もつと楽しくならないか知らん
ここのところ、もつと楽しく芝居を見られないかと考へてゐる。
ここでいふ「芝居」とは主に歌舞伎をさす。
いまでも楽しく見てはゐる。
さうでなければ毎月行つたりはしない。
行つたりはしないのだが、なんていふのかなー、なんかもつと違ふ芝居の見方があるのではないか。
思ふに、大半の人の芝居の見方は、劇評のそれにしばられてゐる気がする。
劇評にあるやうな見方をしてゐる、といふべきか。
劇評のテンプレートに則つた見方をしてゐれば、他人と話すときも話しやすい。
依つて立つところがおなじだからだ。
意見の違ひは個人の資質によるのみ。
それなら会話も成り立つだらう。
でも、さういふ見方ばかりぢや、つまらなくないか?
劇評のテンプレートに沿はない見方のひとつに、自分の好きな役者を中心に見る、といふ方法がある。
これもまた多い。
歌舞伎の楽しみかたしては、この見方はとても正しい。
英語のイヤホンガイドの説明によれば、西洋(英米とかせいぜいそれに加へて西欧をさしてゐるものと思はれる)の演劇はrepresentするもの、歌舞伎はpresentするもの、だといふ。
やつがれの理解が正しければ、「西洋」の演劇はセリフや脚本が大事だが、歌舞伎で大事なのは役者なのだとか。
だとしたら、役者中心に芝居を見るのは正しい。
当然、やつがれも自分の好きな役者を中心に芝居を見る。
でもなー、その役者ひとりだけがよくてもおもしろくないんだよなあ。
見はじめたばかりのころ、中村吉右衛門と中村富十郎とが一緒に出る芝居がとても好きだつた。
どちらも好きな役者だけれど、一緒に出てゐるとなんだかいいのだ。
ひとりひとりが出てゐる芝居が十楽しいとしたら、ふたりそろつてゐる芝居は三十も四十も、ときには百も楽しいことがある。
最近はそれが中村吉右衛門と片岡仁左衛門になつてゐる。
残念ながら一緒に見る機会はそれほど多くはないけれど、六月の「新薄雪物語」なんてこの二人が出てゐるところだけで大満足だつた。
まあ、その後の「詮議」以降もよかつたけどさ。
それを思ふと、いままで見ることのできた市川染五郎の出てゐる芝居の中で一番好きなのは「アテルイ」なのは堤真一もよかつたからだらう、とか、先日も書いた「ZIPANG PUNK」で一番好きな場面は秀吉・五右衛門・慶次郎・三成の場面、とかいふのも、「ひとりだけぢやつまらない」といふことなんだらう。
複数の役者が出てゐていい感じで芝居をすると、「アンサンブルがいい」なんぞといふ言ひかたをすることがある。
菊五郎劇団を見てゐると「なるほど、かういふのを「いいアンサンブル」といふのか」と思ふし、猿之助劇団だとまた趣の違ふ「いいアンサンブル」を見られる。
でも多分、自分が好きのは「アンサンブルがいい」芝居ぢやないんだな。
なぜさう思ふのかといふと、菊五郎劇団にも猿之助劇団にもそれほど熱い思ひを抱いたりはしないからだ。
アンサンブルがいいと、ときにそれが裏目に出ることがある。
去年新橋演舞場で見た猿之助劇団の「俊寛」がそれだつた。
なんだか、みんな仲よささうなのだ。
いや、いいよ、さういふ解釈の「俊寛」があつても。
ただ、このときの芝居はさういふ解釈で演じたといふよりは、アンサンブルのよさが裏目に出てしまつた、そんな感じがしたのだ。
世の中には、「ケミストリー」といふことばがある。
多分、やつがれが好きなのはさういふものなのだらう。
さう思ひつつ、この「ケミストリー」といふことばが好きではない。
困つたね、どーも。
なにか、日本語で呼びたいんだよね。
できればやまとことば。
でもうまいことばがみつからない。
己が語彙のまづしさを嘆くしかない。
情けないね、どーも。
今後も芝居の見方を模索していくつもりだ。
しばらくは細かくてどーでもいい方向に進みさうなのが不安だけどな。
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