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Friday, 30 October 2015

含羞の彼方に

月亭可朝に「嘆きのボイン」といふ歌がある。
聞けば「ああ、これか」と思ふ向きも多からう。
はじめて聞いたら「え」と思ふかもしれない。
至極当たり前のことを歌つてゐるからだ。

この歌がいいなと思ふのは、「ボインといふことばは「うれしはづかし」いものである」と歌つてゐるところだ。

「うれしはづかし」ですよ。
「うれしはづかし」。

先日、永青文庫の「春画展」に行つてきた。
芸術目的で展示されてゐる春画の数々にはこの「うれしはづかし」の趣がない。
全篇「どーだー」といふやうに展示されてゐて、見る方は「あーそー」といふ感じになつてしまふ。
なんかさー、もつと、こー、「え、いいの? 見ても? ほんたうに?」みたやうなさ、hesitation がほしいんだよね。
だつてさういふ風に見たわけでせう。

もちろん、「どーだー」といふやうに展示されてゐるから見ることができるわけだけどさ。
これが「うれしはづかし」い展示だつたら、公に許されないし、見ることなんて到底できない。
見られるだけでありがたい。

だけど、そんなわけで豆判の絵を見るのが楽しいといふのもある。
名刺よりちよつと大きいくらゐのサイズの紙に美に入り細を穿つたふたりの睦ごとの絵が描かれてゐる。
のぞき込む感じになるところがとてもよい。
春画を見るときの気分つてこんな感じだよね。
さういふ気分になる。
永青文庫の「春画展」では「仮名手本忠臣蔵」を題材にとつた豆判の絵が展示されてゐて、どの絵をとつても「きみたち、いまそんなことやつてる場合ぢやないだらうよ」といふ趣があるのがまた笑ひを誘ふ。
さうか、笑ひ絵とも云ふしな。
#違ひます。

かうしたものには含羞がほしい。

ところで「巨乳」といふことばがある。
このことばに「うれしはづかし」い響きがあるだらうか。
そこは人によつて違ふだらうからなんともいへないが、やつがれはないと思つてゐる。
「巨乳」といふことばには含羞が感じられない。
どちらかといふと「どーだー」といふ印象を受ける。

しかし、含羞が感じられないと書きながら、書くときにどうしてもかぎかつこ付きになつてしまふ。
かぎかつこ付きで書いてしまふのは、自分の中で違和感のあることばだ、といふことだ。
たとへば先日も書いた「気づき」だとか「学び」だとかいふことばは、自分の中では違和感のあることば、もつといふと使ひたくないことばだ。
ほんたうなら使ひたくない。
でも仕方がないからかぎかつこでくくる。

実を云ふとボインといふことばもできれば使ひたくないんだけどね。
だつて恥づかしいぢやん。
「巨乳」を使ひたくない理由はちよつと違ふ。
このことばには「恥も外聞もない」といふ感じがするからだ。

おそらく、ボインといふことばも、生まれたばかりのころはさうだつたのだと思ふ。
まあ、なんてはしたない。
いや、はしたないのは今もさうか。
恥も外聞もない。
なんて「どーだー」といふ響き。
さう思はれてゐたのではあるまいか。
それを「うれしはづかし」と歌つた可朝師匠はやうすがいい。

さう考へると、「巨乳」といふことばもいづれは含羞を帯びたものになるんだらうな。
次第に含羞を帯び、「うれしはづかし」いことばに変はつていくのに違ひない。
それまで生きてゐるかどうかはわからないけれど。
でもことばの移りかはりは早くなつてゐる感じはするので、そのうちかぎかつこ抜きでこのことばを使へるやうになるかもしれないな。

それにしても、まさか自分が「巨乳」なんぞとこんなにくり返し書くとは思はなかつた。
おのれ、新感線MMFめ。

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Thursday, 29 October 2015

手帳を見返して

昨日は、眠気対策にこれまで手帳に書いてきたことを見返してみてゐた。
現在使つてゐるのは Smythson の Panama で、九月十三日から使つてゐる。

一番多いのは芝居に関する内容かな。
薬物(アルコールだ)の力を借りたら即回答が出た「アテルイ/阿弖流為」問題を10ページ近くかけてあらためて考察したものや、芝居を見に行つて幕間にあれこれ書いた部分が多い。
幕間に書ききれなかつた分をあとで補足したりとかね。

