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Thursday, 31 March 2016

睡眠不足の理由

好きなことができると、睡眠不足になる。

去年の夏、劇団☆新感線の「五右衛門vs轟天」にすつかりまゐつてゐたころがさうだつた。
別段なにをするといふわけではないのだが、なんとなく夜になると気分がもりあがつてしまつて、なかなか寝付けなかつた。
そもそも布団に入らうといふ気にならなかつたし。
暑かつたから、といふのももしかしたらあるのかもしれない。
この状態は十一月くらゐまでつづいた。

「五右衛門vs轟天」を見るまでは、自分なりに早寝早起きをするやう心がけてゐた。
心がけてはゐて、それでも思ふやうには早寝できずにゐた。
「五右衛門vs轟天」を見て以降、早寝がほぼできなくなつた。
しやうといふ気すら起きない。
「なにかを好きになるつてかういふことなんだなあ」とこの期に及んで気がついたものだつた。

あみものにしたつてさうだ。
あみものにはまると、延々延々編み続けてししまつて睡眠がおろそかになる。
タティングレースや紡ぎにしても然り。
とにかくなにか作つてゐたい。寝る間も惜しい。
惜しんだところでなにかすばらしいものができあがるといふわけではないのに、それでもつひ「あと一段」とか「あと一模様」とかがんばつてしまふのだ。

いや、「がんばる」といふ感覚はない。
とにかくやりたいのである。

本もさうだらう。
読み始めた本がおもしろすぎて、やめやうにも止まらない。
巻置く能はずとはまさにこのことだ。

人は好きなことに関してはムリをしてしまふ、といつたのは森博嗣だつたか。
三十八度も熱を出せば仕事を休むが、好きなことについては四十度の熱があつてもやつてしまふ。

いかんなあ。

好きなことを好きなやうにするには、なんだかんだいつて早寝早起きをした方がいい。
寝不足の状態がつづくと好きなことさへ好きなやうにはできなくなつてしまふ。
できなくなつてしまふのにムリにやるからなほいけない。

わかつちやゐるけどやめられない。
青島幸夫は天才だなあ。

といふわけで、最近は毎晩のやうに過去の時代劇の動画なんぞを見てしまつていけない。
「人形劇三国志」だつてちよこちよこだが見てゐるといふのに。
やめなきやなー。

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Wednesday, 30 March 2016

筆圧が弱くても

萬年筆の書き味はやはらかい方が好きである。

以前も書いたPILOT の CUSTOM 823 の細字が最初だつたやうに思ふ。
何度も書いてゐて恐縮だが、店頭で試し書きをしたをりには「普通によく書けるペン」といふ印象しかなかつた。
それを三年手帳用にほぼ毎日のやうに使つてゐたところ、あるときなんともやはらかい書き味にうつとりすることがあつた。
使ひつづけていくうちに書き味が変はつたのだらうか。
あるいはただ単にやつがれがこのペン本来の書き味に気がついてゐなかつたのか。

よくよく考へてみると、それ以前に使つてゐたファーバー・カステルのペルナンブコもどことなくやはらかい書き味のペンだ。ペン先がしなるといふんぢやないけれど、ペン先が紙に触れたときの感触がとてもやはらかい。

以降、かたい書き味のペンよりもやはらかいものの方を好むやうになつた。

先日、ペン先の調子をちよつと見てもらつたときのことだ。
二本持つてゐるペンの片方は中軟で片方は細軟だつた。つまりは中屋万年筆のペンだ。
見てくだすつた方が「やはらかいペン先がお好きなんですね」といふやうなことを訊いてきた。
筆圧が弱いのだからペン先はかたい方がいいのぢやないか、と言外に云はれてゐる気がした。
気のせゐかもしれない。
そのとき筆圧の話も出たのでそんな気がしただけなのかも。

かたい書き味のペンも使はないこともない。
プラチナ万年筆のペンもよく使ふしね。
シェーファーのノンナンセンスもやつがれにとつてはかたい書き味のペンだ。
あとはアウロラのオプティマの細字。これもだいぶやはらかくなつたやうに思ふのだが、自分の感覚だとまだかなりかたい。

ペン先のしなりやすいペンは、どうも制御がむづかしい気はする。
ちよつとした筆圧の変化で線の太さが変はるからだ。
さういふのは不器用なやつがれには向かないペンだ。
大橋堂のペンは、そのやはらかな書き味が気に入つて手に入れたものの、最初のうちは力のいれ加減がよくわからなかつたものだつた。
実を云ふといまでもうつかりすると思はぬ線が引けたりすることがある。
でもまあ、それも楽しいんぢやないかな。
どうせもともと字は汚いんだし。

PILOTのフォルカンとかエラボーとかもさうかな。フォルカンは使つてゐて楽しい。意味もなくあれこれ書きたくなる。色彩雫の月夜を入れてゐて、インキの濃淡がおもしろくて仕方がない。

不器用だから制御はしきれないが、筆圧は弱くてもちよつとした力の入れ加減で線の太さの変はるやはらかいペン先が好きなんだな。
もう長いこと使つてゐないがガラスペンの書き味もどことなくやはらかい気がする。
久しぶりに使つてみやうか。

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Tuesday, 29 March 2016

結局作りはしたのだが

先週、「タティングレース展を見てきてなんだかやる気がそがれてしまつた」といふやうなエントリを書いた。

その舌の根も乾かぬうちに、結局しあげはしたのだつた。

Bead-Tatted Necklace

なんだかんだいつて、タティングは楽しいからだ。
先日田中八重洲画廊で見てきたものと、目の前にあるものとの彼我の差は如何ともし難い。
でも世の中つてそんなものぢやああるまいか。
いまはともかく、こどものころは絵を描くのが好きだつた。
幼稚園や小学校では授業で描いた絵が教室や老化に張り出されることがある。
同級生の絵の中にあるやつがれの絵のつたなさよ。
つたないだけならまだしも、雑である。
よくこれで「絵を描くのが好き」などといへたものだ。
でも好きだつたのだ。
そんなもんだよな。

そんなわけで、藤戸禎子のデザインした作品をもとに、糸とビーズとを自分で選び、ダブルスティッチとビーズの数とを自分なりに考へて作つてみた。

作りはじめたときには野望があつた。
ひとまづはスリーカットビーズだけで作つてみて何回くり返したらネックレスとして十分な長さになるかを確認する。
ここで割り出した長さを参考にして次は、チェコビーズなりスワロフスキーなりのちよつと大きめのビーズをところどころあしらふことにしたい。
さう思つてゐたのだつた。

どうしたものかな。
糸とビーズとはまだこれから選ぶやうである。
どちらも一生かかつても使ひきれないくらゐある。
問題は組み合はせだ。
それで結局黒とか白、生成といつた無難な色の糸を使ふことになつてしまふことが多い。

この黒いネックレスを作りはじめたときには「いまやらなければ!」といふ突然の使命感のやうなものがあつた。
このままでは糸もビーズも使はれぬままになつてしまふ。
なにか作らなければ!
さう思つたのだつた。

だが、どうなんだらう。
糸にしてもビーズにしても、もしかしたら使はれない方が幸せなのかもしれない。
すくなくともやつがれには使はれない方が幸せなのかもしれない。
ゆくゆくは他人の手に渡つて、もつとすばらしい作品にされた方がいいのかも。

そんなことを考へなくもない。

ビーズはともかく糸は劣化する。
だつたら糸だけでも使つてしまふか。

さうも思ふ。

いづれにしても、糸とビーズとを選んで、いくつビーズをいれていくつダブルスティッチをはさむかなどを考へてから作ることになるので、ちよつと時間が必要だ。

そのあひだにいろいろと気も変はるだらう。
さう思つてゐる。

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Monday, 28 March 2016

編めてなーい

編めてない。

「ちかえもん」のちかえもんなら「書けてな~い」と嘆くところだ。
もう最終回を迎へてしまつた番組の話で恐縮だけど。

近松門左衛門が書けてゐないのでは生活に関はるのかもしれないが、やつがれが編めてゐなくても別段問題はない。
単に、編みかけのなにやらわからぬ物体がいつまでもいつまでも部屋にある、といふだけである。
あまりにもそのままの状態が長いと、結局ほどくことになる。
生産的ではない。

なぜ編めてゐないかといふと、先週はやたらと出かけまくつてゐたからだ。
帰宅時間が遅くなるので編む時間がない。
出かけない日は出かけない日で出かけた日に減つてしまつた睡眠時間をおぎなふ必要がある。
そんなわけで寝不足で編む気がおきなかつた、といふのも事実。

