一億総取締係
ここのところ、大向かふへの風当たりが強い。
大向かふといふのは、歌舞伎でよい頃合ひを見て「何々屋!」と声をかける人のことをさす。
自分から「大向かふ」と云つてはいけない。
「大」といふのは「御」みたやうなものだからだ。敬称にするときにつけることばである。
しかるにみづから「大向かふ」と名乗つてゐる人は大向かふではない。
「大向かふ」と呼ばれる人々の心ないかけ声のことは、やつがれも気にはなつてゐた。
舞台上にゐるのは立役ふたりなのに「ご両人!」とかける、とかね。
さういふ関係のふたりなのかと思つちまふぢやあないか。
そんなのはまだ可愛いもので、妙な間でかけるとか、やたらと「何代目」を連発するとか、「待つてました!」「たつぷり!」をふさはしくない場所で遣ふとか。
勘九郎時代の勘三郎に「山廃仕込み!」とかけた、なんてのもあつたか。これは現場にゐ合はせてはゐないので聞いた話である。
あとは三階席より低い階にある席からかけるとかね。
一階席からかけるなんてなもつてのほかだよ。
以前、こんなことがあつた。
一階席から声をかけてゐる人がゐて、「あー、なんにもわかつちやゐないななー」と思つてゐた。
するとこの御仁、幕間にそばに座つてゐるご婦人方に云ふぢやあないか。「わたくし、大向かふをやつてをりまして」。
やれやれ。
どうやら定年退職を期に芝居を見るやうになつたのらしい。
誰も教へてくれなかつたんだね、大向かうのしきたりを。
とはいへ、一階席前方から市川右近に「うこーん!」とかけるご婦人の、その気持ちはわかる。
もとい。
昔からゐたわけだ。
俗に「チャリかけ」と云はれるどうにも芝居にふさはしくない声をかける人は。
で、その時々に、「ひどいかけ声だ」「なんとかならんのか」とみな思つてゐた。
最近、どうもそのあたりがきな臭い気がしてならない。
なんといふのか、「チャリかけをする輩は追ひ出してしまへ」といふやうな空気といふのかな。
さういふのを感じる。
一月歌舞伎座の「茨木」で、坂東玉三郎が大向かふの声をかけるのを禁じた、と聞いた。
きつと、大和屋の目に余るものがあつたのだらう。
また、以前は「誰でもかけていいんですよ」とか云つてゐた人がここにきて「大向かふにも約束ごとがあつて」などとぬかしはじめた。
いや、「君子豹変す」と云ふぢやあないか。
以前はともかく、いまは「誰でもかけていいんですよ」などと云つてゐる場合ぢやあない。
その御仁はさう思つたのかもしれない。
それは正しい判断であらう。
でもこの不寛容な方向に向かつてゐる感じが、なんともイヤでならない。
おそらくやつがれ自身が取り締まる側にまはつたときに徹底的に取り締まりたがる気質の持ち主だからだ。
自分が正しい、自分のゐる側こそ善だと信じて疑はない人間は、正しくない、悪の側にゐるものを徹底的に弾圧して疑問を抱くことがない。
ここでも何度か書いてゐる「校門圧死事件」がさうだ。
遅刻はいけないことだ。しかるに遅刻を取り締まる自分はなにをしてもいい。
生徒の身体の無事のことなど頭の片隅にもない。
意識的にさう考へてゐたとは思はない。自覚はなかつたらう。
無意識のうちにさうなつてゐたのだらうと推測する。
世の中には取り締まる側になると想像力の働かなくなる人がゐる。
多分、やつがれもそのひとりだ。
たとへば、世の人々には不評だが、やつがれは「染高麗」といふかけ声がとても好きである。
「そめかうらい」と声に出してみると、なんともやさしくていい音のことばなのだ。
からうじて「か(こ、だな)」の音だけがかたくて、あとはやはらかい。
いいことばだなあ、と常々思ふ。
このままではこの優にやさしいことばも消へてゆく。
市川染五郎自身が「染高麗」とかけられるのを厭うてゐるといふのなら仕方がないけれど、「チャリかけ」と勝手に決めた人々によつて、ないものにされてしまふ。
味気ない。
チャリかけをする人のことを援護するわけではない。
できればやめてほしいと思ふ。
だが、やつがれの「やめてほしい」はやつがれ基準の「やめてほしい」であつて、万人がさう思ふわけではない。
SNSなどを見て「ほかの人もあれはダメだつて云つてるから」と云ふ人もゐるかもしれないが、それだつて全体から見たらほんの一握りの意見かもしれない。
自分が善だと思つた途端に、さういふ想像力が働かなくなる。
それが怖い。
そんなわけで、そのうちやつがれも声をかけやうかと思つてゐる。
とりあへず、かけるときは三階席にゐると思ふので、その点だけは問題ないだらう。
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