気が重い
飯田に行つてきた。
先週博多座に行つたときもさうだつた。
自分はいまから何をしに行くのだらう。
行く意味なんてないぢやあないか。
たどりつくまで、いや、たどりついてもお目当てのものを見るまではずつとさう思ひわづらつてゐる。
見終はつてはじめて「やつぱり来てよかつた」と思ふのだつた。
結果としてよかつたのだからいいぢやあないか。
さうも思ふ。
でもどうせなら行く前からいい気分でゐたいよな。
なぜ行く前は気が重いのか。
出かけるのが好きではないから、といふのがひとつ。
芝居に関していふと、見てみなけりやいいかどうかわからないから、といふのがもうひとつ。
しかし一番問題なのは、自分のしたいことをすることに対して罪悪感を抱いてゐるから。
そんな気がしてならない。
なぜ自分のしたいことをするのに罪悪感を抱くのか。
するべきことを果たしてゐないから、といふのがひとつ。
するべきことといふのは、家の掃除とか仕事とかご近所付きあひとか、さうしたことだ。
いづれもきちんと果たしてゐない。
而るにしたいことだけはする。
これでいいのだらうか(反語)。
では、するべきことをきちんとすればいいぢやあないか。
そのとほりだ。
反論の余地はない。
しいていへば、するべきことをきちんと果たしてゐるとしたいことをする時間がなくなる、といふくらゐか。
そして、これはすべて云ひ訳にすぎない。
するべきことをきちんと果たしてゐないからしたいことをすることに対して罪悪感を覚える。
云ひ訳だ。
ほんたうは怖いだけなのだ。
自分のしたいことをすることが。
なぜ怖いのか。
自分で「これをしたい」「これをする」と決めるのが怖いのだ。
自分で決めたことだから、自分に責任がかへつてくる。
周囲になんと思はれるかわからない。
すべきことを為してゐれば少なくとも世間様には云ひ訳がたつ。
さういふことなのだらう。
なんでそんなに世間を気にしなければならないのか。
それは、常軌を逸するほどにすべきことができてゐないからだ。
と、このあたりで堂々巡りになつてしまふ。
もうひとつ、したいことをするのを妨げてゐるものがある。
「自分の好きなことなんてくだらない」
「好きなことにかまけるなんていけないことだ」
さう思つてしまふからだ。
なぜ自分の好きなことはくだらないのか。
さて、なあ。
おそらくこどものころからさう云はれてゐたからだらうなあ。
親にとつて、やつがれの好きなものはいつでもくだらなかつた。
親の喜ぶやうなものごとを好きになれなかつた。
親と暮らしてゐたころ「どこに行くの」と訊かれて「芝居に行く」と答へられなかつたことがある。
「またそんなくだらないものに行つて」と云はれるにきまつてゐるからだ。
自分の好きなことはくだらない。
さうしたことに夢中になるのはバカげたことだ。
長いことさう思つてきたし、いまでもうつかりするとさう思つてゐることがある。
自分の好きなことを貶めたり夢中になることを禁じたりしてゐると、他人に対してもおなじやうな気持を抱いてしまることになる。
他人の好きなことをくだらないと思つたりバカげてゐると決めつけたりしてしまふ。
そのことに気付いてから、自分の好きなものごとやさうしたものごとを好きな自分を「つまらない」とか「くだらない」とか思はないやうにしてきた。
少なくとも思はないやうにしやうと努めてはゐる。
しかし長年染みついた習ひ性は思ひのほかしぶといのである。
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