でもそれだけなのかなあ。

部屋をきれいに保つといふ視点からは間違つてゐるのかもしれないが、編みかけのものはつねに即手にとれる場所においておくのがいい。
いちいち出してきて編んで終はつたらしまふ、といふのが理想ではある。
だけど、目の前にないとできないんだよね。
忘れるといふかさ。

たとへば、翌朝忘れることがないやうに机の上に鍵を出しておく、とか。
帰つてきてから思ひ出すやうにテーブルの上にメモを残しておく、とか。
さういふのに近いんぢやないかな。
つねに編みかけを即手にとることのできる場所においておく、といふのは。
しまつてしまふと目の届かないところにいつてしまふ。
それでその存在を忘れてしまふ。
あるんだよなー、さういふことつて。

さういへば、タティングレースのドイリーの作りかけを机の脇においてゐたことがある。
できあがるまでさうしておいた。
手を伸ばせばすぐとれる場所にあるので、ちよつと空いた時間があるとドイリーを作る。
そんなわけで、思ひのほか早くできあがつた。

いま編んでゐる Striped Shawl も、さうするべきなのかもしれない。
劇団☆新感線の三十五周年記念トートバッグに入れてゐるので、そのままいすの脇にでもおいてみやうか知らん。
部屋の景観はそこなはれるけれども、もともと景観のどうのといつてゐられるやうな部屋ぢやあないし。
ここでひとつくらゐ出しつぱなしの荷物が増えたところで、さして問題はない。

かういふときに籠があるといいのかもしれないなあ。
いや、これ以上あれこれものは増やさないつもりでゐるんだけどね。

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Friday, 25 March 2016

芝居離れの予感

ここのところ土曜日に予定が入つてゐることがつづいてゐる。
以前はそんなことはなかつた。
月に一度か二度芝居を見に行つて、あとは土日とも予定がないことが多かつた。
出かけるのが好きではないんだな。
ひとりでぼんやりする時間が必要でもある。
「ぼんやりする時間が必要」といふ話は先日書いた。
できるだけ人に会はず、家族とも顔をあはせないやうにして過ごす時間がほしい。

こんな状態だから、そのうち芝居も見に行かなくなるだらうと思つてゐる。
出かけるイヤさと芝居が見たいといふ気持ちとを天秤にかけて、「出かけるのがイヤ」の方が強くなつたら自然と行かなくなる。

そもそも、好きな演目を「この役者で見たい」といふものがあまりない。
いや、いまはある。
いまは、「逆櫓」を播磨屋と松嶋屋とそれぞれ見たい。
「九段目」の本蔵もいい。

でも、その先が思ひ浮かばない。
たとへば、このふたりでなかつたら誰で樋口や本蔵を見たいだらうか。
ゐないんだなー、これが。

ほんたうは萬屋で政岡とか揚巻とかを見てみたい。
だけどそんな配役はまづあり得ない気がする。
あの劇団でこの二役をやるとしたら、もう決まつてゐるからね。

などと云ひながら見に行くことがあるとしたら、それは多分役者を見に行くのではなくて芝居を見に行くのだらう。
さうなると、いまよりもつと見方が辛辣になるだらう。
好きな役者が好きな役を演じてゐれば見方もあまくなるだらうけれど、さういふのが一切なくなつてしまふんだからね。
そんな見方をしておもしろいだらうか。
まあ、いまでもそんな気がないわけではない中見てゐるので、おもしろくないこともないだらう。

先の話などしても意味がない。
そのときになつてみないとわからない。
そのとほりなんだけれども、でも「そのとき」はもう間近に迫つてゐる。
そんな気がする。

とりあへず、三部制になつたらそのうちの一部は見に行かなくなるだらうしね。
二部制の現在よりもチケット代の合計が多くなるからだ。
案外かういふところから芝居離れがはじまるのかもしれないなあ。

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Thursday, 24 March 2016

ノートに向かふ時間がほしい

Bullet Journal はあひかはらずつづけてゐる。

最近一日に書く量がだいぶ少ない。
Bullet Journal がいやになつたといふわけではない。
単にノートに向かつてゐる時間がなかなか取れないだけのことだ。
その証拠に昨日外でお茶を飲みながら最近読んだ本の感想など書き出したところ、ものすごい勢ひであれこれ書いてしまつたほどだ。

あと、やはりこれまでのやうにだらだらと文をつないだやうな書き方をしたいことがある、といふのも理由のひとつかと思ふ。
別段、Bullet Journal は箇条書きでなければならない、といふわけでもないと思つてゐる。
長い文を書きたくなつたら書いてもいいのだらう。
でもこれには別の手帳をあてやうかなあと思つてゐる。
とりあへずいまのところは Bullet Journal だけでいくつもりだ。

このblogにも書いたとほり、やつがれの Bullet Journal は MDノートの新書サイズ方眼罫だ。
ほかに MIGNON のスケジュール帳とスライド手帳とを併用してゐるが、ここ一番荷物 minimum で、といふときには Bullet Journal だけ持ち歩いてゐる。
MDノートは一冊176ページとそれなりに書きでがありながら、薄くてかさばらない。
これがまづいい。
そのかさばらないノートにすべてが書いてある。
今後の予定もやることもメモもなにもかも書いてある。
これ一冊持ち歩けばいい。
いままでの手帳にはなかつた安心感がある。

ここにも何度か書いてゐるやうに、もともとやつがれは自分のことを「単ノート主義」だと思つてゐた。
一冊のノートにすべて書く。
複数のノートを併用したりしない。
主義といふとチト大げさだが、できれば一冊のノートになんでもまとめたい。
さう思つてゐると信じてゐた。
だが、実際には予定にはそれ専用のスケジュール帳を使ひ、日記には日記用のノートを用意し、さらになんでも書き留めるノートを別に使つてゐた。
そのことに全然気がついてゐなかつた。

それでは Bullet Journal を使つたら「単ノート主義」になれるのか。
おそらくはなれない。
やはり日記は三年手帳に書くと思ふ。
その方があとから検索しやすいからだ。
また、先にも書いたとほり、ちよつと長めの文をだらだらと書くノートもほしいと思つてゐる。これは Bullet Journal に書くかもしれない。

MDノートを使ひきつたら、スライド手帳で Bullet Journal をやつてみやうと思つてゐる話は以前書いた。
でもなんとなくこのまま MDノートを使ひさうな気もしてゐる。
以前も書いたやうに、これまでは MDノートはなんとなく使ひづらいノートだつた。
まさかこんなに気に入るなんてね。
自分でも驚いてゐる。
使ひ方しだいといふことなのかなあ。

去年のいまごろ、水戸駅の駅ビルにある川又書店でもらつた人形劇三国志の関羽のブックカヴァをつけてゐるのもいいのかもしれないなあ。

Bullet Journal にも困つたことがないわけぢやあない。
それは次回の講釈で。

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Wednesday, 23 March 2016

奥さまは魔女であつたか

三月十二日に国立近代美術館フィルムセンターで「映画監督 三隈研次」特集のうち「暗闇仕留人」の回を見てきてまづ思つたことは、

時代劇のナレーションは芥川隆行にかぎるなあ

といふことだつた。

厳密にいふと、そんなことはないんだけどね。
「暴れん坊将軍」の若山弦蔵とか、はたいふべきにもあらず、といつも思ふし。

まづナレーションに注意がいつてしまつたのは、おそらくいまの大河ドラマのナレーションがなんともいはくいひ難いものだからだらう。

それともうひとつ、必殺シリーズのオープニングには、かういふいかした口上からはじまるものが多くて、しかもいづれをとつてもぐつとくるものだから、といふのもある。

芥川隆行もさうだし、中村梅之助とか古今亭志ん朝なんかも印象深いし、藤田まことが担当したこともあつたやうに思ふ。

かういふ前口上つて、いつからはじまつたものなんだらう。

といつて、別に歴史をひもとかうといふわけではない。
「仮名手本忠信蔵」の口上人形とか、そんな話をしたいわけぢやあない。

どちらかといふと、TV番組の前口上を意識するやうになつたのはいつからか、といふのが気になつてゐる。
個人的な話で恐縮だ。

必殺シリーズは明らかに前口上を意識するやうになつた作品のひとつだ。
でもおそらくその前がある。
やつがれが必殺シリーズを見るやうになつたのは、だいぶ大きくなつてからだからだ。

