「死者の書」の人形の目線
週末に飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
人形アニメーションの展示として「死者の書」の登場回数が多い気がするのは、比較的新しくて人形の状態がいいからだらうか。
前回の展示のときに伺つた話だと、「花折り」や「鬼」、「道成寺」の人形は、もうかなりお年を召してしまつてゐるのだといふ。前回の「道成寺」の女はそれまでに比べて動きの少ない状態で展示されてゐた。
ところで、身狭の乳母がゐなかつた。
身狭の乳母のケースには「修繕中」といふ看板があつた。
身狭の乳母は、弦打の最中といつたやうすで展示されてゐた。
ずつと飾つてゐると、弓の状態が変つてきたりなんだりするのだ、と美術館の方が教へてくだすつた。
乳母自体も弓のやうに背をそらし胸を張つてゐて、とてもいさましかつた。
十二月に見たとき「なんてかつこいい」と思つたものだ。
身狭の乳母に会へなかつたのは残念だが、ちやんとなほしてもらつてゐるんだなあと思ふと心強い。
もうひとつ、教へてもらつたことがある。
これまでの展示では、持統天皇は顔を上げてきつと空の彼方をにらんでゐるやうすが多かつた。
今回の展示では顔を上げてはゐない。これは十二月に行つたときも書いた。なにかをにらんでゐるやうな表情は変はらないけれど。
持統天皇はなにをにらみつけてゐるのか。
はす向かひのすこし遠いところにある大津皇子をにらんでゐるのだ、といふ。
ゆゑに大津皇子もわづかに気配を感じて持統天皇の方を気にしてゐる。
さうだつたのか。
気づかなかつた。
なにを見てゐたのだ、やつがれは。
大津皇子はいつものやうに「七歩の詩」の屏風の前に座し、巻物と筆とを手にしてなにやら書きつけやうとしてゐる。
考へてみたら、これまでは前方を向いてゐたやうな気がする。
さうか、ほんのすこしだけ、ふり返つてゐるやうに見えたのは、さういふわけだつたのか。
持統天皇の目力もすごいが、大津皇子の敏感なこと。
恐れ入る。
さう思つてみると、恵美押勝館の大伴家持の視線の先なども気になる。
押勝は、語つてゐる最中だから身振りもあり、目線もあらぬ方を見てゐるやうな感じで違和感は感じない。
だが、その向かひに座つてゐる家持は、押勝を見てゐない。
ほんのすこしだけ視線の向かふ先がずれてゐる。
押勝の話を聞いて「ほんになあ」と、ちよつと思ふところあつて視線をはづしたところなのだらうか。
それとも最初から話を聞いてゐないのか。
気になるなあ。
家持のそばにはべる采女Bが「まあ」、押勝のそばにゐる采女Aが「おほほ」といふ感じなのもおもしろい。
これまで見た中では、語り部の媼は機を織る郎女の隣に立てゐることが多かつた。
今回は、媼は機の手前にきてゐる。
これまでだと「織り方を指南してゐるのかな」といふ風に見えた。
今回は、なにを話してゐるのかなあ。
見てゐるこちらの意識が織りからちよつとはなれる感じだ。
郎女は自分の目の高さから見るとなんとなく無表情に見えるが、目線の高さをあはせると、なんともやさしげな表情をしてゐる。
あちらこちらから見てしまふ所以である。
目線の話は次回もつづく。
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