光と闇の幾久し
若冲展に行きそびれて、カラヴァッジョ展にも行けてゐない。
もともと、美術展にはあまり行かない。
行くやうになつたのは、「美術展とか博物展とか見るやうにしたら、飯田や渋谷の展示を見るときの足しになるんぢやないか知らん」といふ、チトいやしい期待からだ。
といふことは、以前も書いた。
飯田や渋谷の展示、すなはち、飯田市川本喜八郎人形美術館と渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーとの展示のことだ。
日曜の朝、NHK教育(「Eテレ」とはやつがれは云はぬ)の「日曜美術館」などを見るとはなしに見つつ、「こんな美術展に行つてみたいなあ」と思つたりはする。
この番組は、かなり知つてゐる人向けだ。
なぜさう思ふのかといふと、ことばで説明する部分が多いからだ。
「この絵のこの部分は作者のこれこれかういふ気持ちを表現してゐる」とかことばで云つてしまふのだ。
はじめてその絵を見る人は「さういふものなんだ」と思ふだらう。
さうして、実際に見に行つて「やつぱりさういふ感じだな」と確認するだらう。
あるいは「さういふものなんだ」と思つてしまつた人は、もう実際にその絵を見に行きはしないかもしれない。
そんなわけで、知らない絵や画家・彫刻家などの特集の場合は、できるだけ見ないやうにしてみたことがある。
さうすると、ほとんど見られないので、結局やつぱり見るやうになつてしまつた。
日曜の朝のこの時間、まつたりと見るのにこれほどいい番組はないからだ。
句会でも思ふけれど、「日曜美術館」を見てゐても、「そこまで読みとつていいんだ」と思ふことがある。
さきほどの「この絵のこの部分は作者のこれこれかういふ気持ちを表現してゐる」とか聞くと、ね。
俳句にしても美術作品にしても、よくは知らないものだから、どの程度読んでいいものかわからない。
どの程度読むかは見る側の自由だ。
それを他人に伝へるかどうかは、聞かせる相手が「なるほどねえ」と思へるやうな内容か否かにかかつてゐるやうな気がする。
ちよつとしたプレゼンテーションのやうなものか。
ロゴス・パトス・エトスがそろつてゐないと、云うても伝はらないし、「勝手にそんなこと云つて」と思はれるのが関の山だ。
ところでカラヴァッジョの絵は闇の表現がすばらしいのださうである。光と闇とのコントラスト、といふ話だつたかもしれない。
見に行つてゐないので聞いた話だ。
夕べ、「鬼平犯科帳」を見てゐて、「「鬼平」の闇もいいけどなあ」などと思つてしまつた。
一昨日も書いたやうに、「鬼平犯科帳」も第四シリーズくらゐだとまだまだ闇が深い。
捕物の場面はたいてい夜である。
夜の暗さとそこに浮かび上がる捕り手と盗人との姿が、なんともいいんだなあ。
実際の江戸の夜はもつと暗かつたんだらうけれども、それは云ふも野暮といふものだ。
あと、夜の障子紙の向かふに浮かぶ影、とかね。
「光源はなに?」とか思つたりするけれど、それもまた野暮だらう。
暗い中、障子紙にぼうつと映る影といふのは、不穏な表現だ。
夜、いきなり人が訪ねてくるとかさ。
ちよつとびつくりするでせう。
なんでこんな時間に、みたやうな、さ。
それでゐて「影」なので、見てゐるこちらは安心することもある。
あ、あの影は、あの登場人物のあの影だ、とわかるもの。
などといふことは、「鬼平犯科帳」を見てゐるあひだはほとんど考へない。
見終はつて、「ああ、あれはこんな感じなのかも」と思ふくらゐだ。
やつぱり美術展に行つてちやんと見てきた方がいいか知らん。
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