My Photo
September 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

« December 2015 | Main | February 2016 »

Friday, 29 January 2016

いつでもぼんやりしてゐたい

ぼんやりしたい。

絵を見に行つて、気に入つた絵の前でぼんやりと立ち尽くしてゐたい。
ただぼんやりと電車に揺られてゐたい。

「ぼんやりしたい」でWeb検索をかけると検索結果数がかなりの数にのぼる。ちやんと確認してゐないけれど。
結構「ぼんやりしたい」といふ欲求はあるものなのらしい。

さうなのかなあ。
道行く人も電車で乗り合はせる人も、なんだかものすごくあくせくしてゐる。
今朝、こどもを前に載せたお母さんが自転車でこちらにつつ込んで来た。どうやらこちらがよけると思つたのらしい。相手の意図がはかれぬ以上、よけたら危ないと思つたので立ち止まつたから相手がよけたけど、余裕が感じられないんだよね。

何年か前の平日の朝、東京駅を降りて日本橋方面をめざして歩いてゐたら、道行く人がみな殺気立つてゐて怖かつた。
よらば斬るぞ、といふ感じ。
それより前にやはり平日の朝そのあたりを歩くことがあつたけれど、そのころはそんな殺気はなかつたやうに思ふのは、もしかすると自分も殺気立つてゐたからなのかもしれない。

なぜそんなにあくせくと急いでゐるのか。
ぼんやりする時間を捻出するためか。
どうやらさうではない気がする。
急いで急いで、周囲の他人など眼中にないやうすで殺気立つて、ますますみづからを追ひ込んでゐる。
そんな気がする。

検索結果の中身まで見たわけではないが、ぼんやりする時間を過ごすのはいいことなのださうである。米国だかの研究の結果、それがわかつたのださうな。
でもきつと、米国の人でぼんやりする時間を必要としてゐる人は、ただぼんやりすることができないのだらうな。
だから「Zen」だとか「瞑想」だとか云ひ出すんだらう。
そんな名前だとか理屈だとかつけずに、ただぼんやりすればいいのに。

ぼんやりする時間を過ごすことも必要なのらしいが、おそらく程度によるんだらう。
やつがれは、いつでもぼんやりしてゐたい。
ほんたうは芝居や映画もぼんやり見たい。
でも動くものを見るとなんとなくぼんやりしづらい。動くものに集中してしまふからだらう。
昔はぼんやり見てゐたやうな気がするんだがなあ。

「ぼんやりしたい」と思ふからよけいにぼんやりできないやうな気もする。
この週末は「ぼんやり」を頭から追い払つて過ごすことにするかな。

Thursday, 28 January 2016

これがおいらの口癖さ

ABC XYZ これがおいらの口癖さ

フランク永井の「西銀座駅前」の出だしである。
この歌について、「ABC XYZが口癖つてどういふことだよ」といふつつこみは過去にいくつもあつた。
この歌を聞いてまづ疑問に思ふのはその点だらう。

だが、「どうやつたらABC XYZが口癖になるのか」といふ考察をやつがれは見たことがない。
あるのかもしれないけれど。

ABC XYZ。
どんなときに口をついて出てくることばだらうか。
驚いたとき?
怒つたとき?
無意識に出てくるのだらうか。

無意識に出てくるのだらうな。
だつて「ABC XYZ」に意味はないもの。

意味のないことばが口癖になつてしまふ場合、たいてい無意識のうちにそのことばを口にしてゐることが多い。
中学生のとき、数学の教師でやたらと「ね」と云ふ人がゐた。
「だからね、それでね、こうなんだよね。ね」つてな感じだ。
暇な生徒で一授業のうちに何度「ね」を口にするか数へてゐた人もあつたやうに思ふ。
「ね」にまつたく意味がないかといふと、さうでもない。
念を押すために使つたりとか、同意を求めるために使つたりとかする。
だが、「ね」がまつたくなくても意味は通じる。
「だから、それで、こうなんだよ」でいいぢやあないか。

TED でプレゼンテーションを見てゐると、「well」「errr」とかつなぎのことばをぜんぜん口にしない人ばかりであるやうに思ふ。
本邦ではまれなことなのではあるまいか。
ゐるでせう、プレゼンテーションのときにやたら「えー」を連発する人とか。
「えー」も意味のないことばだ。
でも一応つなぎに使ふといふ使用法はあつたりはする。

そこで「ABC XYZ」だ。
「ABC XYZ」に意味はない。
使用法も定かではない。
いふなれば、「ABC XYZ」を口にする人が決めてもいいといふことになる。

プレゼンテーションで「えー」といふ代はりに「ABC XYZ」と云つてみるとか。
同意を求めるときに「ね」の代はりに「ABC XYZ」と云つてみるとか。
あるいは、びつくりしたときに「ABC XYZ!」と叫んでみるとか。

NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」では主人公が北三陸の方言を覚えてやたらと連発するやうになる。
「じぇじぇじぇ」だ。
「じぇじぇじぇ」は驚いたときの感嘆詞なのださうだ。
土地の人のうち主人公と親しくなる人々が口にしてゐて、それで主人公も覚える、そしていつしか口癖になつていく、といふ流れである。

Google で「"口癖を増やす"」で検索すると、四件しか結果が出てこない。
「ポジティヴな口癖を増やす」とか「英語の口癖を増やす」といふやうな例だけだ。
「ABC XYZ」はポジティヴな口癖だらうか。
ネガティヴな口癖ではないからポジティヴといへないこともないが、ポジティヴではないなあ。
英語の口癖にはあてはまるけど、どうも内容としては「英語の口癖を増やして英語に親しまう」といふ趣旨であるのらしい。
「ABC XYZ」を口癖にして、英語に親しめるだらうか。
それはちよつと無理だな。

そこでやつがれはひらめいた。
「ABC XYZ」が使へる状況があるぢやあないか。

まづミステリ好きの人と知り合ふ。
「どんなミステリがお好きですか」と訊かれたら、答へるのだ。
「ABC XYZ」、と。
どうだ! これで使へるぢやあないか。

しかし、口癖にはならないね。
残念。

Wednesday, 27 January 2016

幸せになれるか否か

断捨離についてもミニマリストについてもよく知らない。
知らないのに書くのはなにかと思ひつつ、最近ミニマリストと呼ばれる人が書いた本を途中まで読んで気になつてゐる。

家の中を清潔に整然とした状態に保たう、といふ考へはわかる。
風水にはまつてゐる人の話を聞いてゐると、「要するに家の中をかたづけませうつて話でせう」と思ふ。
黄色いものを西側におくといいとか、何々は玄関においてはいけないとか、さういふこともいろいろあるけれど、風水の大本の考へ方は「家の中を清潔に保て」といふことだと思つてゐる。
たいへんすばらしいことだ。

歌舞伎を見てゐると、登場人物の家の中にはものがほとんどないことに気づく。
ちよつとごちやごちやしてゐるな、といふのは台所で、それ以外は驚くほどものがない。その台所だつてほかの場所にものがないからさう思ふのであつて、それさへなければきれいなものだ。
貧乏な人の家だからか。
さうではない。
裕福な町人の家でも、必要なものは必要なときに出てきて、それ以外のときにはかたづけられてしまふ。
大名屋敷などでもそんな感じだ。

芝居の中のことだからか。
さうも思ふ。
しかし、和室の佇まひを見るに、おそらく当時はさういふ感じだつたんだらう。
そんな気がする。
ものはあるべき場所にかたづけておいて、必要なときだけ取り出す。使つたらしまふ。
布団がさうではないか。
普段は押入にしまつてあつて、寝るときだけ出してくる。
布団以外のものもさういふ感じだつたのではあるまいか。

ひるがへつて我が家だ。
世に「汚部屋」といふことばがある。
我が家はまさしくそれだ。
とりあへず人の通る道はある。つまりは床が見えてゐる部分がある、といふことだ。
座つて食事をする場所やMacBook Airに触れる場所はある。
でももう本は増やせない。
本棚に空きがないからだ。
毛糸などについても同様。
服やかばんもだな。
くつはからうじて靴箱に空きがあるが、でも、その靴箱自体がいらないのかもしれない。
そんな状態である。

部屋がきれいになつたら、幸せになれるんぢやないか。
さう思ふこともある。
最近読んだ本にも、ものを捨てることで、といふよりは、必要なものしか求めずきれいな部屋で暮らすことで幸せになつた、といふやうなことが書かれてゐた。

結局は、そこなんぢやないかな。
断捨離をして、あるいはミニマリストになつて、幸せならばそれでいい。
ならなくても幸せならそれはそれでもちろんいい。
さういふことなんぢやあるまいか。

自分はなぜものを捨てられないのか。
一番の理由は「面倒くさいから」だ。
なぜ捨てられないのか考へて、最終的にたどりついたのがそこだ。
捨てたいものはある。
捨てやうと思つてもゐる。
でも捨てられないのは、面倒くさいからだ。
最近はとくにゴミの分別だの粗大ゴミは手続きが必要だのでものを捨てるのが面倒くさいことになつてゐる。家電やPCを捨てる際の面倒くささといつたら!
本だつて、手芸本はできれば捨てるのではなくて求める人のもとに行つてくれたらうれしい。つまりは手芸本の古本専門店に持ち込みたい。
でもそれがすでに面倒だ。

もうひとつ、なんとなく「誰かがやつてくれる」といふ甘えがある。
自分自身でやらなければならないのに、心のどこかで「自分でやらなくても、さ」と思つてゐる。

あとは「ものを捨てて、それで幸せになれなかつたらどうする?」といふ不安もある。
風水も断捨離もミニマリストになることも、「かうしたら幸せになりますよ」といふことを謳つてゐる。
でも、もし幸せになれなかつたら?
さう思ふとなかなか着手できない。
言ひ訳といへばそれまでだけれどもね。

