飯田市川本喜八郎人形美術館 連環の計 2015
飯田市川本喜八郎人形美術館では十二月五日に展示替へを行つた。
今回はその新展示のうち「連環の計」のケースについて書く。
「連環の計」のケースには、五人ゐる。
後方左から高いところに董卓、やや低いところに呂布、さらに低いところに李儒、前方左から董卓と呂布とのあひだに貂蝉、呂布と李儒とのあひだに王允の順に並んでゐる。
董卓は、黒地に金糸銀糸の縫ひ取りのある武将の出でたちで立つてゐる。
視線の先にゐるのは呂布だ。
呂布は貂蝉を見てゐる。
董卓はおそらく呂布を信頼してはゐない。今回もどこか疑はしげな目で呂布を見てゐる。
呂布は董卓を信じてゐただらう。連環の計にからめとられるまでは。
董卓がそんな呂布に殺されるのは、呂布を信じてゐたからではなくて、己の権力を過信したからなんだらう。
今回の展示の董卓は、まだ自分の得た力に満足してはゐない。
まだまだ上がある。
まだまだ倒さねばならぬ敵がゐる。
どこか餓ゑたところがあるやうに見受けられる。
人形劇の董卓といふと、最初のころは知恵の輪に興じる稚気があり、また、どことなくだらしない印象を受ける人物だつた。
かうして飯田で見ると、だらしないところなど微塵もない。
堂々とした悪の親玉といつた印象だ。
そして、人形劇の中でも次第にさうなつていつてゐるのだらうと思ふ。
たぶん、見るこちらが第一印象に惑はされてゐるだけなのだ。
その右隣やや下方にゐる呂布は、貂蝉を見てゐる。
戟を手にしてゐるけれども、別段殺気はないし、誰かを殺さうといふのでもないやうに見える。
かといつて、貂蝉に恋ひ焦がれてゐるといつたやうすでもないんだよなあ。
人形劇で呂布がはじめて貂蝉を目にしたときのあの挙動不審ぶりを思ふに、あれは紛ふことなく一目惚れだ。
今回の展示では、単に呂布は貂蝉を背後から見ただけなのかもしれない。おそらく呂布の位置からは貂蝉の顔は見えないか見えても横顔がちらりと見えるくらゐだらうし。
さういやここのところ呂布と赤兎馬とを一緒に見たことがないやうな気がする。
前回呂布のゐた展示のときは、董卓が赤兎に乗つてゐた。
関羽が赤兎に乗つてゐる展示は、今回も含めて何度か見てゐる。
呂布と赤兎とも見てみたいなー。
呂布の右隣やや下方に李儒がゐる。
躰はすこし右を向いてゐて、顔を左側に向けてゐる。
何后を見るたびにキツネ顔だなあと思ふが、李儒も負けてはゐない。李儒を見たあと何后を見るとなんだか間抜けなキツネに見える。
この李儒はなにを見てゐるのかなあ。
王允か。
あるいはその場全体を見てゐるのかもしれない。見て、ほくそ笑んでゐる。そんな感じがする。
人形劇だと李儒はいつのまにか出番がなくなる。
董卓亡きあと、おなじ流れで殺されたのだらうとは思ふけれど、なんとなくどこかで生き延びてゐるのではないかといふ気がしてならない。
それくらゐ(悪)賢さうに見える。
前回展示されてゐたときは、衣装の裾がすこし乱れてゐて中に着てゐる衣装がちらりとのぞいてゐた。上品な餡を淡くしたやうな色だつた。
今回は残念ながら見えない。
貂蝉は、王允の方を向いて「お許しくださいまし」とでもいふかのやうに頭を下げてゐる。ちよつと他人行儀な感じがしないでもない。
人形劇では、貂蝉は逃げてきたところを王允に捕まつて、やがては連環の計をしかけるやうし向けられることになつてゐる。
今回はそんな場面なのかな。
腰を低くしてちよつと身をよぢつてゐるのだらうか、そんなところに色香を感じる。
頭を下げてゐるので、正面から見ると下瞼の部分からカシラの中が透けて見える。目を閉じるからくりを入れてゐる関係で、瞼と目玉とのあひだに隙間があるからだ。これが案外不気味だつたりする。
ちよつと下から見上げるやうにした方がいい。
王允は、そんな貂蝉の方を見て「おそれることはない」とか「悪いやうにはしない」とか、心にもないことを云つてゐるやうに見える。
人形劇で見る王允は、悪党の中でも小物感が漂つてゐる。それはかうして展示で見ても変はらない。どこか品性卑しい感じがする。
あるいはこの感じはまつりごとに長く関はつてきて妖怪となつた人間の出す妖気のやうなものなのかもしれない。
渋谷の王允はといふと、もうだいぶ以前に一度見たきりだけれども、人形劇のときに比べて品格のある老政治家といつた趣だつた。
渋谷で見た李儒も人形劇のときより色悪めいたところがあつたなあ。
川本喜八郎の中で、人形といふかその人物に対する印象が変はるやうなことがあつたのだらうか。
そんなことを考へながら飯田と渋谷とで見比べるのもまた楽しい。
以下、つづく。
紳々竜々と黄巾の乱はこちら。
「宮中の抗争」についてはこちら。
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