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Tuesday, 31 May 2016

しなくても死にはしない

タティングレースはまつたくなにも進んでゐない。
昼休みの残り時間に睡眠をとるやうになつてしまつたからだ。
このままやらなくなつてしまふのだらうか。

先日 Twitter の TimeLine にこんなやうな呟きが回つてきた。

世の中には、「それをせずにゐると死んでしまふ」といふ人と、「できるからする」といふ人がゐる。

この伝でいくと、やつがれのタティングレースは「できるからする」だ。
正確には「できるやうになつたからする」、だな。
タティングの基本でありすべてといつても過言ではないダブルスティッチができるやうになるまでに何日もかかつたし、その後「シャトル二つ遣ひ」の作品を作れるやうになるまで何ヶ月もかかつた、とは、ここにも何度も書いてゐる。
「シャトル二つ遣ひ」は、たまたま最初に買つた本の解説ページに「シャトル二つ遣ひ」と題してスプリットリングの作り方が載つてゐたので、勘違ひしたままで作れなかつた、といふオチがある。
別の本を買つて、はじめて「シャトル二つ遣ひ」といふのは必ずしもスプリットリングとは限らないこと、場合によつてはシャトル一つと糸玉とでできることを知るのだつた。
長かつたなあ。

そこから、ダブルスティッチの後半部分を作るときにシャトルを持ち替へなくてもいい、といふことに気がつくまでにまた何年もかかつてゐる。
気がつくまでは、シャトルを指にかけた糸にくぐらせるときに手をはなしてゐたのだつた。
時間がかかることこのうへない。
でもやつてゐた。

持ち替へなくていいことに気がついたのは、ほかの人がタティングをしてゐるのを見たときのことだ。
スピニング・パーティーに行つたをり、店番をしてゐた人がタティングをしてゐた。
それではじめて持ち替へなくてもふたつめのスティッチを作れることに気がついた、といふわけだ。
なんといふことでせう。

しかし、最初から持ち替へなくてもできることがわかつてゐたら、クロバーのシャトルからはなれられなかつたらうな、とも思ふ。
持ち替へるもの、と思つてゐたから、多少シャトルが大きからうがものともせずにタティングしてゐた。
そんなわけで GR-8 Shuttle にも出会へたわけだ。

できないなりに、こんなに時間をかけて習得してきたのだもの、タティングレースは自分に向いてゐるはずだ。
さうも思ふ。
でも別段しなくても生きていけるんだよね。
現に先週一週間は生き延びたわけだし。

六月はちよつとあちこちに行く予定がある。
道中、タティングでもしやうか知らん。
そんなことを考へてゐる。

Monday, 30 May 2016

ピマデニムの糸端は外から? 中から?

パピーのピマデニムで編んでゐる手提げは、あと少しといふところで停滞してゐる。

先日も書いたやうに、持ち手部分のワックスコードを入手できてゐないといふのも理由のひとつだが、もうひとつ、大きな問題が立ちふさがつてゐる。

糸が絡んでしまつたのだ。

大抵の毛糸は、糸を円筒状に巻いた状態で売られてゐる。ものによつては円筒ぢやなくて大福餅のやうな形の場合もある。
編むときは、糸端を円筒の内側から引き出して使用する。
外の糸端から編みはじめてもよいけれど、さうすると巻かれた状態の毛糸を転がす必要がある。これがどうにも具合が悪い。
内側から糸端を引き出せば、円筒状の毛糸はそのままの状態で中から痩せてゆく。残り少なくなるまではほぼ円筒の形をくづさずに編むことができる。

これが春夏用の糸になると、様相がことなつてくる。
絹糸の場合、外の糸端から編みはじめることを推奨してゐる場合が多い。糸の滑りがよいので巻が痩せてくるとすぐぐずぐずと崩れてしまふからだ。
麻や綿の糸でも、外の糸端から編むことを推奨される場合がある。
毛糸でも、Regia のくつ下毛糸はなぜか中から糸端を引き出すのがひどくむづかしい。

ピマデニムのラベルには、糸端をどこから使ふかについてはなにも指示がなかつた。
と、思ふ。さういやざつとしか見てないや。
ラベルを見たときに、これといつてこちらの注意をひきつけるものがなかつたので、通常どほり中から糸端を引きださうとした。
これが失敗だつた。

糸端は見つからず、糸のかたまりがごつそりと出てきた。
いつもならその糸のかたまりから糸端を見つけだすのだが、探しても探しても糸端が見つからなかつた。
これ以上探しても時間のムダと思ひ、糸のかたまりをもとのやうに押し込んで、外の糸端を探して編みはじめることにした。
これも失敗だつた。

中から出すと決めたら時間をかけても中の糸端を探すべきだつた。
以前も似たやうなことが、これは毛糸であつて、そのときはそれで問題なく編むことができた。
ピマデニムは綿の糸だが、毛糸のやうにちよつと毛羽だつてゐる。
それで糸同士が絡みやすいところにもつてきて、糸自体はすべすべとはしてゐない。
ゆゑに、絡み合ふとほどくのに苦労することになる。
そんなわけで昨日は編んでゐる時間よりも糸をほどいてゐる時間の方が長かつた。

一応予備の糸は買つてある。
いま使つてゐる糸を切つて、予備の糸を使ふことにしやうか。
何度かさうしやうと思つた。
しなかつたのは、糸を切りたくなかつたからだ。
こま編みなんだから編みながら糸端の始末をしていけばいいのだけれど、せつかくだから糸を切りたくない。

そんなわけで、編んではほどき編んではほどきをくりかえして昨日は一日終はつてしまつた。

予想どほり、かなり小さな手提げになる予定だ。
糸を一巻まるまる使へばそれなりの大きさになりさうな気がするけれど、あとは指定どほり編んで終はりにするつもりでゐる。

ワックスコード、どうしやうなあ。
なにかほかのものを探すかな。

Friday, 27 May 2016

光と闇の幾久し

若冲展に行きそびれて、カラヴァッジョ展にも行けてゐない。

もともと、美術展にはあまり行かない。
行くやうになつたのは、「美術展とか博物展とか見るやうにしたら、飯田や渋谷の展示を見るときの足しになるんぢやないか知らん」といふ、チトいやしい期待からだ。
といふことは、以前も書いた。

飯田や渋谷の展示、すなはち、飯田市川本喜八郎人形美術館と渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーとの展示のことだ。

日曜の朝、NHK教育(「Eテレ」とはやつがれは云はぬ)の「日曜美術館」などを見るとはなしに見つつ、「こんな美術展に行つてみたいなあ」と思つたりはする。
この番組は、かなり知つてゐる人向けだ。
なぜさう思ふのかといふと、ことばで説明する部分が多いからだ。
「この絵のこの部分は作者のこれこれかういふ気持ちを表現してゐる」とかことばで云つてしまふのだ。
はじめてその絵を見る人は「さういふものなんだ」と思ふだらう。
さうして、実際に見に行つて「やつぱりさういふ感じだな」と確認するだらう。
あるいは「さういふものなんだ」と思つてしまつた人は、もう実際にその絵を見に行きはしないかもしれない。

そんなわけで、知らない絵や画家・彫刻家などの特集の場合は、できるだけ見ないやうにしてみたことがある。
さうすると、ほとんど見られないので、結局やつぱり見るやうになつてしまつた。
日曜の朝のこの時間、まつたりと見るのにこれほどいい番組はないからだ。

句会でも思ふけれど、「日曜美術館」を見てゐても、「そこまで読みとつていいんだ」と思ふことがある。
さきほどの「この絵のこの部分は作者のこれこれかういふ気持ちを表現してゐる」とか聞くと、ね。
俳句にしても美術作品にしても、よくは知らないものだから、どの程度読んでいいものかわからない。
どの程度読むかは見る側の自由だ。
それを他人に伝へるかどうかは、聞かせる相手が「なるほどねえ」と思へるやうな内容か否かにかかつてゐるやうな気がする。
ちよつとしたプレゼンテーションのやうなものか。
ロゴス・パトス・エトスがそろつてゐないと、云うても伝はらないし、「勝手にそんなこと云つて」と思はれるのが関の山だ。

ところでカラヴァッジョの絵は闇の表現がすばらしいのださうである。光と闇とのコントラスト、といふ話だつたかもしれない。
見に行つてゐないので聞いた話だ。
夕べ、「鬼平犯科帳」を見てゐて、「「鬼平」の闇もいいけどなあ」などと思つてしまつた。

一昨日も書いたやうに、「鬼平犯科帳」も第四シリーズくらゐだとまだまだ闇が深い。
捕物の場面はたいてい夜である。
夜の暗さとそこに浮かび上がる捕り手と盗人との姿が、なんともいいんだなあ。
実際の江戸の夜はもつと暗かつたんだらうけれども、それは云ふも野暮といふものだ。

あと、夜の障子紙の向かふに浮かぶ影、とかね。
「光源はなに?」とか思つたりするけれど、それもまた野暮だらう。
暗い中、障子紙にぼうつと映る影といふのは、不穏な表現だ。
夜、いきなり人が訪ねてくるとかさ。
ちよつとびつくりするでせう。
なんでこんな時間に、みたやうな、さ。
それでゐて「影」なので、見てゐるこちらは安心することもある。
あ、あの影は、あの登場人物のあの影だ、とわかるもの。