いまの自分が不幸だとしても、ものが多いことが理由だとは思つてゐない。
理由はまた別のところにある。
でも、もしかしたらものを捨てて整理したら幸せになれるかもしれない。
そんな夢ばかり見てゐる。
そして実行にうつせずにゐるわけだ。

Tuesday, 26 January 2016

かくしてプロジェクトは肥大してゆく

あひかはらず The Twirly をつなぐプロジェクトを遂行してゐる。

The Twirly とは Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフである。六角形で風車に似た形をしてゐる。
これをたくさんつないで最終的にはちよつと壊れた大きな六角形にするのが The Twirly をつなぐプロジェクトである。

以前書いた失敗についてはなんとか修復した、と思ふ。
代はりのモチーフを作つてつなぎ終へた。
ここからは新たなモチーフを作つてつないでいくことになる。

作りながらちよつと思ふ。
どうせなら、ビーズを入れればよかつたなあ、と。

Jon Yusoff のデザインにはビーズは入つてゐない。
入れるとしたら自分で入れる場所を決める必要がある。
すべてのモチーフに入れるつもりはない。
ところどころ、ちらほらとビーズが入つてゐたらどうだらう。

いまさらさう思つたわけだ。
時すでに遅し、である。

でも、どうだらうか。
ここから先、だんだん六角形が壊れていく、その先にビーズをちよこつと入れてみたら。
あるいは、もうできてしまつたところにはビーズをとめつけてみたら。
そんなにたくさんつけるつもりはないし、いけるんぢやないかな。

ところどころにちらほらと、の所以は、さういふのが好きだからだ。
もうひとつの理由としては、各モチーフに入れてゐたらできあがつたものが重たくなるから、といふのもある。

ビーズを入れたい理由は、最近 micromacrame の作品の写真を web 上でよく見かけるからだらう。
いいよねえ、micromacrame。
「これもマクラメか!」と驚くやうな作品がいくつもいくつもある。
マクラメの応用範囲の広さにびつくりすることしきりだ。
考へてみればさうか。
昔はマクラメといふとプラントカヴァとか、ベルト、あるいはちよつとしたカーテンといつた感じだつたやうに思ふ。
でもその中には立体的な動物を作つたものも多かつた。梟とかね。干支ものもあつたやうな気がする。
結ぶからしつかりしたものができるしね。

今年こそ micromacrame を、なんぞと思つてゐるけれど、でも、似たやうなことをタティングレースでできないかな、と思つてもゐる。

手始めにビーズをあしらつたタティングレースのモチーフなんぞを作つてみたいと思つてゐるのだが、でもそれには The Twirly をつなぐプロジェクトをなんとかしなければならない。
そこで、「だが待てよ、The Twirly にビーズをあしらつてみたらどうよ」と思ひついた、といふことだ。

ちよつと考へてみるかな。

Monday, 25 January 2016

目先にとらはれ過ぎ

ヨガソックスを編んでゐる。
まだ最初の一本を編んでゐるところだ。
林ことみの「北欧ワンダーニット」に掲載されてゐるものを編んでゐる。

yoga sock in progress

進まないねえ。
編んでないからだけれどもさ。
エストニアンスパイラルなのがいけないのだらうか。案外時間がかかるんだよね。
エストニアンスパイラルはもう何度か編んでゐるんだけどなあ。
編まないからうまくならないといふ話もある。

編みはじめて気がついたのだが、別にエストニアンスパイラルにする必要はなかつたね。
ほかの模様でもよかつた。
普通のくつ下のつま先とかかととを編まないものとかにしてもよかつた。
Monkey とか Pomatomus とかさ。
もう一足は編むつもりでゐるので、次にはさうしやう。

ちなみにいまもヨガソックスを履いてゐる。
もともとはヨガソックスを編むつもりではなかつた。
Regia の Design Line である Arne & Carlos の毛糸を買ふときに一玉づつしか買はなかつた。
価格から、一玉で100gくらゐあるだらうと判断してしまつたんだな。
それが50gだつた。
これではくつ下はちよつと編めない。
くるぶしまでのくつ下ならもしかしたら編めるかもしれないけれど、そんなくつ下は別段ほしくないしなあ。編むのはいいかもしれないけれど。

そのときに思ひ浮かんだのが「さうだ、ヨガソックスを編まう!」だつた。
編んで正解だつた。
よく使つてゐるし、役立つてゐるしね。

ヨガソックス以外に、指なし手袋を編む、といふ案もあつた。
指なし手袋もいい。
リストウォーマーだとちよつと不足な気がする。
手の甲も覆つてゐた方がいい。
腕もできるだけ長く覆へた方がいい気がする。
いま使つてゐるのは、Regia Silk で編んだ Serpentine Mitts といふ指なし手袋だ。
毛の割合は少ないけれど、ちやんとあたたかい。
ちよつと大きめになりすぎてしまつたが、それで空気を含むのがいいのかもしれない。

あと、Puppy のプリンセスアニーで編んだ Pomatomus によく似た模様の指なし手袋もある。こちらはちよつと短いので秋の終はりや春先に使つてゐる。

指なし手袋も編みたいなあ。
できれば縄模様の入つてゐるもの。
さういへば、浅草に歌舞伎を見に行つて、吉原つなぎつてやつぱりいい柄だなあと思つたんだよな。
以前、吉原つなぎをイメージして縄編み模様を作つたことがある。
あのときはちよつと真ん中の穴が大きくなつてしまつた。
次はまちつと考へて編まうと思つてそのままになつてゐる。
吉原つなぎに挑戦するか。

その前にいま編んでゐるものを編んでしまはないとね。

Friday, 22 January 2016

ボールペンも使へるよ

一昨日、スライド手帳を使ふやうになつて「さまざまな種類の筆記用具を使ふやうになつた」と書いた。

これまで使ふ筆記用具といつて、万年筆以外の出番はほとんどなかつた。
丸善日本橋店が本店だつたころ、モンブランのショパンエディションを求めたところ、その書き味にまゐつてしまつたのが発端だつた。
ボールペンで字を書くと、なぜかペンが紙に対してだんだん垂直になつていく。
シャープペンシルは書くときのきしきしいふ音がイヤだ。
さう思つてゐたところに万年筆だつた。
以降、万年筆ばかり使ふやうになつた。万年筆でなければ鉛筆。
そんな感じ。

そんなやつがれが万年筆と鉛筆と以外の筆記用具を使ふやうになつた。
スライド手帳、すごい。
と、書きたいところだが、スライド手帳に出会ふ前に前兆はあつた。

S.T.デュポンのJet8である。

「社会人たるもの、ボールペンの一本も持ち歩かなければならぬ」と云はれたことがある。
役所に提出する書類などは黒字のボールペンで書かねばならぬのださうな。
別段高価なものである必要はないけれど、常にボールペンを持ち歩いてゐるべきだ。
さういふ意見はある。

実際に、ある書類に万年筆で書き込まうとして、「ボールペンでお願ひします」と云はれたこともある。
気にはなつてゐた。

そんなとき、K.ITOYAの店頭に試し書き用のJet8があるのを見かけた。
何の気なしに手にとつて書いてみたらばこはいかに。
といふ話はすでにblogのエントリとして書いてゐる。
かんたんに書くと、ちよつと万年筆に似た書き味にまゐつてしまつたのだつた。

そのJet8も買つてしばらくはうまく使へなかつた、といふ話もすでに書いたとほりだ。
ペンの軸に中指を沿はせるやうにして書いたところ、うまく書けるやうになつた、といふ話も書いた。

以降、万年筆ときどき鉛筆一時Jet8、といふやうな筆記生活がはじまつた。
そこにやつてきたのがスライド手帳だつた。

スライド手帳にはゲルインクのボールペンが向くといふ。
それまでほとんど出番のなかつたPILOT HITEC-C coleto をまた使ふやうになつた。
以前のエントリにも書いたやうに、HITEC-Cの0.5mmだとスライド手帳では裏抜けする。
なのでスライド手帳以外のところに使つてゐる。

昨日のエントリに書いたとほり、カキモリオリジナルのローラーボールペンも使ふやうになつた。
するすると書けるのだがちよつとひつかかりのある書き味が逆に書きやすいペンだ。
スライド手帳に書き込むのはほぼ日手帳のおまけだつた三色ボールペンだ。また、細字の万年筆にプラチナ万年筆のブルーブラックを入れればスライド手帳にも問題なく書けるので、プラチナのポケットサイズの万年筆で書き込むこともある。

これまでは万年筆のインキが切れてゐるとがつくりしてゐた。
とくに出先ではさうだ。
なぜ世の中には万年筆のインキ補充サーヴィスがないのだらう。携帯電話の充電サーヴィスはあつたりするのに。
さう嘆いたこともいくたびが。
複数本持つてゐても、おなじ時期にインキが切れたりするんだよね。あれは不思議だ。

でもいまは違ふ。
もつとインキ量の多いボールペンを使へばいいからだ。

そして、ほかの筆記用具を使ふにつけ、万年筆の書き味のよさをあらためてしみじみ感じてゐる。
ほとんど筆圧のいらないなめらかな書き味。
最高だよね。

そんな状態だと、万年筆以外にもボールペンがほしくなつたりして大変なんぢやないの?
さう思ふ向きもあらう。
いまのところ、Jet8の黒字と青字と使ひ、ほぼ日手帳のおまけの三色ボールペンを使ふことで満足してゐる。あと coleto か。
昨日も書いたとほり、カキモリオリジナルのローラーボールペンはあと二本くらゐほしい気がするけれど、それももつと先かな。
いまは手持ちの筆記用具だけで十分楽しい。
善哉善哉。

