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Monday, 30 November 2015

編みつけながら編む

Domino Knitting に掲載されてゐる Striped Shawl は二列めに入つた。

Knit & Tat

もともとは全部で六列だが、指定より太い糸を使つてゐるので五列にするつもりでゐる。

Striped Shawl は、一列細長いものを編んで、長辺にメリヤス編みを一段編みつける。
二列目は、一列目に編みつけたメリヤス編みに編みつけながら編む。
この「メリヤス編みに編みつけながら編む」のが思ひのほか楽しくて、な。

楽しいから進んでゐるつもりでゐたが、これまた思ひのほか進んでゐない。
編み地が大きくなつてきたので裏表をひつくり返しつつ編むのが大変になつてきたからだらう。

編みつけながら編むといふと、いはゆる Mitered Square のドミノ編みがさうだ。
すでに編めた四角形に四角形を編みつけていく。
かうすると、作り目をするよりも早くてらくちんだ。

Striped Shawl の編みつける方法は、どちらかといふと伏せ目に近い気がする。
伏せ目といふよりは、編み地を終はらせるときに用ゐられる方法といふべきか。
あるいは縁編みともいへる。

たとへば Pi Shawl だ。
Pi Shawl は最後編み終へるときに、円周にそつてぐるりとガーター編みを編みつける。六段くらゐだつたかな。
それまで円の中点から外周にむかつて編み進んでゐたものを、円の周囲をぐるりとめぐるやうに編み進む。
これがね、編みはじめは気が遠くなるのだけれど、編んでゐるうちに脳内麻薬が出てくるのだらうか、突然楽しくなつてくるときがある。
それに仕上がりもきれいだしね。
伏せ目をするときのやうに糸の引き加減を気にする必要もない。

ガーター編みの代はりに i-cord を編みつけることもある。
ウェアものだと i-cord の方が見栄えがよくていい場合もあるんぢやあるまいか。
i-cord も慣れるまでは「きーっ!」となりがちだけど、慣れると楽しいよな。

Striped Shawl を編みつけながら編むのがあまりにも楽しいので、そのうち杉綾模様つぽいヴェストをこの方法で編んでみたいぞ、と思つたが、考へてみたら杉綾模様はもつとかんたんに編める方法があるんだよね。とほほ。

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Friday, 27 November 2015

川本喜八郎人形ギャラリー 一ノ谷 その二

11/14(土)、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーで新たな展示内容が公開された。
今日は「一ノ谷」のケースについてつづきを書く。
磯の禅師から範頼についてはすでに書いたので、今日は弁慶以降についてふれる。

弁慶だよ。
たうとう出番がきたよ。
「待つてました!」と聲をかけたいところだね。
五條大橋あたりで一度出てくるかなーと期待してゐたのだが、残念ながら出番がなかつた。
ここで出てくるかー。
「人形歴史スペクタクル 平家物語(以下、人形劇の「平家物語」)」の人形のうち鎧をつけたものはとくに重たいといふ話を聞く。
ことにこの弁慶は5kgくらゐあるのださうな。
それを頭上高く掲げて操るだなんて、想像を絶する。
飯田市川本喜八郎人形美術館の弁慶もさうだけれど、弁慶でいつもすばらしいなと思ふのは、その立ち姿だ。
人形を実際に操つてゐるところを見ると、足の表情がむづかしいやうに見受けられる。
足だけ生気がないやうに見えてしまふことがあるからだ。
ぶらんとしちやつてね。
文楽の人形は三人で遣ふ。そのうち一人は足遣ひだ。
足の担当を置くことで、足までしつかり気の入つた演技ができるやうになる。
さういふことなのだらうと思ふ。
人形劇の「平家物語」に出てくる弁慶は、足の出てゐる部分が多い。
その分、ほかの人形よりも足がだらりぶらりと見えるやうになる。
でも展示されてゐる姿を見ると、いつでも大地をしつかりと踏みしめて立つてゐる。
高下駄を履いて、ね。
この立ち姿が立派で素敵なんだよねえ、弁慶は。

弁慶の隣には鷲尾経春がゐる。
鵯越の坂を指さしてゐる。
きつぱりとした表情、姿だ。
鹿でも下りる坂です、馬だつて必ず下りられます。
自信を持つてさう云ひはなつてゐるのかもしれない。
今回の展示には少年が何人かゐる。
先日書いた義高のほか知章、直家、敦盛が飾られてゐる。
けがをしてゐる直家以外は、みな悲壮感に満ちた表情を浮かべてゐるやうに見える。
あー、敦盛はちよつと違ふかな。敦盛はおそらく経盛の記憶の中の敦盛だらうから。
それはともかく、経春は違ふ。
経春の断固とした表情、力強く指した指先は、生き生きとして見える。
見てゐてちよつと気持ちが昂揚してくるやうな姿だ。
「落日粟津ケ原」で気持ちが落ち込んだら、「一ノ谷」を見るといいかもしれない。

弁慶と経春との背後に、馬上の義経がゐる。
さうさう、義経といへばこの鎧だよね。
濃い薄い紫に黄色の草摺が、なんともやさしく華やかだ。
飯田の義経の鎧は紅白なんだよね。それはそれで義経のイメージにそぐつてゐる。
ただ、黄色の色が記憶の中の色より鮮明だ。玉子色のやうな色をイメージしてゐたのだが、どこかで記憶を捏造してしまつたやうだ。無念。
義経は経春の指さす方を見下ろしてゐる。
この顎の引き加減がまたすばらしくてね。
左から見てよし、前から見てよし、右からみてよし、だ。
きりつとしてゐて凛々しくて、一点の迷ひもない感じ。
見とれることしきりである。
範頼と比べてしまふからかもしれないけれども。
この義経を見るにつけ、やつぱり範頼はちよつと可哀想だなあと思はずにはゐられない。

義経の馬の脇に、鎌田正近が立つてゐる。
渋谷では鎧姿ははじめてだ。前回展示されてゐたときは山伏姿だつた。
飯田の正近の鎧は黒に近い紺色で、これが実にひきしまつたいい色だ。
人形劇の正近の鎧は黒である。
飯田の正近はそんなにしよつ中展示されるわけではないせゐか、鎧もふくめ衣装が全体的にぱりつとしてゐる印象がある。
ヒカリエの正近の鎧は、どことなくくたびれて見える。
歴戦の兵。
そんな感じ。
そこがまたいい。

正近の隣には伊勢三郎がゐる。
説明に「人生の裏街道」を渡つてきた、といふやうなことが書かれてゐて、思はず微笑んでしまふ。
目の前の伊勢三郎は見るからにそんな感じだからだ。
日の当たる場所ばかり歩いてきたわけではない。
世の中の裏も表も見てきた俺だ。
伊勢三郎からはそんな印象を受ける。
かうして見てみると、今回の展示では弁慶といひ伊勢三郎といひ、義経の家来にはくせの強さうな人物が多い。
まあ、正近はさうではないし、ほかにも家来はたくさんゐるものの、今回ぱつと見たときにはさう感じる。
そのくせの強い荒くれ者たちが「御曹司!」てーんで従つちやふ義経といふ人の存在が大きい。

伊勢三郎の右側すこしはなれたところに、麻鳥が座して負傷した兵士の手当をしてゐる。
この麻鳥の左側に、土に汚れた赤旗と白旗とが重なりあつて倒れてゐる。
説明を見ると、麻鳥は負傷兵と見れば平家だらうが源氏だらうがかまはずに手当した、といふやうなことが書かれてゐる。
赤旗と白旗とを見ただけでそれがわかるやうになつてゐる。
麻鳥に手当されてゐる兵士は、別の兵士に抱き抱へられるやうにして横たはつてゐる。
もしかすると、旗はこの二人の兵士がそれぞれ持つてゐたものなのかもしれない。
麻鳥はうつむいてゐるのでよく見えないけれど、厳しい表情に見える。
崇徳院に仕へてゐたころの頼りない若者のやうすはまつたく感じられない。
人間(人形だけど)、変はるものなんだなあ。

「一ノ谷」のケースの最後は、後白河法皇だ。
ケースとケースとの合はせめの角に「平家物語」の掛軸を背にして立つてゐる。
前回見たときは「鹿ヶ谷」のときだつた。
照明の関係で陰影が濃くて、清盛のゐる方を睨んでゐた。睨みつつも不敵な笑みを浮かべてゐるやうな表情が不気味で素敵だつた。
今回は、陰影はあまりない。
清盛がゐなくなつて、法皇の行動を制限するものがほぼなくなり、心持ちも明るくなつたのかもしれない。
その表情はやはりどこか横の方を見てゐて、しかも不敵な笑みを浮かべてゐるやうに見える。
以前よりも自信に満ちた笑みだ。
手には偽の院宣を持つてゐるのかな。
悪だくみ大好き。
そんな陰険に楽しげな後白河法皇だ。
これまた見てゐて楽しい。

以下、つづく。

「落日粟津ケ原」についてはこちら
「鎌倉非情」についてはこちら
「一ノ谷」その一はこちら

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Thursday, 26 November 2015

川本喜八郎人形ギャラリー 一ノ谷 その一

11/14(土)、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーで新たな展示内容が公開された。
今日は「一ノ谷」のケースについて書く。
左から磯の禅師、静御前、土肥実平、梶原景時、畠山重忠、馬上の源範頼、弁慶、鷲尾経春、馬上の源義経、鎌田正近、伊勢三郎、阿倍麻鳥と負傷兵二名、後白河法皇の順に並んでゐる。

