「好き」に理屈をこねてみる
歌舞伎のなにが好きなのだらう。
去年、「歌舞伎のどこが好きなの?」と訊かれることがあつて、はたと考へ込んでしまつた。
どこのなにが好きなんだらうなあ。
役者か。
はづかしながら、「この役者が好き!」といふのは実はない。
入り待ち出待ちとかしたことないしね。
あ、出待ちは一度だけ、大阪中座でおつきあひでしたことがある。
勘九郎(当時)・八十助(当時)の七月公演ね。
お隣に座つてゐた人が出待ちをする、といふので誘はれたのだつた。
役者よりも周囲のやうす、徘徊するサンドイッチマンとかその看板に書かれてゐたことの方が印象に残つてゐる。
あと、藤十郎(紀伊國屋、な)の姿は最後まで見なかつたな、とか。
後援会にも入つてゐない。
役者を応援するといふことは、その家自体を応援することだと思つてゐる。
「この家ならずつと応援できる!」といふのが残念ながらない。
あと、群れるのが嫌ひといふのも理由のひとつではある。
できるだけ所属先を持ちたくない。
ある役者が好きだから見てゐるわけではないその証拠が今月の二月の歌舞伎座夜の部だ。
「籠釣瓶花街酔醒(以下「籠釣瓶」)」よりも「源太勘当」の方が自分にとつては好ましい芝居だつた。
このふたつの芝居に出てゐる役者の中で一番好きなのは中村吉右衛門であるにも関はらず、だ。
上演の順番は「源太勘当」「籠釣瓶」だつた。
「源太勘当」がよくてなあ。
見に行く前にあちこちから「籠釣瓶」がいいといふ話はたくさん聞いてゐたけれど、「源太勘当」への感想はほとんど耳にしなかつた。
え、こんなにいいのに。
といふことは、「籠釣瓶」はこれをはるかに凌駕するよさなのだらうか。
そんな期待とともに見た「籠釣瓶」はもちろん大変すばらしくはあつたけれど、「源太勘当」を超えるものではなかつた。
二月の「源太勘当」のなにがそんなにやつがれの心をとらへたのか。
梶原源太役の中村梅玉を見て、「高砂屋さんで見たかつたのはこれだよ!」とつくづく思つた。
千鳥の片岡孝太郎、梶原平次の中村錦之助、横須賀軍内の片岡市蔵、珍斎の市村橘太郎、そして延寿の片岡秀太郎。
いづれもぴつたりはまつてゐた。
ことに延寿は前半の憂ひと後半の憂ひとの違ひとがそれとなくわかるやうな風情がたまらなかつたなー。
その上、芝居全体として調和してゐる。
今後、こんな「源太勘当」はちよつとないんぢやないか。
さう思つたのだつた。
「籠釣瓶」は、まあ有り体に云ふと、「播磨屋さんで見たいのはこれぢやないんだよね」と思つてしまつたのだつた。
尾上菊五郎も然り。
音羽屋と播磨屋とが一緒に出ててこれはないんぢやない。
二月は昼の部もさうだつたけれど。
もちろん、尾上菊之助の八橋はすばらしかつたし、中村米吉の初菊の可愛らしさといつたら! だつたし(後ろ姿がデカく見えてしふのが難といへば難だが)、播磨屋の佐野次郎左衛門の「ことによつては」といふセリフのあとの中村梅枝の九重の「ええ」といふ、その云ひ方、間、イキ、すべてそろつたよさといひ、云ふことない芝居ではあつた。
でも「源太勘当」の方が好きなんだなあ。
以前は、「歌舞伎が好きなのはこどものころ好きだつたものがたくさん出てくるから」だと思つてゐた。
「源太勘当」でいへば源太とか平次とか、その父親の平三ね。
源太と佐々木高綱との宇治川の先陣争ひとか、いけずきするすみとか、幼いころよく読んだ。
それがそのまま(でもないけれど。「熊谷陣屋」とか)出てくる。
それがいいんだと思つてゐた。
それは確かにさうなんだらうけれど、それだけではないかもしれない、といふことに最近気がついた。
最近気がついた好きな理由。
それは、「いい悪役がたくさん出てくるから」だ。
「いい悪役」つてなんだか矛盾してるけど、そこもいい。
といふ話はいづれするつもりでゐる。
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