「好き」といふ契約
好きといふことについて考へてゐる。
自分にはこの世に好きなものはない。
「さうは云つても、歌舞伎は好きなんでせう」だとか「あみものはどうなの」だとか「あれだけ使つてて萬年筆が嫌ひなわけないよね」と云はれることもある。
うむ。
歌舞伎は好きだ。
あみもののない暮らしは考へられない。
萬年筆がなかつたらこんなにあれこれ書き散らすことはないだらう。
でも、なんといふのかな、好き、といふ気持ちはもつと熱いものなんぢやないかといふ気がしてならない。
つまり、やつがれには「好き」といふのがどういふ気持ちなのか、いまひとつわからないのだ。
以前も書いた如く、軽佻浮薄なものが好きになれない。
世に云ふ「みーちやんはーちやん」つまり「ミーハー」といふものをこどものころは忌み嫌つてゐた。
その後、ミーハーといふのはとても楽ちんであることに気づき、自分の中で和解したんだけどね。
好きといふ気持ちはうつろひやすい。
あるときは熱狂的な思ひに身も心も焼き尽くすかのやうに思つて苦しかつたりするのに、またあるときにはその熱もすっかり消へ去つて、好きであつたことさへ忘れてしまふ。
そんなことがある。
そんなうつろひやすい感情を、信用できるはずがない。
軽佻浮薄なものをとくに許すことのできなかつたこどものころは、「好き」といふからには責任を持て、とも思つてゐた。
大げさに云ふのなら、永遠の誓ひをたてろ、といふことだ。
終生変はらぬ愛とかいふと結婚式のやうだが、なに、そんなものを誓つたはずのふたりだつてあつといふ間に別れてゐたりする。
なにかを「好き」と宣言すること、それは、自分にとつては契約なのだつた。
「好き」と宣言したからには、この命の尽きるまで忘れはしない。
すくなくとも、ボケるまでは忘れない。
さうしてずつと味方でゐる。
その覚悟がなければ、好きだなんぞと軽々しく口にしてはならない。
ミーハーと和解したいまでも、自分の中では「好き」といふのはさういふものだと思つてゐる。
そして、契約とは、熱い思ひによるものではない。
もつと冷静な、先々の計画とともに結ぶものである。
すなはち、自分があるものを「好き」といふときには、そこに熱い感情が欠けてゐる。
自分には好きなものがないと思ふ所以である。
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