あと、「言語技術」から派生した「好きとはどういふことか」とか「高文脈文化と低文脈文化」の話が一時多かつた。
今月の頭に「こどものころ育つたフランスでは相手の言外の意味を勝手に類推するなと教はつた。「云はなくてもわかるでせう」といふのは日本独特のことだと思ふ」といふやうな呟きがRTされてきた。
これが納得いかなくてね。
フランスではさうなんでせうよ。
あるいはもうちよつと範囲を広げて低文脈文化の国々ではさうなんだらう。
でも、高文脈文化の国ではさうぢやないんだつてば。
さう思つたんだよね、そのときに。

でもぢやあ高文脈文化にはどんな地域があつて、そもそも高文脈とか低文脈とか云ふけれどそれつてどういふことなの、といふことについては恥づかしながら具体的なことがわからない。
それで本を手には入れたんだが、まだ読んでゐないことに手帳を見返してゐて気づいた。

「言語技術」について抱いてゐた違和感も、おそらくはそこに帰結するのではないかと思つてゐる。

三森ゆりかの提唱する「言語技術」について文句があるわけぢやない。
ひつかかるのは、「言語技術」を知らない少数派であることがなぜそんなにいけないことのやうに云はれなければならないのか、といふことだ。
欧米(といふくくり方に既に違和感を覚えるのだが)の人々とつきあつていくには、そこんとこが重要なんだらうけれど、ぢやあ相手にはこちらの高文脈な文化のことを理解してくれやうといふ気はないの?
「舶来のものはすべて素晴らしい」といふ考へ方とどこが違ふの?
そこんとこがよくわからないのである。
本来は互ひに歩み寄るものなんぢやないの?
とかさ。

いづれにしてもよくわかつてゐるわけぢやあないので、とりあへず本を読むことにしやうと思つてゐる。
いま読んでゐる Thursday Next Series を読み終はつたらね。

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Wednesday, 28 October 2015

I, Gambler

賭けごとはしない。
資産を持たないからだ。

賭けごとをしてもいいのは、負けても問題のない資産を持つものだけである。
だからしない。
競馬競輪競艇オートパチンコいづれもたしなんだことがない。
競輪はかつてはちよつと詳しかつたけれど、それでも車券を買つたことはない。
株も買はない。
損失が出たら暮らしていけないもの。

ギャンブルには縁のない人生だなあ。
さう思つてゐたのだが。
最近、突然気がついた。
芝居の前売り券を買ふといふギャンブルをしてゐることに。

気がついたのは、今月国立劇場でかかつてゐた「伊勢音頭恋寝刃」を見たときのことである。
この芝居には、これといつて好きな役者は出てゐない。
芝居もそれほど好きなものではない。
でも、去年の十一月に似たやうな面子の「伽羅先代萩」を見たら、これがいたくおもしろくて、ねえ。
この月に見たものの中では一番よかつた。
その記憶があるので「伊勢音頭恋寝刃」もいいかもしれないと思ひ前売り券を買つたのだつた。

ギャンブルをしてゐることに気がついた、と書くくらゐだから、そんなにおもしろい芝居ではなかつた。
「二見ヶ浦」が大阪松竹座のそれよりあつさりした出来になるのは想定内だし、滅多にかからない「太々講」が新歌舞伎じみてしまふのも仕方がない。
でも「油屋」までなんだか歌舞伎味が薄いとなると、ちよつと、ね。

「油屋」のどこが歌舞伎味が薄かつたのか。
まづ中村梅玉の福岡貢の「えつ」と驚く場面がちつとも歌舞伎ではないところだ。
まるで生なのである。
ええ、高砂屋にしてこれかい?
また中村壱太郎のお紺に生彩がない。
「太々講」の場では生き生きしてゐたからよけいにその差がはつきりしてしまふ。
お紺は去年梅枝と七之助とがそれぞれ初役で演じたのを見て「むづかしい役なんだなあ」とは思つたけれど、「油屋」のお紺はやつぱりむづかしいんだらう。
主たるふたりがそんな調子で、しかも大道具は江戸前の壁の色のすつきりした仕立てなもんだからよけいに寒々しい感じになる。

万野にしては可愛すぎるといふ評もあつた中村魁春については、万野には可愛げがあつてもいいと思つてゐるので、さういふ解釈もありかなと思つてゐる。
怖いばかりが万野ぢやないよ。