「人造人間キャシャーン」だらうか。

たつたひとつの命を捨てて
生まれかはつた不死身の体
鉄の悪魔を叩いて砕く
キャシャーンがやらねばたれがやる

いやー、納谷悟朗、いいよねー。
「キャシャーンがやらねばたれがやる」。
たまらんね。

必殺シリーズといふと、「銀河旋風ブライガー」の前口上も忘れられない。
柴田秀勝の渋くもノリノリのナレーションがまたいいんだ、これが。

時代劇といふことだと、「大江戸捜査網」の「死して屍拾ふもの無し」もいい。「大江戸捜査網」はその時々で前口上がなかつたり別のものだつたりするやうだけれども。

米国のドラマにもずいぶんとある。
「逃亡者」の「リチャード・キンブル、職業: 医師」とかね。
「トワイライト・ゾーン(ミステリー・ゾーン)」の「There's the fifth dimention.」とか。
「ナポレオン・ソロ」には前口上といふか、ソロとイリヤとがやりとりするオープニングがあつた。
「宇宙大作戦(スター・トレック)」の前口上は、吹き替へだと若山弦蔵なんだよねえ。これがまたいいんだ。もちろん、もとの「Space... the final frontier.」もしびれるけれども。なんで若山弦蔵にしたのかね。まさに Nice job! だ。

と、いろいろ考へていくうちに、もしかすると一番最初にかうした前口上に出会つたのは、すくなくともこれを前口上として意識するやうになつたのは、「奥さまは魔女」なんぢやないか。
そんな気がする。

「ごく普通のふたりはごく普通に恋をし、ごく普通の結婚をしました」といひながら「でもただひとつ違つてゐたのは、奥さまは……魔女だつたのです」って、全然ごく普通ぢやないぢやん!

などとは当時は思はず、「奥さまはサマンサ、旦那さまはダーリン」などと覚えては、いつかこの前口上使ふ機会をうかがつてゐたものだつた。

使ふ機会は未だ来、だつたりはするのだが。

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Tuesday, 22 March 2016

華麗なる Tatting Lace 展に行つてきた

三月二十日日曜日に、田中八重洲画廊のタティングレース展を見てきた。
展示会の名前は「藤戸禎子 盛本知子 華麗なる Tatting Lace の世界」だらうか。

千疋屋ギャラリーで開催されるタティングレース展にも行つたことがあるが、ここのところご無沙汰してゐた。
ひさしぶりのタティングレースの展示会だ。

とにかく「圧巻!」の一言につきる。

……これだと終はつてしまふか。

画廊の外から見ると、なにか被服系ファッション系の展示会なのだらうか、と思つてしまふ。
ガラス張りの入口付近には、トルソーにかけたタティングレースのヴェストなどが飾られてゐたからだ。
中は三方の壁に栞などの小さいものや、手提げ、ポーチ、ドイリーなどが飾られてゐた。
中央のテーブルにはショールやストールをはじめとした大物や、やはりこまごまとしたもの、奥の壁の前のテーブルにはティッシュカバーその他実用品が並べられてゐた。
入口の受付の向かひのテーブルには主にビーズをあしらつた作品が展示されてゐた。

藤戸禎子が「主婦の友」で一等を受賞したベビー毛糸のショールも並んでゐた。
「主婦の友」ではほかにも一等・三等に入つたショールやピアノカバーなどが並んでゐた。
説明によると、いまのベビー用の毛糸ではタティングはできないのらしい。
シャトルに巻いた時点で糸が切れてしまふのださうな。
ベビー用はさうなのか。
極細毛糸ならいけるよね。パピーのNew 2Ply とかさ。

並んでゐる作品には、本に掲載されてゐたものも多く、「あ、あれはあの本で見たドイリーだ」とか「これはあの本で見たストールだ」とか、実物を見られたのもよかつた。
想像してゐたよりもずつと細い糸で作られた小さいものも多かつた。

作品は熟練の技術とでもいはうか、感覚がすぐれてゐるといはうか、大変手がうつくしい。
それに、こんなことを云ふのは僭越ながら、センスがいいんだらうなあ。
色合はせとかさ。
ビーズの選び方とかさ。
単にやつがれ好みといふだけかもしれないけれど。

見てゐるあひだ、おそらくお弟子さんでもある説明の方が「(作品には)値段はつけられないんです。ほしいといふと(藤戸禎子)先生は「自分で作りなさい」と仰るんです」と何度か云つてゐた。
多分、「売つてほしい」といふお客さんがゐたのだらう。
わかるよー。
買へるものならほしいよ。
それに、作れないよ。
どうしたらこんなに何枚も何枚もショールのやうな大きなものを作れるのか。
それに、自分でデザインしてゐるんだよね。
気が遠くなるよ。

そんなわけで、すつかり圧倒されて帰つてきた。
今後、タティングレースをすることがあるだらうか。
さう思つたほどだ。
もう「The Twirly をつなぐプロジェクト」も完全にやめてしまはうか。
ビーズタティングのネックレスも途中までだけどどうしたものか。
そもそもやつがれの作つてゐるものは、誰にでも作れるものだ。誰かがすでに作つたものだ。
残りの人生をさうしたものを作る時間に費やすだけの価値があるのだらうか。

などと考へつつも、オリジナルのタティングシャトルを買つてしまつたんだけれどもね。

Original Tatting Shuttles

盛本知子の出版した本の表紙の色をイメージしたシャトルなのださうな。
このシャトルを使ふ日は来るのか。
さて。

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Monday, 21 March 2016

手提げ編むかな

先週はまつたく編んでゐない。
週末に大阪・京都に行く予定だつたので、ひたすら睡眠第一に励んだ結果だ。
夕べは「真田丸」があつたので、「今週のびつくりどつきりあみものタイム」だつたのだが、食事が終はらなかつた。

今日あたり、まだ冷えてゐるからすこし編むかな、Striped Shawl。

ところで、友人からズパゲッティをいただいた。
フィンランドで見た裂き織りマットに使ふやうな綿のテーブ状の糸である。
ズパゲッティ、なかなか手に入らないんだよねー。
しかもほしい色がいつも売り切れだつたりする。
人気が高いんだね。

先日 Notebookers でお父さんが編んでくだすつたといふノート用のポシェットを見て、「編んでみるかな」と思つてゐたところだつた。
ちやうど毛糸のかたづけをしてゐたときに、なにに使ふつもりだつたのかよくわからないレーヨンとポリエステルの混紡の糸が出てきたところでもあるし。
しかし、だ。
ズパゲッティでノート用かばん、いいんぢやないだらうか。

さう思つてちよつとWeb検索をかけてみたところ、ズパゲッティで編むとかばん自体が重たくなるのらしいことがわかつた。
ものを入れなくても重たい、といふ意見もある。
ぬー、さうか。それはノート用のポシェットには向かないかな。
しかし、ノート用ポシェットにはノートとペンくらゐしか入れないだらう。
さう考へるとズパゲッティで編んでもいいやうな気がする。

さらに見てゐると、こま編みだけだと重たくなるのでネット編みにしたらどうか、とある。
ただしネット編みにするとこま編みの場合よりも編み地がだれるので、内袋が必要だらう、と。
うーん、内袋つけるの、苦手なんだよなー。
それに、この糸だつたらネット編みでもそんなにだれないのではないのだらうか。
ちよつと試し編みをしてみるか。

糸の感じからいつて、マルシェバッグといふかかごのやうな手提げもいいやうな気がする。
かうやつて糸を前にしてなにを編まうか、どんな編み方がいいかといろいろ考へるのは楽しい。

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Friday, 18 March 2016

瞑想不要

疲れてくると、お香に頼るやうになる。
たまにお線香に火をつける。
木の焦げるやうな匂ひとともに、よい香りがあたりを漂ふ。
それだけではない。
ゆらゆらとたちのぼる煙を見てゐると、ほどよくぼんやりとした心持ちになつてくる。

瞑想つて、かういふことなんぢやないか知らん。

米国では瞑想を日々の生活に取り入れる人々がゐるのだといふ。
一日に十分ていど、座禅のやうな要領で精神統一をはかるのださうな。

これを聞いたとき、「ああ、アメリカには入浴の習慣がないからね」と思つた。
あたたかい湯舟につかつてぼんやりする時間がないから、瞑想に走るのだらう。
さう思つたのである。

