死んでゐるかしら
編んでゐない。
このまま編まなくなるのかもと思つてゐる。
これまでもつねに編んできたわけではなかつた。
かぎ針編みを覚えたのが九才、棒針編みを覚えたのが十才のときだ。
教はつた時点では編んでゐたのだが、時期に編まなくなつた。
毛糸がなくなつたからだ。
母はあみものをした。
かぎ針編みも棒針編みも母に教はつたし、母は機械編みもした。
しかし、家に毛糸がつねにあるといふわけではなかつた。
不要なものは捨ててしまふ母だつたからだ。
さう思ふと、よくぞ捨てられなかつたものだと我が身のことを考へたりするのだが、それはまた別の話である。
小学生のお小遣ひでは毛糸を入手するのはむづかしかつた。ほかにほしいものもあつたし。
それに、近所の手芸屋では毛糸の安売りなぞしてゐなかつたやうに思ふ。
また、夏になると編まなくなるといふこともあつた。
レース編みでもすれば編んだのかもしれない。
しかし、当時はレース編みは自分向きではないと思ひこんでゐた。
糸も針も細いからだ。
レース編みは手先の器用な人がするもの。
さう思つてゐた。
それに、家のレースのドイリーが置けさうな場所にはすでに母が昔編んだものが置いてあつた。
いまさら自分が編むには及ばない。
さう思つてゐた。
あみもの熱が再燃するのは、高校生になつてからだ。
授業であみものをすることになつた。
大つぴらに編める機会である。
授業の一環だから、毛糸も買つてもらへる。
しかし、それもそんなに長くはつづかなかつた。
やはり、毛糸がなくなつたからだ。
それに、このころになるとあみものの本なんぞを見て「これを編みたいなあ」などと思ふやうになるのだが、これが案外大変なのだつた。
まづ、本に指定されてゐる毛糸を買はねばならない。
しかし、本に指定されてゐる糸は高い。
しかも、地元の手芸屋では扱つてゐない可能性がある。
このころになると小学生のときよりは行動半径が広がつて、駅前の手芸屋に行けるやうになつてはゐる。
駅前の手芸屋ではときに毛糸の安売りをしてゐた。
だが、ここで気に入つた毛糸があつて買つたとしても、本で見たものが編めるとはかぎらない。
大抵は編めないだらう。
当時はゲージのことを理解してゐなかつたし、糸の太さの知識もおぼろだつた。
「極太」と銘打つて売られてゐても、メーカーや種類によつて全然太さが違ふことがある、といふことがわかつてゐなかつたのだ。
そんなわけでつまづき、その後またしばらく編まなくなる。
いまのやうに編むやうになつたのは、一九九十年代も終はるころ、もうすぐ新たな世紀を迎へやうといふころのことだ。
きつかけは、ジェニーだつた。
当時タカラのジェニーといふ着せかへ人形用のあみもの本を買つた。日本ヴォーグ社が出版したものだ。
人形用の服ならすぐに編めるだらう。
そのとほりだつた。
糸も少なくて済むし、一巻き買へば何着も編める。
そのうち、レース糸とレース針で編むやうになつた。
最初のうちはエミーグランデなどすこし太い糸で編んでゐたけれど、そのうちよくある40番手を使ふやうになつた。
人形のセーターを編み、人形のレースの服を編む。
人形のセーターの袖が編めるのなら、人間の手袋の指も編めるのではないか。
レース糸をレース針で編めるのなら、レースのドイリーも編めるのではないか。
そこから1/1サイズのものを編むやうになるのにそれほど時間はかからかなつた。
そして、現在に至る。
いつのまにかゲージのことも覚えたし、あみものの本で編みたいものを見つけたときに指定糸ではなく代替の毛糸を使ふことも覚えた。
本だけではなくてWebサイトに掲載されてゐるものも編むし、ときには海外のサイトで公開されてゐるものも編むやうになつた。
二十年といへばそれなりに長い時間だ。
あみものに飽きてきたのかもしれない。
あみものは自分にとつて、存在を証明するものだ。
なにかしら作れば、作つた自分が存在することの証になる。
あみものの前は、人形の服作りだつた。その前は絵。その前はもうなんだつたか忘れた。
あみものをしなくなつて、果たして自分は存在してゐるといへるのだらうか。
いまのところ、あみものの代はりに存在を証明してくれるものは見つかつてゐない。
もしかしたら、存在してゐないのかもしれない。
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