そんなわけで、期待して行つたら肩すかしをくらつた、と。
これつてギャンブルぢやん、と。
さういふわけなのである。

今月はまだ歌舞伎の「ワンピース」といふギャンブルが残つてゐる。
もう負けに行く気満々なのだが、こればかりは見てみないとわからない。
だからギャンブルなんだもんね。

前売り券購入を賭けごとにしないためにはどうしたらいいか。
好きな役者の出てゐる芝居だけ見に行けばいいのか。
それがさうでもないところがギャンブルのギャンブルたる所以だ。
上にも書いたとほり、好きな役者がひとりも出てゐなくてもおもしろい芝居なんていくらでもある。
「阿弖流為」だつてさうだつた。
逆に好きな役者が出てゐてもどーしよーもない芝居もある。
見に行くまではわからない。
ギャンブル以外のなにものでもない。

演奏会やコンサートもおなじだらう。
行つて見て聞いてみるまではわからない。
クレーメルとアルヘリッチだつたかなあ、録音されてゐない曲ばかりを並べた演奏会のチケットを取つたことがある。
行つてみたら、プログラムが変更されてゐて、全部録音のある曲ばかりになつてゐた。
さういふギャンブルもある。

芝居や演奏会が競馬パチンコ株取引などと違ふところは、負けても物理的な損失は出ないといふことだ。
元金分の楽しみは得られない。
でもそれを超えた損失が出るわけではない。
時間や交通費なんかがムダになるのは競輪だつて一緒だしね。

でも一番の違ひは、芝居や演奏会の場合は「勝つた」「負けた」といふ気分にならないことだ。
だからいままで前売り券を買ふことがギャンブルであることに気がつかなかつたのだらう。
期待どほり或いは期待をはるかに超えた出来の芝居を見たときは「よかつたー」となるし、逆のときはがつくり疲れる。

よかつたと思つても疲れても、「また次があるさ」といふ気分になるところはギャンブルと一緒なんだけれどもね。

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Tuesday, 27 October 2015

年賀はがきとタティングレース

この木曜日に来年の年賀はがきが発売される。
ここ何回か年賀はがきにはタティングレースのモチーフを貼り付けてゐる。
来年はどうするかのう。

年賀はがきにタティングレースのモチーフを貼り付ける理由は三つある。

  1. 年賀はがきを印刷するのに反対だから
  2. 普段作らないやうなモチーフを作る機会になるから
  3. 絵心がないから

「年賀はがきを印刷するのに反対だから」についていふと、年賀はがきを手で作らないんだつたら送るなよ、といふのがやつがれの意見だ。
プリンタでほいほい印刷するから送らなくてもいいやうな相手にまで送ることになる。
結果、配達に疲れたアルバイトが年賀状をそこらへんに捨ててしまふといふわけだ。
ムダ。
ほんたうにムダ。

手で書ける範囲で書いて出せば済むものを、と、いつも思ふ。
学校の教師だとか政治家だとか、さうも云つてゐられない職業の人間もゐるのだらうけれどもね。

なかには「字が汚いから」といふ人もゐるかもしれない。
なあに、そんな人は「そんなことありませんよ」といふ回答を求めてゐるに過ぎない。
それに、「徒然草」にもあるとほりだ。「手のわろき人のはばからず文書き散らすはよし」と。
プリンタに印刷させるのは、「見苦しとて人に書かするはうるさし」だ。
いいこと云ふなあ、兼好法師は。

「普段作らないやうなモチーフを作る機会になるから」は、もうほんたうにそのとほりである。
いまはとくに「The Twirly を作るプロジェクト」にかかりきりで、The Twirly 以外のモチーフを作ることがほぼない。
糸も、Lisbeth #40 の蔓日々草色(Periwinkle)しか使つてゐない。
たまにはほかのものも作りたいと思ふ。
でもプロジェクト進行中だからなあ。
プロジェクト以外のものを作ることをさまたげてゐる心の障壁を解除してくれるのが年賀状作りといふわけだ。

「絵心がないから」は、あつたら年賀はがきには絵を描いてゐるだらうと思ふからだ。
だつたらお絵かきソフトウェアで絵を描いてプリンタで印刷するのも可なり、と思つてゐる。
絵は自分で描いてゐるんだから、そこはよし、だ。
宛名さへ自分で書けばいい。