ぼんやりするのと瞑想するのとは、違ふ。
さういふ向きもあるだらう。
ぼんやりする場合、精神統一などしない。
どちらかといへば、精神を拡散する感じだ。
なにも考へずにただぼーつと時間を過ごす。
湯舟につかるもよし、お線香の煙を眺めるもよし、川の流れ、雲の行く末、そんなものを眺めながらただぼんやりする。
頭も心もからつぽになる。

瞑想の場合は、精神統一をする。
目を閉ざし、念を内に集中させる。
このとき、やはり頭も心もからつぽにする。
座禅の話などを聞くかぎりは、からつぽにするのだらう。

瞑想をする人は、瞑想をはじめてから頭がすつきりして仕事や日々の暮らしにもいい影響を与へてくれる、などといふ。

さうか、単に湯舟につかる習慣がないだけぢやあないのだな。
おそらく、瞑想をはじめるやうな人々は「ぼんやりする」ことがないのだ。
かういふ人にとつて、ただただぼんやりと過ごす時間、なにも生産することのない時間は「悪」以外のなにものでもないのだらう。
ぼんやり過ごせないから、わざわざ「瞑想」などといふご大層な名前をつけて我と我が身と世間とに云ひ訳してゐるのぢやあるまいか。

人それぞれだから、ただ単にぼんやりすることのできない人には、ぼんやりすることはストレスのたまることなのに違ひない。
瞑想することで、つねづね張りつめた神経をゆるめるのだらう。
ぼんやり好きのやつがれには瞑想は不要といふことだ。
ただ望みはある。
ぼんやりする時間がもつとほしい、といふ望みが。

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Thursday, 17 March 2016

障子礼讃

さうです。土曜日に見てきた「暗闇仕留人」の話です。

書かうと思ふとどうも「キャッキャウフフ」的になりさうで怖いのだが、まあ、そこはそれ、だ。

「キャッキャウフフ」でもいいのかもしれないけれど、そこはやつぱり恥づかしいぢやあありませんか。

といふわけで、障子である。
昨日は庄司ね。

土曜日に国立近代美術館フィルムセンターで「映画監督 三隈研次」特集のうち「暗闇仕留人」を見てきて、「やつぱり障子はいいねえ」としみじみしてしまつた。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」的な意味ではなく、ね。
いや、「陰翳礼讃」的な意味での障子もいいけどさ。

必殺シリーズのクライマックスは夜と相場が決まつてゐる。
暗い闇の中に障子があつて、その向かうに影が過ぎる。
光源はどこだらう、と思ふが、それは無粋だらう。

標的は、影に気づかないこともある。
土曜日に見てきた回もさうだつた。
標的は屋内にゐて、障子の向こうを仕留人の影が過ぎる。
でも標的は気づかない。
一瞬「ん?」と思つて、そのままだ。
そして、数瞬後には殺されてしまふ。

この「影だけが過ぎる」がいいんだよねえ。
思はせぶりなところもいいし、はつきりと描かないところもいい。
ちよつと背筋のぞくぞくする感覚もある。

背筋がぞくぞくするのは、怪奇映画の常套手段だからだらうか。
化け猫映画なんかさうぢやああるまいか。
障子の向かうに行灯の明かりがほの暗く見えて、その脇に油をぺろ~りぺろ~りとなめる影が浮かび上がる。
人か。
猫か。
やつぱり人か。
わかつちやゐるけど、想像をかき立てられてぞくりとする。

いいなあ、障子。
思はせぶりな演出にかかせないよね。
たまらん。

「暗闇仕留人」を見てあらためて闇の濃さを思つたりもした。
必殺シリーズは結構どの番組もさうだつたやうに思ふのだが、闇が濃い。
土曜日に見てきた回も、一番の仕留の場面では照明は蝋燭だけだつた。
実際に蝋燭だけだつたらもつと暗いのだらうとは思ふ。
それでも普段の明るい室内照明になれてゐる身にとつては十分な暗さだ。
昼間に日光の差し込む部屋で見たらなにも見えないんぢやないかと思ふくらゐ暗い。
光のあたつてゐる部分より影の部分の方が多い、そんな絵が動く。
見せたいのか見せたくないのか、いや、やはり見せたいのだらうその絵がまたいいんだ。

去年のいまごろ、やはりフィルムセンターで川本喜八郎の人形アニメーション作品を見た。
普段はDVDなどで見てゐる「花折り」や「火宅」、「死者の書」をフィルムで見る機会などさうさうない。
フィルムの劣化もあるのかもしれないが、いづれもDVDで見るより影が暗く感じられた。
ほんたうはかういふ絵だつたんだ。
さう思つた。

デジタルの方が画像が鮮明になる、と、TVコマーシャルなどでは云つてゐるやうに思ふ。
いや、それとも違ふのか、デジタルになるとのつぺりしてしまふから、それでよけいに高画質なものを追求してゐるのだらうか。
いづれにしても、いまでは人の顔の毛穴まで見えるやうな高画質なTVがあるといふ。
それは、生放送だとさうなる、といふ話なのかなあ。
高画質なら、闇もまたフィルムの昔のやうに暗く濃くなるのだらうか。

さういへば、以前「黒をもつと黒く」とかいふやうなTVのコマーシャルを見たことがある気がする。
黒はむづかしいのかな。
染色でも、真つ黒く染めるのはむづかしいといふ話を聞いたことがある。

もひとつさういへば、最近の役者からはあまり闇を感じない気がする。
父と子と比べたときに、圧倒的に父親の方が闇が濃い。
それは年の功なのだらうか、とも思ふが、その父親が子どもとおなじくらゐの年齢だつたときのことを思ふと、必ずしもさうともいへない。
生来の持ち味なんぢやあるまいか。

とはいへ、年とともに闇の深くなつてゐる役者もゐるので、一概にはいへないか。

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Wednesday, 16 March 2016

赤頭巾ちやんなんか怖くない

三月十二日土曜日に、国立近代美術館フィルムセンターで「映画監督 三隈研次」特集のうち、「暗闇仕留人」を見てきた。
この日上映されたのは「暗闇仕留人」のうち三隈研次が監督した「仕上げて候」と「仏に替りて候」の二本だつた。

といふ話も書きたいのだが、「キャッキャウフフ」に終始してしまひさうなので、また後日。

「暗闇仕留人」を見たせゐにやあらむ、なぜだか突然庄司薫の「赤頭巾ちやん気をつけて」が無性に読みたい。

なぜ、と訊かれると困るのだが、おそらく主人公(作家の方ではなく)の庄司薫くんと「暗闇仕留人」の糸井貢とがやつがれの脳内でリンクしてゐるからだな。

なぜリンクしてゐるのかといふと、これもおそらくだが、「赤頭巾ちやん気をつけて」をはじめて読んだ時期と「暗闇仕留人」を見てゐた時期とが重なるのだと思ふ。
あるいは、薫くんのイメージが糸井貢のそれと重なつてゐるのかもしれない。
#だから申しあげたぢやござんせんか。
#作家の方ではない、と。

「赤頭巾ちやん気をつけて」は、学校の図書館で借りて読んだ。
最初は全然受けつけられなかつた。
中学の部活動で知りあつた子が、熱烈な薫くんファンで、都民でもないのに「日比谷高校に行くの」とのたまつてゐた。
そんなにおもしろいのか、と思つて再挑戦してみたらこは如何に。
おもしろいぢやないですか。
かつてのやつがれはいつたいなにを読んでゐたのか。
多分、最初に読んだときは、あの饒舌な語り口を受けつけられなかつたのかなあ。

のちに、自分で中公文庫を買つて、折りにふれて読みなほしてゐた。
すくなくとも学校に通つてゐるあひだはね。

読みなほすと、「勉強してもいいんだ」といふ前向きな気分になれた。
なぜだらう、世の中は、すくなくともやつがれの住んでゐる界隈では、勉強ができるといふことはそれほどいいことではなかつた。
自分は勉強ができる、あるいは学校の成績がいい、といふことは公言してはいけないことだつた。
そんなこと公言する人なんてゐないよ。
うむ。さうかもしれない。
「勉強できるんでせう」と訊かれて「はい」と答へるのはいけないことだつた。

我が家は、勉強するよりは外でともだちと遊べ、といふ家庭でもあつた。
親から勉強しろと云はれたことはほとんどない。
受験をひかへてゐたころに、母から「そんなことぢやあ上の学校には受からない」と云はれたことがあつたけれど、その時点の自分史上一番勉強してゐる時期だつたので、さして気にすることはなかつた。
どうせ、母はいやがらせで云つてゐる。
それがわかつてゐたからだ。

