下流の証明
最近、How to Live on Twenty Four Hours a Day と「ネットカフェ難民」といふ本とを読んだ。
どちらにも「ゆたかな人間になりたかつたら芸術にふれませう」といふ話が出てくる。
かなり強引な省略の仕方であることは承知してゐる。
How to Live on Twenty Four Hours a Day は「自分の時間」といふ題名で翻訳されてゐる。
以前からある本だが、最近また新たに出版されたやうだ。
この本を読んで感銘を受けた、参考になる、と云つてゐる人は多い。
しかし、考へてみやう。
この本が想定してゐる読者は、一日十時から六時まで昼休みも含めて八時間しか職場にはゐないことになつてゐる。残業はしない。通勤時間は往復で一時間。しかも自分で家事をすることはない。
なんか、あんまり参考にならないんですけど。
冒頭に、「大抵の人は睡眠をとりすぎてゐる」なんて書いてあることからして、ちよつと警戒しながら読んでしまつた。
睡眠、足りてないんだよ、こちとらよー。
さう考へると、この本に書いてあることはもつともながら、「でもそれは拘束時間が一日九時間しかない人の話でせう」と思つてしまふのだ。
この本で云つてゐるのは、一日できれば三十分、無理なら十数分をなにか知的なことにあてやう、といふことだ。その時間は集中する。それですべては変はる、といふ。
知的なこと、と書いたが、自分のほんたうにやりたいことでもいいのだと思ふ。
本では、読書なら詩、音楽が好きなら演奏会、絵や彫刻など美術が好きなら音楽会、芸術に興味がないなら身近にゐる虫や生き物の生態の調査をしてみてはどうか、と云つてゐる。
演奏会、ね。
あるときまでは行つてゐた。
行きたい演奏会の席を押さへて、大抵は平日の夜、アークヒルズだとか初台だとか、なぜかちよつと不便なところに行つてゐた。
建物はともかく、上野は便利だなあ、と思ふやうになつたのはいつのころだらう。
平日の夜遅く、不便なところから帰宅し、翌日も普通に出勤するのがつらくなつてきた。
そのころだらうか。
それで行くのをやめてしまつたのだつた。
音楽が嫌ひなわけではない。
嫌ひになつたわけでもない。
単に、つらかつたのである。
躰もつらかつたし、懐にもつらい。
そして、つらい思ひをするだけのなにかが得られるわけでもなかつた。
つづけてゐれば、変はる。
さうなのだらうか。
自分はなにも変はらなかつた。
さう思ふ。
見る目や聞く耳が肥えるわけでもなく、なにかしら得るところがあるわけでもなかつた。
それなのに、まだ仕事をしてゐる人々を後目に早めに職場を出て、不便なところまで行つて、大勢の人に囲まれて、夜遅く帰り着く。明日も朝は早い。
それでも演奏を聞くのが好きだつたからつづいてはゐたわけだ。
多分、どこかの時点で好きとつらいとが逆転したんだな。
一度行かなくなると、まつたく行かなくなつてしまつた。
まづ、情報が入つてこない。
演奏会に行くとムダにちらしなどをもらふのだが、それを見て「この演奏会に行つてみやうかな」と思つたりもする。
連絡先なども覚える。
行かなくなるとさうしたことがまるでなくなる。
自分で調べることもしなくなるしね。
いざ調べて「これに行きたい」と思ふとすでに完売したあとだつたりもする。
ますます遠ざかる所以だ。
「ネットカフェ難民」の著者は高学歴で実家に帰ることもできるニートなのださうである。
それをさして「最低辺の人間ぢやない」とか「ネットカフェ難民ぢやないぢやあないか」とくさす向きがある。
この本の前書きに、著者は「格差といふのは選択肢の多寡である」と述べてゐる。
格差といふのは単に収入が多いか少ないかではなくて、たとへば絵なら絵で展覧会などで本物を見たことがあるかとか、好きな展覧会に行くといふ選択肢があるかどうかといつた、さういふところにあるのだ、と。
この本では、ネットカフェで寝起きしだしたころはその内容も多彩であつたのに、次第に書くことが単一化していく。
収入のことばかり気にすると、考へることもそれにまつはることばかりになつてしまふ。
さういふことが書きたかつたんぢやないかなあ。
演奏会に行くことでなにかを得やうなどと考へるやうになつたやつがれは、すなはち低辺の人間といふことだ。
演奏会に行く人は、まあ中にはなにかを得やうと考へてゐる人もゐるかもしれないけれど、ほとんどの人はそんなことは考へてゐないだらう。
好きだから行く。
それ以上のことは考へてゐないんだと思ふ。
行つて聞いて、ときには自分の思つてゐたよりよくない演奏だつたといふこともあらう。
さういふときはがつかりするし、「金返せ」と思ふ人もゐるだらうけれど、それは行つてみなければわからないのだから仕方のないことだ。
「金返せ」と思つたところで、また次の演奏会に行くのだらうし。
結局、余裕がないのだ。
平日の夜に演奏会に行つて、良かれ悪しかれ楽しんで帰つて翌朝また出勤する、さうした余裕がいまの自分にはない。
そのうち芝居にも行かなくなるだらう。
四年後には歌舞伎座からも足が遠のいてゐるやうな気がしてならない。
「絶望読書」はまだ読んだことはないが、著者・頭木弘樹のインタヴューは読んだ。
中で、読書だとか音楽だとか美術だとかが追ひつめられたときに重要になつてくる、といふ旨のことが書いてあつた。
ナチスの強制収容所に送還されたユダヤ人の中には、音楽を聴いたりするものがゐた、とかね。
さういへば松本零士が戦中戦後の苦しいときに絵を描くことが心の支へだつた、といふやうな話をしてゐたことがあつたな。
ひもじいことはもちろんだ。でも、絵を描くことで生きる力を得てゐた、とかだつたかな。
それで貧困に苦しむこどもたちに紙と鉛筆とを寄付してゐる、と云つてゐた。
そのときはさういふこともあるのだらうと思つてゐたが。
いまとなつてはよくわからない。
生きるのに必要なのは衣食住で、さらにはその三つが生きてゐるあひだは保証されることが必要で、その上のことを望み手に入れるのはそれからのことだ。
いまはさう思ふ。
ムリをしても仕方がないぢやあないか。
さうも思ふ。
背伸びをする時代は終はつた。
さういふことなのだらう。
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