世間は何も強いはしない
岸田劉生は七世坂東三津五郎の大の贔屓だつたといふ。
しかるに世の人々は六世尾上菊五郎ばかりをもちあげる。
自分の芸術が受け入れられないといふ不満もあつてか劉生は「世間はなにもわかつてゐない」と三津五郎の芸を理解するもののないことを嘆いたといはれてゐる。
この話をはじめて聞いたとき、「わかるなあ」と思つた。
「わかるなあ」と思ひつつ、「わかる」といつてはいけない気がした。
「世間はなにもわかつてゐない」と云ひきつてはいけないと思つたからだ。
そして、それは多分正しい。
七世三津五郎も六世菊五郎も、どちらも実際に見たことがあるわけではない。
見たことがあるわけではないけれども、音羽屋の方が世間で話題になつてゐたからといつて、「世間はなにもわかつてゐない」といふことにはならない。
単に、世の人のもてはやすものと自分がいいと思ふものとが違ふ。
それだけの話だからだ。
さう理性ではわかつてゐても、なかなか納得できないんだよなあ。
ここのところノーベル賞の受賞者が発表になつてゐる。
日本人が受賞すると、「日本人として誇りに思ひます」といふやうなことを云ふ人がゐる。
それはかまはないのだけれど、受賞したのは他人なのにまるで自分が受賞したかのやうな錯覚を起こしてゐるとおぼしき人を目にすることがある。
これが理解できない。
サッカーJリーグの「サポーター」を受け入れられない気持ちとおなじだ。
我が家は日産自動車時代から横浜F・マリノスを応援してゐる。
だがつひぞ自分のことを「サポーター」だと思つたことがない。
応援してゐるチームが試合で勝つと、まるで我がことのやうに喜ぶ人がゐる。
他人の喜びを自分の喜びにすることはすばらしい。
しかしただ見てゐただけの観客の中には自分もまたなにかを成し遂げたやうな気分になつてゐる人がゐる。
とくに「サポーター」と呼ばれる人々或は自称する人々にさういふ人が多いやうに感じられて、それがイヤなのだ。
カーテンコールが好きではないのもこれとおなじ理由だ。
すばらしい芝居なり演奏なりを見たといふ喜びや感謝をあらはすためのカーテンコールが、まるで舞台と客席とが一体になつたかのやうな状態になることがある。
ただ見てゐただけの観客が、自分もまたなにかを成し遂げたかのやうな感覚に襲はれてゐる。
なにかを成し遂げたのは、舞台にあがるまで稽古に稽古を重ね、日々精進してきた演奏家なり役者なりだ。
客ではない。
演者と客とは立場が違ふ。
その垣根の曖昧になる感じが、カーテンコールはイヤなのだ。
世界的な賞を受賞した自国の人のことや応援するチームの勝利、贔屓の役者/演奏家の成し得たことなどを我がことのやうに感じる、それを厭ふのはやつがれの勝手である。
世間がさういふものであるのを認めたくないと思ふのもまたやつがれの勝手だ。
だが、やつがれが「イヤだ」と思ふその気持ちを世間に強いてはならない。
なぜといつて、世間もまた「お前も他人の為したことを我がことのやうに思ふやうになれ」とは云はないからだ。
もし、大勢がさうしてゐるから自分もさうしないといけないやうに感じてゐるとしたら、それはやつがれの問題だ。
世間は「お前もさうしろ」とは云はない。
さう云つてゐるやうに感じるのはやつがれ自身なのである。
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