そんなわけで、学問にいそしんだり家で本を読んだりするのは、いけないことだつた。
自分の知識をひけらかすのもダメなこと。
当時遊んでゐた相手と本の話をすることなんてなかつたなあ。そんな相手はひとりふたりゐたかゐないか、だつた。
やつがれ程度でもさうなので、世の本読みの人はもつとさうなのかもしれない。

そんなとき、「赤頭巾ちやん気をつけて」を読むと、「勉強してもいいんだ」「知識を増やしてもいいんだ」「さうやつて得た知識でともだちを驚かしたりともだちから驚かされたり「おどかしつこ」をしてもいいんだ」といふ実に前向きな気分になる。
そして安心するわけだ。

なにをいつても、生きてゐる以上、なにかを学びつづけていくものだ。
「そんなことない。学校も卒業したし、いまの自分はなにも学んでゐない」といふ人もゐるかもしれない。
でもそれはさう思つてゐるだけで、毎日なにかしら学んでゐる。
あるいは新たな知識を増やしてゐる。
さうでなければ生きていけないはずだ。
ほんたうになにも学ぶことのない人は、なにか問題を抱へて生きてゐるに違ひない。

とくに、風邪をひいて学校を休んでゐるときなんかに読みかへすと効いたなあ、「赤頭巾ちやん気をつけて」。
明日から、もつと前向きに勉強するんだ、僕は、みたやうな、そんな気分になつた。

いまもさうだらうか。
いま読みかへしても、あのときのやうな気分になるだらうか。

それを確かめてみたい。

とはいへ、実はいろいろ学んでゐるのに「いやー、まつたく存じませんで」と、disguise する必要は存在するわけなんだけれどもね。
また、物語などでさうした「韜晦帝王」を見る楽しみといふのもある。

……中村さんか。

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Tuesday, 15 March 2016

ビーズも通してきらきらと

絹穴糸にビーズをとほしてタティングレースのネックレスを作つてゐる。

bead tatted necklace in progress

先週の木曜日、帰宅後突如「いまやらなければ!」といふ衝動に駆られた。
なにかと衝動に駆られがちで、あまりよろしいことではない。

デザインは藤戸禎子のもので、糸の色とビーズの色と数とは自分で勝手に決めた。
このネックレスを試しに作つて、次はもう少し大きいビーズもあしらつてみる心づもりである。

ビーズ細工はなんでもさうなのだらうけれど、糸にビーズをとほすのが一苦労だな。
今回は一種類のスリーカットビーズしか使はないので、絹穴糸の糸端とビーズをとほしてゐる糸の糸端とを撚りあはせてビーズをうつせばいいかな、と思つてゐた。
しかし、ビーズの糸の結び方が昔のものだつた。
昔のもの、といふのは、ビーズをとほした一本の糸を六房くらゐに折つて結んだもの、だ。
この説明ぢやわかんないかなー。
最近のTOHOのビーズはビーズをとほした一本の糸の端と端とをシールではさんでとめてゐる。
これだとシールから片方の糸端を取り出せばいい。
六房の中央を結んでゐるタイプのものは、結んでゐる糸をうまくほどけないことが多い。
不器用だから。

そんなわけで、今回も苦戦しながら結局一房づつビーズをうつすことになつてしまつた。
これが案外一大事で、な。
とくに木曜の夜帰宅後でかなりへろへろなところにもつてきて、夜だから視力も落ちてゐるし、「なぜビーズなど使はうと思つたのか」と己が決定を悔やんだりもした。

だが、一旦ビーズが糸にとほると、あとはそんなにむづかしい話ではない。
このデザインの場合、シャトルに巻いた糸にはビーズをとほさないので、とくに気楽だ。
シャトルに巻く糸にもビーズをとほす場合、糸を巻く間隔が問題になつてくるからね。

このデザインのネックレスは何度か作つた。
一度は四種類くらゐの大小のビーズをあしらつて作つたこともある。
あのときもビーズを糸にとほすのに難儀をしたんだよなあ。
でもそんなことはすつかり忘れてしまつてゐた。
ビーズを糸にとほす段になつて思ひ出す。
学習しない。

絹糸をあつかふのもビーズをあしらふのもものすごく久しぶりだ。
出来もひどく不格好である。
それでも作つてゐる最中はとても楽しい。
黒い糸にビーズをとほしたので、ちよつとビーズの色がくすんで見えるけれど、そこがまたいいやうな気もする。

何度も書いてゐるやうに、Nina Libin はビーズタティングを「ノマド向きの手芸」と云ふ。
そのとほりだよなあ。
と、昼休みにこのネックレス作りにいそしみながら思ふ。

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Monday, 14 March 2016

もう毛糸なんか買はない

Striped Shawl は、あと「真田丸」十五回分くらゐまで進んだ。
先週はそれほど編んだといふ記憶はないが、ちよこちよこ編んでゐたのがよかつたんだらう。
あとは毛糸が足りるかどうか、足りなかつたらどうするか、といふ問題があるが、まあ、なんとかなるだらう。

先週は、突然思ひたつて、毛糸の整理をした。
おなじものはできるだけ一カ所にしまひたい。
でも毛糸はさうはいかない。
いまでは通じなくなつてしまつたかもしれないが、我が家の毛糸はかつてのマラカニアン宮殿の靴の数もかくや、といふほどあるからだ。
当時「履く靴三千足」とかいつてゐる人がゐて、「うまいこと云ふなー」と思つたものだ。
やつがれの場合はさしづめ「編む毛糸三千巻」とかか。全然うまくない。

整理、といふことは、当然捨てるものもあつた、といふことだ。
毛糸、捨てられないよねー。
もともとものの捨てられないたちのところにもつてきて、「この毛糸はあのときあの店で買つたもの」「この毛糸はもう廃番」とか思ふとなかなか捨てられない。

また、あみもの界隈の人々といふのはなぜかものをとても大切にする。
物惜しみをする、といふとなんだかケチくさく聞こえるかもしれない。
でも、あみもの界隈の人々は、ほんたうにちよつとしたものでも有効活用するんだよね。
あの創意と工夫とがうらやましくてならない。

そんなわけで一時はやつがれも編み地をくぐらせてあまつた糸端などもとつておいてゐた時期があつた。
どうやらあみものをする人はみなさうしてゐるやうだつたからだ。
しかし、使ひ道がない。
そらさうだ。
編み地をくぐらせたあとに残つた糸端など、たいした長さがあるわけではない。
たまに編み地の端まできてしまつて、次の段が編めるほどは毛糸がない、といふやうなときはちよつと長めになるときもある。
でもそんな時ばかりとは限らない。
だいたいできるかぎり毛糸は使ひきるやうにして編むしね。

それでも集めてゐた糸端をどうしたかといふと、そのころはあみぐるみを編むこともあつたので、中に詰めてゐた。
あと、多少長く残つた糸端は、編み地のうへから刺繍するのに使つたこともある。

でもあみぐるみを編むものはそんなに好きではないし、刺繍はもつと好きではない。
そんなわけで、使ひ道のない糸端ばかりがたまり、ある日思ひたつて捨ててしまつた。
以降、よほどのことがない限り糸端はその都度捨てるやうにしてゐる。

今回毛糸を捨てるにあたつて、基準をひとつまうけた。
一玉しかないものは捨てる、だ。
一玉しかなくても、それだけでなにか作れさうなものは残したけどね。
たとへば中細毛糸が50gもあれば指なし手袋が編める。
でも最近の毛糸は25gで80mとか、「どーしろつていふの」といふ玉が多くてなー。
それでも捨てがたく思ふ毛糸もあつたが、心を鬼にして捨てた。
問題なのは、中途半端に三玉とかある毛糸だ。
とくに春夏の糸に多かつた。
夏用のスカーフを編むつもりで買つたんだらうが、最近夏用のスカーフはもうこれ以上増やしてもなー、といふ状況にある。
捨てられないのは、パピーのリネンとコットンとの混紡だつたりするあたりだ。
いい糸なんだ、これが。

と、葛藤の末、それでも買物袋二袋くらゐは捨てた。

寄付しやうかとも思つたが、その手順を調べてゐるあひだに気が変はつても困る。

ああ、もう毛糸など買ふものか。

と、誓ひを新たにしたものの、いつまでもつかは、また別の話。

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Friday, 11 March 2016

Rappid Logging の効用

今月に入つて、Bullet Journal に書き込む量が少なくなつてゐる。

Task といふか ToDo ばかり書いてゐて、Note がほとんどない。Events は直接 Monthly Page や Future Log に書いてしまふことが多い。

