ただただ書く
日々萬年筆を使つてゐる。
使はない日はないといつてもいい。
なぜ萬年筆を使ふのか。
好きだから、だな。
なぜ好きなのかといふと、書いてゐるときに手への負担が少ないからだ。
おなじことは鉛筆にもいへる。
そんなわけで、職場の机の上にある筆立ての手に取りやすいところに鉛筆がささつてゐる。
手への負担が少ない所以は、筆圧をかけなくても書けるからだらう。
しつかりと握つて書かなくても書ける。
ちよつと太めの軸をゆつたりと持つて書くのがいい。
字を書くときには、ペンや鉛筆はしつかり握るものなのかもしれないが、そこはまあ、いいぢやあないか。
年賀状の三十枚くらゐなら、自分の住所氏名も含めて宛名書きをしても、疲れることはない。
それ以上は書いたことがないからわからない。
たくさん書いても疲れない。
これにかぎる。
軸がきれいだとかインキの色が好きだとかペン先の意匠がすばらしいだとか、もちろんそれも好きな理由なのだけれども、さうしたことは全部あとづけで、とにかく書きやすいといふのが第一だ。
そんなわけで、やつがれにとつて書きやすいペンがいいペンといふことになる。
書きやすさにもいろいろある。
だいぶ前に書いたやうに、萬年筆を常時使ふやうになつたきつかけは、モンブランのマイスターシュテックはショパン・エディションを買つたことだつた。
なんとも自分らしい字が書けるからだつた。
自分らしい字とはどういふ字だらうか。
うまく説明できないけれど、上手下手はともかく書いた文字が如何にも自分で書いたやうな文字になるのがおもしろかつた。
いまでは一番自分らしい字が書けるペンは中屋の細軟だ。
ピッコロの十角軸で、キャップをしめてゐるときの佇まひもよければ、キャップを尻軸にさして手に持つたときの感触もいい。
かるくて、軸も太すぎず細すぎず、ちやうどいい。
中軟になると、書ける字がちよつと違つてくる。
遊びといふか、ひげのやうなものが細軟のときより増えるといふか長くなる感じがする。
一方で自分らしくない字がかけるペンも気に入つてゐる。
自分らしくない字といふと、大橋堂のペンやデルタのドルチェ・ヴィータで書く文字だ。
使ひ慣れたペンのはずなのに、自分で書いたのぢやないやうな字が書ける。
大橋堂のペンはそのペン先のやはらかな感触から、ドルチェ・ヴィータは細字ながらすこしスタブのやうなペン先から、さうなるのだらうと思つてゐる。
やはらかいペン先が好きだ。
かたいペン先も使つてゐるけれど、なにも考へずに(「つれづれなるままに」といふアレですな)、ただただ書きたいときはやはらかいペン先がいい。
ただ、やはらかいペン先といふのは、自分のものではないやうな字になりがちだな、とは思つてゐる。
大橋堂がさうだし、ファーバー・カステルのペルナンブコ(細字)なんかもさうだ。
ペルナンブコのペン先は、しなるやはらかさといふのではなくて、紙にペン先がふれたときのふはりとした感触がやはらかい。得も言はれぬやはらかさなのだ。
ほかにはこんなペンは持つてゐないなー。
パイロットのCUSTOM 823(細字)がちよつとだけ近いかもしれない。このペンは何度も書いたやうに、使ひつづけてゐるうちにさういふ感触に変はつてきたペンだ。
不思議と、パイロットのフォルカンはあんなにやはらかいのにときに自分らしい字が書けるときがある。
フォルカンにはまだまだ慣れなくて、ペン先が暴れることばかりなのだが、それもまた楽しい。
要するに、「ただ単に書く楽しみ」をくれるのが萬年筆、といふことか。
やつがれにとつてはね。
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