ものごとの本質とクソリプ
九月につくづく感じたことは、「自分はほんたうにものごとの本質といふものを見てゐない」といふことだ。
もちろん、以前から「さうなんぢやないかな」とは思つてゐたけれど、まさかこれほどだつたとはねえ……。
はじまりは、ゲキ×シネの「五右衛門ロックIII ZIPANG PUNK」を見に行つたことだつた。
多分、物語の本筋を追ふなら、これが正解のカメラワークなのだらう。
でも、そこぢやないところも見たいんですけど。
むしろ、そこぢやないところが見たいんですけど。
そんな感じだつた。
次が「キングスマン」だ。
以前も書いた「再話のつもりであらすじを書いて物語の基本構造にあてはめる」をやつてゐたときに、「でもやつがれが書きたいことはさういふことぢやないんだよね」といふ感覚。
もつといふと、「そんなのどーでもいいぢやん」といふ感覚。
とどめが昨日も書いた「五右衛門vs轟天」の覚書だ。
ムヒ(ムピだらうか)の重さなんてどーでもいいんだよ!
でも気になるんだよ。
気になるだらう?
思へば、国語の授業なんかでよくある「このとき主人公はどう思ひましたか。何字以内で書きなさい」といふ問ひについてもさうだつた。
そんなの、どーでもいいぢやんよ。
さう思つたことはないだらうか。
それよりも「なんで自分でお櫃からご飯をついぢやいけないんだよ」だとか、「この最後の一文がなければもつといいのに」だとか、「勝手にかぷかぷ笑つてればいーぢやんよ」だとか、さういふ方が大事ぢやないか。
大事ではないかもしれないけれど、やつがれにとつては重要である。
主人公がどー思はうと、そんなことは知つたこつちやない。
ところで、世に「クソリプ」といふものがある。
クソ・リプライの略だと思はれる。
元の発言に対して「そーゆーことが云ひたいんぢやないんだけどなー」といふやうな返答がくる、その返答のことをさすらしい。
それつて国語教育が不十分だつたからなんぢやないの、といふ意見を見かけた。
文章の内容をきちんと把握する能力や、筆者の云ひたいことを読みとる能力がないから見当違ひの返答をしてしまふ。
さういふことなんぢやないか、といふのである。
つまり、「このときの主人公の気持ちを書きなさい」と云はれて見当違ひの答へを書いてしまふ、さういふ人が世の中には多いんぢやないか。
それを云つたら、ゲキ×シネをはじめ舞台を録画したものを見て、「ここが見たいぢやないんだけどなー」とか云ふのはクソリプだらうか。
「ムヒの重さが」とか云ふてゐるのもさうか。
そんな気がする。
そんなわけで以前も書いたやうに映画を見ては再話代はりにあらすじを書いてそれを物語の基本構造にあてはめる、なんてなことを細々とやつてはゐるわけだけれどもね。
ちよつとでもものごとの本質を捕らへられるやうになつたらいいな、と思つて。
でもやつぱり「五右衛門vs轟天」の覚書のやうに「ムヒの重さが」だとか「更年期障害つて、身体はヲヂさんになつたんだから関係ないんぢやないの。それとも更年期障害つてやつぱりメンタルなものなの」とか書いてゐる方がずつと楽しいのだつた。
そして、楽しければそれでいいのだ。多分。
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