川本喜八郎人形ギャラリー 父子三態
11/14(土)、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーで新たな展示内容が公開された。
今日は「父子三態」のケースについて書く。
「父子三態」のケースはギャラリーの入り口を入つて右手にある。
左から駄五六、通盛、小宰相、知章、知盛、直実、直家、経盛、敦盛の順に並んでゐる。
「父子三態」といひながら、駄五六、通盛、小宰相のところには父もゐなければ子もゐない。
小宰相はおなかにこどもがゐる態なので、通盛は父といへないこともない。
でもまあ、ここは夫婦の別れだらう。
駄五六は、後方わづかに高いところにゐて、通盛と小宰相とを見てゐるといつたやうすで立つてゐる。
身につけてゐるものは身分の低い兵の装ひとでもいはうか。
説明によると、駄五六は小宰相のお供をしてゐたとある。出陣した通盛の後を追つて一ノ谷までやつてきた小宰相についてきたのださうな。
しかし駄五六は実際の戦に恐れをなして逃げ出す。その先で義経一行につかまり、道案内をすることになる、と書いてある。
戦のさまを目の当たりにして逃げてしまふつて、わかるよなあ。戦ひたくないし、死にたくない。
通盛と小宰相とを見てゐながら、駄五六の衣装を見ると、もうすでに戦場近くにゐるこしらへな気がする。
さうだとすると、ひとり逃げゆく身を謝してゐるのかもしれない。
それとも「こんなところは真つ平御免だ」とでも思つてゐるのかな。
通盛は旅支度といつた出で立ちで、向かつて右側にゐる小宰相を見つめてゐる。
小宰相も外出着だ。手には杖を持つてゐて、その手を通盛が取らうとしてゐるやうな感じに見える。
通盛の表情が冴えないなあと思ふのは、こちらがさう思つて見てゐるからかな。
未練がある。
そんな風に見える。
未練のない人間なんてゐないだらうし、とくにこれから戦場へ向かふ身として愛しい相手と別れるといふのだから、そりや未練のないわけがない。
今回の展示では覚悟を決めた表情の人が多いので、未練を残して行かうとする通盛はよけいに冴えなく見えるのだらう。
小宰相は、そんな通盛に寄り添はんとして立つてゐる。
なんとなくきれいな役を演じるときの中村福助に似てゐる気がする。
飯田市川本喜八郎人形美術館にゐる葵も福助似だなあと思ふのだが、こちらは才気煥発系のちよつときつめの役のときの福助だ。
単にやつがれが福助が好き、といふだけのことだらう。
上にも書いたとほり、着付けの工夫かおなかにこどもがゐるかのやうに見える。
この場の通盛と小宰相とは、このあと一旦は別れるのだらう。
説明によると、小宰相は妊娠してゐることを告げたくて通盛のあとを追つたといふ。たどりついてみたら通盛はすでにあの世に行つてしまつてゐて、小宰相もまた後を追ふのださうな。
この説明からいくと、ここにゐる通盛と小宰相とはそれと知らず最後の別れを惜しんでゐるところだらう。
それでゐて、小宰相の方が表情に覚悟の色が見える気がする。
でもその覚悟は「もう二度と会へない」ではなくて、「きつとまた巡り会ふ」といふ覚悟なのかもしれないなあ。
小宰相の右側ややはなれたところに平知章が立つてゐる。
左腕は通せんぼをするかのやうに、あるいは背後にゐる父・知盛をかばふかのやうに掲げられてゐる。
知章は表情がよくて、なあ。
まつすぐきつぱりと正面を向いてゐて、「ここは自分に任せて父上は早う先へお行きくだされ」とでも云つてゐるかのやうに見える。
決して後へは引かぬ。
そんな決意のみなぎる表情だ。
お前こそ逃げろ。
さう思つて見てゐるが、しかし知章はその場に残るんだらうなあ。
立派で健気で、見てゐてつらいよ。
その知章の右後方に馬上の平知盛がゐる。
視線の先には知章がゐる。
こどもを残して立ち去る心は如何ばかりだらう。
それもまだ17歳の息子だ。
立ち去るに立ち去れず、でも逃げて行つたのに違ひない。
知盛は「平家物語」ではひとかどの武将として描かれてゐる。宗盛にかはつて指揮を取つてゐたやうにも見受けられる。
実際の知盛には、これといつた武功・武勲はないのらしい。
ないから後の世の人はいろいろでっちあげやすかったのかもしれない。
知盛は、我が子の分も生き延びやうとは思はなかつたんだなあ。
「見るべきほどのことは見つ」といふのは、もうこれ以上なにも見たくないといふ意味だつたのかも、と思つてしまふやうな今回の知盛・知章父子である。
知盛の右側前方に、熊谷直実・直家父子がゐる。
どちらも烏帽子に鎧姿である。
直実は膝をついて、負傷した我が子を抱き寄せ「しつかりしろ」と云つてゐるやうな風情だ。
直家は頭と腕とに血のにぢんだ包帯を巻いてゐて、かなりの重傷に見える。ぐつたりとしてゐて、目もうつろだ。
陣中なのかな。
先陣争ひの結果傷を負つた直家を直実が抱き抱へてゐる図といつたところか。
直実は、先日の伊勢三郎ではないけれども、野性味あふれる顔立ちで、普段は頑固一徹な親父なんだらうなあといふ感じがする。
そんな直実が心配さうにしてゐる、といふのがおもしろい。
おもしろい、とか云つたら不謹慎かな。この直実は父の表情を浮かべてゐると思ふ。
お浄瑠璃の「一谷嫩軍記」だと、直実の子は敦盛の身代はりになつて死んでしまふ。
実際は、直家は生き延びて、出家した直実の跡を継いでゐる。
直実も跡取りもないのに出家はできないよな。
熊谷父子の右後方に、平経盛が座つてゐる。
手には青葉の笛を持つてゐて、敦盛のものだらう、袖も半ば広げられてゐる。
熊谷直実は平敦盛を討つた後、笛と袖とを経盛に送つたのだといふ。
それを手にしてゐる図だらう。
右膝の傍らに広げられた風呂敷の扇の刺繍もすばらしい。
経盛は、以前見たときもダンディで、今回もダンディだ。
心持ちうつむいた顔は悲しげではあるものの、我が子が死んだことを知らされた親といふことを考へると無表情に見える。
まだ実感がわかないのか。
あるいは、もともとかうなることを予期してゐたのか。
悲しみはこの後襲つてくるのかもしれない。
経盛の右前方に、鎧姿で笛を吹く平敦盛がゐる。
おそらく、経盛の記憶の中の敦盛か、直実からの書状を見ながら敦盛はかうもあつたらうといふ経盛の想像の中にゐる敦盛なのではあるまいか。
戦を前に笛を吹いて心を慰めてゐるのだらうか。
はたまた在りし日の都での楽しかつた日々を思ひ出してゐるのか。
照明の加減で影ができてゐるせゐか、この世のものではないやうに見受けられもする。
知章にしても敦盛にしても、けなげで潔い。
若いからかなあ。
もうちよつと生きることに執着してもいいのに。
さう思ふのは見る側の勝手かな。
以下、もう少しだけつづく。
「落日粟津ケ原」についてはこちら。
「鎌倉非情」についてはこちら。
「一ノ谷」その一はこちら。
「一ノ谷」その二はこちら。
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