含羞の彼方に
月亭可朝に「嘆きのボイン」といふ歌がある。
聞けば「ああ、これか」と思ふ向きも多からう。
はじめて聞いたら「え」と思ふかもしれない。
至極当たり前のことを歌つてゐるからだ。
この歌がいいなと思ふのは、「ボインといふことばは「うれしはづかし」いものである」と歌つてゐるところだ。
「うれしはづかし」ですよ。
「うれしはづかし」。
先日、永青文庫の「春画展」に行つてきた。
芸術目的で展示されてゐる春画の数々にはこの「うれしはづかし」の趣がない。
全篇「どーだー」といふやうに展示されてゐて、見る方は「あーそー」といふ感じになつてしまふ。
なんかさー、もつと、こー、「え、いいの? 見ても? ほんたうに?」みたやうなさ、hesitation がほしいんだよね。
だつてさういふ風に見たわけでせう。
もちろん、「どーだー」といふやうに展示されてゐるから見ることができるわけだけどさ。
これが「うれしはづかし」い展示だつたら、公に許されないし、見ることなんて到底できない。
見られるだけでありがたい。
だけど、そんなわけで豆判の絵を見るのが楽しいといふのもある。
名刺よりちよつと大きいくらゐのサイズの紙に美に入り細を穿つたふたりの睦ごとの絵が描かれてゐる。
のぞき込む感じになるところがとてもよい。
春画を見るときの気分つてこんな感じだよね。
さういふ気分になる。
永青文庫の「春画展」では「仮名手本忠臣蔵」を題材にとつた豆判の絵が展示されてゐて、どの絵をとつても「きみたち、いまそんなことやつてる場合ぢやないだらうよ」といふ趣があるのがまた笑ひを誘ふ。
さうか、笑ひ絵とも云ふしな。
#違ひます。
かうしたものには含羞がほしい。
ところで「巨乳」といふことばがある。
このことばに「うれしはづかし」い響きがあるだらうか。
そこは人によつて違ふだらうからなんともいへないが、やつがれはないと思つてゐる。
「巨乳」といふことばには含羞が感じられない。
どちらかといふと「どーだー」といふ印象を受ける。
しかし、含羞が感じられないと書きながら、書くときにどうしてもかぎかつこ付きになつてしまふ。
かぎかつこ付きで書いてしまふのは、自分の中で違和感のあることばだ、といふことだ。
たとへば先日も書いた「気づき」だとか「学び」だとかいふことばは、自分の中では違和感のあることば、もつといふと使ひたくないことばだ。
ほんたうなら使ひたくない。
でも仕方がないからかぎかつこでくくる。
実を云ふとボインといふことばもできれば使ひたくないんだけどね。
だつて恥づかしいぢやん。
「巨乳」を使ひたくない理由はちよつと違ふ。
このことばには「恥も外聞もない」といふ感じがするからだ。
おそらく、ボインといふことばも、生まれたばかりのころはさうだつたのだと思ふ。
まあ、なんてはしたない。
いや、はしたないのは今もさうか。
恥も外聞もない。
なんて「どーだー」といふ響き。
さう思はれてゐたのではあるまいか。
それを「うれしはづかし」と歌つた可朝師匠はやうすがいい。
さう考へると、「巨乳」といふことばもいづれは含羞を帯びたものになるんだらうな。
次第に含羞を帯び、「うれしはづかし」いことばに変はつていくのに違ひない。
それまで生きてゐるかどうかはわからないけれど。
でもことばの移りかはりは早くなつてゐる感じはするので、そのうちかぎかつこ抜きでこのことばを使へるやうになるかもしれないな。
それにしても、まさか自分が「巨乳」なんぞとこんなにくり返し書くとは思はなかつた。
おのれ、新感線MMFめ。
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