云ひ訳のネタは尽きない
タティングレースのモチーフ作りは、お寒い状況である。
写真を撮つてみてそれが知れた。
現在のところ、この三つしかできてゐない。
できてゐない、といつて、この三つだつて糸始末はしてゐない。
年賀はがきにのりではりつけるから、糸端が見えなければそれでいいだらうと思つてゐる。
うつくしくない。
細部がないからだ。
しかし思ふのだ。
美は細部にやどる、といふのは、おほもとになるものが確固としてあることが前提なのだらう、と。
この場合、おほもとになるモチーフ自体がグダグダなのだから、いくら細部に凝つたところでどうにもなりはしない。
以前も書いた。
薬師寺の三重塔の屋根の上についてゐる水煙は、それはそれはすばらしい細工がほどこされてゐるのだといふ。
三重塔の天辺についてゐるのだから、普通は人の目には見えない。
そこに凝りに凝つた細工ものがある。
これをもつて「美は細部に宿る」といふのだが、それは三重塔がまづしつかりと建つてゐてうつくしいからだ。
三重塔が見るも無惨な建築物だつたとしやう。
その天辺にいまの水煙がついてゐたとして、人は「美は細部に宿る」と云ふだらうか。
云はないね。
まづ云はない。
細部にこだはるのは、基本となるもの、おほもとになるものがきちんとできてからだ。
それもできずに細部にこだはつてどうするよ。
そんなところに美なんて宿るはずがない。
糸端を始末しない云ひ訳はこれくらゐにしておくか。
ところで、「世界の車窓から」を見てゐたらトルコの人はくつ下を編んでも糸端の始末はしないのだと云つてゐた。
履いてゐるうちにフェルト化して気にならなくなるから、といふのである。
一理ある。
この放送を見て以来、くつ下の糸端を始末しないこともある。
大抵はするけどね。気持ちの問題だからね。
モチーフ作成がお寒い状況だといふことは、来年の年賀状も出せないかな。
この後、新幹線や高速バスに乗る機会があるから、車中で量産するか。
車中は車中で車窓の景色に目を奪はれてなにもできなかつたりするんだけどね。
そして、「車内で量産しやう」といふ目論見も「取らぬ狸のなんとやら」になつてしまふのが例年の行事ではある。
さうかうするうち大掃除は二の次になつてしまふのもいつものことだ。
これもまた云ひ訳だな。
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