのやりとりと自分の思つたことを書くのとは違ふ。
他人とやりとりする場合、相手からのことばに対応する必要があるので、そこでうまくことばが出てくるといふことがあるのかもしれない。
外から「つぶやけ」といふ刺激があるわけだ。
相手も多弁な人であるならば、そこで大量にやりとりが発生することになつて、それであれだけの数のつぶやきになるのぢやあるまいか。

一方、自分で思つたことをつぶやくには、自分から「つぶやかう」と思ふ必要がある。
なにもそんな大層なことではないのだが、外的要因よりは、「これについてつぶやきたい」といふ内から生じる衝動のやうなものがいる。

この内的衝動が発生しやすい人と発生しにくい人がゐるんぢやあるまいか。

さらにいふと、さうした内的衝動が発生しても、つぶやけない(書けない)ときがある。
おそらくこれが世に云ふ「writer's block」といふアレなのではないかと思つてゐる。

なにか書きたいことがあつてノートに向かふ。
でも書き出せない。
書きたいことはわかつてゐる。
かう書きたいといふ意思もある(ないときもある。これはこれで苦しい)。
なのに書き出せない。

さういふときが往々にしてあるんだな。やつがれだけのことかと思つたら、どうやらさうではないらしい。

人生チャフまみれで、このblogやTwitterでもほんたうに書きたいことは書かずにその周辺のことばかり書いてしまふ。
ずつとさうして暮らしてきたからそれでほんたうに書きたいことが書き出せないのではあるまいか。
さう思つてゐた時期もあつた。
でも違ふ。

この「書きたいのに書けない」といふ状態は、「ほんたうのことを書くのは気が引けるから」とかさういふ恥づかしさとは違ふ。
や、まあ、さういふ恥づかしい思ひもないわけぢやあないけれど、それだけぢやないんだな。
心のどこかに、書きたいことを書き出さないやう制御してゐる部分がある。
それが強烈に働くときとたいして作用してゐないときとある。
どうやらさういふことなのではないか、と、ここのところ思つてゐる。

昨日の午後、久しぶりにちよつとだけまとまつた時間が取れたのでノートに向かつてみた。
ここのところ書けてゐなかつたので、だいぶ書く量と速度とが落ちてしまつてゐる。
昨日は、MD NOTEBOOK の無地の文庫サイズにだいたい原稿用紙1.5枚くらゐでまとまつた内容を4つ
ほど書いた。
ひとつ書くと別に書きたいことができてしまひ、延々と書き続けることになる。
時間の制限がなかつたら、まだ書いてゐたことだらう。

でも書きながら思つてゐた。
この内容をかう書きたいわけぢやない。
もつと違つたことが書きたい。
それでことばをつらねていくうちにどんどん長くなる。
別段誰が読むわけでもなし、のちに推敲するわけでもないからとにかく書く。
ものすごく書けてゐるやうでゐて、心の中では「違ふんだ。かういふことが書きたいわけぢやない。もつと違ふことを書きたいと思つてゐるのに」といふわけで、満ち足りず、さらにノートを汚していく。

なんなんだらうね、これは。
語彙に乏しいから書きたいやうに書けないのだらうか。
これはある。
こどものころあまり本を読まずに育つたので、おそらくやつがれの語彙は貧弱だ。貧弱でなければウソだ。

語彙が豊富ならこんな思ひをしなくてすむのだらうか。
それもなにか違ふ気がする。

とにかく、書きたいことを書きたいやうに書かせてくれない力が、自分の内部で働いてゐる。
そんな気がする。

そして、先日TimeLineで見た「世の中には思つたこと感じたことを文章に書き出すことの苦手な人がゐる」といふのは、かういふ状態に近いのではあるまいか、などと考へたりもするのだつた。

うーん、全然近くないか?
かへつて遠いのかな。
うむ。

Tuesday, 23 August 2016

助六の紫 虎三の紫

タティングレースのネクタイは、進んではゐるものの、進んでゐるやうには見えない。

ネクタイの両端にひし形のモチーフがつく。そのモチーフとモチーフとをつなぐ部分の折り返し地点になかなか到達しないのだ。
エジングのやうな部分だ。
ひし形のモチーフの周囲を縁取りつつモチーフとモチーフとの連結部を作つていくのだが、これがなかなか長くならない。
ジャボ風にする予定なのでそんなに長くするつもりはないんだけどなー。

そんなわけで、進んではゐるけれども目に見えた進捗はない。
長さを確かめながら結んでゐるのも敗因のひとつかと思ふ。
だいたいいくつ作つたら終はり、といふのを最初に割り出さなかつたのがいかんな。
いまから割りだしてもいいのだが、なんとなくさういふ気力はない。

作りつついまさらながらに思ふのは、やはり白か生成、もしくは黒にするのだつたなあといふことだ。
その方が使ひやすさうな気がしてきたのだつた。

もともとは、白や生成だとお上品に過ぎて使ひづらいのではないかと思つた。
それで江戸紫色にしたのだつた。
江戸紫色だと服の色を選ぶかもしれないが、白や生成のもつ上品さがちよつと薄れる。
その方が使ひやすからう。
さう思つた。
いまでもさう思つてはゐる。

しかし紫といふのはそれはそれで使ふのがむづかしい色である。
色はなんでもさうか。
でもなー、赤とかだつたら黒とあはせればいいやうな気がするし、青でも然りな気がする。
黄色を黒とあはせるのはちよつと派手な気がするが、だつたらチャコールグレーとか紺とあはせればいい。

しかるに紫。
黒とあはせるとアヤシくなる可能性がある。
赤や青とはちよつとむづかしいな。
白ならなんとかなるかもしれないが、生憎白い上着を持つてゐない。

それを考へると助六さんとか「鬼一法眼三略巻」は「菊畑」に出てくる虎三実ハ牛若丸とかの衣装つてすごいよなー。
あの紫の使ひ方。
助六さんは黒が大部分をしめてゐるからいいのかなあ。
でも虎三。
あの衣装を着こなせるつて並大抵のことぢやない気がするよ。
衣装負けしさうだもんね。

そんなわけで、いま作つてゐるタティングレースのネクタイも、できあがつたらそのまましまひ込まれる運命にあるのかもしれない。
作るのが楽しければそれでいいのである。

Monday, 22 August 2016

云ひ訳ばかりくり返す

パピーのピマデニムで編んでゐた Lacy Baktus が編み上がつてしまつた。

まだ整形はしてゐないので写真は撮つてゐない。
今週、どこかで整形したいと思つてゐる。

前回も書いたとほり、綿、いいですな。
一年を通して使へさう。
ピマデニムの編み地は、一見ちよつとざらつとするかなといふ印象なのだが、触つてみると案外やはらかくていい感じだ。
針をちよつと太めにしたのもよかつたのかもしれない。
ネットで検索すると、ピマデニムで編んだものには帽子やポシェットなど直接皮膚に触れないものが多いやうに思ふが、マフラーとかスカーフとかもいいんぢやないかと思ふ。
まあ、ここのところえらく蒸し暑くてずつと巻いてゐたわけぢやないけれど、羊毛の糸(いはゆる「毛糸」ですな)で編んだもののやうなチクチクする感じはない。

綿、いいなあ。
デビー・ブリスがよく綿の糸で編んだものをデザインしてゐたよな。
「綿なら一年中着られるから」と云つてゐたやうに思ふ。
デビー・ブリス。
あこがれでしたなあ。
最近はどうしてゐるんだらう。
あとで検索してみるか。

ところで困つた事態が発生してゐる。
編むものがなくなつてしまつたのだ。
あみもの、そんなに好きぢやないかもしれないんだよね、とか云ひながら、編むものがないとひどく心細い。
これつてもう好きとか嫌ひとかぢやなくて、ないとゐられないといふ状態なのぢやあるまいか。

「編めない編めない」と云ふのは、きまつてなにか編むものがあるときのことだ。
Lacy Baktus は、比較的集中して編んでゐたけれど、それでも全然編めない日もあつた。
蒸し暑いとどうも、ね。
気温は高くないのかもしれないけれど、湿度が高いときなんかは覿面に編めない。
でもそれつて、なにかを編んでゐる最中だからなんだよね。

とりあへず、涼しくなつてきたら袖無し羽織を編むつもりで、日夜「鬼平犯科帳」で研究してゐる。お頭がよく羽織つてゐるんだよね、袖無しの羽織を。
あと、先代の中村又五郎も出てきたときに着てゐたし、古い必殺シリーズを見たりすると岸田森が着てゐたりする(「必殺仕事人」か?)。

