赤頭巾ちやんなんか怖くない
三月十二日土曜日に、国立近代美術館フィルムセンターで「映画監督 三隈研次」特集のうち、「暗闇仕留人」を見てきた。
この日上映されたのは「暗闇仕留人」のうち三隈研次が監督した「仕上げて候」と「仏に替りて候」の二本だつた。
といふ話も書きたいのだが、「キャッキャウフフ」に終始してしまひさうなので、また後日。
「暗闇仕留人」を見たせゐにやあらむ、なぜだか突然庄司薫の「赤頭巾ちやん気をつけて」が無性に読みたい。
なぜ、と訊かれると困るのだが、おそらく主人公(作家の方ではなく)の庄司薫くんと「暗闇仕留人」の糸井貢とがやつがれの脳内でリンクしてゐるからだな。
なぜリンクしてゐるのかといふと、これもおそらくだが、「赤頭巾ちやん気をつけて」をはじめて読んだ時期と「暗闇仕留人」を見てゐた時期とが重なるのだと思ふ。
あるいは、薫くんのイメージが糸井貢のそれと重なつてゐるのかもしれない。
#だから申しあげたぢやござんせんか。
#作家の方ではない、と。
「赤頭巾ちやん気をつけて」は、学校の図書館で借りて読んだ。
最初は全然受けつけられなかつた。
中学の部活動で知りあつた子が、熱烈な薫くんファンで、都民でもないのに「日比谷高校に行くの」とのたまつてゐた。
そんなにおもしろいのか、と思つて再挑戦してみたらこは如何に。
おもしろいぢやないですか。
かつてのやつがれはいつたいなにを読んでゐたのか。
多分、最初に読んだときは、あの饒舌な語り口を受けつけられなかつたのかなあ。
のちに、自分で中公文庫を買つて、折りにふれて読みなほしてゐた。
すくなくとも学校に通つてゐるあひだはね。
読みなほすと、「勉強してもいいんだ」といふ前向きな気分になれた。
なぜだらう、世の中は、すくなくともやつがれの住んでゐる界隈では、勉強ができるといふことはそれほどいいことではなかつた。
自分は勉強ができる、あるいは学校の成績がいい、といふことは公言してはいけないことだつた。
そんなこと公言する人なんてゐないよ。
うむ。さうかもしれない。
「勉強できるんでせう」と訊かれて「はい」と答へるのはいけないことだつた。
我が家は、勉強するよりは外でともだちと遊べ、といふ家庭でもあつた。
親から勉強しろと云はれたことはほとんどない。
受験をひかへてゐたころに、母から「そんなことぢやあ上の学校には受からない」と云はれたことがあつたけれど、その時点の自分史上一番勉強してゐる時期だつたので、さして気にすることはなかつた。
どうせ、母はいやがらせで云つてゐる。
それがわかつてゐたからだ。
そんなわけで、学問にいそしんだり家で本を読んだりするのは、いけないことだつた。
自分の知識をひけらかすのもダメなこと。
当時遊んでゐた相手と本の話をすることなんてなかつたなあ。そんな相手はひとりふたりゐたかゐないか、だつた。
やつがれ程度でもさうなので、世の本読みの人はもつとさうなのかもしれない。
そんなとき、「赤頭巾ちやん気をつけて」を読むと、「勉強してもいいんだ」「知識を増やしてもいいんだ」「さうやつて得た知識でともだちを驚かしたりともだちから驚かされたり「おどかしつこ」をしてもいいんだ」といふ実に前向きな気分になる。
そして安心するわけだ。
なにをいつても、生きてゐる以上、なにかを学びつづけていくものだ。
「そんなことない。学校も卒業したし、いまの自分はなにも学んでゐない」といふ人もゐるかもしれない。
でもそれはさう思つてゐるだけで、毎日なにかしら学んでゐる。
あるいは新たな知識を増やしてゐる。
さうでなければ生きていけないはずだ。
ほんたうになにも学ぶことのない人は、なにか問題を抱へて生きてゐるに違ひない。
とくに、風邪をひいて学校を休んでゐるときなんかに読みかへすと効いたなあ、「赤頭巾ちやん気をつけて」。
明日から、もつと前向きに勉強するんだ、僕は、みたやうな、そんな気分になつた。
いまもさうだらうか。
いま読みかへしても、あのときのやうな気分になるだらうか。
それを確かめてみたい。
とはいへ、実はいろいろ学んでゐるのに「いやー、まつたく存じませんで」と、disguise する必要は存在するわけなんだけれどもね。
また、物語などでさうした「韜晦帝王」を見る楽しみといふのもある。
……中村さんか。
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