Thursday, 21 January 2016

カキモリオリジナル ローラーボールペンを購ふ

土曜日に浅草公会堂で歌舞伎を見てきた。
帰りに、蔵前にあるカキモリまで歩いた。
Google Maps を頼りに歩いたところ、住宅街の中の道を行くことになり、ちよつとおもしろかつた。

カキモリ

実はカキモリに行くことはないだらうな、と思つてゐた。
自分だけのノートを作ることはないだらうと思つてゐたからだ。
なぜ自分だけのノートを作ることはないかといふと、この世に一冊しかないノートを作つたらもつたいなくて使へないだらうからだ。
以前、美篶堂でハードカバーケースノートを作つてもらつたことがある。そのときは特別にバンクペーパーをノートの用紙として選べた。普段は選べないのださうである。
嬉々として依頼して、いそいそと受け取りに行つて、その後使つてゐない。
もつたいなくて使へないのだ。

そんなだから、カキモリでノートを作つたとしてもまた未使用の使へないノートが増えるだけだ。
さう思つてゐた。
だつたら二冊作ればいいぢやあないか。
カキモリに行つてその事実に気がついた。
できれば気づかなかつたことにしたい。

木目の印象の強い店内は、紙屋(治兵衛ぢやないよ)の香りが色濃い。
紙屋さんには、木目調の店内で三方の壁に薄い引き出しのたんすがあつて、その前で紙を選ぶといふ印象がある。
トレイを手にしたお客さんが何人もゐて、棚の前を右往左往してゐた。
ノートにする紙を選んでゐるのだらう。
店の外からは窓越しに製本してゐるやうすを見学することができる。これが結構楽しい。

店内のお客さんのほとんどは、ノートを作りに来た人のやうだつた。
やつがれは違つた。
今回見に来たのは、カキモリオリジナルの万年筆用のインキだつた。
これ以上インキを増やしてもねえ、といつも思つてゐるのだが、ちよつと興味があつて、ね。

カキモリでは、インキを混ぜて好みの色を作ることもできる。
オリジナルインキは16色、とカキモリのWebサイトにはある。
試し書きのコーナーにはそのうち3色が万年筆に入れられてゐて試せるやうになつてゐた。
ほかにプライベートリザーブのインキがあつた。
自分でオーダーインキを作る場合は、プライベートリザーブのインキがベースになるのだといふ。

この日はもう時間も遅かつたし、「この色がほしい」といふのがぱつと思ひつかなかつたので、オーダーインキはあきらめることにした。

試し書きコーナーには、ローラーボールペンもあつた。
ローラーボールペンに万年筆のインキを入れてあつた。
エルバンで万年筆のインキカートリッジを使ふローラーボールペンを出してゐるのは知つてゐたが、コンヴァータの使へるものははじめて見た。
エルバンのものもコンヴァータも使へるのかな。

エルバンのローラーボールペンには、ちよつと書きづらいといふ印象を持つてゐた。
もしかしたらインキとの相性がよくなかつたのかもしれない。
書きづらいと使はなくなる。
そしてますます書きづらくなる。
悪循環だつた。

カキモリ

カキモリの店頭で試し書きしたローラーボールペンの書き味は、とてもなめらかだつた。
試し書きできるといふのがいいやね。
もともとローラーボールペンのあまり好きではないやつがれだが、これなら使へるかも、と思つた。
ちよつと太字なのがいいのかもしれない。
ぬらぬらとまではいかないけれど、するするといつた書き心地だつた。
このローラーボールペンもカキモリのオリジナルなのだといふ。
ボトルのインキが少なくなつたときのために、小さなビーカーのやうな器とスポイトとがついてゐた。ボトルのインキをスポイトで吸ひあげて器にうつし、そこからインキをコンヴァータにうつすのださうだ。ちよつと嬉しい心遣ひである。
ほかに透明軸の万年筆もあつて、どちらにするか迷つた。
今回はほとんど使つたことのないローラーボールペンを求めることにした。
インキはインディゴにした。
ここのところ「Born to be Blue」とか「Mood Indigo」とかそんなやうな気分だつたからだ。

飾り枠原稿用紙に書いてみた。

カキモリ

ローラーボールペンの書き味は悪くない。
先ほども書いたやうにするすると書ける。
この写真からはよくわからないかもしれないけれど、線が太いのでインキの濃淡も出ておもしろい。神戸手帳に書くとインキの濃淡がよくわかる。
インディゴはぱつと見たところ黒だ。ブルーブラックのかなり黒い感じ。セーラーのインキと比べると、どことなく灰色味を感じる色である。

万年筆のインキを使ふので、できるだけ頻繁に使つた方がいいだらうと思ひ、日々使つてゐる。
まさか自分がローラーボールペンを愛用する日が来るとは思はなかつたなあ。

そのうち、別のカキモリオリジナルインキとこのローラーボールペンとを買つてゐるやうな気がする。

Wednesday, 20 January 2016

「大丈夫だよ」といつてくれる予定

スライド手帳のバイブルサイズを使ひはじめてから、二回スライドをした。
三週めに突入したといふことだ。
いまのところ快適に使へてゐる。

スライド手帳を使ひはじめて、変はつたことが二点ある。
ひとつは、荒いものながら予定をたててゐること。
もうひとつは、さまざまな種類の筆記用具を使ふやうになつたことだ。

荒いものながら予定をたてるやうになつた、といつてもまだ二回スライドしただけだ。
最初のスライドのときはそれほど予定をたててはゐなかつた。
ただ、スライドする直前に日曜日の欄に「これをやらう」と決めたことを書いておいた。
日曜日の予定なので、個人的なことだ。
その気にならなかつたらやらなくてもいい。
実際、日曜の朝、目が覚めたときは「やつぱりやめやうかな」と思つてゐた。
起きて洗濯や掃除をするうちに気分が上向きになつてきて、結局予定のとほりのことをした。

予定やToDoは手で書くだけでかなり達成すると思つてゐる。
すくなくとも自分の経験ではさうだ。
手で書くのがいいやうに思ふ。
書いたものは見返さなくても達成する確率が高い。まあ、やつがれの場合は、ね。
見返すとさらに確率が上がる。
そんな気がしてゐる。

今週は月曜日に打ち合はせがあつた。
ここで今後のことがいろいろ決まることになつてゐたので、スライドするのをすこし待つた。
打ち合はせが終はつて、今週やることを書いてからスライドした。

現在、〆切がほぼおなじ作業が二つある。
片方は自分がなんとかすればいい作業だ。
もう片方は複数人の協力が必要な作業だ。
自分だけでなんとかなる仕事の方が量が多くすることも煩雑である。
他人の協力が必要な仕事はといふと、協力してくれる人さへ手が空いてゐるなら即終はる。

これまでだつたら、どちらにも手を着けてどつちも中途半端な状態で作業終了まで過ごすことが多かつた。
実はいまもそんな感じではある。
でも、他人の協力が必要な方は相手の予定を確認して「この日にやる」と手帳に書いた。
不安になると自分で書いた予定を確認する。
それですこし安心する。

yPad half S を使つてゐたときは、月曜から水曜はこの作業、木曜はあの作業で金曜はその作業といふやうにわりふつてゐた。
そのときの経験が生きてきてゐるやうにも思ふ。

予定は、安心するためにたてるのかもしれない、と、このとき気がついた。
予定と実績とをくらべて、大丈夫だといふ確信を得る。
大丈夫ぢやないことも多いんだらうけどもさ。
でも、これまでなにかと不安になりがちで、いまでも不安になつてゐる自分にはなにか「大丈夫だよ」といつてくれるものが必要だ。
それが自分でたてた予定なのかもしれない。
これからスライド手帳を使ふなかでそこのところを確かめていくんだらうな。

ところでスライド手帳だと予定をたてるやうになるのは、おそらくスライドしてしまつたら書き込みにくくなるからだと思つてゐる。
HIRATAINDER を使つてゐるので、右側のページへ書き込むのは実にスムースなのだが、左側のページへ書き込むときは中央のリングがちよつと邪魔だ。
その annoying な感じがイヤで予定をたてるやうになつてゐる。
そんな気がする。

筆記用具についてはまたの機会に。

Tuesday, 19 January 2016

記録ノートを作らうか

先週、タティングレースで大失敗をしてしまつた。

The Twirly をつなぐプロジェクトで、つなぐピコの部分を切つてしまつたのである。
The Twirly とは Jon Yusoff のデザインした六角形のタティングレースのモチーフである。風車に似た形をしてゐる。
これをたくさんつないで最終的にはちよつと壊れた大きな六角形を作るのが「The Twirly をつなぐプロジェクト」である。

新しいモチーフをつなぐところを間違えて切つたところ、すでにつないでゐた部分に間違ひを見つけた。
もう何枚もモチーフをつないだ部分だ。
いまさらほどくわけにもいかない。
といふわけで、切つたわけだ。
切る瞬間、「あ、ここは切つてはいけないところだ」と気がついたときには遅かつた。
隣のモチーフをつなぐピコも切つてしまつたのだつた。

仕方がないので、切れたピコは結んでみた。
そこに作りなほしたモチーフをつないでゐる最中である。

かういふ失敗をすると、やる気が著しく失はれる。
切れたピコのモチーフを切りとらうとすれば、さらに被害は拡大する。そのモチーフのピコにもほかのモチーフがつながつてゐるからだ。

The Twirly をつなぐプロジェクトは、モチーフこそ作り方があるものの、つなぎ方は自分で考へてゐる。考へながらつないでゐるといつてもいい。
一応、Microsoft Excel の図形を使つてつなぎ方を絵にはしてみたものの、常に Excel の見られる環境にゐるとは限らない。

やはりノートに書いておくのだつたなあ。

以前、糸や作つたモチーフを記録しておくノートを作らうかと思つてゐたことがある。
糸端やモチーフをはりつけておくノートだ。
しかし実現してはゐない。
ノートにあれこれはりつけるのはあまり好きではなかつたからだ。
少なくとも当時はね。
それに、のりではりつけると糸の風合ひが失はれてしまふといふのも問題だつた。