しかし、それを編むにはまだ暑すぎるんだよ。
軽くしたいので、家にあるフェルテッドツイードを総動員して編まうと思つてゐるのだが、それを集めてくるだけの気力もない。
暑すぎて。
いや、むしろ、蒸しすぎて。
フェルテッドツイードの色はさまざまなので、にぎやかな羽織になるはずだ。
だいたい袖無し羽織なんぞ外には着ては行かないので、それでいい。
羽織を編みたいといふのは、十年来(いや、もつとか)の野望でもあるし。
ほんとは袖のあるのも編みたいんだけど、それは次の段階にとつておくことにする。

羽織も綿の糸で編むといいのかもしれないが。
それだと糸を買はねばならないし……と書いたところで、十分な量があるかもしれないことに思ひ至る。

デビー・ブリスのコットン糸が着分、タンスの底に眠つてゐるはずだ。
……気づいてしまつたか。

で、でも、綿の糸だと重たくなるかもしれないし、それに袖無し羽織なんて年がら年中着るものぢやあないし……
と、延々と心の中で云ひ訳をくり返してゐる。

ROWAN DENIM も廃番になる前に買つたものがあるのだが、それはまた別の話。

Friday, 19 August 2016

並行宇宙の「シン・ゴジラ」

「シン・ゴジラ」の世界には、映画「ゴジラ」は存在しない。
あの映画の世界の人々は、ゴジラを知らない。多分、メカゴジラもキングギドラもガメラやモスラもゐないんぢやあるまいか。
ゴジラを知つてゐたら、怪獣をゴジラと名付けるときにあんなに不思議さうに名前を口にしないし、もつと早くに「ゴジラ。似てゐるな」といふやうなせりふがあつたはずだ。

あの世界にはウルトラマンシリーズもないだらう。
あつたとしたら、怪獣が出現したときに「ウルトラマンに出てくる怪獣に似てゐる」といふ反応があるはずだからだ。
あの世界にも円谷プロダクションはあるだらう。
なにを撮つてゐたのかなあ。
「怪奇大作戦」とかその路線ばかりなのだらうか。打ち切りになることなく、延々とシリーズがつづいてゐたりして、岸田森が大活躍してゐたりするのか。
ウルトラマンシリーズがないとしたら、「パシフィック・リム」もないな。

さう考へると、「シン・ゴジラ」の世界は、現実世界からちよつと位相のそれた世界、並行宇宙でのできごとのやうな気がしてきて、クラクラしてしまふ。

「それを云つたら大抵のフィクションはさうでせう」といふ話になるとは思ふ。
でもちよつと違ふんだな。
なにもかも現実世界そのままで、でもある一点がちよこつと違ふ。
さうすると、もしかするとその世界は現実でもあり得たわけで、さらにはあの世界に存在する自分といふのがゐて、得体の知れない巨大生物の動向にハラハラドキドキしてゐるかもしれない。
そんな気がしてしまふのだ。

ウルトラマンシリーズがなかつたら、こどもの時なにを見て育つたらう。
仮面ライダーか。
なんとなく、東映の特撮ヒーローものはあの世界にもありさうな気がする。
でも戦隊ヒーローものの敵は巨大化はしないんだらうな。
してたら「アレに似てゐる」といふ話に絶対なるもの。

さういふバカバカしいことをつひ考へてしまふ。

BBCのTVドラマ「SHERLOCK」でもさうだつた。
「SHERLOCK」の世界では、コナン・ドイルはシャーロック・ホームズものを書かなかつたことになつてゐる。
コナン・ドイルといふ作家は過去に存在して、「ロスト・ワールド」ものとかは書いたのかもしれない。
でも、シャーロック・ホームズものは書かなかつた。
書いたとしても世には出ず、出たとしてもすぐ消へてしまつた。
あれはさういふ世界の話だ。
エドガー・アラン・ポーはゐて、オーギュスト・デュパンを世に遺しはしたらう。
ホームズではなくて、なにかしら似たやうな名探偵の出てくる探偵小説があつたりはしたのかもしれない。
ひよつとすると、モーリス・ルブランもアルセーヌ・ルパンシリーズは書かなかつたんぢやあるまいか。
なんかわりといきなりクリスティだのクイーンだのが出てきたりしたつてことも考へられるよな。
あのドラマを見てゐると、つひつひそんなことを考へてしまふ。

ほんのわづかの違ひから生まれる違和感がたまらなく楽しい。
ちよつと足下のゆらぐ感覚がする。
いま生きてゐるこの世界とは別の、ゴジラとかシャーロック・ホームズとかの存在しない世界があつて、いま自分はスクリーンやTV画面からそれを覗いてゐるのぢやあるまいか。

「シン・ゴジラ」の世界の人々は、ゴジラを知らない。ウルトラマンも「パシフィック・リム」も見たことがない。
その代はり、なにかおもしろいものを見てゐる。
そのはずだ。
それはどんなものなのかなあ。

確認しに、二度めを見に行くことにしやうかな。

Thursday, 18 August 2016

無用の用考

「人皆有用の用を知る。而るに無用の用を知る莫きなり」とでも読み下すのだらうか。
「荘子」に出てくることばである。
最近読みなほしたときだらう、メモ帳にこのくだりを書き出したあとがあつた。

「無用に思へるものこそ実は有用なのだ」といふ解釈がある。
果たしてさうだらうか。
「無用の用」は、「有用の用」とは違ふ。
有用でないところに無用の用があるのぢやあるまいか。

「荘子」に、巨大な木の話が出てくる。
その木は枝や根はやたらとこぶがあつて曲がりくねつてゐて使ひものにならないし、柔らかくて弱いので建築や家具には使へないし、芽や実が食べられるわけでもない。
まつたく役に立たない木である。
だが、それゆゑに、ここまで巨大になるほど長生きできたのだ、といふ話だ。

この話でいふ「有用の用」とは、枝や根はこぶがなくて使ひやすく、あるていどの強さがあつて建築や家具の材料にしやすく、芽や実を楽しむことができるものだ。えうは他人のためになることをさしてゐる。
「無用の用」は、巨大になるほど長生きできること、だらう。使ひものにならない木が大きくなつたところで他人の役にたつわけではない。しかし木自身にとつてはこんなにいいことはない。

「無用の用」が自分自身にとつてのいいことをさす、といひたいわけではない。
「有用の用」とはまつたくべつものだ、といひたいわけだ。

そもそも「無用と思はれるものほど実は有用だ」と、無用であることよりも有用であることの方が尊いと考へるあたりが違ふんぢやないかなあ。
「無用の用」とは、役にたつとかたたないとか、そんな了見の狭い話ぢやあないと思ふ。
といふか、さう思ひたい。

「「無用の用」とはこれこれかういふもの」と理解してゐるわけぢやあない。
中国文学とか中国哲学を勉強したことはない。
ごくまれに文庫本の「老子」とか「荘子」とかをひつぱり出してきてぱらぱらとめくる程度で、読み返すたびに「……こんな話だつたつけか」といふことばかりである。
さうか、この読み返し自体がまさに「無用の用」なわけだな。

そんなわけで、やつがれの勝手な解釈は間違つてゐるのかもしれない。
「無用の用」といふのは世間一般でいふとほり、「無用に見えるものほど実は有用である」といふ解釈が正しいのかもしれない。
でも、なんかそれ、しつくりこないんだよなあ。

「昼行灯」の次が「無用の用」といふあたり、有用の用に縁のないことを露呈してゐる気がする。
お恥づかしい限りである。

Wednesday, 17 August 2016

昼行灯考

昼行灯とは、昼間つけた行灯のやうにぼんやりとしてゐて役に立たない人のことを嘲つていふことばである。

昼行灯の代表といへばこれはもう大石内蔵助で、忠臣蔵を題材にした物語なんぞを読むと、普段「昼行灯」とバカにされてゐる内蔵助について、「昼行灯は、昼間は役に立たない。でも夜になれば話は別」といふやうなことをいふ人がでてきたりする。
なんとなくあとづけの解釈のやうに感じられる。
いま物語る人は、内蔵助が五十人弱の赤穂浪人たちをとりまとめ、みんごと仇敵・吉良上野介の首級を手にしたことを知つてゐる。
だから、内蔵助が「昼行灯」とバカにされてゐるのを見て「昼(平時)には無能かもしれないが、夜(有事)には有能である」といふやうなことを書いたり登場人物にいはせたりしたくなるのだらう。