去年一昨年くらゐは、年賀状に向けてちまちまとモチーフを作りためてゐたりもしたけれど、今年はまだ一枚も作つてゐない。
これといつて作りたいと思ふやうな新たなモチーフもない。
糸だけはさまざまな色の糸がたくさんあるので使ひたい気もするが、作りたいモチーフがないのが痛い。

来年用には別の手を考へることにするか。
それともいまからせつせとモチーフを作るか。
ちやうど「The Twirly を作るプロジェクト」もきりのいいところにきてゐる。
まづはシャトルに巻いてある糸を消費するやうなモチーフでも作つてみるか。

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Monday, 26 October 2015

Striped Shawl を編む

結局、茶羽織は見送ることにした。
ほかに編みたいものができたからである。
糸は茶羽織を編むつもりで用意した糸を使ふことにして、ちよつと買ひ足してきた。

Domino Knitting の一番最後に掲載されてゐる Striped Shawl を編むつもりである。
なんか、暖かさうだつたんだもん。

この Striped Shawl は以前も編むつもりで挫折したことがある。
なぜといつて、編むのが遅かつたからだね。
いまはそのときよりは速くなつてゐるのでなんとかなると思ふ。
編み始めてみて、今回はいけさうな気がしてゐる。

土曜日に青山一丁目の三ツ葉屋に行つて糸を買ひ足して、必要な量ぴつたりだつたのでちよつと不安になつてゐるところだ。
使用してゐるのは Filatura Di Crosa の Zara だ。
廃番が決まつてゐるのらしいとは先週も書いた。

Zara に似てゐる糸といふと、パピーのダイドー牧場グランメリノだらうか。
Zara の方がしつかりした糸といふ印象がある。
編んでゐて、とにかく気持ちがいい。
ウォッシャブルらしいので、ちよつと糸が滑りやすいやうな気もするけれど、まあ、そこは今後の使ひ勝手に関はつてくるからいいかなつて。

Zara を三号針で編んでゐる。
指定のゲージよりも手がゆるいので、30目のところを26目で編みはじめてみた。
ひたすらガーター編みなんだけれども、これが楽しい。
かういふときつてあるんだよね。
ひたすらメリヤス編みだけをしてゐるのが楽しい状態のときつて。
Striped Shawl は Striped といふくらゐだからしましま模様である。
すなはち、途中で糸を変へて編むこともある。
それもまた楽しからずや。
編みモードに突入したといふことだらう。

Striped Shawl は、肩にかけたときに背中はすつぽり覆はれて、前も一番長い部分は足の付け根くらゐまではくるんぢやないかといふ、ちよつと大きいサイズのショールである。
膝掛けにもいいんぢやないかなあ。
細目の針で編んでゐるので、編み地は結構しつかりしてゐる。

Striped Shawl は、ドミノ編みの本に出てはゐるけれど、いはゆる Mitered Square ではない。
細長いストリップを編んで、編みながらつなげていく。
編みながらパーツをつないでいくのがドミノ編みといはれればそのとほりだ。

そんなわけでくつ下は最初の片方が完成間近のところで止まつたままだ。
一方、茶羽織はといふと、以前からあたためてゐる色柄があるので、それで編んでみるつもりでゐる。
また毛糸を探しに行かなければならない。
クイーン・アニーになら色がありさうなんだけれども、理想よりはちよつと糸が太いんだよねえ。
プリンセス・アニーにはなかつたやうな気がする。
リッチモアのパーセントにならあるだらうか。
あるいは、中細毛糸なら大抵の色は揃ひさうな気がするから、中細毛糸で探すかな。でも中細毛糸の二本取りだとやつぱりちよつと太い気がするんだよなあ。

といふわけで、毛糸屋通ひはまだつづきさうだ。
余分なものは買はないやうにしなければ、な。

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Friday, 23 October 2015

妄想の外に出ると

先月のいまごろは、まだ「五右衛門vs轟天」の覚書を書いてゐた。
千秋楽から二十日、とうに記憶は薄れてゐる。
「もうすぐ書き終はつてしまふ」といふのが一番問題だつた。

どうでも終はらせたくなかつたんだな。
すつかり薄れた記憶を呼び覚まさうとムダな努力をしてゐた。
すこしでも記憶が戻れば、その分書けるぢやあないか。

そんなわけで、幕が下りたあと(といつて物理的に下りたわけではないのだが)も何ページか書いてしまつたほどだ。
なにを書くことがある。
なにもないけれど、とにかく終はらせたくなかつたんだな。