いまからでもはじめるかなあ。

ノートにはびつしり書き込みたいといふ気持ちがある。
タティングレースやあみものの作り方・編み方といふのは、びつしり書き込むのに向いてはゐないんだよね。

ああ、でも「パペットエンターテインメント シャーロックホームズ」でワトソンがつけてゐた「ワトソン・メモ」のやうなノートにはあこがれてゐる。
絵が描けたらできるんだがなあ。

幸ひといふか不幸にもといはうか、ノートはたくさんある。
ひとつためしてみるかなあ。

Monday, 18 January 2016

くつ下編むのはやめられない

エストニアで習ったレース」に掲載されてゐるかぎ針編みのショールは編み上がつた。
ちよつと小さいんだよなあ。
整形したらすこしは大きくなるか知らん。
まだ端糸の始末もしてゐない。始末をして整形して余分な糸を切つて、とまだすることはたくさんある。

Domino Knitting に掲載されてゐる Striped Shawl はあひかはらずあまり進んでゐない。
それよりもヨガソックスを編みたい気がしてゐるんだよね。

最近朝電車やバスに乗つてゐると足下が異様に冷えるからだ。
それで仕方なくヒートテックのやうなくつ下を履いたり普通のくつ下の上にヨガソックスを重ね履きしたりと対策を講じてゐる。
ヨガソックスが案外いい、といふ話はすでに書いた。
そんなに長くないのだが、足首があたたまるだけでだいぶ違ふと思ふ。

くつ下毛糸で編んでゐるから洗濯機で洗へるのがまたいい。
やつぱりくつ下は洗濯機で洗へないと。
洗つて乾かすと、毛糸のふんはりとした感触もいいんだよなあ。よりあたたかい感じがする。
化繊混の糸で編むとそんなにあたたかくならないんぢやないかといふ気もする。
でもそんなことはないな。
すくなくとも Regia とか Opal、Online といつたくつ下毛糸はあたたかいと思つてゐる。
実際今も Opal のくつ下毛糸で編んだくつ下を履いてゐる。

去年も「今年はくつ下を編みたい」などと考へてゐた。
去年は「毛糸だま」にくつ下特集があつたおかげか何足か編んでゐる。
今年もくつ下を編みたいなあ。
なんだかんだいつて編めば履くしね。

Friday, 15 January 2016

こどもの使ひぢやあるまいし

「こどもの使ひぢやあるまいし」と世の人は云ふ。

職場などで、電話の応対が不十分だとか、顧客と応対して相手の欲するところをちやんと聞き出せなかつたりする人に対して云ふことが多いやうに思ふ。

個人的な経験から云ふと、「こどもの使ひ」しかできない人にそれを超えることを求めてはいけない。
できたら最初からやつてゐるはずだからだ。

「こどもの使ひぢやあるまいし」と云つてくれる人がゐなかつたからそこから脱することのできない人もゐるのかもしれないけれど、そこはそれ、だ。

そもそも、「こどもの使ひ」しかできないやつがれが云つてゐるのだから、間違ひはない。
かういふ人間に「おとなの使ひ」を求めてはいけないのである。

似たやうな内容で、「指示待ちはいけない」とか「自分で考へろ」などと云ふ人がゐる。
指示を待たずに自分の判断で行動した結果失敗したり、自分で考へて発言しても即却下されたりといふ経験があると、「そんなことしてもムダぢやん」と思ふやうになる。

雇用主としてはどちらがいいのだらうか。
自身の判断で行動した結果失敗する人間と、失敗しても(あるいは「失敗するとわかつてゐても」)指示待ちなどせず自分の考へで動く人間と。

どちらもダメか。
どちらもクビだな。
残るのは自分で考へて行動して間違ひがない人だ。

世の中つて、さういふ人ばかりなのだらうか。
自分で考へて行動した結果、成功する人ばかりなのか。
さうは思へない。
それに、こどもの使ひしかできない人にはその人なりの使ひやうといふのがあるのではないか。
(まあ、やつがれについてはともかく。)

それとも、こんなやつがれでさへ、自分で考へて行動した結果、正しいこと、間違つてゐないことを行へることがあるのだらうか。

どうもさうは思へないのである。

Thursday, 14 January 2016

ノートを使ひきるか否か

最近あまり書いてゐない。
いま使つてゐる手帳が自分には向かないのだと思ふ。

かういふとき、使ふのをやめてしまふか、それとも最後まで使ひきるか、悩むところだ。
これまでは、最後まで使つてきた。
たとへば Rhodia の WebNotebook だ。
Rhodia の WebNotebook にはおそらく個体差があるのだらう。
やつがれの手にしたものは、開きづらかつた。
まづこれがダメだつた理由のひとつ。
開きづらいといふのは、書き込まうとして開くと、自然と閉じてしまふといふことだ。
ノートが抵抗してゐる。
さう感じるくらゐ強かつた。
またこのときは愛用してゐた萬年筆の調子が悪かつた。
ペンの調子が悪いことにはあとで気がついた。
これは WebNotebook のせゐではない。
せゐではないけれども、当時はペンの調子に気づいてゐなかつたので「書きづらいノートだなあ」と思つてゐた。

WebNotebook は最後まで使つた。
書き込むのは右側のページだけにしてゐたけれどね。左側のページはあとで見返したときに追記するやうにしてゐた。

神戸手帳もさうするかなあ。
右側のページにだけ書いて、あとで見返したときに左のページに追記する。
それはいいかもしれない。

神戸手帳はなにが苦手なのかといふと、おそらく 5mm幅の罫線といふところだと思つてゐる。
一行だと狭すぎて、二行使ふと広すぎる。
そんなこといつて、9mm幅の罫線の MONOKAKI はちやんと使へたので、気のせゐかもしれない。
あと、紙が分厚い。
いい紙なんだけどなあ。ペンもえらばないし。
5mm幅にきちんと字の書ける人や罫線を気にしない人には神戸手帳はとてもよい手帳だと思ふ。
なにしろ、佇まひがいい、とは以前も書いてゐる。
机においたときの「書き込んで」といふ感じ。
最初は手の脂のつくのが気になつてゐたカヴァもいつしか馴染んでゐる。
カヴァといへば見返しにいろいろはさめるのもいい。
いい手帳なんだけどなあ。

さう考へると、最近あまり書いてゐないのは、自分のせゐではあるまいか、といふ気もしてくる。
気力がない。
時間がない。
書く時間があつたら寝たい。
そんな感じなのぢやああるまいか。

神戸手帳はまだ半分も使つてゐない。
次の手帳はこの先何年も買ふ必要のないほど家にある Moleskine のポケットサイズか、ちよこつとだけ手持ちにある Smythson の Panama だらう。
それとも HIRATAINDER にメモ帳のリフィルをはさむことにしやうか。

かういふことをつらつら書き連ねればいいんだよね。
それをしないといふことは、手帳と相性があまりよくないのだらう。

Wednesday, 13 January 2016

ウソと知りつつ聞いてしまふ

日曜日からこの方、毎日のやうに「武蔵の遅刻理由」を聞いてゐる。

「武蔵の遅刻理由」はNHK教育TV(といまは云はないのかもしれないがやつがれは云ふ)で放映してゐる「びじゅチューン!」といふ番組で流れた歌といふかアニメーションといふかである。
古今東西の芸術作品の印象をもとに井上涼が作詞作曲動画作成し歌を歌つたもの、とでもいはうか。
詳しいことはリンク先を見ていただきたい。

「武蔵の遅刻理由」のなにがいいのか。
まづ旋律とリズムとがいい。
ちよつとベンチャーズとかビーチボーイズを思はせるやうな波打ち際つぽいロックな感じなのだ。
「びじゅチューン!」で公開される大抵の作品の歌は、大変覚えやすい旋律である。
つまり、一度聞くと頭の中で何度も回る。
「武蔵の遅刻理由」もそのひとつだ。

また発想が笑へる。
「武蔵の遅刻理由」のもとになつた作品は歌川国芳の「武蔵の鯨退治」だといふ。
番組内で、井上涼は「武蔵の鯨退治」は誰の視点から描かれたものなのか、と疑問を呈してゐる。そのとほりだね。
それはさておき。
なぜ宮本武蔵は厳流島の決闘に遅れたのか。
それは、鯨退治をしてゐたからではないか。
でもそれだとそのままだから、と、井上涼が考へたのかどうかは知らないが、「武蔵の遅刻理由」では武蔵は鯨を助けたことになつてゐる。
いや、助けてないでせう。退治したんでせう。
だいたい厳流島に遅れていつた理由はそれぢやないし。
でもいいのだ。
笑へるから。

しかも武蔵は遅刻した理由を一生懸命佐々木小次郎に説明する。
もうそれは渾身の力で説明する。
それも、紙芝居を使つたお笑ひ芸人のやうなスタイルで。
遅刻理由の「ここが大事」と訴へる武蔵のやうすの必死なこと。
このくだりにかかるたびに「来るぞ来るぞ……来たぁぁぁぁ」と思つてしまふ。

さらに、話を聞く小次郎がいい。
眉間に皺を寄せた表情がいいし、実は武蔵がウソをついてゐることを知つてゐるのもいい。その上、最後まで武蔵のウソ話につきあひ、歌の終はりには武蔵と一緒に踊つてしまふ。
なんなんだ、君らは。
決闘するんぢやないのか。

小次郎の眉間の皺は国芳の「厳流島の決闘」そのままだ。
あと、歌詞を手にしてゐるのが国芳の猫なんだよね。猫だから手ぢやなくて前足か。まあいいか。

ほんたうは番組全体を見たい。
ジョリーラジャーズの合唱が入つたヴァージョンも聞きたい。
録画したものを見ればいいのだけれど、つひお手軽に公式サイトを見に行つてしまふ。