昼行灯は夜には使へるやうになる。
似たやうな表現に「夏炉冬扇」とか「秋の竹夫人」といふことばがある。こちらはどこか艶めかしさを覚えることばだ。
「昼行灯」が役に立たない人間をさすことばだとすると、「秋の竹夫人」はともかく「夏炉冬扇」といふのは寵愛を失つた女の人をさすことが多い。
炉は冬になればまた使はれるし、扇は夏になれば涼を与へてくれるやうになる。
だが、行灯とちがつて、炉や扇には適切な季節がめぐつてきたらまた有用になるといふ印象がない。
うち捨てられてそのまま、といふ感じがする。
それは前述のやうにかつては主君の心を独り占めしてゐた寵姫のおちぶれたやうすをさすときに使はれるからかもしれない。
あるいは、行灯といふのは夜になればすぐにでも有用になるけれど、炉や扇は来年になるのを待たなければならず、そのあひだずつと無用のものだからといふこともあるだらう。

ひとたび寵愛を失ふと、二度と得ることはできない、とはよくいはれることである。
かつての寵姫が自分の座を奪つた新しい相手に復讐をはかるといふのはよくある話だ。
その新たな寵姫を殺したとして、もとの寵姫にまた主君の愛が戻つてくるかといふと、さういふことはあまりないのださうな。
ほんたうにさうなのかどうか、確認のしやうがないのが残念だが、たとへば気に入つてゐるペンがあつたとして新たに別のペンを買つたらそちらの方に愛情がうつつてしまつたとしやう。新たなペンが壊れた場合、もともと愛用してゐたペンに愛情が戻るだらうか。
と考へると、戻る気もするし、壊れたのとおなじやうなペンを買つてきてしまふやうな気もする。
いづれにしても、復讐するなら自分の後釜ではなく自分から心をうつしてしまつた主君なのではないかといふ気がするが、これがさうならないのがまた不思議だ。
ホセはカルメンを殺すのにね。

昼行灯とは、また、勤め人をさすことが多いやうにも思ふ。
一条大蔵卿のことを「昼行灯」とはいはぬ気がするからだ。
大蔵卿にだつて、一応は職務があらうし、身分としては天子の部下なんだらうけど、有り体に云つて、働いてゐるといふ感じは皆無だ。
あの状態で働けるとは思へないけどさ。

こんなことを書くのも昨日Twitterで「昼行灯が実は有能な人物のことをさすのは中村主水や後藤隊長の影響だらう」といふやうなつぶやきをみたからだ。
うーん、内蔵助ぢやないのかな。
ま、いいか。
中村さんは昼行灯の名に恥ぢず、昼間はぼんやりしてゐるかもしれないが、夜になると見事に仕事(/仕置/商売/whatever)する。
後藤さんははどうかな。
内蔵助?
討ち入りは夜だつたよね。

もちろんさういふ話ではない。

Tuesday, 16 August 2016

内と外との棲み分け

タティングレースのネクタイは、すこし停滞気味ながら進んでゐる。

停滞気味な所以は、先週は木曜金曜と休みをとつたからだ。
やつがれにしてはめづらしいことである。
毎年、世間がお盆休みの時期には出勤することにしてゐる。
電車がすいてゐるし、職場も閑散としてゐるからだ。
もつといふと、職場には「お盆休み」といふものがないからだ。
今年はおなじ部屋に忙しく働いてゐる人々がゐて、なんとなく気忙しい。
それに、いまゐる部屋はそんなに涼しくない。夕方も早い時間に冷房が切れるしな。
そんなわけで、有給休暇を取ることにした。

休んで家にゐるんだからそのあひだにタティングすればいいのに。
さう思ふ向きもあらう。
やつがれもさう思ふ。

この休みは Lacy Baktus ばかり編んでゐた。
最近、家ではあみもの、外ではタティングレースといふ棲み分けができてゐる。
単に持ち歩きやすいものは外で、といふ図式だ。

以前はあみもの道具もよく持ち歩いてゐた。
トートバッグに入れて、いつでも取り出せるやうになつてゐた。
定期券を買ふ列に並んでゐるあひだに編んだり、発車を待つその駅始発の電車の中で編んだり、人を待つあひだ駅のベンチで編んだりした。
当時もタティングはしてゐたから、タティング道具を持ち歩くこともあつたと思ふのだが、あまり記憶にない。
タティングレースよりもあみものの方が世間に知られてゐるので、奇異の目で見られることが少ないからあみものをしてゐた、といふ話もある。
逆に、知られてゐないからタティングレースだとはふつておいてもらへる、といふこともあつた。
そこのところは一長一短だ。

タティングレースは大きくなつてくると外で作るのはむづかしくなつてくるしね。
白や生成の糸となればなほさらだ。
汚れるからね。
そこでモチーフつなぎの達人なんかは、外ではモチーフ単体を作り、家では作つたモチーフをつなぐ、なんてなことをするのだらうが、生憎とやつがれはモチーフつなぎが苦手である。
好きなんだけどなあ。
どうも、モチーフつなぎはあみものにせよタティングにせよ、きちんと完成できることがあまりない。
タティングレースだと特に、「本ではもつとつなぐことになつてるけど、まあこのあたりでいいか」と勝手に小さくしてしまふことが多い。

ほんとはいいなあと思つてゐるんだけどね。
外ではモチーフを作りため、家では作りためたモチーフをつなぎつづける。
理想的な作業仕分けだ。

ネクタイもだんだん長くなつてきて、外で作るのにはあまりむかなくなつてきたやうにも思ふ。
ただ、前回も書いたやうにジャボのやうな使ひ方を想定してゐるので、そんなに長くはしないつもりだ。
なんとか外出用として作りつづけることができるんぢやないかな。

そんなこと考へるんだつたら家で作れよ、とは、もちろん思はないわけではないが。

Monday, 15 August 2016

Lacy Baktus in Progress 2016 夏

パピーのピマデニムで編んでゐる Lacy Baktus は、減らし目に入り、快調に進んでゐる。

Lacy Baktus は、細長い二等辺三角形になるスカーフといふかショーレットで、片方の鋭角から編み始める。八段一模様で、前半は四段に一度増やし目をし、後半は四段に一度減らし目をする。

Lacy Baktus は、Baktus といふスカーフといふかショーレットにレース模様を入れたものだ。Baktus はガーター編みで編む。
Lacy Baktus にしたわけは、さうすれば少ない糸の量でそれなりの長さのスカーフになるだらうと思つたからだ。これは前回も書いた。

思惑通り、少ない糸でそれなりの長さが出るやうだ。

ピマデニムは一巻き125m/40gだつたかな。結構長さがある。
おそらく二玉でちやうどいい大きさの Lacy Baktus になるだらうと見てゐる。二玉で足りなくてもポシェットを編んであまつた糸があるので、それでなんとかなる計算だ。

針は七号、と、これも前回書いたな。
糸のラベルには大きい方の針は5号と書いてあるけれど、すこし太い針にした。レースつぽくするにはその方がいいかな、と思つたからだ。

編んでゐて、今後の課題だなー、と思ふ点がふたつある。
ひとつは一目内側の増やし目をきれいに編む方法。
もうひとつは伸縮性にとぼしい糸での二目一度を楽に編む方法だ。

前半の増やし目は、一段目で一目内側にかけた目を二段目で編むといふ編み方だ。
減らし目は一目内側で二目一度を編む。
なぜか端の線は減らし目の方がきれいに出る。
増やし目はかけ目にして次の段で編むよりも目と目とのあひだにわたつた糸を引き上げて編んだ方がきれいになるのかなあ。
あるいはいはゆる knit in front and back 方式か。
ぱつと見てわかるくらゐ増やし目側と減らし目側とで端のラインが違ふんだよね。
最初増やし目だけしてゐたときは、整形するときにきれいにのばせばいいかー、と思つてゐたけれど、編み方を工夫する必要があるのかもしれない。

ピマデニムは編みやすい糸である。
編みやすい糸ではあるけれども、綿の糸なので毛糸よりは伸縮率が低い。
したがつて、レース模様部分の二目一度とかけ目とをくり返す部分はちよつと編みづらい。
とくに二目一度を編むときは「えいや」と力を入れて編んでゐることがある。
これ、なんかもつと楽に編むことはできないのかね。
もつとゆるめに編めばいいのだらうか。
でもさうするとだらんとしさうだしねえ。
いはゆる「左上二目一度」で編んでゐるのだけれど、「右上二目一度」の方が楽だつたりするのかな。
これも楽だからといつていまさら変へることはできないので、今後の課題かな。