ところで、先日「とり・みきのトリイカ!」といふコラムで、こんなことを書いてあるのを読んだ。

だが愛というのは端から見ると恥ずかしい。
本をこしらえるくらい暴走した愛ならなおさらだ。
それはつまり、ちょっとだけ気がおかしくなっている状態だからだ。
これは、当時放映されてゐたNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」にはまつてファンブックを作つた人々や、かつて「時をかける少女」の本を出したことのあるとり・みき自身に向けたことばである。
おそらく、「五右衛門vs轟天」の覚書を書いてゐたときの自分もこれにあたる。

愛といふのは恥づかしいんだな。
気がをかしくなつてゐる状態のままでゐれば、恥づかしいとは思はないだらうにね。
だが、ときに我に返るときがある。
覚書でいへば、書いたものを読み返してゐるときとかね。
さういふときは、たまらなく恥づかしい。

つまり、我に返らなければいいのだ。
「二人椀久」の椀屋久兵衛や「保名」の安倍保名は、みづからの状態を恥づかしいと思ふことがあるだらうか。
「お染の七役」のお光や「お夏狂乱」のお夏もおなじだ。
八重垣姫に恥ぢてゐるやうすが見られるのは、自分の勝頼への愛が恥づかしいからではない。
目の前に夢にまで見た勝頼がゐるから恥づかしいのだ。
別段、濡衣に見られてゐるからといふわけではない。

とくに椀久や保名はいいよね。
自分の妄想の中に閉ぢこもつてゐるのだから。
そこに外界からの介入はない。

お光は猿曳きの夫婦に心配されるし、お夏はこどもたちにからかはれた上馬子にからまれる。
さうしたときに、ふつと我に返ることがあつたりするのではあるまいか。
我に返ることがないにしても、ああいふ状態にあるのに自分の妄想の中に閉ぢこもつてゐられないのつて、なんだか可哀相な気がしてしまふ。
はふつておいてあげてよ。
さう思つてしまふのだ。

昔は女の物狂ひはその存在を許容されてゐたからさうなるのだらう。
男はダメだつたんでせう。
だから座敷牢なり誰もゐない野つ原の真ん中でひとり妄想にふけることになる。
「保名」には、捕り手が出てくることもあるらしいけれど、見たことがない。

おそらく「女だつて妄想の世界に遊びたいのよ」といふので坂東玉三郎は「阿国歌舞伎夢華」をやつたんぢやないか、と、これはまあ邪推である。
さうはいつても最後には阿国は一座の人々に心配されちやふわけだしね。

ひとつ救ひがあるとするならば、気がをかしくなるほど好きになるものごととはそんなに出会へるものではないといふことだ。
しかし、出会へないので「なにも書くことがない」などと嘆くことになる。
なにも書くことがない人間は二週間で萬年筆のコンヴァータにインキを補充したりしないとは思ふのだが、ここではそれはおく。

楽しかつたんだよなー、「五右衛門vs轟天」の覚書を書いてゐるときは。
この先しばらくはあんなに楽しいことはないんだらうなあ。

と思つてゐたが、来月になつたら渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーでは展示替へがあるだらうことに思ひ至る。
夏に別の場所に保管してゐる人形たちが惨事を被つたといふことで、修復作業がつづいてゐるのではないかと心配してはゐるのだが、多分、展示替へはあるだらう。
渋谷でないとしても飯田ではある。
十二月になつたら飯田市川本喜八郎人形美術館で展示替へがあるはずだ。
さうしたらまたしつこく書くのか。
書くんだらうな。
そして「なんて恥づかしい」と思ふのだらう。

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Thursday, 22 October 2015

英国製から仏国製へ

どうやら来年は Smythson から SCHOTT'S MISCELLANY DIARY(以下、SHCOTT'S) は出ないのらしい。
来年の手帳をどうしやう。
おなじサイズの Smythson の Panama の手帳にするか。
さんざん考へて、それはやめることにした。

使つた手帳と来年の手帳

なぜ SCHOTT'S を使つてきたのか。
それは、サイズが絶妙だからである。
薄くてかさばらず、どんなかばんにも入る。
これまでいろいろな手帳を使つてきたが、どうしても持ち歩けないときがあつた。
かばんに入らないからである。
入らない、といふと大げさかもしれない。
手帳を抜くとほかの荷物がちやんとおさまるから。
そんな感じかな。