などといふことは、「鬼平犯科帳」を見てゐるあひだはほとんど考へない。
見終はつて、「ああ、あれはこんな感じなのかも」と思ふくらゐだ。

やつぱり美術展に行つてちやんと見てきた方がいいか知らん。

Thursday, 26 May 2016

書く時間を見つけるには

ここのところあまり書けてゐない。

今月に入つてからだから、システム手帳にしたせゐかなあ、といふ気もする。

昨日、過去に使つた手帳を見返してみた。
去年の九月から十一月くらゐにかけて、Smythson の Panama を使つてゐたころはなんか知らんよく書いてゐた。

その後、ナガサワ文具センターの神戸手帳を使つて、これは途中で使ふのをやめてしまつた。
よく書いてはゐるんだけど、自分とは合はない手帳だつたんだよね。

今年の二月から新書サイズで方眼罫のMDノートを使ひはじめた。
Bullet Journal をはじめるにあたつて、ノートを換へたのだつた。

ほんたうは、神戸手帳は Bullet Journal 向きだと思ふ。
縦に一ヶ月の日付を割り振ることもできるし(確か1ページ35行くらゐあるから)、ページ数が多いので長く使ふことができる。それでゐてコンパクトだ。
手帳つて、やつぱりある程度の期間持ち歩きたいんだよね。とくにスケジュール帳は。

MDノートは最初のうちこそあまり書き込みなどしなかつたものの、Bullet Journal に慣れてきたあたりからあれこれ書くやうになつた。
歌舞伎座ギャラリーの歌舞伎夜話に行つて、そこで見聞きしたことを覚えてゐるかぎり書き出したのも大きかつた。
とにかく、忘れぬうちに書かなければ、と思つた。

これつて、去年の夏に見た劇団☆新感線の「五右衛門vs轟天」の影響だよなあ。
「五右衛門vs轟天」を見たあと、とにかく覚えてゐることを全部書き記さうとして、B6サイズのノートに延々綿々と書き出した。
楽しかつたなあ、書いてゐたころ。

ただし、欠点もあつて、「五右衛門vs轟天」のことを書いてゐるあひだはほかのことは書きづらかつた。
「五右衛門vs轟天」のことを書いてゐる途中に別の話題が割り込むことになるからだ。

システム手帳だつたら、別の話題は別の紙に書いてファイルすればいい。
さう思つたこともあつて、システム手帳を使ふやうにしたんだけどなあ。
まあ、システム手帳にした大きな理由は、スライド手帳を使つてみたいから、だつたんだけどさ。

システム手帳のバインダは HIRATAINDER を使つてゐる。
その名のとほり、開くと平たいバインダだ。
これがよくてね。
まづその日にやることなど書き出して、そのページを開いて机の上においておく。
さうすると、すぐ確認できるし、作業が終はつたら即チェックすることもできる。
思ひついたことは即書き留められる。

いいことづくめのそのはずが、なぜかあまり書けてゐない。
連休この方ホール落語や芝居に通ふことが多くて、そのときの所感などがまつたく書き出せてゐないからか。
それもある。
次から次へと見聞きしたので、なかなかすべてが書き終はらない。

それに、「鬼平犯科帳」とか「座頭市物語(TV版)」とか、見たTV番組の感想などまで書き始めてしまつて、とにかく収集がつかなくなつてゐる。

さう、要するに、書く時間が足りないんだな。

一日は二十四時間だ。
なにごとかを成すにはそのほかのことをあきらめるしかない。
そんなつぶやきが Twitter の TimeLine に回つてきた。
だからといつて睡眠時間を削るのはもうムリ。
いまでもちよつと睡眠時間が不足しただけで、力は出ないしやる気もなくなつてしまふ。

書く時間を確保するために、なにをあきらめたらいいか。
夕飯の時間、といふのがまづ頭に浮かぶ。
食事の支度から食事を経てかたづけまで、すべて費やせることになる。
それしかないだらうか。

ほんたうは、これをあきらめたら一日の大半を書く時間にすることができるのに、といふものがある。
でもそれを口に出しては云へない。
それをあきらめたら生きてはいかれぬからだ。
不自由な世の中である。

Wednesday, 25 May 2016

若冲展に行き損ねたので

「鬼平犯科帳」の第四シーズンを見てゐる。
今日は「正月四日の客」、「深川・千鳥橋」、「俄か雨」を見た。

「正月四日の客」のゲストは山田五十鈴だ。
毎回豪華である。
いま見るからさう思ふといふのもあるけれど、放映当時でも豪華だと思つたらう。

役宅のいつもの部屋で平蔵が配下のものたちと話してゐる場面があつた。
これといつて特別なことのない、よくある場面だ。
よくある場面なのだけれども、一瞬写つた映像がよかつたんだなあ。

やや仰角で、向かつて右側前方に脇息においた平蔵の手が写つてゐる。
左側後方に佐嶋がゐて、その背後には開け放たれた障子の向かうに夜の庭が見える。

正月四日の客

それだけの絵で、そしておそらくはほんの数秒のカットなのだけれども、なんだかこれがとてもよかつた。
この何カットかあとにおなじやうな構図の絵が出てくるのだが、こちらはほぼ水平なアングルで撮つたもので、それだけの違ひなのに最初に見たやや仰角の絵の方が気に入つた。

TV番組を見なくなつて久しい。
ドラマを見ながら「あ、いまの絵、いいな」と思ふことも絶えてない。

一度気に入つたカットが出てくると、「このあとも出てくるかも」と期待してしまつてTVから目がそらせなくなつてしまふ。
いかん。

「深川・千鳥橋」は、夜、駕篭が画面奥に向かつて消へてゆく、といふ場面で終はる。
最後の最後にほんの一瞬だけ駕篭が夜陰にまぎれて文字どほり消へ、それで終はる。
駕篭は二丁あつて、片方には男(高橋長英)、もう片方には女(一色彩子)が乗つてゐる。
どちらも労咳病みで、とくに男の方は先が長くない。
先は長くはないけれども、この先ふたりは幸せに暮らすのだらう。
さういふ話だ。
消へた駕篭がふたりの行く末を暗示してゐるやうにも思へてこれまたよかつたんだなあ。

「深川・千鳥橋」には、画面向かつて右側前方に柱や岩などが写つてゐて、左側奥に人がゐてそちらに焦点があつてゐる、といふ絵が何度か出てきた。
アナログ時代の画面だからいまほど横長ではないのだけれども、この右側前方になにかあつてその左側奥に制作側が見せたいと思つてゐるものがある、といふ構図が気に入つてなー。
かういふカットが随所にあるので、いざといふときに登場人物の顔が大写しになつたり、クロースアップになつたりしたときに効果があがるやうな気もする。

どの話にも共通してあるのが、となりの部屋や窓の外から覗くやうな構図だ。
いつたい誰の視点なんだよ、とも思ふが、手前にある格子やなにかの向かうに見たいものがあるといふのがおもしろいんだなあ。
いままで全然気づかなかつた。
TV画面をしげしげと見る習慣がなかつたからだらう。
また、TVドラマにおもしろい絵が出てくると思つたこともない。

かうなつてくると、上にも書いたやうにTV画面から目がはなせなくなつて困る。

このころの時代劇は闇が深いのもいい。
「鬼平犯科帳」の場合、捕物は夜が多いからとくにさう感じるのかもしれない。

「鬼平犯科帳」はタイトルの雪の中の立ち回りも好きなんだよね。
あれだけ動いてゐて裾がほとんど乱れない。
お頭、イカすー。

TVを見ながら「あ、いまの絵、好き」「この構図、すてき」などと思ひつつ、東京都美術館の若冲展に行きそびれた埋め合はせをしてゐるんだらう。
多分。

Tuesday, 24 May 2016

「もうおやめなさい、終はつたのよ」

タティングレースのネクタイは、モチーフを三つつないだところで止まつてゐる。

四つめを作り始めたところで盛大に間違へてしまひ、途方にくれてゐるからだ。
リングとリングとをつなぎ忘れてしまつたのである。

それも、シャトル(Aerlit だから正確にはボビンだけど)に残つた糸を活用しやうとして間違へたので、かなりやる気が落ちてゐる。
「糸を無駄なく使はうとしたのに、失敗するなんて」と思つてしまふからだ。
せつかく「糸を大切に使はう」「節約しやう」と思つた気持ちが徒になつてしまつた。

かういふことは往々にしてある。
いいことをするつもりが裏目に出てしまふ。

糸の有効活用など、しなくてもよかつたのだ。
ちよつとの糸を惜しんだばかりに、時間が無駄になつてしまつた。

これまた正確に云ふと、失敗した直接の原因は残つた糸を有効活用しやうとしたせゐではない。
失敗したのは、リングとリングとをつなぎ忘れたからだ。
すなはち、注意力散漫だつたからである。

ではなぜ注意力散漫になつてしまつたのか。
糸を継がうとして、そちらに気を取られてゐたからだ。
普段どほりに作つてゐれば、こんなことはなかつたらうに。

かうなると、「らしくないことはしないに限る」んぢやないか、と思つてしまふ。

「機動戦士ガンダム」に「テキサスの攻防」といふ回がある。第37話、かな。
ララァといふ少女が主人公アムロに対して念(といふのかなあ)を送る場面で有名かもしれない。
このあと二人は戦ふことになるのだが、まあ、それはさておき。