……といふことは、今後また Lacy Baktus を編むことがある、といふことだらうか。
うーん、どうかなあ。
この秋冬は、マフラーを編んでみやうかな、と思つてはゐる。
ここ数年、首回りのものといつて、cowl といふか、ネックウォーマのやうな筒状のものばかり編んできた。
久しぶりに長いマフラーなんかいいんぢやないか。
さう思つてゐる。
そこでもう一度 Lacy Baktus に挑戦するか。
するかなあ。
するときは、増やし目と二目一度とには気をつけたい。まあ、二目一度は毛糸なのでそんなにつらいことはないとは思ふけど。

この秋冬は、袖無しの羽織を編んでみやうかと思つてもゐる。
これは「鬼平犯科帳」を見てゐるとお頭が着てゐたりするのを見かけるからだな。
ちよつと幅の広いマフラーを二枚編んでつなげるやうなかたちかな、などと考へてゐる。
糸はかるいのがいいだらうからフェルテッドツィードにするつもりだ。色違ひで何玉かまとまつた数があるのでね。

まだまだ暑い日がつづくといふのに、あみものに関してはこんなことばかり考へてゐる。

Friday, 12 August 2016

来年の手帳について考へる 2016

そろそろ来年の手帳を選ぶ時期になつた。
一昨年あたりの記録を見てゐると、すでに手元に Smythson の SCHOTT'S MISCELANNY DIARY (以下、「SCHOTT'S」)が届いてゐたりする。
来月になればほぼ日手帳の販売もはじまるし、文具店に手帳コーナーもできるだらう。

来年の手帳はどうしやうか。
悩んでゐる。

現在はスライド手帳を使つてゐる。
このシステム手帳のリフィルの両脇にバインダに綴じるための穴が開いてゐて、必要に応じて綴じる側を変へることができる。
この仕組みを使つて、二週間見開きで毎回今週が左側に来週が右側にくるやうに配置することができるやうになつてゐる。
使ひはじめた当初はよかつたのだが、最近あまりよろしくない。
といふのは、仕事の予定が立たないことが多いからだ。
スライド手帳が二週間見開きになつてゐて、つねに今週と次週とを見渡せるやうになつてゐるのは、予定をたてやすくするため、今週来週の予定を見渡せるやうにするため、だ。

ここのところ、その日に仕事がふつてきてその日中、よくて翌日までに仕上げなければならないといふことが増えた。
予定が立てられないのだ。
スライド手帳は、突然ふつてわいたやうなことは赤字で書くやう推奨してゐる。
書くと真つ赤になつてしまふといふ寸法だ。

事前に先を読んで対応できないのか。
できないんだな、これが。
自分から働きかけることのできる要素がまるでない。

それでせつかくのスライド手帳も最近は普通のスケジュール帳とほとんど変はらない状態になつてゐる。

仕事は仕方がないとして、私事について予定を立ててそれを達成できるやうにしやうか。
それも考へてゐる。
でもなかなかそれを考へる時間がとれなくてね。
だいたいそもそも自分のやりたいことつてなんなんだらう。
そんなものはないのではないか。
そこにたどりついてしまつて、ややまゐつてゐる。
そんな感じだ。

これまで使つてきて長続きしたのは、先にあげた SCHOTT'S とほぼ日手帳とだ。
SCHOTT'S が続いた理由は薄くてどこでも持ち歩けるからだつた。
かばんに入れてもかさばらない。
ゆゑにいつでも手元にあるからいつでも開いて見ることができる。いつでも書き込むことができる。

ほぼ日手帳は一日一ページといふのが使ひはじめたころはちやうどよかつた。
読み終へた本や万年筆のインキを補充した日、その日使つたかばんなどの記録は、フォーマットの決まつた日付のついてゐる手帳に書き記すのが一番わかりやすい。

そして、SCHOTT'S もほぼ日手帳も紙が気に入つてゐた。

自分のスケジュール帳の使ひ方といふのは、予定用といふよりもむしろ記録用といふ趣が強い。
さうするとスライド手帳はあまり向かないのかなあ、といふ気もする。
スライド手帳を記録用に使ふやうにするといふ手もあるけどね。

Bullet Journal を続けるのなら、Rollbahn といふ選択肢もある。
手帳の最初に月間予定表があつて、あとは全部ノート。
来年はこれでいくかなあ。

まあ、まだ時間はあることであるし、スライド手帳の使ひ方も見直しつつ、いろいろ考へてみるつもりだ。
考へてゐる時間が一番楽しいしね。

Thursday, 11 August 2016

二冊流

枻出版のエイ・ムック「システム手帳STYLE」を買つて、早速やつてみたことがある。

手帳の二冊使ひだ。

システム手帳遣ひの人が何人か紹介されてゐて、なかに「システム手帳を「公の手帳」、Moleskineを「私の手帳」」にしてゐる、といふ人がゐた。

ここのところ書かなくなつてゐるのは、システム手帳だとぱつと開いてぱつと書くのがむづかしいから、とは以前も書いたとほりだ。
机のあるところならいいけれど、ないところだとむづかしい。
そして、机のないところでもメモといふよりは文を連ねたやうなものを書くやつがれには、いつでもどこでもシステム手帳といふのはむづかしいとつねづね感じてゐた。

さうか。手帳をわければいいのか。

これまでも考へなかつたわけではない。
でも、Bullet Journal をはじめてなんでも一冊で済む気楽さに慣れてしまふと、なかなか複数冊使ひに踏み切ることができなかつた。

一冊使ひだと信じてゐるのは自分だけなんだけどね。
文庫サイズの三年手帳に日記をつけてゐるし、万年筆のインキを交換したときに記す手帳もほかに使つてゐる。
どこが一冊使ひなのかね。

でも、手帳に必要なのは予定表とメモとだと思つてゐる。
日記やインキ交換の日などはメモに書いておいてあとでうつしなほしてもいい。

それに、あまり書かなくなつてなにか困つたことがあるか、といはれると特にない。
あるとしたら、万年筆のインキが減らなくなつたことくらゐだ。
万年筆のインキはちやつちやと使ひきるくらゐの方がいいと思つてゐるからね。

そもそも、いままでムダなことを書き散らし過ぎてゐたんぢやないか。
さうも思ふ。

でも、せつかく買つた本で読んだし、薄々感づいてゐたとでもあるし、といふので、手持ちの綴じ手帳を「私の手帳」にしてみた。
MD NOTEBOOK 文庫サイズのコットンだ。

すると、まあ、書くこと書くこと。
ここのところ書いてなかつたから以前のやうには書けないが、それでも「いままでこんなに書かなかつたよね」といふくらゐに書く。
書いてゐて次から次へと書きたいことが出てくる。

なんなんですかね、これは。
なぜシステム手帳ぢやダメなんだらう。
やはりリングの左側のページは書き込みづらいからなんだらうか。
それとも、ペンと紙との相性の問題か。

ペンと紙との相性の問題はあると思つてゐるからリフィル・ジプシーなんだけどね。

うーん、システム手帳でこれくらゐ書けるといいんだけどなあ。

ひとまづMD NOTEBOOKはこのまま使ひ切ることにして、そのあひだにシステム手帳とのつきあひをもうちよつと考へることにしたい。

Wednesday, 10 August 2016

リフィル・ジプシー

枻出版のエイ・ムック「システム手帳STYLE」を心待ちにしてゐた。

手元にやつてきて、でもなんだか違つた。
「システム手帳STYLE」はシステム手帳のバインダに関する記事に力を入れてゐて、その他のことについては期待したほどの内容はなかつた。
バインダの記事はすばらしいけれどね。写真が豊富でうつくしくて、うつかりほしくなつてしまつたりする向きもあらう。
革の違ひの一覧や手入れの仕方に関する記事もあつて、革に興味のある初心者にはいいと思ふ。
でもバインダはいま使つてゐる HIRATAINDER が気に入つてゐるし、ほかにほしいとも思はない。
「システム手帳STYLE」で紹介されてゐるバインダを見ても、HIRATAINDER 以上に心動かされるものはなかつた。

期待してゐたのはリフィルの記事だ。
それと、システム手帳がなんとなく使ひづらいのを解消してくれるやうなTips。
たとへば右利きの人は左側のページが、左利きの人は右側のページがどうしても書き込みづらくなる。それを解消する方法が掲載されてゐるといいなあ。
読む前はさう思つてゐた。
そこんとこはもうシステム手帳遣ひの宿命としてあきらめて受け入れるしかないのかもしれない。
がつかり。

五月からシステム手帳を使用してゐる話はここに何度か書いてゐる。
現在のところリフィル・ジプシーだ、といふ話もした。
リフィル・ジプシー。
自分にあつたリフィルがわからず、理想のリフィルを求めて彷徨つてゐる人間を指す。