これまで使つてきた中では、「超」整理手帳とかトラベラーズノートのスケジュール帳とかが結構気に入つてゐるのだけれど、使ひつづけてゐない理由はかばんにおさまらないときがあるからだ。
どちらもいいんだけどねえ。
据置で使へばいいのかなあとも思ふ。
昨今のセキュリティだのコンプライアンスだのとうるさい世の中のことを考へると、職場のことは職場で完結させておいた方がいい、といふこともある。

しかし、SCHOTT'S を使つてわかつた。
スケジュール帳は持ち歩いてナンボである。
持ち歩くからしよつ中見るし、持ち歩くからしよつ中書き込むことができる。
すなはち、活用できる、といふことだ。
これまで、スケジュール帳を使ひつつもなんとなく使ひこなせてゐなかつたのは、必要なときに手元にないことがあつたからだ。
SCHOTT'S を使ひこなしてゐるわけぢやないけれどもね。

SCHOTT'S を手に持つてみる。
やつがれの手は小さい方だ。
SCHOTT'S は持つたときの大きさがちやうどいいんだよねえ。
片手に持つたままでぱらぱらページをめくることもできる。
これがいいんだなあ。

しかし、来年の SCHOTT'S はない。
といふわけで、来年は MIGNON をメインで使つてみやうかと思つてゐる。

MIGNON は、革のカヴァまで持つてゐるのに、これまで主に使ふ手帳ではなかつた。
これも勝負手帳に近いかな。
伊東屋のメルシー券がたまりまくつてゐたときに、MIGNON の革カヴァを手に入れた。
一応毎年使つてはゐるので、萬年筆で書き込んでも大丈夫なこともわかつてゐる。

問題は、ちよつと大きいといふことなんだなあ。
あと、大きいわりには SCHOTT'S より書き込める量が少ない。

来年の手帳

多分、少ないんぢやないかな。
書き込むときに工夫がいる気がする。
罫線を無視して使ふことにするかなあ。

いざとなつたらカヴァを取つて使ふといふ手もある。
それと、開いたときに手で押さへる必要がないといふのもいい。
SCHOTT'S は手で押さへる必要があるからね。

とりあへず、三月まではミニョンの手帳を使つてみるつもり。
気に入らなかつたら四月はじまりのスケジュール帳を探すくらゐの気持ちでね。
その前に来年の MIGNON の手帳を買はねばならいわけだが。

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Wednesday, 21 October 2015

初演の猥雑 再演の洗練

熊子に「もうお前ひとりの身体ぢやないんだぜ」と云へるのが「アテルイ」、さうは云はずに結婚指輪になつてしまふのが「阿弖流為」。

「アテルイ」と「阿弖流為」との違ひは、そこにある。

ここでいふ「アテルイ」とは劇団☆新感線の芝居、「阿弖流為」は歌舞伎NEXTの芝居をさす。

「アテルイ」と「阿弖流為」との違ひについては、きちんと論じてゐる方々がゐるので、きちんとした話はそちらをご参照願ひたい。
きちんと、といふのは、阿弖流為と鈴鹿といふか立烏帽子との仲の話とかね。
物語の本筋としてはそちらの方が主である。
ここで語らうと思つてゐるのは、全体的な雰囲気の話だ。

熊子といふのは、雌の熊である。
「アテルイ」でも「阿弖流為」でも人間と友好関係にある、といふか、恋愛関係にある熊だ。
その恋愛関係にある人間の方が熊子に対して「もうお前ひとりの身体ぢやないんだぜ」と、熊子の腹の中にゐる子は自分の子でもあるといふセリフが云へてしまふのが「アテルイ」で、さうは云はずに結婚指輪といふ形できれいにものごとを納めてしまふのが「阿弖流為」なんだな。
今回、大阪松竹座に行く前に「アテルイ」を見直してさう思つた。
新橋演舞場では結婚指輪は出てこなかつたと思ふので、実際に思つたのは
松竹座で見てのことではある。

