ただの悪でなにが悪い
先日、Twitter のタイムラインに「今日は成田三樹夫の命日」といふつぶやきが流れてきた。
思はず「成田三樹夫といへばあの目が、ねえ」とつぶやいたところ、「ニヒル」といふリプライを頂戴した。
「ニヒル」と呼べる俳優がゐなくなりましたね。
さうなんだよねえ。
俳優自体も問題なのかもしれないが、昨今の悪役には「悪役にも五分の魂」とでも云ひたげな、「オレにだつて理由があるんだよ!」といふ役が多い。
そればかり、といつてもいいかもしれない。
この「悪役にも五分の魂」状態は、すくなくとも四十年前にはもうあつた。
たとへばロボット・アニメーションもの。
「勇者ライディーン」のプリンス・シャーキンと、「超電磁ロボ コン・バトラーV」の大将軍ガルーダとを比べてみるとわかる。
シャーキンの生ひ立ちには設定はあるが番組中ではあまり出てこなかつた。
ガルーダの過去といふか生ひ立ちといふか「実ハ」は、番組内できちんと描かれてゐた。
書いてしまふとネタバレになつてしまふので、といつて「コン・バトラーV」のネタバレを気にする人ももうゐないかもしれないが、まあ、ここはひとつ。
つづくプリンス・ハイネルなんかはひよつとしたら主人公よりもよほど背負つてゐるものが大きいんぢやないかといふ気もするし、リヒテルに至つては助けてあげたくなつちやふやうなそんな悪役だつた。
当時はそれが新しかつたのかなあ。
「さういふもの」として受け入れてきた自分にはよくわからない。
「闘将ダイモス」よりもうちよつとあと、「機動戦士ガンダム」が放映終了後やつと日の目を見るやうになつたころ、かな、「ただの悪ではなかつた」といふ表現をよく見聞きするやうになる。
ガルーダやハイネルのやうな悪役が増えた、といふことだらう。
やつがれはこの「ただの悪ではなかつた」といふ評を妙に厭うてゐた。
ただの悪でなにが悪い!
こども心にさう思つてゐたのだらう。
特撮戦隊物でもいつしか「悪役同士の対立」がひとつの見せ場として取り入れられるやうになつてゐた。
二時間ドラマの影響もあるのかなあ。
犯人には犯人のドラマがある。
やむにやまれぬ事情がある。
ゆゑにラストシーンはどこかの崖つぷちで、身を投げやうとする犯人に「死んぢやダメ!」とか説教をするやうになつたのだらう。
さう勝手に思つてゐる。
ひとり時代劇だけは、悪は悪として描かれてゐたやうに思ふ。
「水戸黄門」で悪役が「わたくしにも事情があつて」とか弁明するの、見たことないもんね。
「鬼平犯科帳」はちよつと別かな、とも思ふが、単に悪な役も出てきたこともある。
悪役の背景も描く。
作り手にとつては、楽しいことなのかもしれない。
主人公よりよほどおもしろさうだし。
どうしたら人間は悪になるのか。
興味の尽きぬところではある。
でもさー、歌舞伎に出てくる悪にはそーなつてほしくないんだよね。
といふのが、今月「不知火検校」を見ての感想なのだつた。
芝居の終盤、こどものころから数多の悪事を積み重ねてきた不知火検校は「金で心を変へるのは誰しもおなじ」とかなんとか、自分ひとりが悪いのか的な長広舌をふるふ。
あー、はいはい。
どうでもいいんぢやんよ、そんなのは。
仁木弾正が「権力を握りたいのはほかの奴らもおなじ」とか云ふかね。
民谷伊右衛門が自身がどうしてかうなのか、弁明するかね。
しないね。
しない。
芝居の、歌舞伎の悪とは、さうしたものだ。
他人は知らずやつがれは、さうした悪が見たくて歌舞伎を見に行く。
理屈を聞きたいわけぢやないんだよねー。
といつて、「不知火検校」がつまらなかつた、といふわけではない。
以前新橋演舞場で見たときもおもしろいと思つたし、松本幸四郎にあつた役だと思ふ。
それと、歌舞伎として見ておもしろいかどうかはまた違ふ。
といふわけで、「いい悪役」につづくのか。
「いい悪役」が仁木弾正とか民谷伊右衛門とかつてわかつちやつたのでもういいかな。
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