「びじゅチューン!」で好きな作品はたくさんある。
最近では「姫路城と初デート」も好きだなあ。「あしゅらコーラス」、「委員長はヴィーナス」、「風神雷神図屏風デート」なんかも気がつくと歌つてゐる。「縄文土器先生」もだ。
上野に行つて時間があると「ランチは地獄の門の奥に」を歌ひに行つてしまふしね。「ロダンロダン」といふ合ひの手が好きなんだよね。「委員長はヴィーナス」の「ボッティチェリチェリ」とか「樹花鳥獣図屏風事件」の「若冲!」とか。

今日もまたウソと知りつつ「武蔵の遅刻理由」を聞いてしまふんだらうなあ。
それもまた楽し。

Tuesday, 12 January 2016

たくさん作つたのに

年が明けて、「The Twirly をつなぐプロジェクト」を再開した。
The Twirly は Jon Yusoff がデザインしたタティングレースのモチーフだ。六角形で風車のやうな形をしてゐる。これをたくさんつないでちよつと壊れた大きな六角形を作るのが「The Twirly をつなぐプロジェクトである。

一昨年くらゐからさんざんこの The Twirly を作つてゐるといふのに、久しぶりに作つてみたら、目数をすつかり忘れてゐた。
すつかり、でもないか。
しかし、中のリングは「5P2P5」だつたか「5P3P5」だつたかとか、ブリッジは「2P3P3P3」だつたか「3P3P3P2」だつたか定かではなかつた。
もちろん、すでに作つたモチーフを確認すれば済む話だ。

でもなー、さんざん作つたのになー。

さんざん作つた Mary Konior の Black Magic や Masquerade、Curds and Whey なんかはなにも見なくても作れるんだけどなあ。
たぶん、これまでにおなじものを作つた回数が一番多いタティングレースものは The Twirly だ。
しかも、つひ最近作つたものである。
なのになぜ Black Magic や Masquerade、Curds and Whey を覚えてゐるのに The Twirly はダメなのか。
Black Magic などの Mary Konior の作品は、タティングレースをはじめたあとかなり早い段階で手がけたからだらうか。
脳も若いから記憶が定着しやすかつた、とか。
しかも、つづけて何度も作つてゐるわけではない。
時間をおいて時折作る。
それで記憶に定着するのかもしれないなあ。

そして、記憶に定着してゐるから作る、といふ話もある。
なにか作りたいのになにを作ればいいのかわからない手持ち無沙汰のときに、つひ作つてしまふからだ。
覚えてゐるからさうなる。

昨日、何年かぶりにかぎ針編みのショールを再開したといふ話を書いた。
このショールも何度か作つてゐる。
方眼編みのくり返しで、あやつられてゐるやうにサクサク編めてしまふからだ。
編み始めるとやめられない。
ゆゑに編み上がる確率も高い。
そしてとにかく楽しい。

編んでゐて楽しいのは、手の進むドライヴ感にある。
自分の思ふとほりに、いや、自分の意思を超えたところで、自分の手が高速に動く。
そしてなにかができあがつてゆく。
この感覚には酩酊状態にあるかのやうな中毒性がある。

棒針編みでもさうで、ただひたすらメリヤス編みをしてゐるだけなのに楽しいといふことがある。
タティングレースもさうだ。

さう考へてみると、自分は別にあみものやタティングレースが好きなわけではないのかもしれない、と常々思ふ。

むづかしいもの、手に負へないもの、編み図とくびつぴきにならなければならないものはほとんど作らない。
作るとしたら自分に作れさうなもの、編み図は見なくても編めるやうなものだ。
あんまりかんたん過ぎるとそれはそれで途中で飽きさうな気がするので作らない。
単にメリヤス編みだけのくつ下をあまり編まないのはそのせゐだ。メリヤス編みだけのくつ下もいいものなんだけれどもね。

それではあみものやタティングレースをやめるか。
やめられないのは、これまで買ひためてしまつた毛糸やレース糸のせゐなのではあるまいか。
さう考へることもある。

上記のやうな「ドライヴ感」があるうちはやめられないやうな気がしてゐる。
楽しいんだもんね、さういふときは。
それはそれでいいんぢやないかな。

とりあへず今年は「The Twirly をつなぐプロジェクト」を完成させるつもりでゐるし。
完成はしなくても、結ぶところは全部終はるやうにしたい。

Monday, 11 January 2016

何年か前の編みかけを再開する

Domino Knitting に掲載されてゐる Striped Shawl はあまり進んでゐない。
今年の目標も「睡眠時間優先」で、先週は早く寝るにはどうすればいいかばかり考へて行動してゐたからだらう。
ほんとは編みたいんだけどねえ。
寝る前に編めばいいのかもしれない、とは思ふ。
これまでは、帰宅後食事をして片付けをし、風呂を沸かすあひだに編んでゐた。
そして、湯上がりに冷ましながら MacBook Air に向かふ。
その後寝る。

この順番よりはまづ MacBook Air に向かひ、湯上がりに冷ましながら編んだ方がよく眠れるのではあるまいか。
以前からさう思つてゐたがなかなか実行にうつせずにゐた。
先週、それをやつてみて、うまくいかなかつた。
一度失敗したくらゐでやめるのもどうかとは思ふが、翌日は働きにいくことを考へるとあまり冒険もできない。

この休みも、土曜日に国立劇場に行つた後飲み会に参加した以外はぼんやりと過ごしてしまつた。
ぼんやりしつつも、片付けはちよこつとだけした。
「サンクコスト」といふことばを知つてから、しばらく編んでゐないものはもう編まないと判断して即ほどけるやうになつた。
しかし、これはほどかず、再開してしまつた。

Shawlette

エストニアで習ったレース」に掲載されてゐるショールである。
これ、ねえ。ものすごく中毒性が高い編み方なんだよねえ。
サクサク編めるからどんどん編んでしまふ。
そしてあつといふ間に毛糸がなくなつてしまふ。

Shawlette

Regia のくつ下毛糸を使つてゐる。二玉ぢや足りないんだよなあ。整形したら大きくなるかなあ。

去年はかぎ針編みはしてゐないので、おそらく一年半ぶりくらゐだ。
ずつとかぎ針で編みたいと思ひつつ、できずに来たせゐもあるのかもしれないが、とにかく編んでしまふ。
この編み方は、縁編みのスカラップが編み進みながらできていくのがいい。
スカラップ模様ができるのは三角形の長辺だけなので、短い二辺にはちよつと縁編みをする。でも短い辺には縁編みをつけなくてもいいかな、とも思ふ。

まあでもやはりこのショールがいいのは編んでて楽しいところだな。
この編み方を楽しいと思ふかどうかは人によつて違ふのだらうけれど。

くつ下毛糸で編んでゐるから洗濯機で洗へるし、早く編んで早く仕上げたいな。
Striped Shawl は、気長に編まうと思ふ。

Friday, 08 January 2016

establishment に憧れて

世に上流中流下流があるとして、自分は下流に属するんだらうなと思つてゐる。
中流以上に属する人間は「芝居見物をやめたらもつとまともな暮らしが送れるか知らん」などと考へたりしないと思ふからだ。

先日、Twitter で「地方出身だと文化的なものになかなか触れる機会がない。その結果、上京して生活をはじめても、文化的なものに触れやうといふ意識がわきづらい」といふやうなつぶやきを見た。
また、朝日新聞で、いはゆる下流老人はTVしか娯楽がない、といふやうな記事を読んだ。

我が家で芝居見物に行くのはやつがれだけだ。
いまはもう行かなくなつてしまつたけれど、演奏会に行くのもやつがれだけだつた。
展覧会もさう。こどものころ、一度だけ家族でピカソ展を見に行つたことがあつたけれど、五月の連休か何かでえらい混んでゐて、それ以降行つたことがない。
誘つても行きたいとは云はれない。

我が家がどれくらゐのレヴェルか。
あるときメトロポリタンオペラの来日公演でパヴァロッティを聞きに行つたとき、客席にドミンゴがゐて、幕間にすぐ隣をすれちがつたことがあつた。普段着のドミンゴは、そりやあステキだつた。
家に帰つて興奮して「すぐそばでドミンゴを見たんだよ!」と語つたら、「誰それ?」と云はれて終はつた。
そんな感じ。

こどものころ、どこかの時点で「これではダメだ」と思つたのだらう。
それでわかりもしないのにNHK FMなどでクラシック番組を聞いてゐた。
楽器を買へもしないのに楽隊に入りもした。学校で所有してゐる楽器を貸してもらへたからだ。

たぶん、Twitter で見かけた「文化的なものに触れる機会のない」人と、三多摩地区に生まれ横浜市のはづれに育つたやつがれとはほぼおなじやうな状況にゐたのだと思ふ。
違ふところがあるとしたら、幼いころに「これではダメだ」と思ふきつかけがあつたか否かだ。
そのきつかけは、緑深いところとはいへ都心に比較的近い土地に暮らしてゐたから得ることができたのだらうか。
否、とはいへない。

自分でもどうして「これではダメだ」と思つたのか、そのきつかけは思ひ出せない。
おそらく本を読むうちに世の establishment な人々は文化的なことにも造詣が深いものだと知つたのだと思ふ。
つまり、やつがれは establishment な人々の仲間入りをするつもりだつたのだ。
当時はもう仲間だと思つてゐたんだらう。

establishment な人々のことを知つたのは本、と書いた。
TVからもさういふ情報は得たやうな気がするけれど、でもそんな番組を見てゐたかなあ。
案外アニメーションなんかで敵のスノッブな感じの登場人物がクラシック音楽を聞いてゐたりしたのだらうか。
それぢやあ「戦国魔神ゴーショーグン」のブンドルか。しかしブンドルはカリカチュアされたキャラクタで、彼を見て「establishment とはかうしたもの」とは思はないよなあ。
まあ、「いさぎよく一括払ひだ!」はいまでも座右の銘(違)ではあるけれど。