つまり、「アテルイ」の方が猥雑な感じなのだ。
猥雑といつて悪ければ、雑多な感じ。なんでもありな感じ。どこか混沌とした感じ。
それは、初演ゆゑのことでもあらう。

「阿弖流為」は「アテルイ」とは別ものだと思つてゐるけれども、「アテルイ」を経て生まれてきた芝居だ。
その分「アテルイ」より洗練されてゐる。

たとへば、モレ族の聖なる双子・阿毛留と阿毛志とだ。
「アテルイ」では見せ場もあるし、登場してすぐに阿毛留と阿毛志といふ名前であることも知れる。
「阿弖流為」だと、そもそも「聖なる双子」であるかどうかもわからない上、その名も最後の最後になつてやつと「ああ、きみたち、名前ついてたんだね」とわかる程度だ。
それで、物語の進行にはなんの支障もない。
むしろ、阿毛留と阿毛志との見せ場がないことで、物語の筋はすつきりしたのではあるまいか。

それは田村麻呂の二本刀・飛連通と翔連通とにしてもさうで、「アテルイ」では見せ場があるけれども、「阿弖流為」ではほぼない。
「阿弖流為」では「そもそもきみたち二本刀だつたのかね?」くらゐの勢ひだ。
しかし、これもまた物語の進行にはなんの支障もない。
田村麻呂の造形が「アテルイ」とは変はつてゐるからといふのもあるけれど、「アテルイ」のふたりはなんだつたのかと不思議な気分になるくらゐである。

といふか、「アテルイ」にくらべて「阿弖流為」の田村麻呂はやんちやになつたのだから、二本刀は「最強ロボ ダイオージャ」のスケさんカクさん的な存在でもよかつたんぢやないかな。お目付役な感じといふかさ。
その方がいいなあ。
などと思つたりもするが、それはまた別の話。

無碍随鏡も「阿弖流為」では二幕目には出てこない。
一幕目でお役御免だ。
これはひどくもつたいない話で、でも右大臣が藤原稀継ではやむなし、だ。
「阿弖流為」の右大臣が紀布留部のままだつたら二幕目に随鏡の出番もあつたかもしれないけれど、残念ながら稀継には呪の力もなければ霊力もない。一応、ある程度はあるといふ設定ではあつたやうだけれど、あれぢやああるうちには入らない。
でもそれも、「阿弖流為」には田村麻呂の成長物語といふ側面もあり、右大臣は稀継のやうな人物でなければならなかつたといふ都合があるので仕方がない。
それに、あの時期の新橋演舞場に出ることが可能で紀布留部のできさうな役者つてちよつと思ひつかない。
植本潤はどこかで「歌舞伎で「アテルイ」をやる時も出してね」といふやうなことを云つてゐたけどね。

全体的な雰囲気の話をするといひながら、個別の登場人物の話ばかりをしてゐるぢやあないか、とお怒りの向きもあるかもしれない。

しかしだ、モレの聖なる双子や田村麻呂の二本刀、随鏡なんかがわしやわしやと活躍してゐて、それでゐてひとつの芝居になつてゐるのつて、なんだか雑多な感じがしないか。
なんでもありとまでは云はないけれど、いろいろあり。
熊子への「もうお前ひとりの身体ぢやないんだぜ」といふ際どいセリフも通してしまふ。
「アテルイ」にはさういふところがある。

「阿弖流為」は、さうした雑多なところを刈り込んですつきりわかりやすくしてみました、といふところがある。
再演とはさうしたものだらう。
さうでなくては再演の意味がない。

再演でさらに混沌とした状況にもつていく、といふのももちろんありだけれどもね。

ただ、スーパー歌舞伎(スーパー歌舞伎II)もさうなんだけれども、歌舞伎NEXTも猥雑な部分は切り捨てていくのかな、といふ気はしてゐる。
それは、かぶいてゐることになるのかい?

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Tuesday, 20 October 2015

糸端の始末とInnovation

The Twirly をつなぐプロジェクトは、おそらく年内には終はらない。

久しぶりなので、説明しやう(富山敬の聲で読むこと)!
The Twiry とは Jon Yusoff のデザインしたタティングレースのモチーフだ。六角形で風車のやうな形をしてゐる。
このモチーフをたくさんつないで最終的にはちよつと壊れた大きな六角形を作る、それが「The Twirly をつなぐプロジェクト」だ。

昨日、できあがつたところをちよつと広げてみたら、だいぶ形になつてきてゐた。
かうして見ると、ちよつとやる気も出てくる。
完成形は自分の脳内にしかない。
したがつて作るしかない。
本やWebで見たものなら、たまに完成形を確認して「かうなるんだな」とやる気を刺激することもできるけれど、今回はさうではないんだよなあ。

