二人だけぢやダメなんぢやよ
人間、ひとりでは生きていけない。
朝起きる。
布団から抜け出して思ふ。
布団を作つたのは自分ではない。
買つたのは自分かもしれない。
しかし買ふためのお金は誰かがくれたものだ。
そこからして、もうひとりではなにもできない。
そもそも布団を作つた人がゐる。
作つたのは人ではないかもしれない。
でも布団を作つた機械があるだらう。
といふことはその機械を作つた人がゐる。
機械を設計した人がゐる。
以下、エンドレスである。
「ヒカルの碁」に、「神の一手」にせまるには等しく才能に恵まれた人間が「二人ゐるんぢやよ」といふセリフがある。
ひとりだけぢやダメなのだ。
碁はふたりで打つものだから、最低でもふたりゐないと「神の一手」はのぞめない。
だが、ほんたうにふたりだけでいいのだらうか。
「神の一手」にせまれるやうな才能に恵まれた人間が出てくるのはどういふ状況だらう。
おそらくは、「神の一手」など到底のぞむべくもない人々が碁に親しんでゐなければならないのではあるまいか。
野球で考へてみやう。
なぜ世界大会で日本が勝てるのか。
いまはともかく十何年か前までは、男の子がやるスポーツといつて一番人気は野球だつたからではあるまいか。
有象無象が野球をやる中から、優れた選手がたまさか登場する。
さうして登場した選手が集まつて強いチームができる。
有象無象は気の遠くなるやうな数必要だし、時間もまたさうだらう。
「神の一手」にせまるにも、さうした名も知れぬ人々の脈々とした碁への取り組みが必要なのだと思ふ。
たまに映画を見る。
よほどのことがない限り、エンドクレジットも最後まで見る。
途中からまつたく名前が追へなくなる。
エンドクレジットに名前の出てくる人々は、ちやんとこの映画に携はることでお給金をもらへてゐるのだらうか。
いつもそれが心配になる。
芝居もさうだ。
自分が見はじめたときよりも明らかに役者が減つてゐる。
当時あつた名前がいまはない。
襲名候補さへゐないといふ名跡がいくつもある。
役者だけぢやない。
大道具や小道具、衣装に使ふ素材を作る人がゐなくなつてゐるといふ。
おそらく、今月、国立小劇場に行つたらまた思ふのだらう。
人間、一人では生きていけないのだ、と。
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