優先順位最高の予定
芝居の予定がすべてに優先する。
これまでまつたく意識してゐなかつたが、どうやらさうらしい。
なぜだらうと考へる。
最初に思ひつく理由は、「チケットの取りづらさを知つてゐるから」だ。
チケットつて、どうしてあんなに取りづらいのかね。
歌舞伎はそれでもまたましな方だと思ふ。
世の中には取れないチケットがあまりにも多すぎる。
記憶に鮮明なのは、劇団夢の遊民社の「ゼンダ城の虜」だらうか。
取れなかつたねえ。
解散公演だつたからあたりまへだらうけど。
クライバーも最後まで取れなかつた。
こんなに高値のチケットを、いつたい誰が買つてゐるんだらうと首をひねつたものだつた。
それだつて手に入るのなら自分だつて支払ふのだから、世の中にはさういふ人もゐる。
と、書きたいところだが、クラシック音楽の演奏会なんて、有名どころのいい席は招待客ばかりだらう。自分で苦労してチケットを取つた人は測定誤差くらゐの人数なのに違ひない。
そんな恨み言も云ひたくなる。
俳優祭も一度たりとも取れたことがない。
きつと一生取れないだらう。
さう思つてゐる。
決定的だつたのは、南座の顔見世の昼の部の席が取れなかつたことだ。
片岡孝夫(当時)の「馬盥」がかかつてゐた。
夜の部の席はおさへてゐた。
あきらめきれずに南座の前まで行くと、ダフ屋が「チケットあるで、チケットあるで」と云つてゐる。
よつぽど買はうか、と思つてあきらめた。
夜の部の開場を待つあひだ、そばに並んでゐた人が「馬盥」の話をしてゐた。
そのうちひとりが相手に「馬盥」のあらすじを説明してゐたのだつた。
この人の話が滅法うまくてね。
なぜやつがれはそんなおもしろさうな芝居を見ることかなはぬのだらうか。
つくづくさう思つた。
歌舞伎座で孝夫の「馬盥」のかかつた暁には、幕見で毎日通ふんだ。
さう心に誓つた。
果たせてゐないがな。
結局、それから二十年ほどのちに博多座でかかるわけだが、それはまた別の話。
かくもチケットといふのは取りづらい。
取れぬとわかつてゐても最大限の努力をする。
かつての職場の一階にあつた公衆電話は、0と5と6とだけが反応が悪くなつてゐた。
毎月前売券販売開始の昼休みにやつがれがチケットフォン松竹にリダイヤルしまくつてゐたからだ。
それでも自分はまだまだ恵まれてゐる。
バンドや芸能人を心から愛する人々の話を聞くとさう思ふ。
なんであんなに取れないかね。
形のあるものであれば、いづれめぐり会へることもある。
本などは最近とくに新刊で出た直後に買はないとなかなか出会へなかつたりする。
でも何年も後になつて書店の本棚に並んでゐるのを見かけることがないとはいへない。
図書館に行けばある可能性もある。
あるいは友人にぽろつと話してみたら「それ、持つてるよ」といふことになるとも限らない。
演奏会や芝居にはそれがない。
そのとき見に行かなかつたらもう見られない。
つぎに見るときはまつたく別もの。
さういふものだと思ふ。
「また別の話」と書いておいてなんだが、博多座で見た仁左衛門の「馬盥」はほんたうにすばらしかつた。
幕間が三十五分あつて、中村又五郎・歌昇の襲名の口上だつた。
目の前の人が来てゐなくて、やつがれの正面には松嶋屋が座つてゐた。
それでもまだ「馬盥」を見た衝撃が去らなくて、「なんで自分はいまこんな口上を見てゐるのだらうか」といふ気がしてならなかつた。
「馬盥」モードから抜け切れなかつたのだ。
でもこの「馬盥」と南座で見られなかつた「馬盥」は違ふ。
見てゐないものをどうかう云ふことはできない。
でも違ふ。
それだけはわかる。
芝居のやうすはときに録画され、TVなどで放映されることがある。
これも、実際に見るものとは違ふ。
やはり南座の顔見世で、十三代目の仁左衛門の時平、我當の梅王丸、秀太郎の桜丸、孝夫の松王丸の「車引」があつた。
牛車が壊れて時平があらはれたとき、妖気が立ちのぼつた。
時平も背景も朧にゆらめいて見えた。
このときのやうすを後にTVで見た。
妖気など、まつたくなかつた。
普通に出てきて、普通に終はつた。
もちろん、すばらしい時平ではあつた。
しかし、実際に見たときのあのおどろに妖しい雰囲気は、それほど感じられなかつた。
実際に見なければ。
さう思つたものである。
そんなわけで、芝居の予定はすべてに優先する。
すくなくともあとしばらくはさうだらう。
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