磯の禅師は後方やや高いところに座してゐる。
娘・静御前を遠くから見守つてゐる心か。
磯の禅師はみづからも白拍子であり、ほかの白拍子を抱へて一座を組んでゐたこともあるのださうな。
人形劇の「平家物語」では牛若丸は幼いころ女の子と偽つて白拍子の一座にゐたことがあることになつてゐる。
このときおなじくこどもだつた静と出会つて兄弟のやうに育つた。
磯の禅師には、一座をまとめてゐた人の強さ厳しさもあるやうに見受けられる。

磯の禅師の右前方にゐる静御前は白拍子のこしらへで舞つてゐる。
うつむきがちの顔の表情がどこか幼い。なんだか可愛い。
見たところ、母の前で舞つてゐるといふ感じはしない。
上にも書いたやうに、磯の禅師からはどこか遠くから娘のことを思つてゐるといつた印象を受ける。
娘と義経とのことを、かな。
静はこれから戦に向かふ義経の前で舞つてゐる心なのかな。
あるいは遠くにゐる相手のことを思つて舞つてゐるのかもしれない。
磯の禅師と静御前とは一組として展示されてゐるけれど、空間的には互ひに離れたところにゐる。
そんな感じがする。

静御前の右側すこしはなれたところに土肥実平がゐる。
実平から三郎までは一名を除いてみな鵯越の坂の下を見下ろしてゐる。
実平は一年前の展示のときにもゐた。
あのときは景時、義盛と一緒に並んでゐた。
衣装もあのときとおなじ鎧だと思ふ。草摺の縦半分が茶がかつた朱色でもう半分が草の色のやうな緑だ。
一年前も書いたけれど、一緒に並んだ梶原氏や和田(三浦)氏と違つて、土肥氏は生き延びて広島に行く。
今回一緒の畠山も、やはり滅ぼされてゐる。
ヒカリエにゐる実平には、しかし、滅亡をまぬがれやうと策を弄したやうなしたたかさはあまり感じない。
どちらかといふと、実直さうな人に見える。
もしかするとどこかに狡猾なところがあるのかもしれない。
前回もそんなことを書いたやうな気がするけれど、今回も実平にはちよつと気をつけて見ていきたい。

実平の後方に梶原景時がゐる。
ここにゐるみなが坂の下を見てゐるのに、景時ひとりだけは別のところを見てゐる。
意地の悪さうな視線の先にゐるのは義経だ。
前回の展示のときの景時も、目は横を向いてなにかを睨んでゐるかのやうな表情をしてゐた。でもそんなに陰険さうな印象は受けなかつた。
景時だしね。
普段からさういふ表情だよね。
さう思つたのかもしれない。
でも今回は違ふ。
照明の加減でちよつと影ができるからかもしれないけれど、胸に一物あるやうな、なにかたくらんでゐさうな不敵の表情を浮かべてゐる。
見てゐて実に楽しい。

実平の右、景時の斜め前方にゐるのは畠山重忠だ。
惚れ惚れするやうないい表情をしてゐる。
とくに向かつて左側から見たときの男ぶりのよさときたら絶品だ。
重忠といふと、説明にもあるとほり、鵯越の逆落としのときに乗つてゐた馬が骨折してしまつたのでその馬を背負つて坂を下りたといふ逸話がある。
こどものころ、重忠には「馬を背負つて急な坂を下りた人」といふ印象しかなかつた。
なんていい人なんだらう。
気は優しくて力持ち。
長じて文楽や歌舞伎を見ると、重忠は白塗りで知恵も情けもあるいい人として出てくることを知る。
渋谷の重忠も、頭もよささうに見える。
一見、馬を背負つて坂を下りるやうな力持ちには見えない。
さういふ人が馬を背負つて下りるのがまたいいんだな。多分。
左から見たときの男ぶりに比べると、右から見たときはちよつと時代がかつたやうすに見える。
いい男なのは変はらないが、現代の身体のバランスに比べると頭の比率が大きく見えるからだ。
江戸時代の芝居絵のバランスだよね。
そこがまたいい。
実平同様、重忠も真剣な面持ちで坂を見下ろしてゐる。
この時点ではまさか自分が馬を背負つてここを下りることにならうとは知る由もない。
そんなところもいい。

景時の右、重忠の斜め後方に、馬に乗つた源範頼がゐる。
馬上からなんとも情けない表情で坂の下を見込んでゐる。
情けない表情なのはもとからなのかもしれない。
蒲殿つていつもかういふ役回りな気がして、ちよつとあはれな感じがする。
そもそも「かばどの」といふ音の並びがちよつと間が抜けて聞こえることさへ、あはれだ。
今日千秋楽を迎へる平成中村座では「女暫」がかかつてゐる。
ここに出てくる公家悪も範頼だ。
範頼が義高をいぢめた、といふ話でもあるのかなあ。
公家悪だから格の落ちる役といふわけではないけれど、「女暫」を見るたびに「蒲殿、可哀想」と思つてしまふのはやつがれだけではないと思ひたい。
今回の範頼を見ると「えー、こんなところを馬で下りるのー?」とでも云ひたげなやる気のなさを感じてしまふ。
わかる。わかるよ。
下りたくないよな、こんな急な坂なんて。
#といつて、どんな坂だかはこちらにはわからないわけだが。
このあと出てくる義経の凛とした姿と比べてしまふからいけないのかなあ。
範頼の情けなさ全開。
すばらしいんだけど、やはり可哀想な気がしてしまふのであつた。

以下、つづく。

「落日粟津ケ原」についてはこちら
「鎌倉非情」についてはこちら

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Wednesday, 25 November 2015

川本喜八郎人形ギャラリー 鎌倉非情

11/14(土)、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーで新たな展示内容が公開された。
今回は「鎌倉非情」のケースについて書く。
「鎌倉非情」のケースは入り口を入つて左手正面にある。
左から義高、大姫、千手、狩野介宗茂、重衡、狭山、百合野、河越重頼の順に並んでゐる。

義高と大姫とは、以前ギャラリー外のケースにゐたことがある。
かなしい「小さな恋のメロディ」とでもいはうか。
トロッコがあつたらふたりで乗つて逃げたのかなあ。
いや、義高と大姫とは逃げないか。
そんなことを思つたりもした。
このときも凛々しい義高のやうすに目を奪はれたものだつた。
今回も凛々しい。
いつたいこの凛とした風情はどこからやつてくるのか。

人形劇では、鎌倉から木曽へ義高招聘の遣ひがやつてくる場面がある。
招いてはゐるものの、えうは人質に取らうといふ肚だ。
それとわかつてゐるから父・義仲は逡巡するし、母・巴は反対だ。
しかし、義高は鎌倉に向かふときつぱり宣言する。
ここがまたいい場面なんだな。
見てゐるこちらはその先のことを知つてゐるから余計に「凛々しい」と思つて義高のことを見てしまふのかもしれない。

今回の展示でも義高は大姫を、大姫は義高を見つめてゐる。
大姫はケースの角の方に顔を向けてゐるので正面から見ることはできない。
義高はからうじて見えるかな。
のちに、頼朝は藤原氏や平家がしたのとおなじやうに己が娘である大姫を入内させやうとする。
その父に従はなかつたことは、説明にも書いてあるとほりだ。
ふたりを待ち受けるのは悲劇なのかもしれないが、それゆゑに出会つたふたりでもある。

千手は、後方やや高い位置に座して衝立の影から前方のやうすをそつと伺つてゐる。
おそらくは目の動かない人形なので、視線は顔の向きとおなじ左を向いてゐる。それがかへつて右側にゐる相手に気取られまいとしてゐるやうに見える。
千手は白拍子だ。今回の展示では白拍子姿ではなく、重ね袿姿である。
千手は鎌倉の命を受けて平重衡を見張つてゐる。
見張るうち、重衡と恋に落ちてしまふ。
この展示の感じだと、まだ見張りとしての立場にゐる感じかな。
心を許してゐるやうには見えない。
でも、多分気になるんだよね、重衡のことが。

千手のやや右前方に座してゐるのは狩野介宗茂だ。
平重衡は源氏方に捕らへられたのち、宗茂のもとに送られる。
宗茂は右を向いてゐる。視線の先には重衡がゐる。
なにごとか重衡に話しかけてゐるやうに見える。
説明によると、宗茂はなにくれとなく重衡の面倒を見てゐたとのことなので、いい人なのだらう。そんな表情をしてゐる。
着てゐるものは鄙びた感じで、足は素足だ。

重衡は、正面を向いて座つてゐる。
手には琵琶と撥とを持つてゐる。
宗茂の助言はありがたいと思ひながら、聞かなかつたことにして琵琶を弾じてゐる。
そんな風情だ。
重衡は、なにがあつても逃れられないとわかつてゐたんだらう。
万が一源氏が許したとしても、南都の僧たちが許すわけがない。
東大寺や興福寺が焼けてしまつたのは自分のせゐだから。
人形劇では重衡は焼き討ちを命じたわけではない。
兵卒のはなつた火矢が、たまたま運悪く風向きの悪いところにささつてしまつた。
それで東大寺も興福寺も焼けてしまつた。
重衡は悲劇の大将だ。
さういふ描き方だ。
重衡は、自分がしでかしたことの重大さも取り返しのつかなさも十分理解してゐたことだらう。
従容としてなにもかも受け入れる。
そんな表情も窺へる。
そんなところにも千手は惹かれたのかもしれない。

狭山は、後方に立つてゐる。躰は左を向き、顔は右前方を見据ゑた感じだ。
狭山は、義経に嫁ぐ百合野に仕へる女である。これまたスパイだ。
大河ドラマでいふと「武田信玄」に出てきた三条夫人に仕へる八重のやうな感じか。あの小川真由美ほどのおそろしさはないけれど、似たやうな存在である。
最近とみに思ふのだが、狭山のやうな人にもさうある理由といふのがある。
「にも」といつたら失礼か。
人間誰しもその人がかくあるその理由がある。
説明には、狭山は義経についてあることないことあげつらつてゐたといふやうなことが書かれてゐる。
イヤな人だ。
イヤな人だけれども、さうである理由、さうなつてしまつた所以がある。
ひどくきついまなざしで何かを睨みつけてゐる、そんな造形になつてしまつて可哀想になあ、と思はずにはゐられない。

