常盤御前考
芝居に出てくる常盤御前は、気丈な女の人である。
気位も高くて、逆境にありながら誇りを失はず、源氏再興を信じてやまない人。
「一条大蔵譚」でもそんな感じでせう。
義朝の「北の方」としての威厳に満ちてゐる。
「平家女護島」に出てくる常盤御前もさうだ。
「平家女護島」では、俊寛の妻・東屋は、清盛に言ひ寄られて汚らはしいといつて拒絶して死んでしまふ。
このとき東屋は「常盤御前のやうなみつともない真似はしない」といふやうなことを口にする。
それを後で耳にした常盤御前は毅然として云ひ放つのだ。
「東屋風情になにがわかるか」と。
自分がなんのために屈辱に耐へ、生きながらへてゐると思つてゐるのだ。
下賤のものにわかつてたまるか。
それくらゐの勢ひだ。
芝居とかお浄瑠璃の常盤御前はさうした人なのだらう。
それはもう「お約束」で、さうしたものなのだと思つてゐる。
でもさ、それはもしかしたら違ふんぢやない?
といふのが、以前大阪松竹座で見た片岡秀太郎の常盤御前だつた。
秀太郎の常盤御前は、もう見るからにか弱くて、平家調伏を願ふにも弓を射るのがやつと、といつた風情だつた。
それくらゐしかできない。
それくらゐしかできないけど、でもやる。
そして、その常盤御前は、自分がこどものころ本で読んでつちかつてきた常盤御前のイメージにとても近かつた。
常盤御前といふと、「源義経」といふこども向けの伝記を思ひ出す。
最初のページに、三人のこどもをつれて雪の中を彷徨する常盤御前の挿し絵がついてゐた。
この先どうなるかわからない、逃げきれるかさへあやふやな中、こどもの手を引き胸に抱いての心細いことこの上ない逃避行だ。
こども向けの本だから、はつきりとしたことは書いてゐないけれど、このあと常盤御前は平家の手のものにつかまつて、清盛の女になる。
その後、一条大蔵卿に払ひ下げられる。
常盤御前には、それしかなすすべがなかつたのだらう。
こどものころは実際にはなにがあつたのかわからなかつたけれど、さう思つた。
夫は殺されて、こども三人つれて、一番下はまだ乳飲み子で、生き延びていくには、さうするしかない。
常盤御前はさう思つたのではあるまいか。
常盤御前のもとに三人のこどもが残されてゐたといふことは、常盤御前もその子たちも、義朝の筋のものとしてはさして重要視されてゐなかつたのだらうと思はれる。
たとへば義仲は義賢亡きあとは中原兼遠に守られてゐる。
常盤御前とこどもたちは、さうした寄る辺のない母子だつた。
自分の脳内で作り上げた常盤御前のイメージは、どこか頼りない、でもとにかくこどもは育てなければと思つてゐるうつくしい人、といふ感じだつた。
芝居やお浄瑠璃の世界でも、さうした常盤御前がゐていいと思つてゐる。
でもまあ、主流は「北の方」の常盤御前だよな。
なぜさうなつてしまふのかといへば、もちろん常盤御前が義経のお母さんだからだ。
芝居なりお浄瑠璃を書く人はそれが念頭にあるから、常盤御前が「北の方」になつてしまふ。
ほんとはさうぢやないのに。
まあでも、芝居の世界にはほんとぢやないことなんていくらでもある。
芝居の世界の中でほんとならそれでいい。
だから芝居の中の常盤御前は、平家調伏・源氏再興を願つて生きてゐる。
それしか願つてゐないかもしれない。
こどもを成長させやうと思つてゐるのも、ゆくゆくはお家再興のため。
芝居の世界の常盤御前はさうした人だ。
ゆゑに、「一条大蔵譚」の一条大蔵卿と常盤御前とがほんとに夫婦に見えてしまつてはいけない。
常盤御前にとつて一条大蔵卿はこどもを育てるための手段でしかないからだ。
ちよつとおつむが春なくらゐでちやうどいい。
それくらゐに考へてゐる。
常盤御前が一条大蔵卿を見なほすことがあるとしたら、それは大蔵卿が本性をあらはして後のことだ。
それでも常盤御前の性根はあくまでも「源氏再興」だから、「ちよつと見なほした」くらゐなんぢやないかと思ふ。
案外頼りになるのね、とか。
さうぢやない「一条大蔵譚」は芝居としてどうなのかなあ。
台無し、とは云はないけど、ちよつと違ふよね。
といふわけで、今月の「一条大蔵譚」を見に行くのをとても楽しみにしてゐる。
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