あとはまんがかな。少女まんが。
まんがも本か。
少女まんがの影響は絶大だ。
さうか。「これではダメだ」のきつかけは少女まんがか。

きつかけが少女まんがなら、住んでゐる場所は関係ないのぢやあるまいか。
「これではダメだ」と思ひはして、しかし実際に自分であれこれ見聞きできるやうになつたのは働けるやうになつてからだし。
それでもすぐそばで文化的な催しがあるといふのが大きいのだらうか。
たぶん、大きいのだらう。

ところで、いろいろ見聞きするやうになつて、でもやつぱりダメなものはダメなのだつた。
ドミンゴを知らない(松田聖子とデュエットしたこともあるといふのに)やうな家族からは、それ相応の人間しか生まれない。
つくづくさう思ふ。

結局、演奏会へは行かなくなつてしまつた。
平日の夜開催されるものが多いのと、やはり懐具合の関係とで、な。
それに行つたところでどうなるといふものでもない。
むしろ自分が行くよりもほかの人が行つた方がいいのぢやあるまいか。行つて、得るものが多い人が行くのが正しいのでは?
演奏会が楽しくないわけではない。
でも、なんていふか、身にならないんだよな。
なにがどういいのかわからない。
そんな人間に行く値打ちがあるだらうか。

かういふさもしいことを考へる時点で、自分はやはり下流に属する人間なのだ。

次にやめるのは芝居見物だらう。

Thursday, 07 January 2016

スライド手帳はじめました

一月四日からバイブルサイズのスライド手帳を使ひはじめた。

スライド手帳

まだスライドしてはゐないけれど、予定をたてるのが楽しくなりさうな手帳だ。

手帳の類はいくつも使つてきたけれど、つひぞ予定をたてることだけはうまくならない。
そもそも予定をたてやうとしない。
スケジュール帳にはどちらかといふとやつたことの記録ばかりつけてしまふ。

ずつとやつてきてずつとさうだといふことは、それが自分に向いてゐるからだらう。
しかし、やはり予定はたてられるやうになりたい。

以前、yPad half Sについてここに書いたことがある。
あのときは複数の仕事が同時進行することになつてゐて、それには yPad だらうと思つたからだつた。
実際、yPad half S は使つてゐて楽しく、同時進行の仕事がある場合にとても向いてゐる。公私ともに使へる。
見開きでその週の全体が見渡せるといふのがなにしろいい。
さう思つたのだが、いまは使つてゐない。
同時進行の仕事がなくなつたせゐもあるけれど、予定をたててもうまくことが運ばなかつたからだ。
上司からしよつ中直近〆切のどうにもならないやうな仕事がふつてきてゐたからだつた。

今後も同時進行の仕事が増えることがあつたら、また yPad half S は使ふだらうと思ふ。
ほんたうは仕事と個人的な用事とはつねに同時進行だから yPad half S を常用したい。
それには毎日持ち歩く必要がある。
yPad half S は yPadシリーズの中では小さいけれど、かばんに入れるにはちよつと大きいんだよね。

見渡せるといふことでいふと、スライド手帳は見開きで二週間分を見ることができる。
見開き二週間の手帳とおなじぢやないか。
最初はさう思つてゐた。
スライド手帳は、つねに今週と来週の予定を見ることができるやうになつてゐる(まあそこは個人の使ひ方にもよるけれど)。
ここがほかの見開き二週間の手帳とは違ふところだ。
おそらく「今週はこんな感じだから来週はかうしやう」といふやうな感じで予定がたてやすいんぢやないかな、と思つてゐる。
まだスライドさせたことはないので実際どうなるのかわからないけれど。

スライド手帳を使ふにあたり、HIRATAINDER Gも購入した。
HIRATAINDERがあるからスライド手帳を使はうと思つたといつても過言ではない。
去年、飾り枠原稿用紙を買ひに行つたとき、スライド手帳とHIRATAINDERとも売場に並んでゐた。
サンプルを手にとつてみて、HIRATAINDER の平たく開くさまに感じ入つた。
なんでいままでかういふバインダがなかつたんだらう。
思ひおこせば、学校に通つてゐたころは、ルーズリーフを袋に入れたまま持参して、授業で使つたものをバインダに綴じてゐた。
バインダに綴じたまま使ふと、平たく開けないので書き込みづらいからだ。
思へばシステム手帳を使はなくなつたのもそれが原因かもしれない。
そして、ほぼ日手帳やMIGNONの手帳を使ひやすいと思ふのも、平たく開くからなんだらう。

HIRATAINDER の中身はできるだけ増やさないやうにするつもりでゐる。
現在はスライド手帳と物差しとだけをはさんでゐる。
そのうちメモ帳を追加する予定だ。

いまのところ楽しく使つてゐるスライド手帳には、困つたことがひとつだけある。
日付を書き込まうとして uni-ball AIR で書いたら裏抜けしてしまつたことだ。

スライド手帳


ぺんてるのプラマンも同様。
Twitterでゲルインクのボールペンなら大丈夫とうかがつて、手元にある唯一のゲルインクボールペンであるパイロットの HI-TEC C coleto 0.5mm で書いてみたらやはり裏抜けしてしまつた。0.5mmでは太すぎるやうだ。
ゲルインクのボールペンを避けるのは、使つてゐるうちにかすれることがあるからだ。なにが原因なのかよくわからないし、解消方法もその場ですぐに取れるものばかりとは限らない。
uni-ball AIR やプラマンはさうしたかすれとは無縁なので使つてゐる。
さういふわけで、いまのところは油性ボールポンで日付を入れてゐる。
なぜ最初から油性ボールペンで日付を入れなかつたのかといふと、予定などは油性ボールペンで書くことを考へてゐたからだ。日付と予定とがおなじ筆記用具で書かれてゐると、日付が埋もれてしまふ。
我が家にはプリンタがないから印刷もできないしねえ。
使ひつづけるやうだつたら日付入りを買ふことも考へてゐる。
万年筆で書いても裏抜けするやうだ。

スライド手帳

しかしプラチナ万年筆のブルーブラックでは裏抜けはしなかつた。
中屋万年筆の細軟と中軟で書いてみたところ、大丈夫だつた。
筆圧が低いからといふこともあるとは思ふがね。

Notebookersに書いたやうに、今年はほかに三冊日付の入つた手帳を使つてゐる。
スケジュール帳にMIGNON、易日記用にほぼ日手帳、行動記録用に集文館の新三年活用日記の三冊だ。

すでにスケジュール帳としてMIGNONの手帳を使つてゐるのに、スライド手帳が必要なのか。
おそらく、MIGNONはこれまでの手帳同様、記録を残していく手帳になると思ふ。
スライド手帳は予定を書き込みそれを見る手帳として使つていきたいと思つてゐる。

Wednesday, 06 January 2016

飯田市川本喜八郎人形美術館 死者の書 ほか 2016

飯田市川本喜八郎人形美術館では十二月五日に展示替へを行つた。
今回はその新展示のうち人形アニメーションの展示について書く。

今回の人形アニメーションの展示は「死者の書」だ。
展示室の入口に近い方から大津皇子、身狭乳母のケースがあり、身狭乳母の後ろに持統天皇のケース、その向かつて右側に大きなケースがあつてそこに當麻寺の媼と郎女、展示室最奥のケースに恵美押勝と大伴家持とが采女ふたりとともにゐる。

大津皇子はいつものやうに座してゐて、背後には「七歩詩」が掲示されてゐる。
いつも書いてゐることで恐縮ながら、「七歩詩」つて絶対曹植の作つた詩ぢやないよね。
もし曹植の作つた詩だとしたら、曹植は曹丕もまた苦しんでゐて、先に逝くのは曹丕だとわかつてゐたことになる。まあ実際さうなわけだけれども。
なぜなら、豆殻だつて燃えてゐるからだ。
豆の煮える前に豆殻の方が燃え尽きるのぢやあるまいか。
「なんぞ太だ急なる」つて、ぢつくりじりじり燃えろといふのかね。それもひどい話だ。
それはともかく、大津皇子のやうすは凛々しい。映画ではギリシャ神話の神と紛ふやうな姿で出てきたりもして、それもまた似合ふ。
そんな顔立ちでもある。

今回、といふか、今回も、といふか、身狭乳母がいい。
鳴弦をしてゐるところで、全身が弓であるかのやうな立ち姿だ。
背を大きく反らせてきりりとした表情をしてをり、実にきつぱりとしてゐる。
やうすがいいわー。
見蕩れるわー。
風になびいてゐるのか衣装が背後に流れてゐるのも動きがあつていい。
大津皇子とはまた違つた凛々しさが身狭乳母にはある。

身狭乳母の背後のケースには持統天皇が立つてゐる。
これまで見てきた中では、顔を仰向けて天をきつと睨みつけてゐるかのやうな表情が印象的だつた。
今回はそれほど上を見てゐるといふやうすはないし、そのせゐか睨んでゐるといふ感じもしない。
顔が上向いてゐると、照明の光があたりやすくなるせゐか目がきらりと輝いて見える角度がある。
それで睨んでゐるやうに見えてゐたのではないかな。
そんなだから持統天皇にはいつも「炎の人」といふ印象を抱いてゐた。
衣装も背景も真つ赤だしね。
でも今回はちよつと違ふなあ。
もうちよつとおとなしい感じがした。
これまで見るたびに「この角度から見ると坂東玉三郎によく似てゐる」といふ角度があつたのだけれども、今回はそれもない。
ちよつとしたことで変はるんだなあ。