やつがれが持ち出してくるくらゐだから、そこのところは眼目ではない。
「テキサスの攻防」ではマ・クベといふ男が死ぬ。主人公と戦つて殺される。
こどものころ見てゐて不思議だつたのは、このマさんといふかクベさんといふか、この男が大佐であることだつた。
だつて別段戦はないしさ。とりあへず「テキサスの攻防」までは。
しかも、なんか特別誂への軍服を着てゐるし。

長じて知る、マ・クベは鉱山などの資源を押さへてゐるのだつた。
「あー、前線で戦ふよりも後方で資源とか扱つてる方がエラいのね」と、悟るわけである。

そんなわけで戦はずしてえらくなつたマ・クベだが、でもやつぱり戦ふのである。
といふのが「テキサスの攻防」なのだつた。

軍服も特別誂へならモビルスーツ(ロボット。とかいつたら怒られてしまふのか知らん)も特注品のマ・クベ大佐だ。
特注品のモビルスーツで主人公に戦ひを挑む。
それを傍から見てゐて、主人公のライヴァルであるシャアが云ふ。
「あの男らしくない」
この回の中で二度くらゐそんなことを云つてゐたやうに記憶してゐるが定かではない。

いづれにしても「らしくない」ことをしてしまつたマ・クベは、わりかしあつさり主人公に倒されてしまふ。
死に際して非常に有名なセリフを残すのだが、そこは今回の話には関係ない。

さうか。
人間、らしくないことをすると死ぬのか。
死なないまでも、あまりよい結果にはならないのか。
またしても悟るのだつた。
深いな、「機動戦士ガンダム」。

といふ話はさておき、リングとリングとをつなぎ忘れたことに気がついたとき、脳裡をかすめたのはシャアの「あの男らしくない」といふセリフだつた。

らしくないことはしないに限る。

といふのはもちろん失敗したことに対する云ひ訳である。

Monday, 23 May 2016

小さ過ぎるかもしれない

かぎ針編みの手提げを編み始めてしまつた。
くつ下は全然進んでゐないといふのに。

Crochet Bag in Progress

糸はパピーのピマデニムを使つてゐる。
針は4/0号にしてみた。
ラベルに5/0~6/0号とあるので、ちよつと細めにした。
手提げなのでしつかりめに編めた方がいいかな、と思つたからだ。
編んでみて、やつがれの手加減だと4/0号でもちよつとゆるいかなー、といふ感じがする。
あるいは糸の特徴としてやはらかい感じの編み地になるのかもしれない。

編み図はオリムパスのサイトからダウンロードしてきた。
サイトではアコーディオンバッグといふ名前になつてゐる。
もともとは毛の糸で編むことになつてゐる。
形がころんとしてゐて気に入つたので、これにすることにした。

目下の悩みは、編み図どほりに編んだら小さい手提げになるのではないか、といふことだ。

編み図の指定針は6/0号だ。
指定糸はメイクメイクのなかのひとつで、残念ながら実物を見たことはない。
まあでも、ピマデニムより太いだらうことは想像できる。

手提げなので、大きさはあまり気にはならない。
そのはずなのだが、途中まで編んで「これは……小さいかもなー」と思つてゐる。
ひとまづは編み図どほりに編んでみて、それから考へることにするかな。

もうひとつ、問題なのは、持ち手部分にワックスコードを使ふといふことだ。
これは以前書いたか。
ピマデニムを買ふときに一緒に買はうとワックスコードを探したのだが、それらしきものがなかつた。
かばん資材のところにらう引きのコードがあつたが、太さが違つた。
ネットで通信販売といふことも考へたが、ワックスコード代よりも送料の方が高くつく。
ほかに余分な買物もしたくはないしねえ。

といふわけで、どこかで手芸店に行かねばならない。
だが、行動半径内にある手芸店はほとんど閉店してしまつてゐる。
ユザワヤか。
ユザワヤしかないのか。
オカダヤの支店もないわけぢやないが、かばん資材のやうなものは扱つてゐなかつたやうな気がするんだよなー。

ワックスコードでなくても、ピマデニムでえびコードを編むなどして使つてもいいし、Micro Macrame 用に買つてある化繊のコードを何本かあはせて三つ編みかマクラメの結び方のうちのなにかを使つてコードを作つてもいい。

さうしやうかな。

かばんの口は巾着のやうな状態になるので、できればあまり毛羽立たなくて滑りのいいものを使ひたい。
マクラメ用の糸、かなあ。

今週もあまり編める時間は取れさうにない。
そのあひだに手芸店を覗きに行けるだらうかな。

Friday, 20 May 2016

ただただ書く

日々萬年筆を使つてゐる。
使はない日はないといつてもいい。

なぜ萬年筆を使ふのか。
好きだから、だな。
なぜ好きなのかといふと、書いてゐるときに手への負担が少ないからだ。
おなじことは鉛筆にもいへる。
そんなわけで、職場の机の上にある筆立ての手に取りやすいところに鉛筆がささつてゐる。

手への負担が少ない所以は、筆圧をかけなくても書けるからだらう。
しつかりと握つて書かなくても書ける。
ちよつと太めの軸をゆつたりと持つて書くのがいい。
字を書くときには、ペンや鉛筆はしつかり握るものなのかもしれないが、そこはまあ、いいぢやあないか。
年賀状の三十枚くらゐなら、自分の住所氏名も含めて宛名書きをしても、疲れることはない。
それ以上は書いたことがないからわからない。

たくさん書いても疲れない。
これにかぎる。
軸がきれいだとかインキの色が好きだとかペン先の意匠がすばらしいだとか、もちろんそれも好きな理由なのだけれども、さうしたことは全部あとづけで、とにかく書きやすいといふのが第一だ。

そんなわけで、やつがれにとつて書きやすいペンがいいペンといふことになる。
書きやすさにもいろいろある。
だいぶ前に書いたやうに、萬年筆を常時使ふやうになつたきつかけは、モンブランのマイスターシュテックはショパン・エディションを買つたことだつた。
なんとも自分らしい字が書けるからだつた。
自分らしい字とはどういふ字だらうか。
うまく説明できないけれど、上手下手はともかく書いた文字が如何にも自分で書いたやうな文字になるのがおもしろかつた。

いまでは一番自分らしい字が書けるペンは中屋の細軟だ。
ピッコロの十角軸で、キャップをしめてゐるときの佇まひもよければ、キャップを尻軸にさして手に持つたときの感触もいい。
かるくて、軸も太すぎず細すぎず、ちやうどいい。

中軟になると、書ける字がちよつと違つてくる。
遊びといふか、ひげのやうなものが細軟のときより増えるといふか長くなる感じがする。

一方で自分らしくない字がかけるペンも気に入つてゐる。
自分らしくない字といふと、大橋堂のペンやデルタのドルチェ・ヴィータで書く文字だ。
使ひ慣れたペンのはずなのに、自分で書いたのぢやないやうな字が書ける。
大橋堂のペンはそのペン先のやはらかな感触から、ドルチェ・ヴィータは細字ながらすこしスタブのやうなペン先から、さうなるのだらうと思つてゐる。

やはらかいペン先が好きだ。
かたいペン先も使つてゐるけれど、なにも考へずに(「つれづれなるままに」といふアレですな)、ただただ書きたいときはやはらかいペン先がいい。
ただ、やはらかいペン先といふのは、自分のものではないやうな字になりがちだな、とは思つてゐる。
大橋堂がさうだし、ファーバー・カステルのペルナンブコ(細字)なんかもさうだ。
ペルナンブコのペン先は、しなるやはらかさといふのではなくて、紙にペン先がふれたときのふはりとした感触がやはらかい。得も言はれぬやはらかさなのだ。
ほかにはこんなペンは持つてゐないなー。
パイロットのCUSTOM 823(細字)がちよつとだけ近いかもしれない。このペンは何度も書いたやうに、使ひつづけてゐるうちにさういふ感触に変はつてきたペンだ。

不思議と、パイロットのフォルカンはあんなにやはらかいのにときに自分らしい字が書けるときがある。
フォルカンにはまだまだ慣れなくて、ペン先が暴れることばかりなのだが、それもまた楽しい。

要するに、「ただ単に書く楽しみ」をくれるのが萬年筆、といふことか。
やつがれにとつてはね。

Thursday, 19 May 2016

大向かふ考

歌舞伎を見に行くと、上演中「何々屋!」と客席から声をかけてゐる人々がゐる。
「大向かふ」と呼ばれてゐる人々だ。
#自分で名乗るのはヤボ。

とくに資格などは必要ないことになつてゐるが、一応大向かふの会といふものがあつて、そこに所属してゐる人々が主にかけてゐる。
さう認識してゐる。

ただ、「資格などは必要ない」ので、誰でもかけていいともいへる。
誰でもかけてもいいが、流儀はある。

たとへば、一階席や二階席からかけるものではない、といふのがひとつ。
かけ声は最上階、歌舞伎座でいへば三階席や幕見席からかけるものである。
これが案外知られてゐないのらしい。
以前もここに書いたやうに、一階席で誇らしげに「わたくし、大向かふをやつてをりまして」なんぞと話してゐる人がゐた。もちろん、上演中声をかけてゐた。