狭山の前方には、百合野が座してゐる。
百合野は河越重頼の娘で、鎌倉の陰謀で義経に嫁ぐことになる。
百合野は右を向いて座つてゐて、視線の先には父・重頼がゐる。
百合野はおつとりとして品のよささうな人だ。
やさしい眉にふつくらとした頬、豊かな黒髪が鄙にはまれな育ちのよい人といつた印象を与へる。
なにもなければ、義経の妻となつて不足のない暮らしができたらうになあ。
さうも思ふ。
百合野は、父のことばを真剣に聞いてゐるといつた面もちだ。

百合野の父・河越重頼は、狩野介とはまた違つた物思はしげなやうすで娘に語りかけてゐる。
なにを話してゐるのだらう。
嫁いでいく娘への心構へか。
それとも義経を見張れといふ真の任務について話してゐるのか。それはないかな。
重頼も狩野介と似たやうなあつさりとした印象の衣装を身につけてゐて足は素足だ。
足袋を履いてゐる重衡と対照的である。

このケースにゐる人々は、多かれ少なかれ鎌倉すなはち頼朝の意によつて悲劇に見舞はれる。
このあと出てくる人々も鎌倉の非情さゆゑに命を奪はれ一族滅亡の憂き目を見ることになる。
ただし「鎌倉」といつたときに頼朝ばかりをさすわけではなくなるのがこの先の人々の特徴、かな。

以下続く。

「落日粟津ケ原」についてはこちら

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Tuesday, 24 November 2015

タティングシャトル一つだけ

年賀状に用ゐる予定のタティングレースのモチーフは、ほとんど増えてゐない。
昨日のエントリに書いたやうに、思はぬ休みがあつて職場に行かない日が多かつたからだ。
タティングは昼休みのあいた時間にするやうにしてゐる。
ゆゑに昼休みがないと進まない。
道理である。

ここ二三年、年賀状に貼りつけるために、Jon Yusoff の本を見て作りたいと思ふモチーフを作つてきた。
六角形のモチーフばかり掲載されてゐる本である。The Twirly が載つてゐるのもこの本だ。
ほとんどのモチーフではタティングシャトルを二つ使ふやうになつてゐて、中にはスプリットリングで段を上がつて糸を切らずにすませるものや、SCMR (Self Closing Mock Ring) を用ゐたものなどもある。
普段あまり使はない技法をたまさか使ふのも悪くない。楽しいものである。

でも今年は、シャトル一つでできるモチーフを中心に作つてみやうかなあ。
そんなことを考へてゐる。
シャトル一つといふのは、ほんたうにシャトル一つだけでできるモチーフのことだ。
糸巻きからの糸は使はない。
糸を切らぬやうにスプリットリングで段を上がることはするけれど、このとき糸端にはシャトルはつけない。手でスティッチを作る。
実際、先日載せた写真のモチーフもさうやつて糸を切らずに作つた。

シャトル一つといふと、藤重すみの本が思ひ浮かぶ。
しかし、いまのところ参照してはゐない。
現在は Mary Konior の _Tatting with Visual Patterns_ に載つてゐるモチーフを作つてゐる。
この本にはシャトル一つでできるモチーフが三つほど掲載されてゐて、40番の糸で作るとちやうどいい大きさにできあがるからだ。
しかも、モチーフは写実的ではない。

世の中には、写実的な作品を好む人とさうでない人とがゐる。
きつぱりとわかれてゐるわけではなくて、どちらかといふと写実的なものが好き、どちらかといふと抽象的なものが好き、といふ感じだ。
やつがれは明らかに抽象的な模様が好きだ。
だからクロススティッチはしない。クロススティッチにも抽象的な図案はいくらもあるけれど、見たときになんの模様かわかる図案が多いやうな気がするんだよね。ディズニーのキャラクター、とかさ。
刺繍は苦手のやつがれがスウェーデン刺繍だけはちよこつとやるのは、図案が抽象的な模様だからだ。スウェーデン刺繍で見てなんだかわかる模様といふのは見たことがない。

あみものも同様で、編み込み模様などでも見てすぐに何かわかる模様よりは、幾何学模様のやうな単なる図形のつらなりのやうな模様が好きだ。

タティングレースでも、見て雪だるまだとか貴婦人だとか、即わかるモチーフがあるけれど、さういふものはあまり好きではない。
竜とかタツノオトシゴのモチーフは例外的に好きだけれどね。

いまの時期、海外のタティングレースサイトを見ると上にも書いた雪だるまや天使、ときにはサンタクロースといつたクリスマスに関連したモチーフの写真をよく見かける。
季節ものはいいな、とも思ふ。
でも年賀状にサンタクロースや天使はそぐはない。
許されても雪だるまくらゐだらう。
そして、雪だるまを作るくらゐなら、普通の丸いモチーフを作つた方が楽しさうな気もする。
見方次第でなんにでも見えさうなモチーフの方が、ね。

何度か書いてゐるやうに、もう年賀状を出すのはやめてしまはうかとも思つてゐる。
でもモチーフがたまつたら出すだらう。
作りためたモチーフの使ひ道が思ひつかないからね。

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Monday, 23 November 2015

待ち行列とあみもの

_Domino Knitting_ に掲載されてゐる Striped Shawl は、先週少しだけ進んだ。
思はぬ休みがあつたからだ。

木曜日に、台所の水道の蛇口が壊れてしまつた。
それで急遽休むことになつた。
業者が即来てくれて即直ればそのまま出勤するつもりでゐた。
最初は昼ごろには来る、といふ話だつた。
昼ごろ、突如漏水事故があつたとかでそちらを優先せねばならず、いつこちらに来ることができるかわからない、といふ旨の電話があつた。
いつ来るとも知れぬ業者を待ち続けること数刻。
結局、蛇口が直つたころには午後七時半になりなんとしてゐた。
やれやれ。
一日無駄になつてしまつた。

待つてゐるあひだ、ほかにすることもないので録画した番組を見ながら編んでゐた。
ほかにすることがないときにすることといつて、あみものほど最適なものはない。
とくに Striped Shawl のやうに mindless knitting と呼ばれるやうなものはなほさらだ。
Striped Shawl は段数を数へながら編む部分もあるので、完全に mindless knitting といふわけではない。
それを云つたら「完璧な mindless knitting」などさうさうあるものではないので、ここではおく。

録画した番組を見ながらひたすら編む。
業者からの電話を待つてゐるし、来られるやうなら即なほしてもらひたい。だから出かけるわけにはいかない。
編むくらゐしかやることはない。

ではあみものは進んだか。
残念ながら、時間に見合つたほどには進まなかつた。
心にかかることがあるからだ。

ここにもたびたび書いてゐる。
Yarn Harlot を読んでゐると、しばしば「Knitting keeps people sane.」といふやうな話が出てくる。
たとへば病院、銀行、空港などで待つてゐる最中にあみものをする。
もちろん、好きだから編む。
でもあみものにはもうひとつ効用がある。
待たされてゐるあひだ、いらいらしなくて済む。
まつたくしないことはないかもしれないが、なにもすることがないよりはましだ。

やつがれもずつとさう思つてゐた。
医者に行つて待たされてゐるあひだ編んだり結んだりする。
外出するときは不意の「待たされ」に対応するためにかならず編むものかタティングシャトルを持ち歩く。
甚だしいときには定期券発行の列で並んでゐるときに編んでゐたこともある。もちろん立つたままだ。

定期券発行の列はいい。
自分がだいたい何番目にゐていつごろ順番が回つてくるか、なんとなくわかるからだ。
前の客によつては時間がかかつたりすることもあるけれど、それは見てわかる。

病院ではさうはいかない。
銀行もさういふ場合が多い。
自分が何番目でいつごろ呼ばれるのか、皆目見当がつかない。
自分より前からゐた人々がほぼゐなくなつたから自分の番が来るかと思ふと、さうでもなかつたりする。
いつまで待たされるのかわからない状況で待つてゐなければならない。

これがつらい。
病院に行くと必ずといつていいほど不調になるのは、この「いつ終はるとも知れぬ状況で長いことまたされる」のが原因ではないかと思つてゐる。
ほかに理由を思ひつかないからだ。
たとへ待つてゐるあひだ本を読んだり編んだり結んだりしてゐても、だ。

どうやらあみものはやつがれの正気を保つてくれたりはしないらしい。
いや、正気は保つてくれてゐるのか。
ただ、心身の健康には役立たないこともある。
さういふことなのだらう。

そんなわけで、Striped Shawl は一列目があとすこしで編み終はるところまできた。
この秋冬中にできあがればいいなと思つてゐる。
希望的観測ではある。

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Friday, 20 November 2015

川本喜八郎人形ギャラリー 落日粟津ケ原

11/14(土)、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーで新たな展示内容が公開された。
事前に知らずにゐたので15日(日)、ほんの10分ほどだが行つてきた。

今回はいつにもましてドラマティックな展示になつてゐる。
8月に停電事故による人形の損傷があり、まだまだ修復の必要な状態のものもゐると聞いて心配してゐたが、例年どほり展示替へが行はれたことはとても喜ばしい。

今回の展示は「人形歴史スペクタクル 平家物語」のうち、「落日粟津ケ原」「鎌倉非情」「一ノ谷」「父子三態」の四場面にわかれてゐる。
ギャラリー外のケースには、牛若丸と幼いころの静とが飾られてゐる。