理想のリフィルがないのだつたら作ればいいぢやあないか。
至極もつともなご意見である。
理想のリフィルの罫線はわかつてゐる。
5mm方眼か6.5mm以上の罫線のリフィルだ。
問題は紙質なのである。
紙質といふか紙の種類といふか。
現在のところ、愛用してゐる萬年筆にしつくりくるのは Moleskine の紙、Smythson の紙、それとトモエリバーだ。
現在使用してゐるリフィルは LIFE の NOBLE REFILL で、いいのだが紙がちよつと厚すぎる。メモはもう少したくさん持ち歩きたい。
ほかに BINDEX のリフィルも試してみた。ペンとの相性は悪くはないが、贅沢をいへばもうちよつと紙が薄いとありがたい。

といふわけで、たどりつくのは Davinci のリフィルなのだが、残念ながら5mm方眼の徳用版がない。
むー。

と、悩んでゐるところに「システム手帳STYLE」だ。
システム手帳に関するムック本である。
期待するなといふ方がムリでせう。

そんなわけで期待して、見事に肩透かしをくらつた、と。
かういふわけだ。

リフィルの記事がまつたくないわけではない。
リフィルを販売してゐる各社の全リフィルが一覧で掲載されてゐるし、各社の主力商品(かどうかはわからないが)の書き比べの記事もある。書き比べの記事では万年筆やボールペンで書いてみてにぢみ具合や裏抜け具合の写真が掲載されてゐる。
リフィルはそれで十分だ、といふことなのだらう。

バインダの方が記事として見栄えがするし、まづ人は外見を気にするものだ、といふことも理解してゐる。
リフィルの記事が地味なものになるだらうことも想像がつく。

でもなあ。
使ひ勝手のいいリフィルがなかつたら、いくら外見のバインダがすばらしいからといつたつて続かないでせう。
それともバインダを使ひたさに使ふだらうか。
使ふかもしれないけれど、長続きはしないだらう。
綴じ手帳にいいものがたくさんあるんだもの。

リフィルについては気になるものをかたつぱしから使つてみるしかないんだらうな。
薄さと萬年筆での書きやすさを求めてゐるのでおのづから選択肢はしぼれてくることだらう。
Davinci で5mm方眼リフィルの徳用版を出してくれれば、悩みはそこで終はるやうもしないではないけれど。

Tuesday, 09 August 2016

レースと色

Tatted Necktie in Progress

タティングレースのネクタイは一見だいぶ進んでゐる。

菱形のモチーフの周囲をぐるつとめぐつて、いまは首にかかる部分を作つてゐる。
目下の悩みは、この首にかかる部分をどれくらゐの長さにするか、だ。

「ネクタイ」とはいふけれど、そして、ネクタイとしか呼びやうはないけれど、これつて多分、ジャボのやうな使ひ方をすると思ふんだよね。
ジャボもネクタイといへばさうかもしれないが。
さうすると、両端の菱形部分がうまいこと襟元にくるやうな長さにする必要がある。
多少ゆるめに結ぶやうに作ることも可能だとは思ふが、どうかなあ。それだと先端部分がちよつと巨大なラリエット風になりさうだな。それはそれでいいか。

悩みつつ、いまのところは長さが気になることはないので、ひたすら結んでゐる。
もうちよつと長くなつたら首に巻いてみて確認しながら作ることにしやう。

ところでこのネクタイを作つたことのある人つてゐるんだらうか。
Google 検索をかけた感じだとゐさうにないんだよなあ。
もちろん、Jan Stawasz 本人かもしくは本に掲載するために作つた人はゐるんだらうけど。
Instagram とか Pinterest を探せばもしかしたらゐるか知らん。
それともいまどきジャボ形式のネクタイなんて作る人はゐないのか知らん。
ジャボはこどものピアノの発表会なんかにはいいかもしれないけどね。
カメオのブローチかなんかでとめて。
古風に過ぎるか知らん。

先週もちよこつと書いたけれど、三銃士の時代なら需要はあつたらうにね。
まあ、こんな江戸紫みたやうな色で20番手といふ太い糸で作つたジャボぢやあ当時は野暮かもしれないな。

やはり繊細な糸で白か生成のジャボが正当なのかな。
なにをして「正当」と考へるのかは謎だけれども。

20番手といふのは本の指定だから考へないことにして、江戸紫色といふのは、華美になり過ぎないやうにと選んだ色だ。
華美といふか、正統派つぽい感じといふか。
白とか生成の糸で作つたら如何にも「レース」といふ感じで、ちよつと使ひづらい気がしたのだ。
江戸紫色ならレースでもちよつとカジュアルな感じがしないか? すると思ふんだがなあ。

タティングレースではとくに、白や生成以外の色を作つた作品をWeb上では多く目にするやうに思ふ。
以前、「白や生成で作るなんて退屈」といふやうなコメントをいただいたこともある。
さうなんだよなー、白や生成で作ると「如何にも」な感じになるのがどうも、ね。
ドイリーならそれでもいいかもしれないけれど、アクセサリとして身につけたりするのには、色があつた方が楽しい。
なにしろ色を選ぶといふところからして楽しいし。

しかし、最後は白や生成に戻るのぢやああるまいか。
そんな気がする。
レースだもんね。

黒いレースといふのもいいものではあるが、それはまたそれ。

Monday, 08 August 2016

なんとなくな世の中

先週はあまり編む時間はなかつたのだが、なんとなく編めてしまつた。
Regia のくつ下毛糸で編んだ Jaywalker である。

Jaywalker

この「なんとなく」といふのは噺家の柳家さん喬の口癖のやうで、マクラなんぞを聞いてゐるとしばしば出てくる。
これがなんとなくいい。
なにをかくさう、やつがれもうつかり「なんとなく」と書いてしまひがちだ。
しかし、世の中は「なんとなく」よかつたり「なんとなく」悪かつたりするものなんぢやあるまいか。
学校に通つてゐた時分、国語の教科書に載つてゐる古文なんぞを読むとやたらと「などとて」とか出てきて、「さうだよねー、世の中、さうさうきつぱり云ひきれることばかりぢやないよねー」などと思つたものだつた。

もとい。

この毛糸はとにかく色が鮮やかでにぎやかで、いふなれば派手すぎる。
夏のこの時期に編むのにはなはだ合はない。
さう思ひつつも編めてしまつた。
かういふ色こそ今の時期に向く、といふ考へかたもあるしね。
かういふ色合ひは春や秋には向くまい。

できるだけ柄はそろへてみたつもりだが、最後の最後でちよつと足りなかつた。
つま先の部分ね。
編み方どほりに編んだら先端の赤い部分が片方は短くなつてしまつた。
残念。

写真のあと、水通しをして乾かした。
が、履くとしてもまだまだ先のことだらう。
九月も暑いといふしね。
しかも今年の暑さは気温が高いといふよりは湿度が高い気がするんだよね。
まだ今年は氷枕を出してゐない。
例年、暑くて寝苦しくなつてくると氷枕を使つてゐる。
今年はまだだ。
暑くて寝苦しくないわけではない。
なんとなく、氷枕だと冷えすぎるやうな気がするからだ。
気温自体はそんなに高くないからだらう。
なぜそんな気がするかといふと、夜になるとセミが鳴きやむことが多いからだ。
一説に、セミは二十五度を越えると鳴きはじめるといふ。
ほんたうかどうかは知らないけどね。
しかし、ある一定の温度を越えたら鳴くといふのはありさうだ。
そして、暑くて寝苦しいと感じるにも関はらず、セミの声のしないことがある。
気温はそんなに高くないんぢやあるまいか。
湿度が高いのがつらいのぢやあるまいか。
そんな気がするのである。

これまであまり「避暑に行かう」などとは考へたことのない人生を送つてきた。
そんなやつがれが、この夏は北軽井沢方面に行くつもりでゐる。
避暑に行くわけではない。
東京マッハといふ公開句会に行く。
最初は行かないつもりだつた。
会場であるルオムの森にどうやつてたどりついたらよいのかさつぱりわからなかつたからだ。
しかし、ゲストが谷川俊太郎だといふ。
前回の東京マッハのゲストは池田澄子と村田沙耶香とだつた。
池田澄子が開口一番云つたことに「ことばに意識的に接してゐる人つてかうなんだー」と深く感銘した。
また、村田沙耶香のとつぴな発想に、「俳句の読みつて、自由なんだなあ」とも思つた。
谷川俊太郎もまた、なにかおもしろい(intriguingな、とでもいはうか)ことを云ふのぢやないか。

といふわけで、追加席の販売があつたので、行くことにしてしまつた。

ところで、軽井沢は涼しいところだが、北軽井沢は寒いところなのだといふ。
試みに昨日Webで北軽井沢の天気を見てみたら、気温が二十四度とある。
夜の気温ですか?
さう問ひたくなるのももつともだ。