あとは、さうだなー、基本的には屋号をかける、といふこと。
まれに「何代目!」なんてのもあるが、これもかけ過ぎるのはどうかといはれてゐる。
また、屋号の前に「大(おほ)」をつけることもある。
いまの吉右衛門だつたら「大播磨!」とかね。このときは「屋」はつけない。
あと「大」をつけない屋号もある。
多分、「大音羽」とは云はない。「大京」もないんじやないかな。
#あつたらゴメン。

かけるタイミングもある。
これは、芝居に何度も通つてほかの人がかけてゐるのを観察するしかない。
するしかないのだが、「なにがなにして なんとやら」といふセリフの場合、「なにがなにして」のあとにかける人と「なんとやら」まで待つてかける人とがあつたりする。
これは「なんとやら」のあとにかける方が役者としてはいいのらしい。そんな話をどこかで聞いた。

結局、大向かふになるには、何度も芝居に通つて、先輩大向かふの声をかけるやうすを学ぶしかない。
でもおそらく、最近はその手順を端折つてゐる人が多いんだらう。
それで妙なタイミングで声をかけたりとか、耳学問……とはこの場合は云はないのかな……本などで目から仕入れた知識だけで声をかける人がゐる。
さういふことなんだらうと思つてゐる。

したがつて、さきほど「先輩大向かふから学ぶしかない」と書いたが、実は学ぶに足りない人が多いことも確かなのだつた。

困る。
ほかに学びやうがないんだから、ほんとに困る。

でもまあ、学ぶに足りない大向かふは以前からゐた。
最近、とくに大向かふのことが問題になるのは、SNSなどで苦情を吐き出す人が増えたからかもしれない。

そんなわけで、以前は「誰でもかけていいんですよ」などと云つてゐた人も宗旨を変へたのか最近では「大向かふといふのはかういふものです」と云ふやうになつたりしてゐる。
といふ話も以前書いたとほりだ。

歌舞伎四〇〇年の言葉公式ブログにも、三回にわたつて「大向かふとはかくあるもの」といふか「かくあるといいなあ」といつた内容のエントリがあり、最近のエントリも大向かふに関する内容だつた。

でもなー、これつて、短期的にはあまりいい影響はないんぢやないかなー。

なぜか。

歌舞伎四〇〇年の言葉公式ブログを読むやうな人は、大向かふとはどうあるべきかちやんとわきまへてゐる人だからだ。
さういふ人は、普段お芝居を見に行つて、わかつてない(自称)大向かふに腹を立ててゐたりする。

そんなところへ、歌舞伎四〇〇年の言葉公式ブログの「大向かふとは」といふエントリを読む。
さうしたらどうなるだらうか。
「歌舞伎四〇〇年の言葉」などといふ書をものすやうな人の書いたものである。
「さう、さうだよ。これが正しいんだよ。あるべき大向かふの姿だよ」と我が意を強くするのぢやあるまいか。
ある種の権威の後ろ盾を得た心持ちになつて、ますます劇場にゐる困つた大向かふへ対するいらだちを募らせる。
さういふ結果になるのぢやあるまいか。

一方、さういふ人々を苛立たせてゐる大向かふ(と、ここでは便宜上呼ぶ)の人々は、おそらく歌舞伎四〇〇年の言葉公式ブログを読まない。
読んだとしても、その内容が自分に対して注意を喚起するものだとは思はない。
そもそもそこで「あ、あれはいけないんだ」と思ふやうな人だつたら最初からちやんとしてるよ。

といふわけで、大向かうに対して鬱憤を抱いてゐる人と抱かせてゐる人とのあひだにますます乖離が生じる、と。

さういふことになるのぢやああるまいか。
といふか、すでにさうなつてきてゐる気がしてならない。

それつて……楽しくないよね。
どちらの側も、さ。
お芝居なんて楽しく見てナンボでせう。
やれあの大向かふはチャリがけが多いの、とんでもないところで「待つてました」「たつぷり」とかかけるの、とか、一々気にしてゐたら楽しくない。
「間違つてゐるのは相手で、自分が正しい」と思ひ込んでゐるだらうからよけいに苛立ちも募る。

ただ、中長期的には歌舞伎四〇〇年の言葉公式ブログに書かれてゐることはいい影響を及ぼすだらうとも思ふ。
まづここを読んで、それから声をかけやうといふ人もあるだらうからだ。

といふか、さういふ人が増えるといいなあと思つてゐる。
あそこに書かれてゐることをすべて支持するわけではないけどね。

Wednesday, 18 May 2016

久しぶりにタンク・トート

久しぶりにル・ボナーのタンク・トートを使つてゐる。
最後に使つたのが三月二十九日らしいので、ほぼ二ヶ月ぶりか。

使つたかばんの記録を見てゐると、やつがれのかばんの持ち方には大きくわけて二種類ある。
すべての荷物をひとつのかばんにまとめるか。
荷物を小分けにしてかばんとサブバッグ的なものを持つか。

ひとつにしたい時期と分けてひとつひとつのかばんは軽くしたい時期とがあるんだな。

ひとつにしたい時期には、タンク・トートやブロガーズトートといつた大きなかばんを持つ。
小分けにしたい時期には、ミセスやdumi、白い道さんのポシェットなどとあづま袋を持つ。
またはネコリュックとポーチとかかな。

ひとつにしたい時期と小分けにしたい時期との違ひはなにか。

わかつてゐることのひとつに、腰が痛いときは小分けになる、といふのがある。
当然ですな。
腰の痛い時期に大きなトートバッグはつらい。
かばんを躰に沿はせて重さを分散できればいいけれど、さううまくいかないことも多い。
さうすると、こぶりなかばんとサブバッグを持つことになる。
電車内でもサブバッグなら網棚に載せたりできるしね。
メインのかばんには社員証が入つてゐたりして、網棚に載せるのは厳禁なのだつた。
したがつて、大きいかばんをひとつだけ持つてゐる場合は、網棚に載せることができない。
これが悩みなんだよなあ。

年明け直後は、タンク・トートやブロガーズトートの中にバッグ・イン・バッグを入れてゐた。
社員証などはバッグ・イン・バッグのファスナーのあるところに入れて、電車に乗るときにはそれだけ取り出してトートバッグは網棚があいてゐれば網棚に載せたりしてゐた。
しかしこの方法には問題があつた。
いつバッグ・イン・バッグを取り出すか、だ。
網棚があいてゐるかどうかは電車に乗つてみないとわからない。
あいてゐるのを見て、すかさずバッグ・イン・バッグを取り出さうとしてゐるあひだに網棚が埋まつてしまつたりする。
あまり意味がない。

バッグ・イン・バッグ自体はほかの用途でも使へる。
とくにタンク・トートは内ポケットにファスナーつきのものとまちのないものが二つあるだけの箱のやうなかばんなので、中身を整頓する意味でもバッグ・イン・バッグは役に立つ。
出先ではバッグ・イン・バッグだけ持ち出せばいいやうにもできるしね。
しかし、大きいかばんは、電車の中ではときに邪魔になる。
自分はよくても周囲に迷惑だ。

さう思ふことがつづくと、小さめのバッグとサブバッグ、といふ時期がやつてくる。

最近は、ル・ボナーのミセスやカンダミサコのdumiを持ち歩くことが多い。
小さめといひながら、ミセスは入れやうと思へばかなりたくさんのものが入る。ただ、恰好が悪くなるから入れないだけで。
dumiは薄いので展覧会に行くときなどにとてもいい。展覧会場によつては未使用のロッカーが見つからないときもあるからね。あとは如何にして中身を薄く入れるか、だ。

小さめのかばんを持つやうになると、自然と荷物も減る。
今日、久しぶりにタンク・トートに荷物を入れてみて、「減つたなー」と思つた。
かばんに入れる荷物は、「ちよつと足りない」くらゐがいいよね。

今日、タンク・トートを持つことにしたのは、実は数日前から「そろそろタンク・トートを持たう」と思つてゐたからだつた。
寒いあひだは厚いコートを着る。
さうすると、タンク・トートを肩から下げるのがむづかしくなる。
タンク・トートの持ち手はそんなに長くないんだよね。
それで、だんだん薄着になつてきて、そろそろいいかな、と思つてゐたのだつた。
ただ、天気があまりよくないことがつづいたので、持つのをちよつと躊躇してゐた。
さう、天気によつて持つかばんも変はる。
ほんたうは季節によつても変はるのかもしれないが、残念ながらそこのところの機微はやつがれの心にはそなはつてないのらしい。
とほほ。

Tuesday, 17 May 2016

Jan Stawasz 作品など

タティングはちよこちよこやつてゐる。

あみものが進んでゐないのはタティングをしてゐたから、といふ気もする。

先週は、Jan Stawasz の Tatting Treasures に掲載されてゐる十字架を作つた。

Tatted Cross

この本を買つたばかりのころに一度作つたことがある。
録画した時代劇を見ながら作つた。
さう、いつもだつたらくつ下など編みながら見るのだが、なんとなくタティングしたい気分だつたんだな。

