飯田市川本喜八郎人形美術館 2015/6〜11の展示のこと
飯田市川本喜八郎人形美術館は現在展示替へ中だ。
12/5(土)から新たな展示が見られるとのことである。
といふわけで、いまのうちに先月までの展示について過去のエントリで書かなかつたことを書いておきたい。
今年の6月から11月にかけての飯田市川本喜八郎人形美術館の展示のうち、「人形劇三国志」に関する展示は、いまはの際の孔明が来し方を思ひ出してゐる図、だつたのださうである。
このことについては、美術館の方がTwitterでも呟いてゐたので目新しい情報ではない。申し訳ない。
この時の展示では、展示室に入るとまづ孔明が立つてこちらを見てゐた。
「出師の表」の回以降の白い衣装を身にまとつてゐた。
川本喜八郎は最初孔明に白い衣装を着せやうと思つてゐたが、立間祥介から「白は中国では喪の色です」と云はれて断念した、と、これもあちこちに書かれてゐることではある。
それで出蘆後の孔明の衣装は黒になつたといふ。ほかの登場人物の衣装が色とりどりだつたので黒が目立つから、といふのが理由だつたらしい。
そんなわけで初登場のころの仲達は反対に白つぽい衣装で、孔明が白い衣装になつた後は黒つぽい衣装になつてゐるのだとか。
何度か書いたやうに、白い衣装の孔明にはあまりいい印象がない。
「死ぬつもりなんでせう」と思つて見てしまふからだ。
北伐して成功するつもりでゐるやうには見えないんだよね、人形劇では。
「人形劇三国志」自体も、玄徳が死んだところで終はつてゐればよかつたのに、と思つてゐる。
さうなんだけれども、この展示のときの孔明はよかつたなあ。
風をはらんだやうすでさ。
川本喜八郎の人形アニメーションといふと、風の印象が強い、とは、これまた以前も書いてゐる。
無風状態でないと撮れない映像なのに、作品の中にはちやんと風が流れてゐる。
「道成寺」や「火宅」、「死者の書」で印象的な荒れ狂ふやうな風だけでなく、そよそよとやさしい風もきちんと吹いてゐる。
人形劇を撮つた人が川本アニメーション作品をどれくらゐ意識してゐたのかわからないが、「人形劇三国志」でもふはりと風の吹いてゐる場面がよく出てくる。
関羽の髯や頭巾の端が風に揺れてゐたりするんだよ、見てゐると。
人形劇のときは扇風機などで実際に風を起こしてゐたんだらう。
人形アニメーションは髪や衣装に細いワイヤを通して動かしてゐるのだといふ。
6月から11月の展示の孔明の衣装の裾にも、似たやうな仕掛けがほどこされてゐたのだと、これは訊ねてみて知つた。
フラワー芯を仕込んだのださうだ。
フラワー芯といふのは、造花に使ふ手芸材料だ。
造花を作るのに用ゐるので、緑色のものが多いのださうだ。
それを孔明の衣装に合はせて白く塗つて仕込んだのだといふ。
なにか仕込んではあるのだらうと思つても、まさかそんなものが仕込んであるとはなあ。
展示が終はつたらフラワー芯を抜くんだらう。
もしかしたら昨日一昨日あたりで抜かれてたりしたのか知らん。
それとも二年半後の展示でこのフラワー芯がまた生かされたりするのか知らん。
そんなことも気になる。
ワイヤーで動かす、といふ話から人形アニメーションの話もうかがつた。
「冬の日」の芭蕉には、通常よりも多くのヒューズが使はれてゐて、より稼働するやうになつてゐるのださうである。
教へてもらはないとわからないことだ。
「冬の日」、いいよね。
6月に見てきたときも書いたけれど、なんといふか、見てゐてほのぼのするんだよなあ。
今度会へるのはまた二年半後とかなのか知らん。
今度会へるのはいつか知らん、と思へることは幸せである。
「人形劇三国志」の人形だつてもう三十年以上前に作られたものだ。
人形アニメーションの「花折り」「鬼」「道成寺」などは四十年以上前、そろそろ五十年にならうとしてゐるものもある。
劣化はどうしても避けられないのだといふ。
このときの展示では「道成寺」の女がゐた。
いつもより動きが少なかつた。
人形への負担を減らすためだつたのらしい。
劣化といへば、ホワイエに飾られてゐたパペットアニメーショウの人形はウレタンでできてゐて、気をつけないと劣化したウレタンが崩れてしまふのらしい。
パペットアニメーショウの人形がウレタン製といふのは、夏に渋谷区防災センターで開催された講演会で聞いた。
土曜日からの展示では「世間胸算用近頃腹之裏表」の人形が飾られる予定だ。こちらもウレタン製と聞いてゐる。
会へるときに会つておかないとね。
人形アニメーションの展示といふと、6月から11月の展示ではいつもとちよつと違ふ点があつた。
たとへば「いばら姫または眠り姫」は、セットも一緒に展示されてゐた。
姫はいつもとおなじやうに椅子に腰掛けて刺繍の最中といつたやうすだつた。
その背後にテーブルと椅子があつた。
椅子は二脚あつて、そのうち一脚はちよつとずれた位置にあつた。
つひさつきまで誰かがゐたやうすを表現してゐたのださうだ。
「鬼」も、兄の方がちよつと高いところにゐて、作中にあるやうに山を登つてゐる最中といつたやうすでよかつたんだよなあ。
「火宅」は、菟名日処女と血沼丈夫・小竹田男とは別の世界にゐる、といふイメージで展示されてゐたのだといふ。
いままで見た「火宅」の展示では、血沼丈夫も小竹田男も狂ほしく処女を見つめてゐることが多かつた。
今回の展示ではどちらも梅の枝を抱いてあらぬ方向を見てゐた。
あらぬ方向を見ながら、処女のことを思つてゐる。
そんな感じだつた。
先月までの展示については、6月に書いた。
6月に書いたエントリでは、美術館の方々からお聞きしたことなどは書かなかつた。
書かなかつた理由は、実際に行つて聞いた方がいいと思つたからだ。
行つても混雑してゐたらなかなか聞けないかもしれない。
でも実際に行つて見る、行つて聞くことが重要だなあ、と思ふことがあつたので、な。
新展示公開まであと二日。
とても楽しみである。
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