まづは、中に入つて向かつて左手のケースである「落日粟津ケ原」から行かう。
左手から覚明、馬上の今井兼平、義仲と葵、切り手と樋口兼光、山吹、馬上の巴の順に並んでゐる。

ここ三回ほどの展示は義仲の物語だつたのだなあ。
一年前の展示替へで、ギャラリーに入つて正面のケースに義仲一党がゐた
義仲は鎧姿で青毛の馬に乗つてゐた。馬はやや竿立ちで、義仲は片手を掲げ、頼朝のゐる右の方を睨んでゐた。
左右にはそれぞれ馬上の巴と葵とを従へ、手前には義仲の四天王である小弥太、六郎、次郎、四郎が並び、威風辺りを払ふとはまさにこのことかといつた風情だつた。

前回の展示では、上洛した義仲は衣冠束帯に身を包み、冬姫を横目で見上げてゐた。
衣装こそ貴族のやうではあつたけれども、その前の展示で見せてゐた勢ひや威厳はそこにはなかつた。

それが今回の展示では、「あの義仲が、こんな表情を浮かべるだなんて」といつたありさまで、なあ。

ひとまづ、覚明から見ていくことにする。
覚明は、義仲たちに背を向けて、左側を向いて立つてゐる。
背中に笠をかけて、旅姿といつたところか。
義仲の死んだ後、覚明の行方は定かではない。
このまま都からそして歴史から姿をくらまさうといふのだらう。
歴史から、といふよりは、浮き世から、かな。

馬上の兼平はざんばら髪である。
馬は横を向いてゐて、兼平は正面に身体を向けてこちらを見てゐる。
説明にもあるとほり、兼平は刀を口に含んで馬から飛び降りて死ぬ。
いまにもさうしさうなやうすである。
兼平は、上にも書いたとほり前々回の展示のときにもゐた。
四天王の一人として並んでゐて、どこかきかん気の強さうな、いつまでもやんちやな感じのする人のやうに見えた。
それが、こんな悲壮感に満ちたやうすになるなんて。
もはやこれまで。
そんな印象を受ける。

それは兼平の斜め手前にゐる義仲と葵とにも感じる。
義仲は、瀕死の葵を抱いて座してゐる。
うつむいた横顔にほつれ毛がかかり、しやがんで見上げたその顔にはおよそ義仲には似つかはしくない悲しい表情を浮かべてゐる。
悲しくて、でもどこかやさしい表情でもある。
座してうつむいてゐるといふと、「白門楼の呂布」を思ひ出す。
あの呂布は、すつかり気落ちしてしまつたといつたやうすだつた。
悲しいとか残念とかいふよりは、精も根も尽き果てたといつたやうすだつた。
今回の義仲には、もつと情を感じる。
ほんのわづかのあひだ見ただけなので、今後ぢつくり見にゆく所存である。

葵は、仰向けになつて義仲を見上げてゐる。
おそらく人形の表情といふのは顔が上を向いてゐるときの方がうつむいてゐるときよりもむづかしいんぢやないかな。
義仲はうつむいてできる陰影がまた印象深いのだが、上を向いてゐる葵の顔は照明に照らされてしまつてゐる。
どこかぼうつとしてゐるやうにも見える。
いまはの際といふことでさうなのかもしれない。
ところが、横顔を見るとどうだらう。
その目はしつかりと義仲の目をとらへてゐる。
これが実にいい表情だ。
見る角度によつてこんなに違ふだなんてな。

その横にはいまにも処刑されなんとしてゐる樋口次郎が座してゐる。
後ろ手にしばられて、顔は正面を向いてゐる。
背後には刀を掲げた武士が立つてゐる。
この背後の武士のやうすがまたいい。
これまたいまにも裂帛の気合とともに樋口の首を落とさんとしてゐるやうに見える。
兼平が動なら兼光は静。
樋口の表情は無念さよりも諦観の方がかつてゐるやうに見えた。
これも一年前の展示を思ふと、ちよつと見てゐられないやうないたたまれない気持ちになつてくる。
今回の展示は、落ち込んだ気分のときは気をつけた方がいいかもしれない。

その横に、ぼろぼろの衣装を身にまとつた山吹がゐる。
一年前の展示では、山吹は葵に向かつて弓を引いてゐるところだつた。
山吹は葵の侍女だつたが、義仲の情を受ける。それを葵にとがめられたことを恨んで倶利伽羅峠の戦ひのどさくさにまぎれ山吹は葵に毒矢をはなつ。
さうした激しい気性の山吹は、敗残の態になつて気の強さを失つたやうにも見える。
すくなくとも葵への恨みの表情はない。
杖代はりの枝を手にした姿が、物狂ひのやうに見えるからかもしれない。
説明によると、山吹はさらされてゐた義仲の首を手に入れて供養したといふ話があるのださうだ。
さうだとすると、気の強さを失つてゐると見たのはやつがれの誤りなんだらうな。
また見に行くことにしたい。

山吹の先、このケースの一番右端に馬上の巴がゐる。
巴の表情は複雑だ。
このまま義仲に殉ずるか、それとも鎌倉に人身御供になつてゐる息子・義高のために生き延びるか。
結局、巴は生き延びる道を選ぶ。
そのせゐか、ここまで書いて来た人々よりも顔にあたつた照明が明るい気がする。
この巴を見てゐて、中村吉右衛門の「武蔵坊弁慶」を思ひ出した。
あのときは確か義仲が佐藤浩市で、巴は大地真央だつたんだよな。
なつかしい。

といふわけで、以下つづく。

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Thursday, 19 November 2015

神戸手帖を使ひはじめた

神戸手帖を使ひはじめた。

神戸手帳

神戸手帖はナガサワ文具センターの販売してゐる手帖だ。
スペックはリンク先をごらんいただくとして、新書よりちよつと小さいぐらゐ、厚みは1.5cmといつたところか。

次もまた買ふかどうかはわからない。
5mmの罫線が自分には合はないからだ。
細すぎるんだな。
2行使へばいいのかもしれないが、それだと今度は太すぎる。
5行ごとに線が太くなつてわかれてゐるので、その中でなんとかするとか、いつそ罫線を無視すればいい。
わかつてはゐるのだが、罫線を無視するのが苦手なのだつた。
だから方眼用紙もちよつと苦手だ。方眼のサイズを選ぶ。考へてみたら3mm方眼だつたころのほぼ日手帳は苦手だつた。
いつそ無地のノートを出してくれればなあ。

紙はちよつと厚めで見たところつるつるしてゐる。
見た目がつるつるしてゐるから書き心地もさうなのだらうと思つて書くと、思うたよりはざらりとした感覚がある。
書きやすい。
インキの吸ひはそれほどよくないので、縦書きをして急ぐときは気をつけないといけない。

罫線のなかに文字をおさめやうとするので、どうしても字が小さくなる。
それだけならいいのだが、ぎつしりしすぎてしまつてどうにも読み返しづらい。
もともと字が雑で汚いものだから、よけいに読みづらい。
極細のペンを使へばいいのかなあ。
でもこの手帳のいいところは、萬年筆で書いたときにインキがにぢんだり裏抜けしたりしないところだと思ふ。
ゆゑにいろんなペンで書きたいんだよね。

さう、神戸手帖の気に入つてゐるところといつたらそこだ。
萬年筆をいろいろと使ふことができる。
ペンの選択の幅が広がる。
Moleskine では味はへない贅沢な気分だ。

それと、佇まひがいい。
とくに机においたときの表情がとてもいいのだ。
そのまま眺めてゐてもいいし、なんとなく「開いて書いてくだされ」と云つてゐるやうにも見える。
新書よりちよつと小さいくらゐの大きさだから、手に持つたときもしつくりくる。
Moleskine のポケットサイズや Smythson の Panama のやうに片手でぱらぱらめくることは、やつがれの小さくて不器用な手ではちよつと無理だけれども、通常の大きさの手なら問題なくできるんぢやないかな。

Moleskine のポケットサイズよりはだいぶ大きいので、かばんの中にうまくおさまるか心配だつたが、一番小さいかばんでギリギリといつたところかな。
いまのところ持ち歩くのに不便を感じたことはない。

カヴァの色は六甲グリーンを選んだ。
グリーンにした理由はとくにない。
ブルーやセピアもいいけれど、グリーンの手帳は普段持たない色だなと思つて決めた。
カヴァは、手の脂がちよつと残るかなあといつたところ。
表と裏と見返し部分にちいさなポケットがついてゐて、チケットなどをはさんでおくといい感じだ。

全体的にはいい手帳だ。
あとは読み返しやすい字で書ければ問題ない。
そこは自分のせゐだからなあ。
まだ使ひはじめて一週間たたない。
今後また印象が変はるのではないかな。

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Wednesday, 18 November 2015

「夜の入り口」第4シーズン「ポポイ」 愚者の深読み篇

11月12日(木)、西麻布の音楽実験室 新世界でproduce lab 89の「夜の入り口」第4シーズン「ポポイ」を聞いてきた。
19時開演の初回を聞いた。
「ポポイ」は倉橋由美子の小説である。
演奏がついて複数人で朗読するのを聞くのははじめてだつた。

あー、ジョージ・タケイが朗読してときどきレナード・ニモイがMr.スポックの独白をするといふ「スタートレック4 故郷への長い道」を聞いたことはある。
Mr.スポックはおまけのやうなものなので、これは除外していいだらう。

音楽があつて朗読者四人がそれぞれ登場人物を担当して朗読するといふ、演劇仕立ての朗読だつた。
「ポポイ」はもともとはラジオドラマとして書かれたものなのだといふ。
演劇的な要素のある方がそれつぽいのかもしれない。

舞台の下手にピアノ、シロフォン、木魚、お鈴など楽器が組まれてゐる。
このあたりはやつがれの座つたところからは死角になつてしまつてよく見えなかつた。
下手から、演奏担当の鈴木光介、村岡希美、粟根まこと、佐藤真弓、須賀貴匡の順に並んでゐた。

