瞑想不要
疲れてくると、お香に頼るやうになる。
たまにお線香に火をつける。
木の焦げるやうな匂ひとともに、よい香りがあたりを漂ふ。
それだけではない。
ゆらゆらとたちのぼる煙を見てゐると、ほどよくぼんやりとした心持ちになつてくる。
瞑想つて、かういふことなんぢやないか知らん。
米国では瞑想を日々の生活に取り入れる人々がゐるのだといふ。
一日に十分ていど、座禅のやうな要領で精神統一をはかるのださうな。
これを聞いたとき、「ああ、アメリカには入浴の習慣がないからね」と思つた。
あたたかい湯舟につかつてぼんやりする時間がないから、瞑想に走るのだらう。
さう思つたのである。
ぼんやりするのと瞑想するのとは、違ふ。
さういふ向きもあるだらう。
ぼんやりする場合、精神統一などしない。
どちらかといへば、精神を拡散する感じだ。
なにも考へずにただぼーつと時間を過ごす。
湯舟につかるもよし、お線香の煙を眺めるもよし、川の流れ、雲の行く末、そんなものを眺めながらただぼんやりする。
頭も心もからつぽになる。
瞑想の場合は、精神統一をする。
目を閉ざし、念を内に集中させる。
このとき、やはり頭も心もからつぽにする。
座禅の話などを聞くかぎりは、からつぽにするのだらう。
瞑想をする人は、瞑想をはじめてから頭がすつきりして仕事や日々の暮らしにもいい影響を与へてくれる、などといふ。
さうか、単に湯舟につかる習慣がないだけぢやあないのだな。
おそらく、瞑想をはじめるやうな人々は「ぼんやりする」ことがないのだ。
かういふ人にとつて、ただただぼんやりと過ごす時間、なにも生産することのない時間は「悪」以外のなにものでもないのだらう。
ぼんやり過ごせないから、わざわざ「瞑想」などといふご大層な名前をつけて我と我が身と世間とに云ひ訳してゐるのぢやあるまいか。
人それぞれだから、ただ単にぼんやりすることのできない人には、ぼんやりすることはストレスのたまることなのに違ひない。
瞑想することで、つねづね張りつめた神経をゆるめるのだらう。
ぼんやり好きのやつがれには瞑想は不要といふことだ。
ただ望みはある。
ぼんやりする時間がもつとほしい、といふ望みが。
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