郎女と語り部の媼とは、機織りのケースにゐる。
これまで見たことがあるのは、郎女が機織りをしてゐて、媼は織り機の向こふで郎女になにごとか話しかけてゐる、といふやうすだつた。
今回は媼の位置がかなり違ふ。
映画で見たときのやうなふしぎな老婆といつた趣だ。
これまでのやうに郎女と直接向き合つてゐるわけではないのに、郎女との関はりあひを感じるからさうなるのかもしれない。
でもさう感じられるのつて、映画を見たからかなあ、とも思ふ。
映画を見てなくてもさう思ふかな。

郎女は機を前にして座つてゐる。
いつも機の方にばかり注目してしまふのがやつがれの欠点である。
だつて、ほんたうに織つてあるんだもの。
作中では蓮の糸を織つたことになつてゐるけれど、実際は絹糸かレーヨンの糸を織つたものだらう。
撮影前の準備でかなり織つたらうし、撮影中も織つただらう。
郎女が、と云ひたいところだが、ここはやはり人間が、だな。
こんな小さい織り機を作つて、こんな細い糸で織るだなんて。
だれが織つたのかなあ。何人かで織つたのか知らん。
毎回気になるのは高機だといふことだ。
これは折口信夫も「高機」と書いてゐるからそのとほりなのだけれども、なんとなく古い日本の織り機は地機といふ思ひ込みがあるので違和感を覚えるのだらう。
中国では高機が一般的だつたのかなあ。
といふのは、おそらくこの織り機は唐渡りのものだらうからだ。
「死者の書」の展示のときはこの織り機がとても楽しみである。
でも郎女は写経中の姿も好きなので、そちらも見てみたいなあと思ふのだつた。
飯田の展示では織つてゐる最中の郎女、といふことに決まつてゐるのかな。
織り機のそばにはかせくり機とおぼしき道具もあり、かせになつた蓮の糸をいくつも載せた棚もある。
右側には寝所が設けられてゐる。ここを使つてゐる郎女なんかも見てみたいなあ。

展示室の一番奥のケースは恵美押勝邸の一場面を展示してゐる。
向かつて右側に恵美押勝と采女1、左側に大伴家持と采女2とが座つてゐる。押勝と家持との前には酒と肴が用意されてゐる。
押勝はやや前屈みで、家持の方に目の玉を寄せてゐて、意味ありげな表情を浮かべてゐるやうに見える。すでにきこしめしてゐるのか、あるいは酔つてゐるやうに見せかけてゐるのか。
一方の家持は背筋をのばして座つてゐる。表情もおとなしやかな感じだ。
采女たちもそれぞれ対照的である。
采女1は押勝の話に「おほほ」と笑つてゐるやうに見えるし、采女2は聞き入つてゐるやうに見える。
この展示で話題になるのが玻璃の器だ。
押勝も家持も玻璃の酒器を手にしてゐる。采女たちも玻璃のとつくりのやうなものを持つてゐる。
この時代にガラス製品があつたのか、といふと、どうやらこれも唐渡りであつたのらしい。
屏風なのか衝立なのか、ちよつとわからないけれどこれの柄が天平柄といはうか如何にも「奈良」と思つたときに思ひ浮かべるやうな柄である。
また、雨戸なのかなあ、戸のやうすがおもしろい。当時はこんなだつたのかな、と見るたびに思ふ。

ホワイエにはブーフーウー、ほろにがくん、ヤンヤンムウくん三態、サンワガールと大きなかぶに加へて、「世間胸算用近頃腹之裏表」の嫁と姑、「風の子ケーン」のケーン親子が展示されてゐる。

「風の子ケーン」は番組を見た記憶がない。
でもケーンと父シュマロ、母ローランはいつ見てもいい。
川本喜八郎のシルクロードものへの執着の一環だと思ふからかもしれない。
以前も書いたやうにシュマロはどこか馬騰と似てゐる。馬騰はここから生まれたんだらうな。
ローランはいつ見ても美人だ。展示室の中にはちよつとかういふ美人はゐない。
それを云ふならケーンもさうで、おなじ少年である弘農王や陳留王とはまつたく趣が違ふ。

「世間胸算用近頃腹之裏表」は、映像も見ることができた。
展示で見ると嫁の方は見るからにラテンだ。1970年代の流行だつたのかな。真つ赤なブラウスにはぎあはせの青のロングフレアスカートで、このままフラメンコを踊り出してもまつたく違和感がない。
姑はといふと、「おばあさん」といつたときに思ひ浮かべる典型的なおばあさん像だと思ふ。白髪をおだんごにした頭に割烹着姿だ。
これが呂大夫の語りに乗ると、また違つた風に見えてくるんだよなあ。
姑の語りには「伽羅先代萩」の八汐のセリフがそのまま出てくるし、実際八汐・岩藤なんぞといふおそろしげな女の人の名前も出てくる。さうなると、ほんたうに怖くて強い女の人に見えてくるからふしぎだ。
嫁の方も見るからに当世風でラテンなのに、呂大夫の語りにかかるととたんにしほらしい嫁のやうにふるまつたかと思ふと、一転「恨み晴らさでおくべきや」と恨みにこりかたまつたおそろしさを見せる。
映像を見たあとあらためて展示を見ると、やつぱりラテンな嫁に典型的なおばあさんの姑なんだよなあ。
展示と映像と両方見ることができて実に幸運であつた。

紳々竜々と黄巾の乱はこちら
「宮中の抗争」についてはこちら
「連環の計」についてはこちら
「玄徳の周辺」その一はこちら
「玄徳の周辺」その二はこちら
「曹操の王国」その一はこちら
「曹操の王国」その二はこちら
「江東の群像」はこちら
「特異なキャラクター」はこちら

Tuesday, 05 January 2016

ゴールは明確に

今年のタティングレースの目標は、The Twirly をつなぐプロジェクトを完成させることだ。
年末にも書いたとほりだ。
ちなみに The Twirly とは Jon Yusoff のデザインした六角形のモチーフで風車のやうな形をしてゐる。
このモチーフをたくさんつないでちよつと壊れた大きな六角形を作るのが The Twilry をつなぐプロジェクトだ。

去年は「完成させる」とは書けなかつた。
まだまだたくさんつながなければならないし、正直を云ふと、いくつつなげばいいか数へてゐなかつたからだ。
つまりゴールが不明確だつたといふことだ。

去年、つないでいく過程で最終的に何枚つなぐ必要があるのか確認したところ、思つたほど多くなかつた。
なんとなく完成できさう。
そんな気がした。

では新年から作つてゐたかといふとさにあらず。
休みのあひだは Striped Shawl を編んでゐた。
できれば暖かくなる前に仕上げたいからなー。この冬の暖かさでは出番はないかもしれないけれど。それとも、このあと寒くなるのかな。

いづれにしても、タティングレースに関しては今年は明確なゴールが設定できた。
このプロジェクトが完成したあかつきには、いかにもレースものつぽいドイリーなどを作つてみたいと思つてゐる。
そこまで年内にたどりつけるといいなあ。

Monday, 04 January 2016

すべて職場のせゐ

この休みは、のんびり Striped Shawl を編んでゐた。Domino Knitting に掲載されてゐるショールである。
年の明ける前に2列目を編み終はつて、現在3列目を編んでゐる。

睡眠が足りてゐると、編んでゐても楽しい。
本を読んでゐても楽しい。
寝不足のときといふのはなぜあんなになにもかもつまらないのか。
ちやんと寝やう、と、まとまつた休みのたびに思ふ。
できた試しはないけどね。

休みの日はちやんと寝るやうにしやうといふのは、一昨年の正月休みにはじめたことだ。
正確には一昨々年の12月末からか。
夜はどんなに遅くとも12時台には寝て、朝は出勤する日とほぼおなじ時間に起きる。
足りない分は昼寝で補ふ。
この休みのうち昼寝をしたのは一回だけだけどね。
最初のうちは6時半に起きやうとして目覚まし時計のアラームを鳴らしてゐた。
どうもこれがストレスの元のやうな気がして、目が覚めるまで寝ることにした。
早寝(当社比)をしてゐるのだから、朝もそれなりの時間に目覚めるはずだと思つたからだ。
やつてみると、7時すこし過ぎ、7時5分前後に目が覚める。
出勤するにはそれではちよつと遅いんだけど、まあ、自然に目が覚めるんだからいいか。
さう思ふことにした。

休みのあひだは、出かける予定のない日は外を歩くやうにしてゐた。
ちやんと起きてちやんと歩いて、食べる方はまあ飲みながらなのでいい加減だけれど、それなりにちやんと暮らしてゐる。
なにしろ寝るのが遅くなるからといふ理由で紅白歌合戦も見ないくらゐだ。

長いこと、自分はいい加減な暮らししか送れないのだと思つてゐた。
朝もはふつておけばいつまでも寝てゐるし、宵つ張りだ。
外に出るのは大の嫌ひ。

宵つ張りの朝寝坊はこどものころからだ。
このままぢや幼稚園にあがれないよ、と云はれてゐた。
夜眠れず、そつと親のやうすを窺ふとぐつすり寝てゐるやうだつた、といふこともあつた。

きちんと朝起きて寄る眠れてゐるのは、学校や職場に通つてゐるからだ。
さう信じてゐた。

どうやらそれは逆なのらしい。
学校や職場に通つてゐるからきちんと起きられないしきちんと眠れない。
とくに職場だ。
帰宅後、あれやこれやをしてゐるとあつといふ間に日付が変はつてしまふ。
どうにかしてその前にせめて布団に入らうとするのだが、それができない。
まとまつた休みの日ならできるのに。