Jan Stawasz 作品の特徴として、ダブルスティッチの中央にピコを入れる、といふのがある。
普通はダブルスティッチとダブルスティッチとのあひだにピコを作る。
Jan Stawasz 作品では、ダブルスティッチの先のスティッチと後のスティッチとのあひだにピコを作る場合がある。
その効果については、本やサイトに詳しい。

前回十字架を作つたときには、いはゆる「Jan's method」は用ゐなかつた。
作つてゐるうちに忘れてしまふからだ。
「Jan's method」は必ず使はれるわけではない。
この十字架でも、ときには普通にダブルスティッチとダブルスティッチとのあひだにピコをつくり、ときには「Jan's method」を用ゐるといつた調子だ。
どういふ時に「Jan's method」を使ふのか、パターンを割り出せないとうつかり間違へてしまふ。
まあ、間違へたところで普通のタティングレースになるだけだからさう問題はないのかもしれないが。

今回は、図を参照しつつ、「かういふパターンなのではあるまいか」と考へ、「Jan's method」も取り入れつつ作つてみた。
しかし、やつぱりなにか違ふのかもしれない。
今後の課題だな、どこで「Jan's method」を使ふのかといふパターンの割り出しは。

この十字架はシャトルをふたつ使つて作るものだ。
でも横着してシャトルひとつと糸玉とで作つてしまつた。
本来シャトルとシャトルとを持ち替へるところで shoelace trick を使つてゐる。
最初の trick (といふほど大したものぢやないのだが)はちよつと失敗してしまつてゐる。
これも課題か。課題かもな。

そんなわけで、どうもタティングが楽しくなつてしまつたらしく、おなじ Tatting Treasureの中から tie を作ることにした。

Tatted Motif

何年前だらう、いまごろの「毛糸だま」に、エミーグランデやラメのレース糸で編んだ細いスカーフが数点掲載されてゐたことがあつた。
おもしろさうなので二点編んでみた。
ちよつとネクタイつぽく使へて、おもしろかつたんだよね。

それと似たやうなものをタティングレースで作つてみたいと思つたのだが。
モチーフつなぎだとどうなのかなあ。
エジング状のものを延々と長く作つた方がそれつぽいものができる気がする。

さう思つてゐたのだが、Jan Stawasz 作品の中に考へてゐたものと近い作品があつたので、それを作つてみることにした。
糸は DMC Cebelia #20。江戸紫色と呼んでゐる。

Cebelia を使ふのはものすごくひさしぶりだ。
以前はそれほど好きな糸ではなかつたけれど、今回使つてみて、すべりはいいし、とても結びやすい糸だ。
いい糸だなー。

できあがると、おそらくボウタイのやうなものになるんぢやないかと思ふ。
そんな感じで極細毛糸のタティングはしばらくお休みする。
再開するかどうかは未定だ。

ところで、TV番組を見ながら編んだり結んだりすると、できたものを見たときに「あー、これ、あれを見ながら作つたんだつけー」と記憶が蘇ることがある。
これが楽しいんだよね。
それでTVを見ながらのあみものやタティングをやめられないのだつた。

Monday, 16 May 2016

編めてない理由

先週はまつたく編まなかつた。
編む気にならなかつたし、時間もなかつた。

なぜ時間がなかつたのか。
三月の半ばごろからこの方、時代劇が見たくて仕方がない。
しかし我が家はケーブルテレビにも加入してゐないし、衛星放送も見られない。
昨今、地上波では時代劇はほとんど放映されてゐないやうな気がする。
といふのは、NHKの「木曜時代劇 ちかえもん」を予約録画してゐたところ、録画機が「時代劇」といふキーワードを拾つて勝手に録画するやうになつたのだが、NHKの地上波で見られる最近撮影された時代劇以外には、「暴れん坊将軍」しか録画してくれなかつたからだ。
「暴れん坊将軍」、朝四時から放映してゐるんだぜ。
誰が見てゐるんだらうか。

それはさておき。

京都や飯田で宿に泊まると、衛星放送が見られることがある。
さうすると、夜の七時とか八時とかから放映してゐるんだな、時代劇を。

さうかー、地上波だけだとなかなか見られないのかー。

さう嘆いてゐたのだが。

しかし待てよ。
世の中にはTVの地方局といふものがあるぢやあないか。
テレビ埼玉は、時代劇やアニメーションの再放送をよく放映してゐるといふ。
おらが郷の地方局も、もしかしたら放映してゐるかもしれない。

Bingo!
TV局の放映予定を確認したら、三作品ほど放映してゐることが判明した。
平日は四日間、なにかしら放映してゐる。
それを録画することにして、いままでのやうに週末に録画したものを見てゐるとあつといふ間に録画機のHDDがいつぱいになつてしまふので、帰宅後、夕食のときに見るやうにした。
録画なのでCMは飛ばしながら見るのだが、それでも45分はかかつてしまふ。
夕食を食べるのに、45分はかからない。
結果、食べ終へてもそのままTV番組を見続けることになる。
CMのあひだ皿洗ひなどすればいいのかもしれないが、ちやうどCMの時間ぴつたりに皿洗ひが終はるとはかぎらない。

そんなに真剣に見なければならないのか。
別に真剣に見てゐるわけではないが、つひ見てしまふんだなあ。

ひとつには、おそらくその番組が撮影されたころは、TV番組といふのはさういふものだつたのだらう、といふことがある。

三月にフィルムセンターで「暗闇仕留人」を見てきて思つたことに、「結構音のない場面がある」といふのがある。
BGMは最小限だし、セリフもまた然り。
いまだつたらセリフのない場面ではBGMは必須のやうに見受けられるし、ラジオぢやないのにセリフがない場面がつづけば放送事故のやうに受け取られてしまふのぢやないかといふ気もする。

また、番組やその回にもよるけれど、ゲストキャラクターの造形がきちんとしてゐる。
三月に見た「暗闇仕留人」の「仕上げて候」で内田朝雄の演じる悪の元締めは、ほとんどのセリフを最後まで云はない。
中村主水を前にして、主水が仕留人のひとりだとわかつてゐる、といふことを口にするときでさへ、「あなたが仕留人だといふことはもう」としか云はない。
「もうわかつてゐる」とは云はないのだ。
万事さういふ感じで、二三カ所だけちやんと述部まで喋ることがある、といつた徹底ぶりである。
たつた一度しか出てこない登場人物がちやんと作り込まれてゐて、見てゐて引き込まれる。

先週録画した時代劇でもゲストとして出てくるのが高松英郎、近藤正臣、浜木綿子、植木等、神山繁、中谷一郎、中村光輝といつた具合で、きつと放映された当時はこれといつて特別なところはそれほどない配役だつたのかもしれないが、いま見ると「ちよつとこんな役を演じられさうな俳優はゐないなー」といふ感じでなんだか豪勢な気分になる。

高松英郎は非道は許さぬ盗人の頭領、神山繁はいまはカタギだがかつては親分さんだつた、といふ役で、それぞれいい人なのだが時に頭領・親分としての迫力がにぢみでるといつたやうすで、なあ。
浜木綿子の美しさと悪さ、賢さには思はず引き込まれるしね。
戸浦六宏、中谷一郎の悪役なんかもーすばらしくてねえ。

さう、ノスタルジーといはれてしまへばそれまでだ。
昔見てゐた(やうな)番組、昔見てゐた俳優を、いま見てなぞつてゐるだけ。
さう云はれればそれまでである。

でも、今見てゐて「まあ豪華」と思ふやうな配役のTVドラマつてないんだもの。
かつては大河ドラマがさうだつたんだけどなー。
「八重の桜」まではからうじて「この人が出てゐるあひだは見るか」と思へる配役があつた。
その後、ない。
「真田丸」でさへ、ない。
「真田丸」は、まあ、そのうち松本幸四郎が出てくるのださうだけれども。

時代劇を見てゐるのなら、夕食を食べ終はつたあとに編めばいいぢやない。
さうも思ふ。
でも、手を洗ひに行く時間が惜しいのだね。
なぜ手を洗ひに行く時間も惜しいのかは、右の通りだ。

……ウェットティッシュを常備するか。

Friday, 13 May 2016

朝日のあたる部屋

朝、目覚まし時計のアラームの鳴る前に目が覚める。

どうも、カーテンの隙間から日の光がさしこむのが原因らしい。
きちんとカーテンを閉めるやうにしたところ、目の覚める時間がすこし遅くなつた。
しかし、ちよつとした隙間から入り込んでくるものなんだな、日光といふのは。

そのまま起きてしまへばいいのかもしれないが、生憎と日々寝不足なので、それはしない。
眠れなくても目を閉じてゐた方が休めていい、といふ話も聞く。
それで、布団の中でアラームの鳴るのをぢつと待つ。
この時間がつらい。
つまらないことばかり考へてしまふのだ。

昨日、蜷川幸雄の訃報に接した。
今朝のニュースで、在りし日の蜷川幸雄の映像を流してゐた。
中で「自分にしかできないことがあると思ふんだ」と、語つてゐた。
自分にしかできないことかー。
ないな。
やつがれにはない。

朝、目覚まし時計のアラームの鳴るのを待つあひだに思ふ。
自分のすることはなにもかもムダなのではないか、と。
以前は、好きな本を読み、なにがしかを編み、芝居を見に行けば満ち足りた気分になつた。
意味のあることをした、と思へたからだ。
いまは違ふ。
つねづね読みたいと思つてゐた本を読み、編みたいと思つてゐたものを編み、見たいと思つてゐた芝居や展覧会に行つても、なぜかむなしい。