Notes を書いてゐないといふことは、精神的活動がにぶつてゐるといふことだ。

大東京マッハに関するメモも途中で止まつてゐる。
大東京マッハは、三月六日日曜日に紀伊國屋サザンシアターで開催された公開句会だ。
固定メンバーの四人、千野帽子・米光一成・長嶋有・堀本裕樹に、俳人の池田澄子と作家の村田沙耶香の二人を「マッハガール」としてゲストに迎へた句会だつた。
池田澄子は開口一番「「あんまりめづらしい」といふのは日本語としてをかしい」と発言してゐて、その後も村田沙耶香の「ネックレススープに入れて夏近し」をほかのメンバーが「ネックレスがスープに入つてしまつたのを「入れて」と表現てゐるわざわざ感がある」といふやうなことを云つてゐる脇で「でも「入れて」といふことは」と云ひかけたり、千野帽子の「春宵のあのローソンの白や青」を「「あの」でなくて「ああ」だつたら」と云ふたりとか、とにかくことばに対する感覚がすばらしくて、なあ。
といふやうな話をつらつら書きたいのだが、あまりたどりつけてゐない。
この日もらつた清記にあれこれメモをしてゐるものの、だんだん記憶も薄れてゐる。
なるべく見返すやうにして、記憶を残さうとはしてゐるんだけれどもね。

Bullet Journal だと句会の感想などは箇条書きになる。
多分、文章でつらつら書いてもいいんだらうとは思ふ。
でも Bullet Journal のいいところは Rapid Logging なんだよね。
それには箇条書きが一番なのだらう。
箇条書きにしてゐると、全然関係ないことが思ひうかんだときにつづけて書くことにも抵抗はない。すくなくとも文章でつらつらと書いてゐるときよりはない。
MindMap にしたりするともつと抵抗はないんぢやないかな。

そんな感じで、大東京マッハの感想も、一応句ごとに書いてはゐるものの、すぐに脱線してしまふ。
箇条書きにしてよかつたなあと思ふときだ。

でも、多分、文章でつらつらと書くのも必要なんだな。
自分にとつてはね。

机の周りをかたづけやうとして、過去に書いた手帳をぱらぱらとめくつてみると、一ページ一内容でつらつらと文章がつらねてある。
字の書き方から、それなりの勢ひをもつて書いてゐたことがわかる。
下書きなしで書くからさうなるのだらう。

Bullet Journal に Rapid Logging で書き出した内容をまとめて文章にしやうとすると、かうはならない。
それはそれでいいんだけどね。

それに、長い文章は書かないとどんどん書けなくなる。
いま書かうとすると、普段 blog に書いてゐる文章ていどの長さのものになつてしまふ。
もつと長い文章を書かうとしても、おそらく書けないだらう。
書かうといふつもりもいまのところないけれど。

さう考へると、Rapid Logging でどんどん書き出しておいてあとでまとめるやうにしたらいいのかなあ、といふ気もする。
まあ、長い文章など書く必要もないんだけどね。

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Thursday, 10 March 2016

遊び過ぎ

先月は三回美術展に行つた。

もともとあまり美術展には行かなかつた。
以前も書いてゐる。
とにかく人が多いことに耐へられない。

行くやうになつたのは、一昨年くらゐからだ。
きつかけは、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに行くやうになつたことだ。
だつたら四年前だらうといふ向きもあるかもしれない。

四年前に川本喜八郎人形ギャラリーができたとき、その年は展示替へがなかつた。
翌年の四月くらゐになつて、はじめて展示替へがあつた。
展示替への最中はギャラリーは閉館となる。
いまでいふ「ギャラリーロス」のやうな状態になつた。
そこで、その年の五月の連休に飯田市川本喜八郎人形美術館に行つた。

最初のうちは、好きなものを見るから美術館なりギャラリーに行くのだと思つてゐた。
それはいまでもそのとほりである。
しかし、ギャラリーはともかく美術館にはいろんな展示があつたりする。
おもしろいなと思つたのは、美術館が定期的におこなつてゐるこどもの描いた人形の絵の展示だ。
定休日に参加者を募つてそのとき展示されてゐる人形の中から気に入つたものを描いてもらふ。
そしてその絵を展示する。

これがおもしろいのだ。

展示室に行けばゐる人形の絵を見るといふのがまづおもしろい。
モデルとして誰が一番選ばれてゐるのか、といふのも確認したいところだ。

単に見てゐるだけでも、おもしろい。

もしかすると、自分は展覧会とか好きかもしれない。

そんなわけで美術展に行くやうになつた。

もうひとつ、川本喜八郎の人形美術館やギャラリーに影響を受けた点がある。
ほかの美術展を見に行つたら、いままで見てきた人形美術館やギャラリーの展示をまた違つた目で見ることができるのではあるまいか。
人形の展示を見るうへで、なにか参考になることがあるのではあるまいか。
さう思ふやうになつた。

去年は植草甚一展や大河原邦夫展などに行つた。
大河原邦夫展はともかく、植草甚一展とか、人形を見るのに役立つのか。
そこらへんは確かにちよつと疑問ではある。
でもまあ、見てみたいものに行くのはいいんぢやないかな。

問題は、そんなわけでちよつと出かけすぎてゐて、 I'v been spreading myself too thin lately. つてな状態にゐることだらうか。
この先はちよつと行く展覧会をしぼるつもりでゐる。

渋谷の川本喜八郎人形ギャラリーも、来月には展示替へがあるだらう。
こちらはいまのうちにできるかぎり通ふつもりだ。

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Wednesday, 09 March 2016

こんなだつたのか「平家物語」

角川文庫の「平家物語」を読んだ。
上巻はこどものころ読んだこども向けの「平家物語」とそんなに違はないやうに思つた。
ところが、下巻はなんだかいろいろ違ふ。

たとへば、義仲は貴族に対して「腹の皮がやぶれるほど食へ」とは強要しないし、重忠は馬を背負つて坂を下りない。
景時も案外いい人だしなー。
知盛は碇を抱いて入水しないし。するのは教経と兄弟とだ。
維盛の最期が結構丁寧に書いてある(ほんとかどうだかわからんが)。
宗盛がそれなりにあはれだ。
……こんなだつたかなあ、こども向けの「平家物語」。

元にした版(といふか)によつてはまた違ふのか知らん。
それとも、こども向けの「平家物語」は「吾妻鏡」とかからもあれこれもつてきてゐたのか知らん。

ああ、こどもの時に読んでゐた、あの「平家物語」が手元にあればなあ。

ところで、それぢやあ「吾妻鏡」を読んでみるか、と思つたら、岩波文庫は一巻と二巻とは在庫切れの模様。
さうなのかー。
まあしかし、本屋をめぐつてゐると出会へさうな気もするので、気長に探すつもりでゐる。

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Tuesday, 08 March 2016

風が吹けば

あたたかくなつてしまつた。

と、昨日も書いた。
土曜日このかたあたたかくて、指先のあれてゐたのがなんだかすつかりよくなつてゐる。

あたたかいつて、すごい。

これで絹糸を使へるだらうか。
そんなことを考へてゐる。

ほぼ毎年十二月、京都南座に顔見世興行を見に行く。
以前はそのたびに高島屋で都羽根の絹穴糸を購入してゐた。
都羽根の糸は、そこでしか見たことがなかつたからだ。
年によつて求める糸もさまざまで、やたらと派手な色ばかり買つてゐる年もあれば、落ち着いた地味な色ばかり買つてゐる年もある。
ここ二三年買つてゐないのは、高島屋に寄つてゐる時間がなかつたからだ。
あと、これ以上買つてもな、といふのもある。
さらには、買ひに行くと必ず店員さんに声をかけられてしまふから、といふのもあるかもしれない。

推測なのだが、絹穴糸を求める人は、最初からほしい色が決まつてゐるのぢやあるまいか。
この服地のボタンホールにふさはしいのはこの糸、といふ感じで。
こちらはといふと、タティングレースに遣ふつもりなので、「こんな色を買はう」と考へて買ひに行くわけではない。
お店で見て、気に入つた色を買ふ。
多分、さういふ客は少ないのだらう。