まづ演奏者である鈴木光介が「ポ」の音を重ねた音楽を流しはじめた。
見えなかつたのでわからないけれど、最初は自分で歌つてゐたのかな。だとしたらどこかの時点で録音したものに変はつてゐると思ふ。
この「ポポポ」といふ音の連なりには、眠つてゐるmindの底から意識が泡のやうにわき上がつてくるやうな効果があつた。
そのうち時折「イー」といふ音が入るやうになつて、鈴木光介が歌ひ出す。
「Open your mind」といふ歌詞に、「ああ、さうか、「ポポイ」はさういふ話だよな」と、すこし目の覚めるやうな思ひがした。

倉橋由美子の「ポポイ」は、割腹自殺をはかつた美少年の首を主人公の栗栖舞が面倒を見る、といふ話である。
舞は首にポポイといふ名前をつける。
ポポイには生前、といふか首だけになる前にいろいろと謎があつて、舞はそれを明らかにしやうとする。

……と書いて、なにか違ふなあと思ふ。
舞は、謎の解明にはそんなに積極的ではないからだ。
まあ、でも、さういふことにしておかう。

最初は意思の疎通のままならなかつた舞とポポイだが、次第に意思の通じるやうになる。
「Open your mind」でせう。
また、「Open your mind」といふのは観客へのメッセージのやうにも聞こえた。
「mindを開放して聞いてね」つてね。
さう思ふとなんだか楽しくなつてきて、すんなり朗読の世界に入りこむことができた。

行く前に「ポポイ」をすこし時間をおいて三回読んだ。
予備知識なしで行くことも考へたけれど、今回は読んでから行つてよかつたかな。
朗読がはじまると、「ポポイ」を読んだときの記憶が活性化するやうな気がしたからね。

楽器群の上手に四つ椅子が並んでゐて、一番下手側に村岡希美が座つた。
小説のト書き部分と舞のせりふの部分とを担当してゐる。
「ポポイ」は舞の一人称で語られるので、ほぼ読み上げつぱなしだ。

行く前は、舞のことを「薄い印象の人」だと思つてゐた。
作中、自分のことを「ニュートラルな人間だ」と評する部分があるからだらう。
来るものは拒まず去るものは追はず、といつた人なのだと思つた。
嫌ひなものには近づかず、好きなものにはそばにゐてほしいけれど失つたときのさびしい気持ちも悪くない。
そんなやうなことを語つてゐる。

村岡希美の舞は、もつと強い印象の人だつた。
考へてみれば、舞は「好き嫌ひははつきりしてゐる」と自分でも云つてゐる。
作中にあるとほり世の中のことについて「何々すべきである」と考へるタイプではないのかもしれない。
しかし、強烈な個性の持ち主であり、確固とした個である。
そして、心にちよつぴり遊びの部分がある。
そんな風に聞こえた。

ニュートラルといへば、村岡希美の上手側に座つてゐた粟根まことの佐伯さんの方がよつぽどニュートラルだ。
佐伯さんは脳科学者で舞の婚約者だ。ポポイの「世話」を舞に依頼するのが佐伯さんである。
粟根まことの佐伯さんはニュートラルといふか、遠い。
通常ひとりで朗読するだらう村岡希美の読み上げるはずだつた箇所を代はりに読んでゐる、とでもいはうか。
佐伯さんそのものといふよりは、舞といふフィルタを通して見た(聞いた)佐伯さんといふ感じがした。
一人称の小説とはさうしたものだらう。

そして、朗読担当の並び順に気がつく。
最初は登場順かなくらゐに考へてゐた。
実際はさうなのだらう。
でも、なんていふのかな、舞にとつて本来親しいはずの順に並んでゐながら、舞から見たら心理的な距離は一番遠い順に並んでゐるのではないか。
途中からそんな気がしてきた。
愚か者の深読みではあるがね。

粟根まことの上手側に座つてゐる佐藤真弓の聡子さんの方がずつと親しげだ。
聡子さんは舞の義理の祖母の孫で、親戚の中では舞と一番年齢が近い。
舞も聡子さんとは話しやすいと思つてゐるやうである。
知性こぼるるおとなの女の人はこんな話し方をする。
ころころと転がるやうな、ゴムまりのはづむやうな、口にすることばの中に音楽のあるやうな、そんな印象を受けた。
佐藤真弓はもう一役、新聞記者も担当してゐた。
こちらも実に生き生きとしてゐて、血と肉通ふ感じだつた。
少年役とかも是非聞いてみたい。

佐藤真弓の上手側、といふか一番上手側には須賀貴匡が座つた。
ポポイである。
本来ポポイは声が出ない。
作中では、最初は目の動きなどで意思を伝へ、途中からは特殊な入力装置を使つて意思を表明するやうになる。
「少年」といふことばから連想するよりも落ち着いた声で、それでゐながらときにちよつと甘えたやうな感じがしたり、こどもつぽかつたり、疲れてゐたり、さまざまな表情を聞かせてくれる。
朗読会のあとの古屋美登里と豊崎由美との対談で、「倉橋先生もきつと気に入つたと思ふ」などと語りあつてゐるのを聞いて深くうなづいてしまつた。
最初舞はポポイの謎を探つてほしいと佐伯さんに云はれて預かる。
物語が進むにつれ、それとはまつたく別にポポイに興味を惹かれていくやうに思ふ。
さうなるのもむべなるかなといふポポイだつた。

朗読用の編集は最高だつたと思ふ。
朗読した部分よりもしなかつた部分の方が多からうに、それで物語がわからないといふことも物語が痩せて聞こえるといふこともない。

原作には、舞が大学の友人である酒井君と小旅行に行く場面がある。
ポポイの故郷を訪ねてその前身である田丸平吾のことを探る旅だ。
酒井君は朗読会には登場しない。
その名前すら出てこない。
朗読会ではこの部分は音楽で表現されてゐた。
鈴木光介のトランペットの音楽がそこはかとなくロードムーヴィーを思はせるやうな旋律を奏でてゐた。
トランペットを吹きながらピアノも弾いたりしてゐたのか知らん。
死角に入つてゐたのがつくづく残念だが、その分音楽に集中できた、と日記には書いておかう。
このくだりの演奏では、粟根まことがボンゴを叩いてゐた。
道理で手にした本を椅子の背と自分の背とにはさんでみたり出してみたりもぞもぞしてゐたはずだ。
おそらく叩いてゐる最中邪魔にならない位置を探つてゐたのだらう。

万年寝不足でなにかあると寝落ちしてしまふので、行く前は「寝ちやつたらどうしやう」と不安だつた。
杞憂だつた。
こんなことなら松橋登の朗読会にも行つておくんだつたなあ。
と、いまさら云つても後の祭りなので、今後はかういふ機会があつたら逃さぬやうにしたい。

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Tuesday, 17 November 2015

またしてもレース糸の色の話

タティングレースもさほど進んではゐない。
あみものよりは進んでゐるかな。
昼休みに作つてゐるからね。

先日ボビンに巻いてゐた Lisbeth #40 の Ocean Turquoise Dk は使ひきつてしまつたので、いまはおなじ Lisbeth #40 の段染糸を使つてゐる。
どちらもおなじ40番手のはずだが、なんとなく太さが違ふやうな気がする。
今回使つてゐる段染糸の方が若干細い。

色のせゐでさう感じるのかな、とは思ふ。
今回使つてゐるのは、桃色や黄色の段染糸だ。色がまざつたところは橙色や紫色になつたりしてゐる。
どちらかといへば、ターコイズよりも膨張色だと思ふんだけどなあ。

いま作つてゐるのは、先週のエントリの写真にあるモチーフとほぼおなじだ。中心のリングのピコにつなぐ小さなリングの目数を変へてみた。
前回作つたものより二目減らした。
モチーフ自体がすこし小さくなるので、糸も細いやうに感じるのだらうか。
太いの細いのといつても実に微妙な差なので、目で見ただけではよくわからない。

よくよく見ると、スティッチのふくらみ具合がことなつてゐる。
ターコイズの方がスティッチがふくらんでしつかりしてゐるやうに見える。
手加減が違ふだけかもしれない。
段染糸の方が糸を引きやすいんぢやないかなあ。糸のすべりがいいといふかさ。

以前書いたやうに、オリムパスの金票40番の緑色が好きである。
この糸は、なぜかスティッチがぱつきりと際だつのがいい。
ほかにはターコイズを使ふとそんな風なスティッチになる。
理由はわからないが、おそらく染料のせゐなんぢやないかと思つてゐる。
緑やターコイズに使はれてゐる染料に、タティングのスティッチをぱつきりと見せる効果があるのぢやあるまいか。
おなじ金票40番でもほかの色の糸にはさういふ感じを受けないからだ。

と、何度か書いてゐるのだが、「さうだよね!」といふ意見を聞かないので、単に気のせゐなのだらう。
毛糸などは、おなじ糸でも色によつて太さが違つたりする、といふ話を聞くけどね。黒より白の方がほんのわづかに細い、とか。さうしないと太さがそろつて見えないから、といふのだ。
でもそんなことしたら、色を変へたらゲージも変はつちやふんぢやない?
さうも思ふが、ゲージが変はるほどの差はないのだらう。
この話がほんたうだとして、だけどもさ。

そんなだから色によつて結びやすいものもある。その反対もある。
黒はなんとなく結びづらい。
よく見えないからかなあとも思ふが、おそらく違ふ。
黒いレース糸は使つてゐてなんとなく針金のやうな印象がある。
スティッチもふんわりした感じにはならない。
どこか糸を引き切れてゐないやうな印象を受ける。
それでも黒いレースといふのはいいものだ。
だからつひ黒い糸を手にしてしまふ。

