知盛考
平知盛といへば「見るべきほどのことをば見つ」だ。
川原泉の「月夜のダンス」の影響もある。
栄耀栄華とその後の没落を身をもつて知つてゐるといふこともあるし、戦で息子を失つてゐるといふのも大きい。
知盛の一子・知章は、知盛を救ふために敵軍の攻撃をふせぎ、そのために命を落としてゐる。
斎藤実盛の言「子討たれぬればその愁へ嘆きとて寄せ候はず」が正しいとするならば、知盛の心中は如何ばかりか。
知章を死なせて、知盛は死に場所を探してゐたのぢやあるまいか。
現代の人間の考へることかもしれないけれど、そんな気がしてゐる。
その場で死ぬわけにはいかなかつた。
まだ源氏との戦はつづいてゐたからだ。
壇ノ浦で宗盛が生き延びたのは息子のためだといふ。
ならば知盛が死んだのもやはり息子のためであらう。
そんなわけで、「船弁慶」だとか「義経千本桜」に知盛が出てくるのがどうにも納得いかない。
知盛はみづから決断して死んだのだ。
その魂魄が迷ふことがあるわけがない。
それに、源義経の好敵手といつたら知盛よりは平教経なんぢやないの?
「船弁慶」は、しかし、わからないでもない。
あれは、知盛が出てきたのではないのだ。
義経とその一行とが知盛の幽霊を見たのである。
知盛からすすんで幽霊となつて現れたわけではない。
「船弁慶」が成立したころ世の中でどういふ風に源平のことが語られてゐたのか、不明にして知らないのでここから先はやつがれの勝手な推測だ。
教経は祟らないタイプだと思はれてゐたんぢやあるまいか。
あるいは、教経だと義経とバランスが取れないと思はれたのかもしれない。
教経は平教盛の次男だ。教盛は清盛の弟で、すなはち教経は清盛の甥にあたる。
一方知盛は清盛の息子だ。母は二位の尼。
義経は義朝の息子である。
バランスが取れるでせう。
清盛の息子でいふと、長男は重盛だが、重盛は父太郎ではあつても母太郎ではない。重盛の母は二位の尼ではない。それに重盛は平家が都を落ちる前に死んでゐる。
母太郎は宗盛だが、生きながらへてとらへられ、生きてゐるうちからさんざんさらしものにされて殺されてゐる。
ん、なんだかこの方がよほど化けて出さうぢやないか。
でも化けて出てきたとしても、宗盛では怖くはない。
あまり武人といふ感じがしないしね。
そこで知盛。
さういふ流れなんぢやないか。
「義経千本桜」の「大物浦」で渡海屋銀平が実ハ平知盛なのは、巷間伝へられてゐる伝説などもあつたらうが、「船弁慶」があつたからだらう。
だから見顕しのときに「船弁慶」の一節が流れる。
「桓武天皇九代の後胤平知盛幽霊なりー」つてアレね。
これが教経の霊だとすると、九代のところを十代とかに変へねばならず、ちよつと座りが悪くなる。
「船弁慶」があつたからできたにせよ、「義経千本桜」の知盛はみづからの意思で生きながらへてゐる。
ここが納得のいかない点だ。
「船弁慶」の知盛は超常現象だ。
ゆゑに見る側がさう見たといふ解釈もできる。
「義経千本桜」はさうはいかない。
だが待てよ。
「大物浦」から「碇知盛」までの一連の流れは、実は義経とその一行が見た夢まぼろしだつた、といふことは考へられないだらうか。
…………考へられないか。
平知盛は、壇ノ浦でみづから死を選んだ。
それは、ほんたうにもう見るべきほどのことを見てしまつたからだ。
都での栄耀栄華。
その後の没落。
敵の死と勝利。
家族や親しい者たちの死と敗北。
中でも知盛を助けるために死んで行つた息子。
もうこれ以上見るべきほどのことはない。
そんな人が、はたして生き延びて復讐を誓はうとするだらうか。
知章を殺されたと考へたならその復讐を誓ふかもしれない。
でもおそらく知盛は知章は自分のせゐで死んだと思つてゐる。
ないな。
祟らないよ、知盛は。
かくして、「義経千本桜」の知盛には「それでも生き延びて復讐を誓ふわけ」を求めてしまふ。
「わけ」といふと大げさか。
こちらを納得させてくれるなにか。
それは雰囲気でいい。
どうしても生き延びて復讐しなければならないなにかをこちらに訴へかけてくれさへすればそれでいい。
さうした空気をまとつてゐない知盛は、なんだかなー、なのである。
そんなわけで、「義経千本桜」で一番好きなのは知盛の物語なのだつた。
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