なぜか、ぢやないな。
ムダだからだ。
かつては、読書やあみものや芝居見物は自分の血となり肉となると思へた。
いまは思へない。
いまだつて読んだり編んだり見たりすれば、それなりに自分のためになつてゐるといふ感覚はある。
だが、そのためになつたはずの自分には、なにもできない。
血となり肉となつた。
それがこの先生きていく上でなにか役に立つだらうか。
立たないね。
立たない。
立つやうな状況が思ひつかない。

朝の目覚まし時計のアラームの鳴るのを待つ時間、さうした自分のダメさばかりが気に障る。

ダメでもいい。
世の中、「無用の用」といふ考へ方もある。
どちらかといふと、さういふ考へ方に組みするやつがれでもある。
でも、だつたら、読んだり編んだり見たり聞いたりなんてしなくてもいいんぢやあるまいか。

そんなわけで毎晩カーテンの閉め方を研究してゐるのである。

Thursday, 12 May 2016

どんどん考へることが卑しくなつていく

Moleskine の価格が上がるといふ。

最近、なにかと値上がりする話ばかり聞く。
九月の文楽公演もさうなのらしい。
文楽公演は以前から安過ぎると思つてはゐたけれど、実際にあがるとなるとやはり苦しい。
国立劇場に関して云ふと、十月から十二月にかけて上演される「仮名手本忠臣蔵」の通しもいつもよりすこし高めになるのださうな。その後戻るかどうかはきまつてゐないといふ。

いろんなものの価格があがるのは、ある程度は仕方のないことだとは思ふ。
しかし、なぜこの時期なのだらう。
来年の四月には消費税率が上がる。
さうしたら、高くなつた金額にさらに消費税率分が上乗せされることになる。

すこし前から、この先芝居は見に行かないかもしれないな、と思ふやうになつた。
見たいと思ふ役者がゐなくなるだらうから、といふのが主な理由だつた。
でも、いまは「芝居見物なんて贅沢はできなくなるだらうから」といふ思ひの方が強い。

七月の歌舞伎座にしても、花形公演だといふのに金額は通常の大歌舞伎公演と変はらない。
といふことは、九月の秀山祭の金額はさらにあがる可能性がある。

こんなことを考へ出したら、もう「好き」とはいへないのかな。
そんなことも思ふ。

Moleskine は、ポケットサイズについていへば三年分くらゐはある。
Moleskine ばかり使ふといふことはいままでなかつたので、もつともつだらう。
Moleskine の代はりをさがすのが難だなあ。
ダイソーの手帳がいいとは聞くけれど、行動半径の中にダイソーがないのが痛い。キャンドゥはあるんだけどなー。
Moleskine が値上がりするといふことは、その他の手帳やノートも追随しないともかぎらない。

今後はなにを楽しみに生きていけばいいのかのう。
経済に貢献しないで楽しめることを探すしかないか。

Wednesday, 11 May 2016

書けてない

連休中から手帳にあれこれ書かなくなつてゐる。

Bullet Journal をつづけてゐて、バイブルサイズのシステム手帳にうつしたところだ。
最初は Bullet Journal の Monthly Log にあたる部分は Weekly Log といふことでスライド手帳を使ふやうにしてゐた。
やはり Monthly Log もほしいと思ひ、Bindex のカレンダー型月間予定表を追加した。

その他あれこれを書き込むには LIFE の NOBLE REFIL の方眼罫を使つてゐる、とは以前も書いたとほりである。
使つてゐて、書き心地は申し分ないのだが、好みりも紙が厚い気がしてゐる。
先日、歌舞伎座の幕間にちよつと思つたところを書き記さうとしたところ、システム手帳ではなんとなく書きづらいので、Davinci のノート型方眼罫のバイブルサイズのリフィルを買つてみた。
買つて気がついたのだが、このリフィルは、一枚一枚ノートをはがしてバインダに綴じる作りではなかつた。
ノートごとバインダにはさんで使ふのらしい。
それだと用途が違ふのだが、まあ、ちよつと使つてみるか、と思つてゐる。
紙は非常に薄くて、しかも裏抜けしづらいやうなので、今度はこのノート型のリフィルとおなじもので普通のリフィルを買つてみやうかと思つてゐる。

連休中からあまり書けないと書いた。
まつたく書いてゐないわけではない。
毎日、その日することやしなければならないことをまづ ToDo として書き出す。
その後は、見たり聞いたり読んだりしたものの感想を書くだけで精一杯。
そんな感じだ。
感想も、ちやんとは書けてゐなくて、時間がなくて尻切れトンボで終はつてしまつてゐるものもある。
そこはあとで書き足せばいいかと思つてそのままになつてゐる。
おそらくそのままだらう。
忘れてしまふからね。

先月はあれこれよく書いたな、と思つたけれど、大半は歌舞伎座ギャラリーの歌舞伎夜話の感想といふか覚え書きだつたりする。
それに終始してしまつた。
今月はこのまま見た芝居聞いた噺読んだ本の覚え書きで終始してしまふのかな。
そんな気もする。
でもそれだつたら Bullet Journal である必要はないんだよなー。

最近、字が劣化してゐるのも、5mm方眼罫にムリに字を合はせやうとしてゐるからな気もしてゐる。
でも Bullet Journal の「これ一冊だけあればなんでもOK」といふ万能感も捨てがたい。
はてどうしたらよからうなあ。

Tuesday, 10 May 2016

なくした?

あひかはらず極細毛糸でタティングしてゐる。

何にするといふあてのあるわけではないが、そこがいいのかもしれない。
また、毛糸といふ伸縮性のある糸で、文字どほり「ゆるーく」タティングするのがいいのかも。

連休中はほとんどタティングはしてゐなかつたけれどもね。

連休中は時計をさげる紐を作らねば、とばかり思つてゐて、タティングはお留守になつてしまつた。
そして、時計をさげる紐もできてはゐない。
できるどころか、影も形もないし、どんなものを作るかも決めてゐない。
決まらなかつたのだ。

そんなわけで、時計は持ち歩かぬままである。
時間はiPhoneで確認すればいいのだが、時計を持ち歩く生活に慣れてしまふと、これが案外面倒なのだつた。
すぐに慣れるとは思ふけれどもね。

そんなわけで、休みのあひだ、「ちよつとタティングでもしてみるかな」と思つて、タティングセットを取り出さうとして、ちよつと焦つた。
いつもシャトルや糸切り、クロススティッチ針を入れてゐるがま口が見つからない。
この連休は、あれこれかばんを持ち替へた。
遠出もしたし歩きもした。芝居見物もした。
その時々で使ひ勝手のよいかばんは違ふ。
その都度中身を入れ替へるのだが、「今日はタティングする場面はないな」といふときは、タティングのお道具は入れてはいかない。

そんなことをくり返してゐるうちに、なくしてしまつたのだらうか。

タティングのお道具は、濱野のナティカFといふがま口に入れてゐる。
このがま口のすばらしさについては以前も書いた。
財布としても気に入つてゐるし、シャトルなどを入れておくのにも最適だ。

そのがま口がない。
どこかで落としたのだらうか。
だが、落とすやうなところには持つてはいかないし、そもそもこの連休中はこのがま口を持つていく場面は少なかつたはずだ。

いろいろと考へた。

これつて、タティングレースに対する愛情が薄れてるつてことかな、とかね。
日々タティングをしてゐれば、このがま口はつねに手元にあるはずだ。
それをせずにゐるからかういふことになるのだらう。

幸ひ、一番お気に入りのシャトルはいまのところ持ち歩いてはゐない。
ちやんとしかるべき場所にあるのを確認した。
それだけでも御の字かな。

さう思つてゐた。
出勤するといふので、ブロガーズトートの中を確認したらばこは如何に。
あるぢやないですか、濱野のがま口。
やつがれのがま口は紺色だ。ブロガーズトートの内袋の色とほぼおなじである。
それで紛れてしまつてわからなかつたんだな。
あー、安心した。

いまのところあてどなく作つてゐる極細毛糸のモチーフつなぎしか入つてゐないし、中身も最低限のものしか入つてゐない。
使用してゐるシャトルがお気に入りのクロバーフローラの白つぽいシャトルであること以外は、そんなに打撃はない。
さう思ふやうにつとめてゐたんだけれどもね。

見つかつてみると、こんなにうれしいことはない。

そんなわけで、まだしばらくは極細毛糸のモチーフつなぎをつづけてみるつもりでゐる。

Monday, 09 May 2016

春夏新作毛糸でなにを編む

Jaywalker socks を編んでゐる。
もう片方の脚の模様部分に入つたところだ。
昨日も「真田丸」を見ながら編んだ。
そのうちできあがることだらう。

こんなにのんびり編んでゐるといふのに、毛糸を買つてしまつた。
綿だから毛糸ではなくて糸かな。
「春・夏毛糸」といふ枠で売られてゐるので「毛糸」でもいいか。

パピーのピマデニムである。

パピーのピマデニム

かなり早い時期から Twitter の TimeLine にあがつてゐて気になつてゐた。
藍染つぽい感じ。
いいよね。

デニムで糸といふと、Rowan の Denim を思ひ出す。
ローワンのデニムは、編んだあと洗ふと縦方向にちよい縮む、といふ特性があつた。
また、使ひ込んで洗ふうちにだんだん色落ちして、デニムめいた風合ひになるのもいい。
我が家にもローワンのデニムで編んだ帽子がある。以前ローワン・ジャパンで編み方を公開してゐたホリデーハットをデニムで編んだ。
ほんとは着るものを編みたいんだけど、ちよい縮むのを考へて編む必要があるし、かなり重たくなるので編んだことはない。