まあ、年賀状には黒い糸とか白い糸は使はないけどね。
次にボビンに巻くとしたら牡丹色の糸かなー。
手持ちの糸をいろいろ使ふのは楽しい。
年賀状には間に合はないかもしれないけどな。

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Monday, 16 November 2015

平成枯れすすき

Domino Knitting に掲載されてゐる Striped Shawl は、先週もほとんど編めてゐない。
このままではできあがる前に冬が終はつてしまふのではないかと思つてしまふ。

編めてゐない理由は家にゐないから、とは先週も書いたとほりである。
先週は、木曜の夜に朗読会に行き、翌朝は始発のバスで大阪に向かつて大☆新感線博と文楽とに行き、土曜日も懲りずに大☆新感線博に行き、日曜日は国立劇場といふ感じで遊び回つてゐた。

遊び過ぎだな。

土曜日はほんたうは神戸に行くつもりだつた。雨であきらめた。
もうひとつあきらめた理由は、神戸に行つて立ち寄るところといつて、ナガサワ文具センターとかドヰ手芸とかユニオンとか散財必至の場所ばかりだからだ。
これだけ遊び回つて、そのうへさらに散財を重ねるなんてできない。
さう思つた。

一時は遊び回るのはやめやうと思つてゐた。
もつと frugal に生きなければ、と思つたからだ。
「アリとキリギリス」のアリのやうに倹約生活を送らなければ、お先真つ暗だぜ。
さう思つたのである。

だか待てよ。
いま倹約したからといつて、未来が明るいとは限らない。
大変なインフレーションになつたりしたら、あまり意味がない。
それに、どう考へても職がなくなつたりしたら芝居を見には行けない。
チケット代よりもなによりも、劇場に行つて帰る運賃が払へなくなる。
だつたらいまのうちにせつせと行つた方がよくあるまいか。
そして、余生は過去の記憶とともに暮らすのである。

そのときは記憶をよすがとして、あみものしながら暮らせばいいんぢやあるまいか。
さうしたら、なにもこの冬に Striped Shawl を編み終はる必要はないのかも。

なんとなくうしろ向きにそんなことを考へてしまふ。
いや、それともこれは前向きなのかな。
まづしくともそれなりに生きていかうつて考へてるんだもんね。
計画性は皆無だけれど。

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Friday, 13 November 2015

十年後の大学或いは学歴コンプレックス

produce lab 89の「夜の入り口」は第四シーズン「ポポイ」に行つてきた。
倉橋由美子の「ポポイ」の朗読会である。

詳しい話は後日にゆづることにして、このときテクストの編集について気になるところがあつた。

倉橋由美子の「ポポイ」は原稿用紙200枚くらゐの中編であるといふ。
これを一時間(72, 3分?)で朗読するにはだいぶ刈り込まなければならない。
行く前に3回読んだ。
実際に朗読を聞くとうまいこと編集されてゐてほとほと感心する。
あちこち削られてゐるけれど、それで話の筋がわからないといふことがない。
また、ト書きにあたる地の文は省略しても読み手がそれを埋める演技をするから不要でもある。

全体的にはそのとほりなのだけれども、ある一カ所が気にかかつた。

「ポポイ」は近未来の物語である。
豊崎由美によると、「フランク・ロイド・ライトが百年ほど前に建てたホテルに似てゐる」といふやうな一文があつて、ライトが建てたホテルといふと1923年の帝国ホテルか1926年のビルとモア・ホテルなのだといふ。
「ポポイ」の舞台はいまからざつと十年後くらゐといふことだ。

いまから十年後の未来では、大学ではネットの掲示板のやうなものを使つてセックス・フレンドを募集するやうなことをしてゐる。
しかも大学の施設をいくらかで借りるといふ。
豊崎由美は古屋美登里との対談で「倉橋先生もここの予想だけははづしましたね」と云つてゐた。
大学のネットワーク環境などは、だんだん利用規則の厳しいものになつてゐるのださうで、セックス・フレンドを探すだなんてとんでもないといふ状況なのらしい。

さて、そんな大学の立場がどうなつてゐるのかといふと、主人公である栗栖舞はこんなことを云つてゐる。

前世紀的な大学卒業資格にこだわる必要のある、中流の中以下の平凡でこれといつた取柄も特徴もない人間

どうやらこの世界では、大学は卒業するところではなくて自分の学びたいことを学びに行くところなのらしい。
舞自身はといふと、研究生といふ立場で大学に籍を置いてゐて、どうやら気の向いたときにふらりと大学に行くのらしい。
研究生は学生と違つて、自分の興味のあることしか学ばない。
教授に直接学費を払つてゐるやうな状態で、ゆゑに学生より学費は高くつくのだといふ。
教授たちも、お仕着せのセットを押しつけられてゐる学生よりも、自由に学びにくる研究生を大事にするのらしい。

朗読会ではこの「前世紀的な大学卒業資格にこだわる必要のある、中流の中以下の平凡でこれといつた取柄も特徴もない人間」のくだりは省かれてゐた。
その前後は生きてゐたにも関はらず、だ。
もちろん、このくだりが削られてゐたからといつて物語がわからなくなるといふことはない。
こだはるのは、朗読会に行く前に気になるところとしてこのくだりを書き抜いてゐたからだ。

自分には妙な学歴コンプレックスがあつて、最終学歴を知られたくないとつねづね思つてゐる。
通つてゐた学校の名前も知られたくない。
Facebookなどで出身校を登録しませうなんてあるけれど、とんでもない話だ。
できれば履歴書にも書きたくない。
ある意味では大学卒業資格にこだはつてゐないともいへるが、はたしてさうなんだらうか。

世の人はどうなんだらう。
自分の母校をなんの屈託もなく口に出せるものなのだらうか。
「私は何々学校を卒業しまして」だとか「学生時代の専攻は何で」とか他人に披露することにためらひはないのか。
ないのだらうな、多分。

でもこの「前世紀的な大学卒業資格にこだわる必要のある、中流の中以下の平凡でこれといつた取柄も特徴もない人間」といふ一文を省いたといふことは、なにかしら屈託があるんぢやあるまいか。
さもなければ、この前後もばつさりと削つてゐるんぢやないかなあ。

全体とは関係のない細かいことばかり気になるのがやつがれの欠点である。

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Thursday, 12 November 2015

「好き」といふ契約

好きといふことについて考へてゐる。

自分にはこの世に好きなものはない。

「さうは云つても、歌舞伎は好きなんでせう」だとか「あみものはどうなの」だとか「あれだけ使つてて萬年筆が嫌ひなわけないよね」と云はれることもある。

うむ。
歌舞伎は好きだ。
あみもののない暮らしは考へられない。
萬年筆がなかつたらこんなにあれこれ書き散らすことはないだらう。

でも、なんといふのかな、好き、といふ気持ちはもつと熱いものなんぢやないかといふ気がしてならない。

つまり、やつがれには「好き」といふのがどういふ気持ちなのか、いまひとつわからないのだ。

以前も書いた如く、軽佻浮薄なものが好きになれない。
世に云ふ「みーちやんはーちやん」つまり「ミーハー」といふものをこどものころは忌み嫌つてゐた。
その後、ミーハーといふのはとても楽ちんであることに気づき、自分の中で和解したんだけどね。

好きといふ気持ちはうつろひやすい。
あるときは熱狂的な思ひに身も心も焼き尽くすかのやうに思つて苦しかつたりするのに、またあるときにはその熱もすっかり消へ去つて、好きであつたことさへ忘れてしまふ。
そんなことがある。

そんなうつろひやすい感情を、信用できるはずがない。

軽佻浮薄なものをとくに許すことのできなかつたこどものころは、「好き」といふからには責任を持て、とも思つてゐた。
大げさに云ふのなら、永遠の誓ひをたてろ、といふことだ。

終生変はらぬ愛とかいふと結婚式のやうだが、なに、そんなものを誓つたはずのふたりだつてあつといふ間に別れてゐたりする。

なにかを「好き」と宣言すること、それは、自分にとつては契約なのだつた。
「好き」と宣言したからには、この命の尽きるまで忘れはしない。
すくなくとも、ボケるまでは忘れない。
さうしてずつと味方でゐる。
その覚悟がなければ、好きだなんぞと軽々しく口にしてはならない。

ミーハーと和解したいまでも、自分の中では「好き」といふのはさういふものだと思つてゐる。
そして、契約とは、熱い思ひによるものではない。
もつと冷静な、先々の計画とともに結ぶものである。

すなはち、自分があるものを「好き」といふときには、そこに熱い感情が欠けてゐる。
自分には好きなものがないと思ふ所以である。

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Wednesday, 11 November 2015

道具が泣いてゐる

字が汚い。
雑といつてもいい。

きれいに書きたいといふ気持ちはあるし、かういふ字が書きたいといふ理想像もぼんやりとだがある。
しかし、どうしても見づらい字になつてしまふ。

もつときれいな字、読みやすい字、理想に近い字が書けたらなあ。
せつかくいいノート、すばらしい筆記用具を使つても、字がこれぢやあね。

読みやすい字が書けたら、日々あれこれを書きとめてゐる手帳ももつと有用なものになるだらう。
探してゐるものがすぐ見つかるやうになるからだ。
一々赤青色鉛筆などを使つて線を引かなくてもいい。
線を引くことは、それはそれで楽しいけどさ。

きれいに、丁寧に書かうといふ意思はある。
でも、とにかく書きたいといふ欲求の方が勝つてしまふんだな、多分。
それで一気呵成に書いてしまふ、と。
すると、どうしてもスピード重視になつてしまつて、すごい字になつてしまふ、と。
時間をかけて書いてゐたら、書きたいと思つてゐたことがどこかに消へてしまふもの。