夏用の巻物はいくらもあるけれど、この機会に新調するかな。
といふので編み始めたのがこれである。

Lacy Baktus in Progress

パピーのピマデニムで Lacy Baktus を編んでゐる。針はちよつと大きめの7号だ。
Baktus でなく Lacy な方にしたのは、その方が糸がすくなくてもなんとなく大きめにできるんぢやないかと思つたからだ。
それと、夏使ふのだしね、といふのもある。
エストニアでレースのショールが編まれたのは、夏でも夜は冷えるからだといふ。
まあ、そんなことを思ひ出しつつ編んでみた。

問題は、毛糸とちがつて、ちよつと間違へると糸が元に戻らないことだなー。
増やし目をする位置を間違へてしまつて、その場で目をはづしたら、糸がだらんとしたまま戻らなくなつてしまつた。
毛糸だと整形のときに気をつければうまくおさまつたりするけれど、綿の糸だとどうだかなあ。

これを「新・座頭市」の再放送を見ながらちよこちよこ編んだ。
「新・座頭市」は音楽が富田勲(誤変換ではない)ではないのね。
ちよつと残念。
あと市つつあん、髪の毛伸びすぎぢやあないか知らん。
まあしかし、いきなり勝新太郎みづから監督した作品だつたり、辰巳柳太郎に岸田森が出てきたりして、余は満足ぢや、なのだつた。

世の中、捨てたもんぢやないな、と、なんとなく思つたり、ね。

Friday, 05 August 2016

システム手帳が向かないのか方眼罫がダメなのか

五月からシステム手帳を使つてゐる。
その話はここにも何度か書いた。

その三ヶ月前に Bullet Journal をはじめた。
このときは MD Notebook の新書サイズを使つてゐた。罫線は5mm方眼である。Bullet Journal だからね。

MD Notebook では Bullet Journal はうまいこと機能してゐた。
スケジュールもタスクもメモも、すべてこれ一冊でまかなふことができる。
それがひどく気持ちよかつた。

ノートをそろそろ使ひ終はるといふころになつて、ちよつと問題が発生した。
月の途中でノートが終はつたらどうしやうか、といふことだ。
幸ひ、このときは残りのページ数はたいしたことがなかつたので、Bullet Journal でいふところの Collection Page にすることにして、四月で一冊使ひ終へた。
でも毎回うまくいくとは限らない。

ぢやあシステム手帳はどうだらう、といふので、試行錯誤しつつもここまでやつてきた。

思ふに、やつがれにはシステム手帳は合はないのかもしれない。
あるいは方眼罫か。
それとも Bullet Journal か。
そのうちのふたつか、はたまた全部か。

最近さう思ふやうになつた。

なぜさう思ふのかといふと、書く時間や量がめつきり減つたからだ。
以前だつたらちよつと思ひついたやうなことも即書き出してゐたのに、いまはそんなことはない。
これまでムダに書きすぎてゐた気もするのでそれはそれでいいとは思ふ。
でもなー。
なんかもの足りないんだよなあ。

即書き出せない理由はシステム手帳にある。
やつがれのシステム手帳のバインダは HIRATAINDER だ。
表紙自体かなり撓むので、書き付けるときにはしつかりと堅いものの上において書きたい。さうしないと書けないともいへる。
それは MD Notebook もさうではあつた。
でも、MD Notebook の場合は、書き込む側だけ堅ければよかつた。
HIRATAINDER は左右どちらも、といふか、バインダ全体が堅いところに載つてゐないと不安な感じがする。
ゆゑに、芝居見物の際、幕間にちよつと書き込まうとしてもうまく書けない。
以前はかばんの上に載せれば書けたが、HIRATAINDER にはかばんが小さすぎるしやはらかすぎるのだつた。

もうひとつもシステム手帳に特有の問題で、左側のページに書き込むときにリングが邪魔、といふことだ。
これも、左側にリフィルをできるだけたくさん入れることでできるだけ書き込みやすくはしてゐる。
でもまあ、邪魔なことは邪魔だよね。

さらにいふと、「このリフィルがいい!」といふリフィルに出会へてゐない。
最近では地元の文房具屋ではシステム手帳のリフィルをあまり見かけない。
丸の内の丸善などちよつと大きめの文具を商ふ店に行つたをりに探してはゐるのだが、なにしろ書いてみないとわからないからねえ。
さんざん店頭で吟味して、買つて帰つて「やつばりなんか違ふ……」といふことのくり返しである。

あとは、方眼罫が合はないのかもな、と思ふこともある。
とにかくものすごい勢ひで手書きの文字が劣化してゐるのだ。もともと雑な字を書く方なので、そのひどさたるや目を覆ふばかだ。
方眼罫といふよりは、5mm といふサイズがやつがれに合はないのかもしれない。
これはいろいろ試してみないとわからないなあ。

Bullet Journal が合はないのかな、とはあまり思はない。
思ふとしたら、スケジュールやタスクはほとんどなくてメモばかり多いので、それは Bullet Journal に向かないのではないか、といふことか。

あんまりメモつて取らないんだよね。
メモを取るくらゐなら最初からあるていどの長さのある文を書くタイプだ。
さうすると、箇条書きが主な Bullet Journal は向かない気がすることがある。
ただし、箇条書きにすると、前後は多少脈絡なくてもいいかな、と思へるところは気に入つてゐる。
箇条書きであるていど書き出しておいて、あとで文章にまとめればいいんぢやないか、とも思ふ。
問題はその「あとで文章にまとめる」時間がとれないことなんだけれどもね。

そんなわけで、また MD Notebook に戻すか、はたまた Rollbahn でも使つてみるか、悩んでゐる。

悩みつつ、「システム手帳Style」といふムック本が発売されたといふので、それを見てからでも遅くはないかな、と思つてはゐる。

なにしろシステム手帳のいいところは一冊で済むところだ。
それは二月から四月にかけて使つてゐた MD Notebook での Bullet Journal と相通じるところがある。

Bullet Journal の箇条書きのところだけをシステム手帳に特化させてもいいかもしれない。
メモだけは切り離して別のノートにするとかね。
さうすると一冊では済まないことになつてしまふのだが……
うーん。
もう少し悩むか。

Thursday, 04 August 2016

まつたくの無為

やりたいことがない。

定年退職後にすることがなくて困るといふ話を聞く。
自分にはそんなことはないと思つてゐた。
だがどうやらさうでもないらしい。
最近、週末にぽつかり時間があくと、することがないのだ。

いや、することはある。
部屋の片づけとか掃除とかを大々的にするなど、週末にしかできないやうなことはいくらでもある。

さうではなくて、「これがしたい!」といふものがないのだ。
そしてぼんやりしてしまふ。

かういふときお酒が飲めるとそれで時間が埋まつたりはする。
しかし、それでいいのだらうか。
退職後はアルコール依存症まつしぐらといふことにはならないか。
なる。
なるよな。

あみものとかタティングレースとか、したいことはあるのだけれど、さういふときにかぎつてあまりやりたいとは思はない。
そもそも、ほんたうにあみものやタティングレースが好きなのかどうかも怪しい。
編んだり結んだりするのも時間をつぶすための口実なのではあるまいか。
そんな気がするからだ。

録画した番組もたまつてゐるから消化すればいい。
だが、それも見る気にならない。

いはゆる「積ん読」もたまつてゐる。
同様に読む気にはならない。

行きたいところもとくにはない。
まつたくないわけではないけれど、週末突然ぽつかりあいた時間に行けるやうなところではない。

さうして、無為の時間が過ぎてゆく。

無為を為し、無事を事とし、無味を味はふ。
「老子」にあることばだ。
解説を読むと、ここでいふ「無為」とはなにもしないことではないのださうな。
大層なことではなく、些細なことを為すこと、なのださうである。

先に書いた「無為の時間」の「無為」は「なにもしないこと」だ。
どうしてかうなつてしまつたかなあ。

ひとつには、暑くてなにもする気にならない、といふことはある。
暑いからあみものはちよつとしたくならない。
タティングレースも糸に汗がついたりする気がする。
部屋の片づけも暑いからはかどらない。
暑いし日に焼けるから出かけたくない。
録画した番組を見るとか積んである本を読むとかならできさうなものだが、これも暑くてする気にならない。
結局「暑いから」、もつといふと「蒸してゐるから」なにもしたくない、といふところにたどりつく。