そんなわけで、毎年四枚とか五枚とか増えてゐて、増えたわりには使はないままここまできてしまつた。

冬の間は絹糸があれた指先にひつかかるからといふので使ふことなど考へてゐなかつた。
ここはひとつ、絹穴糸を取り出してくるべきだらうか。

といふのも、この週末、マクラメをやらうと思つてビーズの在庫をひつくり返してみたところ、マクラメ用の糸にとほるサイズのビーズに乏しいことが判明したからだ。
やつがれが持つてゐるマクラメ用の糸には、おそらく丸大以上のサイズでないとビーズがとほらない。
丸小でもいけるかなあ。いけるのもあるかもしれないけれど、とほらなかつたら泣くものなあ。

そんなわけで、ひとまづはビーズをいれずに結ぶ練習などしてみた。
丸小だのスリーカットだののビーズをあしらつて、絹穴糸でタティングしてみやうか。
そんな気分になつてゐる。
気分だけだけどね。

春だなあ。

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Monday, 07 March 2016

「真田丸」二十回分

あたたかくなつてしまつた。

この書き出しももう三度めだらうか。
昨日、「真田丸」を見ながら Striped Shawl を編んでゐて、膝の上に乗つた編みかけの編み地の暑さにしみじみ思つたことだ。
あたたかくなつたなあ、と。

つひ先日までは、膝の上に編みかけのショールが乗つてゐると、「あたたかいなあ」だつたのになー。

天気予報によると、この先まだ寒さが戻つてくることもあるといふ。
その隙に編むか。
でもまだかなり編むんだよなあ。

「真田丸」を見ながらだと、最低で三十段くらゐ編める。しましま模様のない段ばかりなら四十段くらゐはいけるかな。
しましま模様三十段としまのない部分五十段のくり返しで、残りしましま模様が七つ、しまのない部分がやはり七つといつたところか。
「真田丸」二十回分か。
夏だな。

「真田丸」を見てゐるときしか編んでゐないわけではない。
などと書きながら、先週は全然編めなかつた。
先月からずつと睡眠不足の状態がつづいてゐて、先週はとくにひどかつた。
寝不足だと、なにもする気がしなくなる。
それこそ、布団を敷くことさへしたくない。
よつてだらだらと起きてしまつて、さらなる寝不足を招く、といふ悪循環にとらはれてしまふ。
だらだらしてゐるあひだは、ほんたうにだらだらしてゐるだけでなにもしてゐない。
早く寝ろよ、てなもんだ。

寝不足でだるくてなにもしたくないときに、とにかく早く寝る手だてがあればいいんだがなあ。
布団を敷くのがめんどうならベッドにするとかだらうか。
しかし、寝る前に入浴したりかたづけをしたり、そのほかにもやることはいろいろある。
ベッドを買つたくらゐではそのあたりはまつたく解消されない。

「真田丸」も毎回見られるといふわけではない。
絶対見なければ、といふ気持ちもない。
見られなかつたらそれでいいかな、と思つてゐる。録画予約をするほどのことはない。
そんな感じ。
編めるから見てゐる。
でも去年の「花燃ゆ」は一度も見なかつたのだから、「真田丸」にはなにかあるのだらう。

これ以上あたたかくなつたら、編みかけのショールをひざの上に乗せてゐては編めなくなつてしまふ。
場合によつては Striped Shawl は次の秋冬に持ち越すかもしれない。
そのころには「真田丸」も大詰めを迎へてゐるだらうか。

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Friday, 04 March 2016

手書きするわけ

なぜ紙のノートに手で書くのか。

やつがれの場合は、「世の中がきな臭くなつてきたから」だ。

以前は、客先で仕事をする場合も自社からノートPCを持ち込むことができた。
それで自社のネットワークに入つて社内のやうすを知り、自分の状態を知らせることができた。

いつごろからだらう。
どの会社に行つても外部のPCを持ち込むことができなくなつたのは。
当然、私物のPCなどもつてのほかだ。

携帯電話やスマートフォンについても、カメラのついてゐるものは持ち込めないといふ企業もある。
甚だしきはそもそも携帯電話やスマートフォンを持ち込んではいけないといふ会社もある。
#PHSならいいのか、とツッコミたくなるよね。

そんなわけで、結局旧来の様式に頼らざるを得なくなつた。
紙と鉛筆である。
ノートとペンといつてもいい。

しかし、聞いた話によると、私物の筆記用具やノートも持ち込み禁止といふ企業があるのださうな。
職場でなにをしろつていふのかね。
仕事と私事とつて、そんなにかんたんに区別のつくものなのかな。
つかないことだつてあるんぢやないかな。

もとい。
幸ひなことにいまのところやつがれの職場では私物のノートや筆記用具を持ち込めるやうになつてゐる。
もちろん、机の上に出しておいても誰も文句は言はない。
私物の携帯電話やスマートフォンは、しまつておかなければならないにも関はらず、だ。

こんなことを書くのも、昨日、「Bullet Journal GTD」でWeb検索をかけたときに、Bullet Journal をやめた理由のひとつとして「手書きよりもPCのキーボードから入力した方が速くたくさん書くことができるから」と云つてゐる人がゐたからだ。

つねにPCが手元にある人ぢやないと云へないよなあ。

やつがれも、手で書くよりはキーボードから入力した方が速く書ける。
こんなかな遣ひをしてゐても、だ。

でも、手で書いた方がこのかな遣ひをしてゐる関係上、ストレスは少ない、とは以前書いた。
いちいち前にもどつて削除しなくてもいいからね。

それに、手書きには遅さを補つてあまりあるよさがある。
たとへば、紙の上の好きな位置から書き始められる、とか。
日本語だからといふのもあるけれど、縦にも横にも書ける。
斜めに書いてもいい。
気分次第で書いたものを丸で囲んでもいいし、絵を添へるのも自由自在だ。
#絵が描ければ、ね。
手元に三色ペンでもあれば、色を使ひ分けることもかんたんにできる。
PCに入力する場合はそれがないんだよね。

最近ではタブレットPCだとこれに近いことができるのかもしれない。
でもその場合、速さは損なはれることになる。
やりなほしがきく分、手書きよりもいいかもしれないけれど、別段やりなほせなくて困るやうなことは書かないし、やりなほしたかつたら書きなほせばいい。

紙の手帳とペンとを用ゐる場合で困るのは、電車やバスなど乗り物の中にゐるときかな。
揺れるのでうまく書けない。
立つてゐればなほさらだ。
座つてゐたつて字がゆがむ。
もともと読みづらい字がますます読めなくなる。
かういふときは、iPhoneにメモを取る。
と書いて、最近のiPhoneは大きいから電車内で立つてゐると入力しづらいんだよね。
車内だと騒音がすごくて音声入力もしづらかつたりするし。
iPhone、もうちよつと小さく使ひやすくならないかなぁ。

そんなわけで紙の手帳とペンとを遣ひつづけるだらう。
すくなくとももうしばらくは。

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Thursday, 03 March 2016

我慢の限界

緊急停車などで駅と駅とのあひだに止まつてゐる電車から勝手に降りる客がゐる。
ここのところ三件あつた、と、昨日ニュースでみた。

「他人の迷惑考へろ」とか、「いい大人がなにやつてんだ」とか、さういふ論調を目にする。

それはそのとほりだ。
でも、もしかしたらもう「運転見合はせ」に対する我慢は限界にきてゐるのぢやあるまいか。
そんな気がする。

三件のうち、一件は常磐線、もう一件は総武線で起きたといふ。もう一件はどこだか知らない。
常磐線も総武線も、よく遅延してゐるとか運転見合はせ中とかいふ話を聞く。

人により対象により、我慢の限界は異なる。
止まつてゐる電車から無理矢理降りて線路に出てしまつた人たちは、たまたま「運転見合はせ」への耐性が低い人たちで、我慢が限界にきてゐたのぢやないかなあ。
だからといつて、線路に降りていいといふ話ではない。
単に「乗務員の指示なしに勝手に電車を降りないでください」といふ案内だけではもう通用しない時期にきてしまつたといふことなのではあるまいか。

ここ最近、自分の乗つてゐる路線とは全然違ふ路線での事故が原因で電車が遅れたり止まつたりすることが増えてゐる。
嫌気がさしてゐる乗客も多いだらう。
それでなくても不寛容な世の中だ。
我慢しきれない状況になつてゐるとしても不思議ではない。