毎日こんなに書いてゐるのになあ。
「好きこそものの上手なれ」といふのは、あれはウソだな。
「下手の横好き」こそ正しいよ。

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Tuesday, 10 November 2015

なぜできるやうになつたのかがわからない

あきらめて、年賀状用にタティングレースのモチーフを作りはじめた。

Tatted Motif

これは、Lisbeth #40 の Ocean Turquoise Dk で作つたモチーフだ。
デザインは藤戸禎子、といひたいところだが、スティッチの数が少し違ふ気もする。
以前、これとおなじやうなモチーフを極細毛糸で作つてマフラーにした。
なのでだいたいのところは手が覚えてゐるのだが、細かいところは不明だ。
外周の大きいリングはあつてゐると思ふのだが、真ん中のリングにつながつてゐる小さめのリングのスティッチの数が違ふ気がする。
だからといつて、自分で考へたモチーフとは口が裂けても云へないがな。

この糸は、Lisbeth にターコイズブルーが何種類かあるのでどう違ふのか確認するために買つたものだ。
だから一玉しか買つてゐない。
そんなの、糸見本を買へばいいぢやないか。
さういふ向きもあらう。
やつがれもさう思ふ。
さう思ふが、これを買つたときにはさう思はなかつたのだらう。
いい色の糸だと思ふ。
ちよつとくどいかな、とも思ふが、ここのところ periwinkel ばかり使つてゐたので新鮮だ。
いいよね、たまにはかういふ色も。

このモチーフはシャトルひとつでできる。
タティングレースをはじめたばかりのころは、これがうまく作れなくてね。
いまでもうまく作れるとは云はないが、抑へつけなくてもさほど波打たないくらゐにはできるやうになつた。
初心者(いまでも初心者のやうなものだが)のころは、外周がつれてしまつて形にならなかつた。
どんなに抑へても平たくならない。
つれるのでつなぐためのピコを長めに作れば今度は波打つ。
これと似たやうな形のモチーフでは必ずさうなつた。
それで「自分にはこのタイプのモチーフは作れないのだ」と思つて、長いこと作らずにゐた。

モチーフつなぎのスカーフを作るときに、タティングシャトルひとつで作れるモチーフがいいと思ひ、久しぶりにこのモチーフ(によく似た形のモチーフ)を作つてみたところ、なんとか作ることができた。
なにが変はつたのだらうか。
実は自分ではよくわかつてゐない。
なぜこのタイプのモチーフを作れるやうになつたのか。
手が覚えた、としか云ひやうがない。
いつのまにかできるやうになつてゐた。
これとは別のおなじやうなタイプのモチーフも、作れるやうになつてゐた。
なんでかのう。

そこがわかれば、いまできないこともできるやうになるやうな気がするんだがなあ。

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Monday, 09 November 2015

暗黙の了解に負ける

Domino Knitting に掲載されてゐる Striped Shawl を編んでゐる。
あまり進んでゐない。
先週は飯田に行つたりして、家にゐない時間が長かつたからだ。

考へてみたら、あみものを持ち歩かなくなつてずいぶんとたつ。
以前は出かける先にも必ず持つて行つたものだつた。
まあ、編んでゐるものはくつ下だつたりポットホルダーだつたりはしたのだけれど。
ショールとか着るものなんかは持ち歩いたことがないかもしれない。
単純にかさばるからね。

持ち歩く場合、大抵は厚い帆布のトートバッグを使ふ。
毛糸も編み針もその他綴じ針などの小物も全部入れる。
厚い地にするのは編み針などの先端が突き出ないやうにと思ふからだ。

くつ下くらゐだと、月光荘の縦長のショルダーバッグがぴつたりくる。
絵筆を入れる部分に編み棒を入れることもできるしね。
これが、スピンドルで紡ぐときのあれこれを入れるのにもぴつたりだつたりする。
スピンドルも、単糸用と双糸用と二本入れることもできるしね。

実際のところ、持ち歩かないと編めないといふこともある。
自宅にゐる時間が短いからだ。
隙間時間に編みたい。
芝居の幕間とかね。
電車が止まつて駅で待たなければならないときとか。
いくらでも編める時間はある。

でも、なんとなく「あみものは家ですること」といふ暗黙の了解があるやうな気がする。

だから進まないのだ、と日記には書いておかう。

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Friday, 06 November 2015

無闇やたらと書きたくて

アリス・W・フラハティの「書きたがる脳 言語と創造性の科学」といふ本に、こんなくだりがある。

病気以外にふつうの人が書きたくてたまらなくなる原因は何だろう? 大きな原因は病気ではないがそれに近いもの、愛、それも不幸な愛だ。

愛は病気に近いのか。
それも、不幸な愛ゆゑに人は書きたくなるのか。

世にハイパーグラフィアといふものがある。
とにかく書きたくて書きたくてたまらない状態にあることを指す。
双極性障害、いはゆる躁鬱症の人がかかりやすいといはれてゐるやうだ。
「ハイパーグラフィア」をWeb検索すると出てくる例として、ノートやA2より大きいサイズの紙にひたすら文字を書き連ねるといふ話がある。
ひたすら書く人のこどもが公開したといふ。
写真を見ると、文章といふよりは単語の羅列が多いやうに見受けられる。
検索してひつかかつてきた説明を見ると、症状が重くなると文字の上に文字を重ねて書いてなにがなんだかわからなくなることがあるといふ。
症状の比較的軽いときには、他人が読んでもわかるものを書く。
大抵は陰謀論で、「かうすれば救はれる」といふやうなことが書いてあるのらしい。

なんだか考へてゐたハイパーグラフィアとは違ふ。
ハイパーグラフィアは、わけがわからなくてもまとまつた文章を書くものだと思つてゐた。
自分自身がさうだからだ。
時折、なんでこんなに書きたくてたまらないのかと思ふことがある。
今日なんかもそれで、日中ほかにすることがあるのにといふジレンマと戦ふことしばしだつた。
ひとつの話題について書くと、また別の話題について書きたくなる。
忘れないうちに書きとめなければ。
さうして止まらなくなる。

ところで、世に「ライターズ・ブロック (writer's block)」といふことばがある。
書きたいことがあるのに書けない状態をさすのだといふ。
何か書きたくて仕方がないのに書き出せない状態ともいへやう。
さういふこともよくある。
とにかく何か書きたいのだが、書くことを思ひつかない。
仕方がなく思ひつくままにあれこれ書きつけるのだが、「書きたいのはこれぢやないんだけどな」と思ひながら書き続けてしまふ。
無駄だなあ、といつも思ふ。
思ふが止められない。
あとで手帳を見返して、「ここは不要だなあ」と思ふことがしばしばある。

なるほど、「五右衛門vs轟天」の覚書を書いてゐるころ幸せだつたはずだ。
何も考へなくても書きたいことはいくらでもあつたからだ。
思ひ出せなかつたりぴたりとはまることばを思ひつかなかつたりして滞ることはあつたし、書き漏らしも多かつたけれど、総じて書きはじめるといつまでも書いてゐたい。
そんな気分だつた。

それも、不幸な愛ゆゑだつたのか。
書いてゐるあひだは幸せだつたがなあ。
フラハティ自身もハイパーグラフィアなのだが、不幸な愛ゆゑに書いてゐると思つてゐたのだらうか。

単にやつがれはハイパーグラフィアではないといふことなのかもしれないな。
または「ふつうの」人ではない、といふことも考へられるが、まあ、それはあるまい。

それにしても「不幸な愛」か。
思ひあたる節がないでもない。
まづは手帳に思ひあたる節を書き綴つてみるか。

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Thursday, 05 November 2015

店頭で手帳を見かけて

書店や文具店の店頭に、手帳が並んでゐる。だいぶ出そろつたやうだ。
来年の手帳はMIGNONと決めてゐるし、ほかにほぼ日手帳も使ふつもりだ。
でも、店頭であれこれ見ると心揺れるんだよねえ。

去年も気になつてゐたのがマルマンのクロッキー帳の手帳だ。
ほぼ正方形のものと文庫サイズくらゐの小さいものと二種類ある。
マルマンのクロッキー帳のクリーム色の方は萬年筆で書いてもにぢみづらく抜けにくくていいんだよねえ。
使ふなら正方形に近い形の方がいいなあ。
一時B6サイズのノートを使つた後に預金通帳サイズのノートに戻つてきたせゐか、もうちよつと大きいノートにのびのび書きたいといふ気持ちになることがあるからだ。
でもおそらく持ち歩かなくなるんだよなあ、あのサイズだと。
最近腰が痛いので、こぶりなかばんを持ち歩くやうにしてゐる。
こぶりといつてもル・ボナーのミセスだからそれなりに荷物は入るのだけれども、脇に抱へられるのでだいぶ楽だ。
ショルダーバッグは腰にくるんだよね。

例年気になるのが家計簿だ。
一度買つてみたことがあるけれど、カテゴリが自分の用途に合はないので結局最後まで使へなかつた。
いまはiPhoneで使ふ都度小遣ひ帳アプリケーションにつけるやうにしてゐる。
しかし、紙の視認性といふかノートの視認性も捨て難い。
気に入つたものがあつたら買つてみるかなあ。

ほぼ日手帳の使ひ道はまだはつきりとは決めてゐない。
易の記録をつけるつもりでゐるけれど、最近易とはすつかりご無沙汰してゐる。
本を読んだらまたやる気になるだらう。
易については以前も書いたやうに、占ひといふよりは自分の握る情報のどの部分を切り取るかを決めるものだと思つてゐる。
そのためには情報をできるだけたくさん多面的に持つてゐる必要がある。
それができるかどうかが易の決め手なんだと思つてゐる。