パピーのピマデニムが縮むのかどうかは確認してゐない。
ローワンのデニムに比べて細いので、着るものを編んでもローワンのものほど重たくはならないんぢやないかな。
ピマデニムで編んだヴェストの写真などを見ると、編んでみたくなる。

でも、着るものを編むだけの糸、つまり着分の糸を買ふだけの資金はない。
その糸を置く場所もない。

ではなにを編むのか。
手提げを編まうと思つてゐる。
オリムパスのサイトにあつたアコーディオンバッグなんか、いいんぢやないかなあ。
もともとはオリムパスのメイクメイク ココットで編むことになつてゐる。
ピマデニムで編むなら、かぎ針のサイズをちよつと落としてかつちり編むやうかなあ。
手提げなので大きさはそんなに気にしなくてもいいかな、と思つてゐる。

糸を買ふときに一緒に持ち手用のワックスコードを買はうとしたが、店に見あたらなかつた。
持ち手も編むかなあ。
しかし編んだ持ち手は伸び縮みするだらう。
ワックスコードの方がよささうだ。
なにか代はりになりさうなものを探すかなあ。

などと、Jaywalker を編みながら考へてゐる。
楽しい。

Friday, 06 May 2016

久しぶりのシステム手帳

HIRATAINDER を本格的に使ひはじめてほぼ一週間がたつた。

連休中は、なにかを書き付ける時間をあまりとれなかつた。
さういふ気にならなかつたんだらう。
四月の最後に落語を聞いてきたので、その感想など書いてゐるが、それも最後が尻切れトンボな形で終はつてゐる。
尻切れトンボで終はつても、別のページでつづければいいからいいかな、といふのでさうなつてしまつた。
Bullet Journal は、おなじ内容を全然違ふページに書いてもそれほど問題ないやうな死す手になつてゐる。さう思つてゐる。
必ず見出しをつけて、気が向いたら Collection Log として目次を作ればいいだけだ。
Bullet Journal でなくてもおなじ手法を用ゐればいいんだけどね。

休みの日は、朝起きて洗濯機に洗濯をまかせたらノートに向かふことが多い。
朝書くと、時間があるので比較的のほほんとした気分で書ける。
それがこの連休中はできなかつたんだな。
出かける予定の日が多かつたからだらう。
出かける予定があると、外出する時間までにあれもこれもしなければ、と落ち着かない。
とくにこの連休は、四日に雨が降る予報だときいてゐたので、晴れてゐるうちに洗濯しなければ、といふのでバタバタしてしまつた。

まあでも、「さういふ気にならなかつた」といふのが一番大きいかな。

今月からシステム手帳を久しぶりに使ふことにして、いまのところまだ暗中模索といつたところだ。

まづは、HIRATAINEDER のひらたく開けるところがとても気に入つてゐる。
開いたまま机においておき、なにかあつたら書きつける。
ひらたく開けるよさを知つたのはほぼ日手帳をはじめて使つたときだ。
ほぼ日手帳より HIRATAINDER の方がいい点として、「よりひらたい」といふことがあげられる。
ほぼ日手帳は分厚いのでのどの部分がちよつと山なりになる。
気になるほどではないし、書き込むときには自然と手で押さへる形になるから気にならない。
でも、机の上にただおいてあるだけのときの印象は HIRATAINDER の方がよりひらたくていい感じだ。
HIRATAINDER よりほぼ日手帳の方がいい点としては、ほぼ日手帳には中央にリングがないといふことがあげられる。
システム手帳に限らずバインダ式のノートはなんでもさうだと思ふが、ノートをとじてゐる中央のリングが筆記時に邪魔になることがある。
とくに左側のページに書き込むときだ。
いまのところ、限界までリフィルをはさむことで、左右の段差が可能なかぎりちいさくなるやうにしてゐる。かうすると、ちよつとだけリングを気にせずに書き込めるやうになる。

学校に通つてゐる時分は、ルーズリーフを使つてゐた。
袋に入つたまま授業に持つていき、書いたらバインダにとじるやうにしてゐた。
今回も、さうしやうかなあと考へてゐる。
問題は、幕間などに書き付けるときに、袋に入つたノートを取り出して書いてとじるといふ一連の作業が繁雑なのではないかといふことだ。
ほんたうはノート型のシステム手帳用リフィルがあるといいんだがなあ。
書き終はつたらノートからはがしてシステム手帳にとじるのだ。
ルーズリーフにはある気がするのだが(もうないかもしれないが)、システム手帳用にはどうだらう。

だいたい、文房具店に行つても、システム手帳のリフィルといふのはそれほど多くない。
すくなくとも、一時よりはだいぶ減つてしまつた。
使ふ人が減つてるんだらう。

ノートのリフィルには以前も書いたとほり LIFE の NOBLE REFILL の方眼罫を使つてゐる。
ノートでも使つてゐたことがある。
裏抜けもしないし、インキフローのしぶいペンでも書きやすいし、気に入つてゐる。
ただ、少しばかり紙が厚い。
これくらゐ厚い方がいいのかなあ。
ノートのリフィルにはトモエリバーのものもあるといふので、探してみるつもりだ。

Thursday, 05 May 2016

逆転の発想

短所の裏返しが長所だといふ。

がんこな人は、ブレない人。
せつかちな人は、procrastinate しない。
のんきな人は、余裕がある。

世の中さうしたもので、でも、ぢやあ、「意地が悪い」の裏返しはなんだらう。「意地汚い」は? 協調性がない人にどんな長所があるといふのか。

頭がかたいせゐか、どうも考へつかない。

非認知能力と呼ばれるものがある。
協調性とかやる気とかリーダーシップとか、人とうまくやつていくのに必要な能力、と、やつがれは把握してゐる。
非認知能力の高い人は、社会に出てから定職につける率が低い人に比して高いのらしい。

こどものころに培はれるものらしく、「非認知能力をのばすには、こどもをかう育てろ」とかいふ記事はよく見る。
だが、おとなはこうすればいい、といふ話はあまり聞かない。
おとなになるともうのばせない能力なのか。
単にこどもを対象とした研究が進んでゐるだけなのかもしれない。

非認知能力といふのは、認知能力のやうに試験やなにかではかれる能力ではないといふ。
でも、わかる。
やつがれは、この非認知能力といふものがひどく低い。
話の流れからして、「つまり、こどものころのしつけや教育がなつてゐなかつたといふことですね」と云はれてしまふかもしれないが、それもまたやむなしといつたところだ。

有り態に云ふと、協調性がない。
協調性がないことでずつと困つてきてゐるのだからなんとかすればいいのだが、さういふやる気もない。
リーダーシップはもとよりない。協調性のない人間にあるわけがない。

そして考へるわけだ。
協調性がないことの裏返しはなんだらうと。
それは長所なのだらうか。
どうもさうは思へない。

ゴッホが生前認められなかつた所以は、画商とうまくやつていけなかつたからだといふ説がある。
画家として大成するには、パトロンや画商とのつきあひが大切だ。
作曲家もさうかもしれない。
モーツァルトが共同墓地に埋められることになつたのも、パトロンとうまくつきあつていけなかつたからぢやあるまいか。

短所の裏返しが長所なら、長所の裏返しは短所なのだらう。
ぢやあ協調性のあることの裏返しはなんだらうか。
協調性があることは短所たり得るのか。

そもそもここで逆転の発想のできないことが、ダメなのかもしれないなあ。

Wednesday, 04 May 2016

思つたほどは劣化してない

先日、「書く字が劣化の一途をたどつてゐる」といふ話を書いた。

その後いろいろ考へてみたところ、どうやら、嘆くほどの話ではないことに気がついた。

もちろん、うまくなつてゐるわけではない。
全体的にいへばゆるやかに劣化してはゐる。
急激に劣化したと思ふには理由があつた。

Bullet Journal である。
もつといふと、MDノートの方眼用紙だ。
それと普段使つてゐるペンの組み合はせ。
これがいけなかつた。

さう思つたのは、マルマンのクロッキー帳にぼんやりあれこれ書き散らしたときのことだ。

マルマンのクロッキー帳は、萬年筆との相性がいい。
インキもにぢみづらいし、書いてゐて楽しい。
そんなわけで、たまに手に取つては意味もなく魏武の詩や芝居の名セリフなどを思ひ出すにまかせて書いたりしてしまふ。

久しぶりにクロッキー帳にあれこれ意味もないことを書いてみると、前のページにくらべてそんなに悪い字を書いてゐるといふわけでもないことに気がついた。

自分の気の向くままに気の向く大きさの字を書くといふのがいいんぢやあるまいか。

さう思つたのは、方眼用紙に字を書いてゐるときに窮屈に感じることがあることに思ひ至つたからだ。
方眼罫なんか無視すればいいんだけどね。
しかし罫線が引かれてゐると、無視するのはむづかしい。
そんなわけで、最近はMDノートの方眼罫にあはせるやうに字を書いてゐた。

