朝日のあたる部屋
朝、目覚まし時計のアラームの鳴る前に目が覚める。
どうも、カーテンの隙間から日の光がさしこむのが原因らしい。
きちんとカーテンを閉めるやうにしたところ、目の覚める時間がすこし遅くなつた。
しかし、ちよつとした隙間から入り込んでくるものなんだな、日光といふのは。
そのまま起きてしまへばいいのかもしれないが、生憎と日々寝不足なので、それはしない。
眠れなくても目を閉じてゐた方が休めていい、といふ話も聞く。
それで、布団の中でアラームの鳴るのをぢつと待つ。
この時間がつらい。
つまらないことばかり考へてしまふのだ。
昨日、蜷川幸雄の訃報に接した。
今朝のニュースで、在りし日の蜷川幸雄の映像を流してゐた。
中で「自分にしかできないことがあると思ふんだ」と、語つてゐた。
自分にしかできないことかー。
ないな。
やつがれにはない。
朝、目覚まし時計のアラームの鳴るのを待つあひだに思ふ。
自分のすることはなにもかもムダなのではないか、と。
以前は、好きな本を読み、なにがしかを編み、芝居を見に行けば満ち足りた気分になつた。
意味のあることをした、と思へたからだ。
いまは違ふ。
つねづね読みたいと思つてゐた本を読み、編みたいと思つてゐたものを編み、見たいと思つてゐた芝居や展覧会に行つても、なぜかむなしい。
なぜか、ぢやないな。
ムダだからだ。
かつては、読書やあみものや芝居見物は自分の血となり肉となると思へた。
いまは思へない。
いまだつて読んだり編んだり見たりすれば、それなりに自分のためになつてゐるといふ感覚はある。
だが、そのためになつたはずの自分には、なにもできない。
血となり肉となつた。
それがこの先生きていく上でなにか役に立つだらうか。
立たないね。
立たない。
立つやうな状況が思ひつかない。
朝の目覚まし時計のアラームの鳴るのを待つ時間、さうした自分のダメさばかりが気に障る。
ダメでもいい。
世の中、「無用の用」といふ考へ方もある。
どちらかといふと、さういふ考へ方に組みするやつがれでもある。
でも、だつたら、読んだり編んだり見たり聞いたりなんてしなくてもいいんぢやあるまいか。
そんなわけで毎晩カーテンの閉め方を研究してゐるのである。
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