といふことは、今後も勝手に電車から降りてしまふ客が増えるといふことだ。
そんなことにはならないといいのだが。

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Wednesday, 02 March 2016

Bullet Journal: 月ごとの棚卸

Bullet Journal で新たな Monthly Log Page を作成した。
三月分の月のページを作成したのだつた。

二月からはじめたので、月を越えるのははじめてだ。
二月に書いた Task や Event のうち、三月以降のものを棚卸しした。
これに結構時間がかかつた。

理由のひとつは、これまで Future Log Page がなかつたからだらう。

これは推測だが、Bullet Journal は一番最初はIndex Page、Monthly Log Page、Daily Log Page の三つで構成されてゐた。
これだと来月以降の予定が入つてきたときに不便なので、のちに Future Log Page が増えたのだらう。

Bullet Journal をはじめるときに参考にした blogs には、Future Log Page の説明はなかつた。
Bullet Journal をはじめてみて、「来月以降の予定はどうするんだよ!」と思つた。
本家のサイトを見に行つたら、Future Log Page が増えてゐた。
さういふ寸法である。

ほかに、Collection Page といふのも増えてゐる。Collection Page はまだ作つたことがない。そのうち、と思つてゐる。

今回、三月の Monthly Log Page を作るにあたつて、Future Log Page も作つた。
「来月以降の予定を書くページがないと不便!」と思つた時点で Future Log Page を作るべきだつたのかもしれない。
でも、二月の Daily Log Page の途中にいきなり Future Log Page があるのも妙な感じだ。
実は、Bullet Journal を遣ふのなら、この「途中にいきなりこのページがきたらヘン」といふ気持ちは持たない方がいい。
わかつてはゐたけれど、とりあへず二月いつぱいは、Future Log Page を作らずにゐた。
二月の Daily Log Page にひたすら白丸の未来の予定を書き連ねてゐたのだつた。

その白丸の、Montlhy Log Page に書き込んでゐない予定を、昨日全部さらつて Future Log Page や三月の Monthly Log Page に書き写した。
これが結構大変でね。
やつがれの Daily Log Page には、メモの類がやたらと多い。
Task や Event はなくてもメモばかりといふ日やページもある。
さうすると、Task や Event が結構埋もれるんだよね。
埋もれるけど、そこは Bullet Journal の Bullet(行頭文字。○とか□とか)で白抜きになつてゐるものをさらへばいいので漏らすことはないと思つてゐる。

GTD (Getting Things Done) では、この棚卸しを毎週行ふことになつてゐる。
一月単位でやると大変、といふことがわかつたいま、一週間に一度やる方がいいのだらうか、と考へたりしてゐる。
スライド手帳と並行して、できないかなあ。
Monthly Log Page はそのまま残して、Weekly Log Page といふか、予定表としてスライド手帳を用ゐる。
それを最近考へてゐる。

さきほど、Collection Page といふものがある、と書いた。
あちこちの Daily Log Page にちらばつた情報のIndex のやうなページである。
たとへば、ある本を数日かけて読むとする。
その本に関するメモを時折書き付ける。
その情報が重要だと判断したら、Collection Page を作つて、この本に関するメモを記したページを記録する。

これまで日々メモを書いてゐて、「これはちよつとこの先も気になるだらうな」といふやうなことが、どんどん埋もれていくなあと思つてゐた。
書いた時点では気になつてゐても、そのうち忘れてしまふ。
そのていどのことだつたんだらうとは思ふ。
でもできれば覚えてゐたいなあ。

それには、システム手帳がいいだらうか。
さう思つてゐた。
気になる事項ひとつひとつについて INDEX ページのやうなものを作つて、日々システム手帳を持ち歩く。
ちやうどスライド手帳を遣ひはじめたこともあり、これはいい案に思へた。

Bullet Journal として使用してゐる MD NOTEBOOK を遣つてゐるあひだは、この Collection Page を利用しやうと思つてゐる。

MD NOTEBOOK を遣ひ終へたら、システム手帳で Bullet Jouanrl を試してみるつもりだ。

Bullet Journal は綴じ手帳を遣ふことに意義があるやうな気もしてゐる、とは以前も書いた。
でもまあ、やるだけやるかな。

*Collection Page を Catalog Page と誤つて記述してゐた。
*修正済み。

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Tuesday, 01 March 2016

芯糸のねぢれ

Curds & Whey をぼちぼち作つてゐる。

なににするかを決めてゐないので、いまひとつ気分がもりあがらない。
シャトル一つでできるので、手加減の鍛錬と思つて結んでゐる。

その鍛錬がうまくいかない。
どうも芯糸がねぢれるんだよね。
芯糸がねぢれるので、うまく糸が引けない。

以前もリングの糸がまだ引けない、といふやうなことを書いた。
変はつてゐないのである。

でもなぜうまく引けないのかはわかつてきた。
すでに書いたとほり、芯糸がねぢれるからだ。
ねぢれて、芯糸が短くなるにつれ玉ができてしまひ、うまくきれいに引けなくなるのだ。

なぜ芯糸がねぢれるのか。
糸を引くときにねぢれるんだよね、どうも。
ダブルスティッチをしてゐるときには芯糸がねぢれる感覚はない。
ないけど、ここでねぢれてるのかなあ。

すこし前に、シャトルに糸を巻くときに糸に無用なねぢりの入らない方法について書いた。
糸を巻くときに、糸を回してシャトルに巻き付けるのではなく、シャトルを回して糸を巻き付けるといい、といふ話だ。
これ、まだ実行してゐないんだよね。
普段の方法だと、糸を回してまきつけてゐる。
シャトルを回しながら糸を巻くのはめんどくさいからなあ。
ボビンならミシンで糸を巻き付ければいいやうにも思ふが。
さう考へるとあのミシンのボビン糸巻き機能といふのはちやんと考へられたものなんだなあ。

芯糸がねぢれないやうに糸を引く方法もある。
スプリットリングの芯糸を引くときのやうに、スティッチのできるだけ全体を指でかるく押さへるやうにする方法だ。
これ、ほんたうは普通のリングの糸を引くときにもやるべきなんだらうね。
教はつたことがないと、こんなことに気がつくのにも時間がかかることがある。
愚かだから仕方がないか。

ただ、このスティッチのできるだけ全体を押さへるのつて、リングが大きすぎてもむづかしいけど、小さすぎても案外むづかしいのだつた。
前々からダブルスティッチが八目くらゐの小さなリングが苦手だつた。
小さいと、かへつて芯糸を引きづらい。
そんな気がする。
そんな話をしてゐるのを聞いたことはないから、やつがれだけの問題なのだらう。
できれば十六目くらゐはほしいなあ、といつも思ふ。
糸の太さにもよるけどね。

といふわけで、しばらくは Curds & Whey を作りながら、芯糸のねぢれについて考へることにしたい。

……とか書きながら、ここのところ白とか生成とかの糸でタティングしたいなー、とか思つてゐたりもするのであつた。

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2016年2月の読書メーター

2016年2月の読書メーター
読んだ本の数:3冊
読んだページ数:1311ページ
ナイス数:8ナイス

Something Rotten (Thursday Next)Something Rotten (Thursday Next)感想
クリケットはルール等まつたく知らないのだが、手に汗握る展開といふことだけはよくわかる。ランデンの帰還は案外呆気なかつたなー。ヨリック・ケインの失脚もこんなにあつさりしてたつけか。でも今回の眼目はおそらくサーズデイ自身の帰還とその死となので、ほかはあつさりしてゐるくらゐの方がいいのかもしれない。今後の展開がすこし読めちやふんだけど、でもそのとほりになるとは限らないあたりがタイム・バラドクスのむづかしさ(あるいはどうでもよさ)か。
読了日:2月10日 著者:JasperFforde
キム・フィルビー - かくも親密な裏切りキム・フィルビー - かくも親密な裏切り感想
騙した方も信じた方もどつちもどつちといふ気がする。いづれにしても自分の信条・職務のためには他人の命は風の前の塵におなじだつたんだらうし。どの世界でも人脈がものを云ふけれど、この世界ほどではないかもしれない。
読了日:2月16日 著者:ベン・マッキンタイアー
宣伝的人間の研究 ゲッベルス (絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ1)宣伝的人間の研究 ゲッベルス (絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ1)感想
チャップリンがヒットラーを真似るよりもヒットラーがチャップリンを真似たのが先なのかー。国会図書館にあつたゲッベルスの日記録に書き込みをせずにはゐられなかつた人、といふのが異様に気になる。人はナチスに惹かれ、ふと我に返つて「あれは忌むべきもの」とことさらに云つたりする。でも惹かれる所以のところをちやんと見つめるべきだ、といふ話。それにしてもこれ全篇手書きだよな。当時は当たり前のこととはいへ、恐れ入る。
読了日:2月23日 著者:草森紳一

読書メーター

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