でもほんたうにそれが理由なんだらうか。
なんだか非常にまづい状況にゐる気がする。

かうなると、自分がほんたうにやりたいことなんてなかつたんだな、と思ふ。
ほんたうにやりたかつたら暑くてもなんでもやるもの。

つねづね思つてゐたのだが、やつがれはどうも人間としてのテンションが低い。
心の温度、心温といふものがあるとして、それも低い。
ゆゑに沸点も低いんだらうな、といふのはまた別の話だ。

なにかに夢中になるといふことがない。
なにかに集中するといふこともない。
つねになんとなく気分が散漫で、よそごとが気になつてしかたがない。

なにかしたいこととか、あるんだらうか。
あるとして、いまからでも間に合ふんだらうか。
もしかすると、「いまからやつても間に合はない」といふんで無意識のうちに「やりたいことなんてないよ」と防衛線を張つてゐるんぢやあるまいか。

それでゐて、平日は週末を心待ちにしてゐる。
なにかひどく矛盾してゐる気がする。

Wednesday, 03 August 2016

怪談はやめて

ホラー映画の予告CMを見なくなつた
TVを見なくなつてよかつたな、と思ふことのひとつである。

あれ、突然くるからね。
しかもおもに夜間。
さらに云ふと深夜。
深夜にホラー映画の宣伝とか、しやれにならんよ。

TVを見なくなつたのは電気代削減のためだ。
「見なくなつた」といつてもまつたく見ないわけではない。
朝夕のニュース番組はちよつと見る。
とくに朝のニュースは時計代はりとして重宝してゐる。
夜は八時四十五分からNHKで放映してゐる地域のニュースを見逃すとあとは見ないことが多い。
あと日曜日の朝は、戦隊ヒーローものから仮面ライダーものを経てプリキュアものを見、「日曜美術館」からの将棋といふのが唯一見たくて見てゐる番組群だ。
戦隊ヒーローものとか仮面ライダーもの、プリキュアものを見てゐるときにはホラー映画のCMを見た記憶はない。
たぶん、日曜の朝からそんなおそろしいものは流さないのだらう。
ありがたいことである。

とにかく怖いものが苦手だ。
四歳から五歳になるくらゐのころ、夜間父親が仕事でゐないことがあつた。
寝入り際、尿意をもよほしてお手水に立たうと思つたとき、不意に気になることがあつて母に訊いたことがある。
「お母さん、死神つて、ゐるの?」
母の返答がなんだつたかは忘れてしまつた。
しかし、夜暗い中お手水に立てるやうな答へであつたことは確かである。
おそらく、父がゐないことが不安だつたのだらう。
死神をどこで覚えたのかも記憶にない。
昼間、本で読んだかTVで見たかしたのだらう。
「仮面ライダー」の再放送でも見たのかもしれない。

これは幼稚園の年長くらゐのころの話だ。
家の近所にイトーヨーカ堂があつた。
二階に本屋があつて、家族で買物に行つたときなど、「ここにゐるね」と入り浸つてゐたことがあつた。
あるときから、ぴたりとその店に立ち寄らなくなつた。
こどもがわんさとたかつて立ち読みしてゐる棚があつて、たまたまそこを通りかかつたときに、目の前のこどもが実におそろしい絵の描かれてゐる本を夢中になつて読んでゐたからだ。
当時学研で出してゐた本だつたやうな気もするが、これは記憶を捏造してしまつてゐるのかもしれない。
いづれにせよ、その本屋とおそろしい絵とがやつがれの脳内で結びついてしまつた。

このイトーヨーカ堂はまだある。
本屋はもうない。

これもほぼ同じころ、父方の親族の集まる回があつた。
八つ上のいとこが「エクソシスト」を録音したカセットテープを持つてきてゐた。
みんなに聞かせたがつて、うつかりちよつとだけ聞いてしまつたときのあのおそろしさ。
音だけで怖いんだぜ、「エクソシスト」は。
映像を見たらどんなにかおそろしいだらう。

おばけ屋敷にも一度も行つたことがないしね。
ディズニーランドのホーンテッドマンションは、あれは「おばけ屋敷」には入るまい。
遊園地でいふと、海賊船(ディズニーランドでいふ「カリブの海賊」)も怖かつた。
暗いところで海賊たちがうようよとなにかしてゐる、といふのがダメだつた。
さう考へてみると、ダメなのは幽霊とか妖怪とか系だけではないのかもしれない。

ウルトラマンものもダメだつたなー。
ウルトラマンものは夏になると必ず怪談話を放映する。
「まんがにっぽんむかしばなし」もさうか。
うつかり「船幽霊」とか見たときのショックといつたらもう。

小学六年生のときに、なんだつたかで授業の時間があまつてしまひ、クラス一致で担任の教師に怖い話をしてもらふことになつた。
無論、やつがれは強硬に反対した。
もうひとり、普段は強面でなにごとも論理的に相手をやりこめるタイプの子が、反対してゐた。
しかし、如何せん多勢に無勢。
先生は怖い話をし、その子とやつがれとふたりは教室の一番うしろに行つて、かたく耳をふさいで時の過ぎるのを待つた。
一言一句たりとも聞こえないくらゐ耳をふさいだことなんてそれまでなかつたし、その後もない。

そんなわけで聞かずにすんだわけだが、それで却つて問題なのは、先生の話した怖い話といふのがどれくらゐ怖いかつたのかが気になるところだ。

「牛の首」といふ怪談がある。
世界で一番怖い話なのださうだ。
あまりにも怖いので、その内容をだれも知らないといふ。

この話を読んだとき、「なんておそろしい話なんだらう」と思つた。
だれも知らないやうな怖い話を想像して、ひとりで怖がつてゐた。
ばかだ。ぼくはばかだ。

まあ、それくらゐ、怖いものがダメなのだ。

九つのときに生まれてはじめて「スターウォーズ(いまでいふエピソードIV)」を見て、グランド・モフ・ターキンが好きになつた。
モフ・ターキンを演じたのはピーター・カッシングといふ俳優でホラー映画によく出てゐると知つて、嘆いたものだつた。
見られないぢやんよ。
怖いでせう、ドラキュラものとか。

その二、三年後にTVでリチャード・レスター監督作品の「三銃士」と「四銃士」とを見て、ロシュフォール伯爵がいいな、と思つたときも同様だ。

なぜホラー映画などに出るのか。
いやさ、なぜホラー映画などといふものが世の中にあるのか。
怪談にしても同様だ。
やめやうよ、怖い話はさー。

録画機のおまかせ録画機能に「岸田森」と入力できずにゐる所以である。

Tuesday, 02 August 2016

Too Lacy to Wear

Tatted Necktie in Progress

タティングレースのネクタイはちやくちやくと進んでゐる。

Jan Stawasz の Tatted Treasures に掲載されてゐるネクタイを作つてゐて、ネクタイの両端にある菱形のモチーフを作り終へ、現在は縁を作つてゐるところだ。
縁といはうか、菱形同士を結ぶ部分、といはうか。
エジングを延々と作る感じだ。

ここにも書いたとほり、エジング部分に入つた方が進みが早い。
そんな気がする。

菱形部分は、六弁のちいさな花のモチーフをつなぐ。モチーフがひとつできるとそこで一区切りできてしまふ。
それでなかなか進まないし進んだやうな気もしないのだ、とはこれまた以前書いた。

実際に早いのかどうかはわからないけどね。
比較しやうがない。
せいぜい目数を数へて一日にどれくらゐ進んだか比較するくらゐだらうか。

六弁の花のモチーフは、最後の方は一日ひとつ作つてゐた。
昼休みのあまつた時間に作るので、正味十五分くらゐだらうか。
中のリングが13目、外の花びらが12目だから、全体で150目かな。
モチーフによつてはほかのモチーフとつないだりするから、そこでまたちよつと時間がかかるけど、そこはエジングも同じなので考へないことにするか。

すると、10目/分だつたのか。
なんて遅いんだらう。

と思つたが、考へてみたら糸端の始末もしてゐるのでそんなに遅いといふわけでもないのかもしれない。

ちいさいモチーフとエジングとでは速さの比較にはならないな。
エジングの場合、シャトルに巻いた糸が切れたときに糸端の始末が発生する。
あるいはエジングの最初と最後に。
それまでは淡々と結んでいくだけだものな。

ところで、Jan Stawasz の本では、ネクタイの両端は左右非対称になつてゐる。
片方は菱形だが、もう片方はちよつと大きくて菱形をふたつ重ねたやうな形になつてゐる。すこし大きめの菱形の中央部がくびれたやうな形、とでもいはうか。