無地のノートを使ふと、どんどん字が小さくなつていくのだが、それは自分の気持ちの赴くままに小さくなつていくので問題ないのだらう。

もうひとつ、MDノートの問題点、といふか、MDノートと愛用のペンとの相性の問題点は、MDノートの紙は吸水性がいいのでインキフローのしぶいペンで書くとちよつとカリカリした書き味になることだ。
カリカリ、あんまし好きぢやないんだよね。
カリカリが好きぢやないならインキフローのいいペンを使へばいいぢやあないか。
ごもつともだ。
ごもつともだけれども、MDノートを使ふまではそのペンで書いて不満はなかつた。

さらに、Bullet Journal にまとまつた文章ではなく箇条書きのメモを書き連ねてゐると、「早く書かなきや」「忘れないうちに書かなきや」といふ意識がはたらくのらしく、とにかくあはてて書きつけることになる。

かうした諸事情が重なつて、字が劣化したやうに感じたのだらう。

いや、実際は劣化してゐるのだと思ふ。
とにかく書かなければとあはてて書いてばかりゐたら、そりや劣化するさ。

月曜日からHIRATAINDERを本格的に使ひはじめた。
ノートリフィルにはLIFEのNOBLE REFILLの方眼罫を使用してゐる。
いまのところ、ペンとの相性はそんなに悪くないやうだ。

ときどき、方眼罫からはなれた方がいいのかもしれないな。

Tuesday, 03 May 2016

近況と抱負

タティングレースもなにも進んでゐない。

先週書いた極細毛糸のモチーフつなぎをなんの目論見もなくつづけてゐるていどだ。
極細毛糸はパピーの New 2 Ply。
毛糸でのタティングレースには先週も書いた。
糸に伸縮性があるので綿のレース糸に比べるとかつちりと作るのはむづかしい。
逆にいふと、かつちり作れないがゆゑのゆるさがあつて、それが楽しい。

かつちりしたものが苦手なんだな。

タティングではないが、おなじ結ぶタイプのレースとして、マクラメをやりたいと思つてゐる。

以前、時計用のチェーンをタティングで作つた。
絹穴糸にビーズをあしらつたものだ。
スプリットリングのリングとリングとのあひだにビーズを入れた鎖上のものである。
できあがつたときはよかつたんだけど、時計が重たすぎて即リングがのびてしまつた。
そのまま使つてゐたのだが、最近ちよつと糸がほつれてきた。
このままだと時計を落としてしまふので、新たなものを作らうと思つてゐる。
時計が重たいので、タティングよりもマクラメの方がいいかなあ、と思つた次第だ。
マクラメで時計用のバンドつてよく見かけるしね。
それに、マクラメにビーズを取り入れたものを作つてみたいと前々から思つてゐるし。
Micro Macrame 用に化繊の糸も買つてあるしね。

問題は、どんなデザインにするかなかなか決まらないことと、やつがれにちやんと作れるかどうかわからないといふこと。
ちやんと作れないかもしれないなあ。
まづは練習からはじめるかな。
できればこの休みのあひだに作つてしまひたいのだけれども、もうあと二日しか残つてゐない。
次の土日まで、と考へることにしやうかな。

Monday, 02 May 2016

heel flap のまちの拾ひ目

Jaywalker socks は、まだ最初の片方を編んでゐる最中である。

腕が落ちたなー、と思ふ一方で、編む時間もとれてゐないのでこんなものかな、とも思ふ。

現在は、かかとのまちの減らし目も終はり、つま先に向かつてゐるところだ。
Jaywalker は編み地がバイアスになるので、足の甲と裏とで目数が異なる。甲側の方が裏よりも多い。
つま先の減らし目をするときは、うまくつじつまを合はせることになつてゐる。
それももうしばらく先のことかな。

Jaywalker は編み方どほりに編むと heel flap のかかとになる、とは前回も書いた。
Heel flap のかかとの場合、まちの拾ひ目がどうしてもゆるくなる。
Heel flap の端のすべり目から一段づつ拾つていくときに糸をきつく引いてもあまり効果はない。
すくなくともやつがれの場合は効果があつたとは思へなかつた。

今回も「ゆるいなー」と思ひながら編んでしまつた。

Heel flap からの拾ひ目のゆるみを解消するにはどうすればいいのか。
この解消法は、Cookie A.のくつ下の編み方から学んだ。
拾つた目の次の段をねぢり目にすればいい。
かうすると、ちよいとばかりゆるみが解消されるのであつた。
この編み方をはじめて知つたのは、Hedera だつたかなー。
編む前は「なんでねぢるんだらう」などと思つてゐたけれど、編んで納得。

Hedera もいいくつ下だよなー。
一度編んでゐるけれど、また編みたくなつてしまふ。

しかし、いまはとにかくいつでも眠たい。
眠くないときがないくらゐ眠たい。
唯一眠たくないのは眠つてゐるときだけ。
そのくらゐの勢ひで眠たい。
ゆゑになかなか編めない。
昨日の午後もいすに座つたまま意識を失ふやうに睡魔に負けてゐたしなー。
明日から三日間、休みのあひだはよく眠ることに注力したい。

三日ばかり眠つただけぢやダメなことは百も承知でゐるけれど。

Sunday, 01 May 2016

2016年4月の読書メーター

2016年4月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:2648ページ
ナイス数:13ナイス

大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)感想
歌舞伎座で三部制の月が増えるといふ話があるので、昔はどうだつたのかを確認するために再読。今とは全然違ふが、見取り狂言の「一幕目(時代物)・中幕(所作事)・二幕目(世話物)」といふ基本形の元は江戸前の歌舞伎なのかも。三部制になつたらどうなるのかなぁ。
初読のときは「だから自分は「盟三五大切」が好きなんだなぁ」と思うたものだつた。
読了日:4月1日 著者:橋本治
なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書)なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書)感想
「毒舌」とは思はない。ほんとのことでしよ? 実名を出してゐるから「毒舌」などと云はれるのかな。「真田丸」を見てゐると、一々時代考証を気にしてゐるのがすけて見えるのが気に障るよね。 「物語のパターン化」を問題にしつつ、「越後の縮緬問屋実ハ先の副将軍」とか「貧乏旗本の三男坊実ハ将軍」、「昼行灯実ハ剣の達人」とかをやり玉にあげなかつたのは、かういふ見顕しが視聴者のカタルシスを呼ぶものである(とかつて中島梓は云つてゐた)と思つてゐるからだと信じたい。
読了日:4月7日 著者:春日太一
史記 9 列伝 2 新釈漢文大系 (89)史記 9 列伝 2 新釈漢文大系 (89)感想
戦国四君とか屈原とか刺客列伝とか。最後の李斯列伝がかなりずつしりくる。絶頂期に「そのうちダメになる」と予感してゐながらふせげなかつたあたりとかね。刺客列伝を読んでゐると、最近日経ビジネスオンラインで読んだ「(華僑の人は)ダメな社員も切り捨てずに使ふ」話とダブるところがあるなあ、と思つた。
読了日:4月10日 著者:水沢利忠
One of our Thursdays is Missing (Thursday Next)One of our Thursdays is Missing (Thursday Next)感想
え、ゐなくなつたのは本物? 前作では頼りなかつた物語のサーズデイのサーズデイつぷりがかつこよくて、「実はほんたうのサーズデイなのでは……」と何度も思つてしまふ。物語のサーズデイが実際の世界に行くくだりの描写がおもしろい。次作はどうなるんだらう。このサーズデイが主役になるのかあるいは?
読了日:4月13日 著者:JasperFforde
真田太平記(三)上田攻め真田太平記(三)上田攻め感想
角兵衛、承認欲求強過ぎ! と、いまなら云はれるであらう。この巻で説明される戦国武将の承認欲求とは違ふ、現代に通ずるもののある承認欲求だ。どうやらこの承認欲求といふものは、わからない人には全然わからないのらしい。きつと角兵衛の周囲の人は「わからない人々」なんだらう。これまで出来杉くんだつた信幸の人間らしい面といふか失態といふかが出てきてこの先の展開が楽しみになるやうになつてゐる。秀吉は趣味のないモーレツ社員だつたのね。なるほどねる
読了日:4月16日 著者:池波正太郎
漢文入門 (ちくま学芸文庫)漢文入門 (ちくま学芸文庫)感想
漢文とはなにかを定義し、推測も交へつつ訓読の歴史を紹介する本。現在学校教育で教はる訓読方法が用ゐられるやうになつたのは遡ってもせいぜい江戸時代末期で、この本の出版された1968年から見れば百年ちよい前くらゐだ、といふ。なんかどこかで聞いたことのある話だな。
読了日:4月19日 著者:前野直彬
正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)感想
順番に読んできて思ふことはといふと、魏書ほどおもしろくない。人材か? 人材の差なのか? それとも著者になにか含むところがあるのか? などと考へてゐるとあやしうこそものぐるほしけれな気分になることだなあ。
読了日:4月27日 著者:陳寿,裴松之

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