あとは、NHKのラジオ講座用のノートを用意しやうかなあと毎回思つてゐる。
これは四月はじまりの方がいいのかな。

それと、現在日記帳に代はるものがない。
今年のほぼ日手帳は日記帳代はりのつもりだつたが、現在は書けるときに書くくらゐである。
行動の記録は三年手帳がいいんだよねえ。
二年目からが楽しくなる。
いま使つてゐる三年手帳は今年が三年目だ。
来年用に新たな三年手帳を買ふかなあ。

さうすると、MIGNONとほぼ日手帳、三年手帳になんでも書き用のMoleskineかPanamaといつたところか。
それだとちよつと多いなあ。
もうちよつと手帳と戯れる時間を作れればいいのだが。

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Wednesday, 04 November 2015

おほつぴらに見る

10月29日の木曜日に永青文庫に行つて春画展を見て来た。

春画展は開催に至るまでいろいろと大変だつたのだと聞く。
それぢやあ見に行かなきやな、前期の展示は11月1日までだといふし。
といふわけで行つてきた。

話には聞いてゐたが、ほんたうにすごい人だ。
「今日の永青文庫は大変な人ですこと」と云ひたくなること請け合ひだ。
それでもこの日はチケットはすぐ買へたし、中にも即入れた。
中は大層混み合つてゐたけれどね。

開催にこぎ着けるまで大変だつたらしい、と書きはしたけれど、やはりかうして堂々と展示されてゐると、だんだん食傷してしまふ。
なんかもう飽きてきちやつたなー、と思つたころに、「最近は普通の春画では商売にならなくて」とボヤイてゐる人の絵が展示されてゐて、ちよつと笑つてしまつた。
江戸時代も後期になると、さまざまな趣向を凝らした春画が作成されたやうだ。幽霊物怪の類の出てくるのはさういふものなんぢやないのかな。

春画はできれば誰もゐないところでひそかに楽しみたい。
展覧会に行つておいてなんだけれどもさ。
そこへ行くと豆版の絵はいい。
5×3カードくらゐのサイズの紙に描かれてゐて、その精緻なことといつたら驚く。
覗き込むやうに見る感覚が、春画を見てゐるといふ気分になる。
展示されてゐる絵の中には「仮名手本忠臣蔵」を題材にした絵があつた。どの絵を見ても「きみたち、そんなことやつてる場合ぢやないだらう」といふものばかりでこれまたうつかり笑つてしまつた。

さういや春画のことは笑ひ絵ともいふね。

上方の人が描いたものは表情豊かといふのがおもしろかつたなあ。
あと、葛飾北斎はやはりちよつと別格。なんといつても、着物の描き方ひとつで「あ、これは北斎」つてわかるんだもの。
おなじやうな着物の描き方をしてゐる絵は一枚あつたくらゐだ。
ああいふ描き方をすると、リアルになり過ぎるのかな。

物販コーナーもこれまた大変な人出であつた。
北斎の蛸の絵のトートバッグなんて、どこに持つて行くんだよ。
まあ、もちろん当たり障りのない部分を切り取つてはあるけれどもさ。

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Tuesday, 03 November 2015

年賀状の行方

もう年賀状を出すのはやめやうかな。
そんなことを考へてゐるのは、タティングレースのモチーフをまつたく作れてゐないからだ。

シャトルに糸は巻いたんだけどなあ。
旅行先にも持つてきてゐる。
でも、高速バスの中ではちよつとやりづらい。
高速バスの中つて案外車窓を眺めてゐるだけであつといふ間に時間がたつてしまふものなんだよね。
たとへ新宿から四時間半近くかかるとしても。

京都や大阪に行くときの新幹線の車中さうだ。
以前はタティングもしたものだつたんだけれどもねえ。
芝居の幕間などでもよくタティングをしたものだつた。
むかしの歌舞伎座ではよく結んでたなあ。

過去ばかりふり返つてゐてもダメか。
記憶と理性とが心のよりどころだからさ。
つひ、ふり返つちやふんだよね。

とりあへず、今月はまだ二十八日あるから、そのあひだにどれだけ作れるか、それによつて年賀状をどうするか決めるか。

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Monday, 02 November 2015

秋色のショール

飯田に来てゐる。

道中、紅葉を楽しんできた。
とくに諏訪湖周辺はすばらしかつた。
紅葉を見るために来たわけではない。
たまたまだつた。
ほんたうは、九月か十月のうちに来たかつた。
一度はりんごの季節に来てみたいと思つてゐるしね。
しかし、この時期になつてしまつた。
その結果、山中湖付近を過ぎたあたりから、色づいた木々の葉を見ることができた。
幸運である。

秋色はいいねえ。
ほぼ毎年十二月には京都南座に顔見世を見に行く。
大抵十二月の頭に行く。
すると、新幹線の車窓に秋の名残があつたりするんだね。
名残といふよりは、最近では十二月の頭くらゐが紅葉の見ごろなのかな。

ところで、もともとやつがれは寒色系が好きだつた。
いまでも好きだ。
青とかね。あとは白黒とか灰色。
赤が入つてゐても紫。
それが、あみものをするやうになつてから好きな色が増えた、といふ話は何度か書いてゐる。
秋色もそれかな。
秋の色といふと、茶色系が思ひ浮かぶ。
でも、紅葉つて赤だし、黄色もあるし、常緑樹の緑も残つてゐる。
柿やハロウィーンのかぼちやは橙色だ。
そして、空は青い。

これが春の色だと、花の色が葉の色にとつて代はる。
空の青もすこしやはらかい。
夏には夏の、冬には冬の色がある。

なかでも秋色が好きなんだよね、といふわけで、Striped Shawl だ。

Striped Shawl in Progress

黒に近い焦げ茶を主に使ひ、朱色・抹茶色・山吹色・ベージュ・杢青・牡丹色をちよこちよこ入れる。
ちよこちよこ入れる色のチョイスは、「五右衛門vs轟天」で見た登場人物の衣装を参考にしてゐる。
とくに杢青はさう。
ここには出てゐない牡丹色はほかの色と合はせてみてよささうだつたので入れてみた。

本では、焦げ茶は紺色だ。
もともとの自分の趣味からいくと紺なんだよね。
でも秋色にしたかつたんだな。
合はせた色も秋色。

いはゆる Mitered Square のドミノ編みにしなかつたのは正解かな、といまのところ思つてゐる。

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Sunday, 01 November 2015

2015年10月の読書メーター

2015年10月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2124ページ
ナイス数:20ナイス

アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (新潮クレスト・ブックス)アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (新潮クレスト・ブックス)感想
ユダヤ人・ユダヤ教にこだはつてゐるけれどでも本質はそこぢやあないよねといふ話が七篇と、さうでもない話が一篇、かな。ちやんと読めてないのかも。原文もこんな饒舌体つぽい感じなのだらうか。「若い寡婦たちには果物をただで」はエリ・ヴィーゼルの別ヴァージョンといふ感じで読んだ。
読了日:10月2日 著者:ネイサンイングランダー
歴史から理論を創造する方法: 社会科学と歴史学を統合する歴史から理論を創造する方法: 社会科学と歴史学を統合する感想
戦つてるなー、といふ印象。
読了日:10月6日 著者:保城広至
超入門!現代文学理論講座 (ちくまプリマー新書)超入門!現代文学理論講座 (ちくまプリマー新書)感想
作者の為人や生涯は小説を手にした人が等しく共有している情報ではない。この本でいふ「テクスト」は等しく与へられる情報で、そこからいろいろ読み取るといふのはありだと思うんだけど、世の中的にはさうでもないのか知らん。
読了日:10月9日 著者:蓼沼正美
新釈 走れメロス 他四篇 (角川文庫)新釈 走れメロス 他四篇 (角川文庫)感想
全篇これ切ない。笑へる? いやー、笑へないなあ。原作を読んだ若いころを思ひ出すのか(と云ひつつ「山月記」はつひ最近読み返したばかりだが)、あまりにも思ひあたることが多過ぎて身につまされるのか、あるいは。
読了日:10月13日 著者:森見登美彦
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出文庫)花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出文庫)感想
「"可愛い"は男に使っちゃいけないのネ、よっぽどくだけた冗談以外には。(P71)」は拳拳服膺したい。なんちて。
読了日:10月15日 著者:橋本治
知の逆転 (NHK出版新書 395)知の逆転 (NHK出版新書 395)感想
「まえがき」に「この世からロマンが失われつつある」とあるが、ほんたうだらうか。さう思つたので読みはじめてみた。さういふ視点で読んでみると、とくにインターネットに関する質問には答へを誘導するやうなものが多いやうに感じる。実際はどうだつたかわからないけれど、「ここでインターネットに関する質問は妙ぢやない?」と思つたりとかね。かういふ違和感のある本を読みたかつたので、そこは Kein Problem だ。
読了日:10月18日 著者:ジャレド・ダイアモンド,ノーム・チョムスキー,オリバー・サックス,マービン・ミンスキー,トム・レイトン,ジェームズ・ワトソン
ポポイ (新潮文庫)ポポイ (新潮文庫)感想
ひんやりとした印象の物語。ポポイと主人公の祖父との関係を中心に再読する予定。
読了日:10月19日 著者:倉橋由美子
Lost in a Good Book: Thursday Next Book 2Lost in a Good Book: Thursday Next Book 2感想
カフカの「審判」を土台にした部分がをかし過ぎてたまらない。物語としては、シェイクスピアの幻の作品の真贋、サーズデイの夫ランデンの誘拐、「大いなる遺産」のミス・ハヴィシャムに弟子入りするサーズデイ、世界の終焉といつたところがほぼ同時に進行していく。前作よりおもしろくなつてゐるし、内容が内容だけに前作よりも切ない。
読了日:10月29日 著者:JasperFforde

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