最初はさう作らうと思つてゐたのだが、菱形を作つたときに思つてゐたより大きくなつてしまつたのでやめた。
あまりに「レーシー」なのもどうかと思つてさ。
していくところがなくなるでせう、過度に「レーシー」だと。

「マスケティアーズ」といふドラマがある。
最初の三回くらゐを見て「なにかが違ふ」と思つて見るのをやめてしまつた。
一応、「三銃士」がもとのドラマだといふ。
なんかなー、こー、もーちよつと、「レーシー」だつたら見たのになあ。
「三銃士」とかのよさつて、男女問はず衣装にふんだんにレースが使はれてゐることだと思ふんだよね。
シャツなんかでもムダにドルマンスリーブでゆつたりしてゐてさ。
さういふのがいいのになー。
わかつてないなー。

そんな世の中だからだらうか、過度に「レーシー」なのはやつぱりちよつと気恥づかしいやうな気がする。
ネクタイにしても、だ。
いや、ネクタイだから、かもしれない。
できあがつてみないとなんともいへないけどね。

Monday, 01 August 2016

2016年7月の読書メーター

2016年7月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:1730ページ
ナイス数:15ナイス

孟子〈上〉 (岩波文庫)孟子〈上〉 (岩波文庫)感想
「考えるヒント」に孟子の説く性善説についての文章が出てきたのでまづは上巻から読み返してみた。読み返して「そーいへば孟子先生とは合はないんだよなー」といふことを思ひ出した。へ理屈としか思へない部分があつてどーも。でもそれも弁論の術のひとつなのか知らん。意見の合はない人の意見を聞く(読む)のもまた一興、ともいへる。
読了日:7月5日 著者:
How to Live on Twenty-Four Hours a DayHow to Live on Twenty-Four Hours a Day感想
この本が想定してゐる読者は、自分では家事を一切しない。仕事は昼食時間も含めて八時間、残業はしない。通勤時間は往復一時間で電車の遅延や道路の渋滞で遅れることもない。それでも参考になることはある、といつたところか。かなり以前から「自分如きが演奏会に行つたり展覧会に行つたとて何になる」と思つてゐる。つづけてゐればいいことあるよ、とは書いてあるけど、それがないから悩んでゐるのに。
読了日:7月7日 著者:ArnoldBennett
ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)感想
著書は、格差とは選択肢の多寡であるといふ。そのことば通り、ネットカフェ難民生活をつづけていくうちに最初は多様だつた内容も次第に単調になつてゆく。おそらくもともとは選択肢の多いこども時代を過ごしたであらう著者にとつて、一ヶ月が限界だつたのではあるまいか。
読了日:7月11日 著者:川崎昌平
詩のトポス 人と場所をむすぶ漢詩の力詩のトポス 人と場所をむすぶ漢詩の力感想
詩といふものは昔から人口に膾炙してきた詞章、過去の偉人の詩、そして詠まうとする土地などの影響のもと生まれるもの、といつたところか。著者は別のところで「漢詩といふのは遠くへつれて行つてくれる道具のやうなもの」といふやうなことを云つてゐて、この本を読むと物理的にも時間的にもへだたつたいろいろな場所でさまざまな風景を楽しめる、そんな気がする。
読了日:7月13日 著者:齋藤希史
アミオ訳 孫子[漢文・和訳完全対照版] (ちくま学芸文庫)アミオ訳 孫子[漢文・和訳完全対照版] (ちくま学芸文庫)感想
ナポレオンが「孫子」を読んでゐたらロシア遠征なんて費留だつてんで即やめてたらうよ、と思はないでもなかつたが、この訳で読んでたらわからないかも。といふか、「孫子」を読んでゐたとしても、人は費留とわかつてゐても戦つてしまふものなんだよなー、とも思ふ。アミオの訳はいまとなつてはダメな翻訳のお手本だが、なんとかわかるやうにしやうと努力したんだらうなあ。
読了日:7月20日 著者:
老子 (講談社学術文庫)老子 (講談社学術文庫)感想
「小国寡民」といふと「スケバン刑事」の沼重三を思ひ出す。沼先生は主人公の麻宮サキに云ふ。「生徒が二人、せめて五人だつたら俺はいい教師になる自信があるぜ」といふ旨のことを。四十人もゐたらどうにもならない。なにごとも大きく多く広くなり過ぎなんぢやあるまいか。多分自分自身が一番。「学術文庫版まえがき」に「本書は、「古典と語り合う」を旨として(「語り合う」に傍点)」とあるのが気に入つた。語り合ふやうにして読んだ。
読了日:7月25日 著者:金谷治
荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)感想
突然、中学生のときに書き初めの宿題で「猶然笑之」と書いたのを思ひ出した。なんてはづかしい過去。これが「厨二病」といふアレか。中三のときだつたけど。 当時から老荘にかぶれてゐた、といふとエラそーだけど、儒教的な考へ方が好きぢやなかつたんだな。ぢやあ老荘だらうつていふ、短絡的な考へだつた。やつぱりはづかしい。
読了日:7月29日 著者:荘子

読書メーター

あみものと記憶の編集

Jaywalker はつま先の減らし目まで来た。

そこで止まつてゐるのは、編み方を確認しないとつま先の減らし目ができないからだ。

つま先の減らし目など自分の好きな方法で編めばいいのだが、一応書いてあるからにはその通りにやつてみやうといふのがひとつ。
Jaywalker は足の甲と裏とで目数が違ふので、編み方を確認したいといふのがひとつ。

何度か編んだくつ下だから減らし目の仕方もなんとなくわかつてはゐる。
それにすでに片方編めてゐるのだし。
しかし、記憶はあてにならぬものぢやによつて、な。

記憶といふのは思ひ出すたびにすこしづつ、時には大幅に編集されてしまふものだといふ。
こどものころのことで妙に覚えてゐるものがあるけれど、それは何度も思ひ出してゐるからだ。
といふことは、さうした記憶は相当編集されてゐるといふことだ。
もしかするとなにひとつ正しくないかもしれない。

こどものころ、お手洗ひの窓の外に大きなクモが巣を張つたことがある。
これが恐ろしくてなかなかお手洗ひに行けなかつた。
四歳と半年まで住んだ家のお手洗ひなので、おそらくは四歳くらゐのころの話だ。
なぜ四歳のときに住んでゐた家とわかるかといふと、当時は一軒家を借りてゐたからだ。その後はアパート暮らしなのだつた。

……などと書いてゐるけれど、ほんたうはそのお手洗ひはアパートのものだつたかもしれない。
記憶が改竄されてゐるだけで。
ことの顛末がどうなつたかといふと、大きな道路をはさんだところに住んでゐたをばさんが来てくれて、巣をとつてくれたのだつた。
母は、お手洗ひに行くのは怖くなかつたのらしいが、クモの巣をとるのはイヤだつたのだらう。
をばさんにはたしかやつがれと同い年の男の子がゐたと思ふ。
をばさんは母とお手洗ひの外に立つてゐて、「をばさんが巣をとつてあげるからね」と云つてくれた。
とてもたのもしかつた。

また思ひ出してしまつたので、この記憶はさらに編集が進んだことだらう。
生きていくつてなんだかむなしい。

しかし、あみものの記憶といふのは改竄されにくいのではないかといふ気がする。
とくに何段目から何目減らす、といふやうな記憶は正確に残る気がしてゐる。
中には似たやうなものを編んでゐてごつちやになつてしまふことはある。
でもまあ、その他の記憶に比べたらちやんと残るんぢやないかな。
気のせゐかもしれないけど。

残りやすいのは数字だからかもしれない。
雰囲気とかイメージとかより数字の方が編集しにくいやうな気がする。
気がするだけだけどね。

そんなわけで、あとはつま先を減らしてはぐだけ、といふところまできて、Jaywalker はとまつてゐる。

代はりといつてはなんだか、ちよつと麻糸などを編んでみたりしてゐる。

Crochet with Hemp

いただきものの糸で、きれいな段染めだ。
ここのところ麻糸といふとリネンが多かつたので、ヘンプ(だらう)は久しぶりである。
といふか、ヘンプの糸は編んだことはないかもしれない。
マクラメに使つたことはあるけれど。

ぱつと見た感じで8/0号の糸を選んでみた。
まだちよつと細かつたかもしれない。
手がきつすぎて、次の段が編めなかつた。
仕方がなく筋編みにしてみたけれど、もうちよつと太い針を使つた方がいいやうな気がする。
でもしつかり編みたいんだよなあ。

円筒型の巾着のやうなものを編みたいと思つてゐるので、そんなにしつかりしてなくてもいいかなあ。
10/0号針で編みなほしてみて、やうすを見ることにしたい。

Jaywalker も仕上げたいな。

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