などと嘆いてゐても仕方がない。
今年の目標も「睡眠時間優先」だ。
ゆゑに今年もあまり編めないだらうと思つてゐる。

Friday, 01 January 2016

飯田市川本喜八郎人形美術館 特異なキャラクター 2015

飯田市川本喜八郎人形美術館では十二月五日に展示替へを行つた。
今回はその新展示のうち、「特異なキャラクター」を書く。

展示室の一番奥向かつて左手のケースが「特異なキャラクター」のケースだ。
左から于吉仙人、左慈、曹豹、華陀、紫虚上人、督郵、張松の順に並んでゐる。

「特異なキャラクター」といふのもちよつと妙な題名ではある。
「特異」を辞書で引いたら「普通と特にことなつてゐること(さま)」と書いてあつた。
それを云つたら玄徳なんかまさに「特異なキャラクター」なのではあるまいか。
だつて耳たぶが見えるくらゐ大きくて両腕が膝にとどくくらゐ長かつたわけでせう。
呂布な異様な強さや赤兎馬の異様な速さなども特異だ。
ここでいふ「特異」は、これといつた類に属していない、といふ意味なのだらう。

「特異」といふ性質で集まつた人々なので、互ひにどうかうといふことはない。
ほかのケースのやうに隣同士で話をしてゐるといふこともないし、周囲の人との関はりあひもまつたくない。
その人物らしいやうすで展示されてゐるともいへる。

于吉仙人は、人形劇のときは杖を持つてゐなかつたんぢやないかなあ。
さうは思ふが、飯田で会ふときは大抵手にしてゐる。
ケースの左前方にゐる。
以前も書いたやうに、于吉上人の襟の柄と程昱の前掛け(といふのか)の柄がおなじだ。今回は照明の加減で地の色が違ふやうに見えたけれど、おそらくおなじものだと思ふ。
よくある柄なので、違ふ生地から取つた可能性もある。
衣装といへば、于吉仙人の衣装はいい感じにやれてゐる。これは紫虚上人さうだな。
出番は少なかつたのに、ぱりつとして見えない人形の一人である。

于吉仙人の右後方高いところに左慈がゐる。
左慈は今回目が光るやうになつてゐる。美術館の方にお願ひすると光らせてくれる。
左慈は、于吉仙人や紫虚上人と違つて着るものはきちんとしてゐる。すくなくともほつれてゐるところは見受けられない。
于吉仙人と紫虚上人、それと左慈との違ひといふのはなんだらう。
天下を狙はうとしてゐるか否か、か。立身出世を求めてゐるか否かといはうか。
天下を手中にしやうとしてゐる人は身なりも気にしないといけないのかもしれないなあ。

曹豹は左慈の右前方に座り込んでゐる。
おそらく、曹豹のカシラはもうこの青あざをこしらへたものしかないのに違ひない。
撮影順がうまくできてゐて、張飛に殴られた後の分が最後に撮られたものなのだらう。
それで元々の普通の顔の上に青あざをあらはす藍がほどこされたのに違ひない。
前回曹豹を見たときは、なんだか可愛いな、と思つた。
張飛にさんざんな目に合はされて床にへたり込み、「もう勘弁」といふやうなやうすだつた。それは今回もさうなのかな、と思ひつつ、今回は「もう勘弁」といふやうすがないんだな、多分。
今回の曹豹はすでに張飛の去つたあと、「この恨み晴らさでおくべきや」と思つてゐるところなのかもしれない。
それで可愛いやうすに見えないんだらう。

華陀はこの面々の中にゐるとなんだか浮く。
見たところ普通の人だからだ。
しかも、なんだかとても人のよささうな福々しいお爺さんだし。
お医者さんは痩せた人よりちよつとふつくらした人の方がいいといふ話がある。
その方が患者が安心するからださうな。
この華陀を見たら大抵の患者は安心するだらう。
浮く、と書いておいてなんだが、華陀を見るとなんとなくほつとするのも確かだ。
特異といへば華陀は医師としては特異だらうけれどもさ。
なにしろお屠蘇の元の屠蘇散を考へ出したのは華陀だといふ話もあるくらゐだし。

紫虚上人は今回も立つてゐる。
前回の展示でも立つてゐて思はず「紫虚上人が立つてゐる!」と驚いた。
人形劇に出てゐた紫虚上人はずつと座つたままだし、これまでやつがれが飯田で見たかぎりでは展示のときも座つたままだつたからだ。
立てるんだー。
紫虚上人も于吉仙人とおなじく衣装がところどころほつれてゐたり穴があいてゐたりして、身なりにかまはぬ達観した人といふ感じがする。
自分の中では「特異なキャラクター」といふと、この紫虚上人、左慈、于吉仙人、管輅だ。
特異といふよりは仙人じみてゐるといふか(于吉は仙人なのだらうけど)、超自然的な力を遣ふといふか、そんな感じだ。
考へてみたら華陀の医術も超自然的な力のやうなものだつたのかなあ。理にはかなつてゐるんだらうけれど、全然わからない人から見たら魔術にしか見えなかつただらうといふ気はする。

督郵も曹豹よろしく床に座りこんでゐる。
こちらは顔は上を向いてゐて、なにか文句を云つてゐるかのやうだ。
まだ文句を云ふ余裕があるといふことか。
督郵には「いいものを着てゐる」といふ印象がある。
番組開始後かなり早い時期に出てきて、しかも一緒に出てゐたのが玄徳・関羽・張飛だからかもしれない。
登場場面が少なくて飯田で展示される機会も限られてゐるから、それでいいものに見えるといふ話もある。
実際督郵の衣装は明るい色合ひで、袖に宝尽くしによく似た柄があしらはれてゐるのでなんとなくいいのに見えるのかもしれない。
もう一度、督郵の口の動くのを実際に見てみたいなあ。

張松はケースの右端の高い位置に立つてゐる。
両腕を広げて、なにか話してゐるかのやうだ。
人形劇でいふと曹操の前で「孟徳新書」を延々と暗唱してゐるところか。
あるいは玄徳の前で蜀をとるべきと主張してゐるところか。
ちよつとえらさうにも見えるから、曹操の前で持論を展開してゐるところかもしれない。
前回はさう感じなかつたが、今回の張松はとても張松らしい感じがする。
自分の中の張松のイメージはかうなんだな、といふことがよくわかる。

以下、もうちよつとだけつづく。

紳々竜々と黄巾の乱はこちら
「宮中の抗争」についてはこちら
「連環の計」についてはこちら
「玄徳の周辺」その一はこちら
「玄徳の周辺」その二はこちら
「曹操の王国」その一はこちら
「曹操の王国」その二はこちら
「江東の群像」はこちら

2015年12月の読書メーター

2015年12月の読書メーター
読んだ本の数:6冊
読んだページ数:1877ページ
ナイス数:10ナイス

審判 (岩波文庫)審判 (岩波文庫)感想
_Lost in a Good Book_ に出てきてなつかしかつたので読んでみた。サーズデイ・ネクストで読んだあとだと喜劇にしか読めない。失敗したかもしれないが、おもしろかつたのでよしとしたい。
読了日:12月3日 著者:カフカ
日本酒の科学 水・米・麹の伝統の技 (ブルーバックス)日本酒の科学 水・米・麹の伝統の技 (ブルーバックス)感想
お酒のことがわからないからといふので手にしてみた。飲んでおいしければそれでいいよな、と思ひつつ、おもしろかつたからいいか。お酒のことがわかるやうになつたか、と云はれると「うん」とは云へないけれど。読んでゐて時折接続詞の使ひ方に違和感を覚えるんだけど、今時はかういふものなのかも知れない。ほかにウィスキー、ビール、ワインに関する本もそれぞれあるとのこと。さすがだ、ブルーバックス。読んでみたいぞ。
読了日:12月8日 著者:和田美代子
文章添削の教科書文章添削の教科書感想
仕事で文書の誤字・脱字チェックをしてゐた時期が長かつた。誤字・脱字のチェックのはずなのに、添削めいたことまで求められて当時は途方にくれてゐた。それを思ひ出しつつ読んだ。直接会話文のときの閉じかぎかつこのあとの一字下げなど学校で習つたこととは違ふ内容もあるが、要は揃ひ感なのかな、と思ふ。別段文学作品だとか藝術作品を書くことはないと思ふので、この本に書かれてゐることは有用だと思つてゐる。
読了日:12月10日 著者:渡辺知明
The Well Of Lost Plots: Thursday Next Book 3The Well Of Lost Plots: Thursday Next Book 3感想
現実世界から物語の世界に逃れてきたサーズデイ・ネクストが、やはり物語の世界でもいろんなことに巻き込まれる。巻き込まれ過ぎ。エイオーニスに記憶をだんだん奪はれていくさまやミス・ハヴィシャムとの別れは切ない。この巻でNursery Crimeシリーズの第一作 The Big Over Easy のネタが作られてゐて、読んでゐてニヤリとしてしまふ。切なくておもしろい。総じて「おもしろいことおもしろいこと」なのがサーズデイ・ネクスト・シリーズのよさである。
読了日:12月22日 著者:JasperFforde
データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則感想
たばこを吸ふ人の方が仕事ができるといはれる訳がわかつた。さういふことだつたのか。疑問なのは、世の中には熱い人と冷えた人とがゐて、冷えた人が熱い人とおなじやうに行動したらそれでその日の活動予算を消費しきつてしまひ、仕事その他には使へなくなるんぢやないのか、といふこと。それとも冷えた人は使ふ帯域が熱い人とは違ふから、それはそれでなんとかなるのだらうか。はたまた、おなじやうに行動するうちにだんだん熱い人に変はつていくのだらうか。introvertだつたり引つ込み思案だつたりする人間にはつらい内容である。
読了日:12月25日 著者:矢野和男
易の話 (講談社学術文庫)易の話 (講談社学術文庫)感想
「易経」を読む前にと思ひ再読。実際に筮竹を使つてみたいなあと思ふが、部屋の準備からしてめんどくささうなのですることはないだらう。
読了日:12月29日 著者:金谷治

読書メーター

« December 2015 | Main | February 2016 »