幾度か書いてゐるやうに、もともとやつがれはモチーフつなぎがそれほど好きではない。
やつてみたいとは思ふけれど、挫折することが多い。
いちいち糸端の始末が発生するといふのがその理由だ。

昨日も書いたとほり、ドミノ編みのいいところは編みながら糸端の始末をできることにある。
このことについては、残念ながら本邦で発売されてゐるドミノ編みの本には出てこない。
なぜ説明しないのかなあと不思議でならない。
編みながら糸端の始末をできる方法を書いておいてくれれば、もつとドミノ編みをする人が増えるのではないかなあ。
なにを隠さう「ヴィヴィアンのドミノ編み」を買つてはじめてドミノ編みをした時の印象は、とにかく「糸端の始末がつらい」だつた。
あと編むのが遅かつたから、なかなかできあがらないといふのもあつた。
編み上げるのに時間がかかる上に糸端の始末も大変ときたら、そらー編まないだらう?

ところが、Domino Knitting ではちやんと編みながら糸端を始末する方法を説明してゐる。
かうなうてはかなはぬかなはぬ、だよ。

ドミノ編みの糸端の始末についてもここに何度か書いてゐる。
ドミノ編みの本を見つけて編み始めて「糸端の始末が不便なんだよねー」と思つてやめてしまふ向きもあるかと思つて、たまに書いてしまふ。
すまん。
「そんなことないんだよー、ドミノ編みは糸端の始末、かんたんよー」といふことを知らしめたくて、つひ。
まあ、毛糸でないとそれもむづかしいかとは思ふ。綿とか絹とか滑りやすい糸の場合は、やはり追加でなにかしないといけないとは思ふがね。

タティングレースの糸端の始末についてもたびたび書いてゐる。
タティングレースについては、先達がいろいろと研究してくれてゐるし、Youtube に動画をあげてくれてゐる場合もあるので、「なんとかしたいんだけど」と思つて検索をかければなんとかなつたりするものだ。
やつがれも以前も書いたとほり、作りはじめは The Complete Book of Tatting に説明されてゐる方法で始末してゐるし、作り終はりは Magic Thread を使ふことが多い。
The Twirly をつなぎつづけてゐられるのも、作りながら糸端の始末をできるからだ。

しかし。
世の中には糸端の始末が苦にならないといふ人もゐるんだよねえ。
たいへんな数のモチーフをつないだ作品を作つておいて、糸端の始末が楽しいとおつしやる。
うーん、信じられん。
さういふ人には、必死になつて「如何に糸端の始末をかんたんにらくちんに済ませるか」に血道を上げてしまふやつがれのことなど理解不能なのだらうなあ。
なんだかうらやましい。

でも、不便を感じるところにこそ innovation への道はあるんだぜ、と思ふことにしたい。
まあ、innovation とか、好かぬけどね、やつがれは。

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Monday, 19 October 2015

swatch編んだりくつ下編んだり

土曜日、久しぶりに青山一丁目にある三ツ葉屋に行つてきた。
茶羽織(仮)用の毛糸を見繕ふつもりだつた。
今回、色は秋色を考へてゐて、ちよこつとだけ藍色つぽい色を使ふ予定でゐる。
三ツ葉屋にあつて色が豊富な糸といへば、Filatura di Crosa の Zara だらう。

行くと、Zara は 1玉700円で売られてゐた。
廃番になるのださうである。
廃番どころか、会社自体が毛糸を作るのをやめるのだといふ。

マヂ?
Filatura di Crosa が毛糸を作るのやめる?
聞いてないよ。

で、ちよつとググつて見たが、真偽のほどはわからない。
わからないけれど、Zara が廃番になることは変はらないのだらう。
残念。

そんなわけで、四色ほど見繕つて買つてきて、昨日早速 swatch を編んでみた。

Swatch

茶羽織は、ドミノ編みにするつもりだ。
時間はかかるけどね。
ドミノ編みは編みながら糸端の始末もできるのがいい。

作り目は29目、針は3号針を使つた。
縦横は7cm、対角線は10cmくらゐかな。
色はこれでいいと思ふので、あとは模様を考へるやうだ。
四角は一色で編むか。
多色遣ひをする場合、しましまにするかポイントにするか。
最初はしましまを考へてゐたのだが、ポイントの方がいいかなあ。
しばらくは模様を考へるやうかな。
ひとつの四角を一色で編みつつ、ときどきしましまとかポイントを入れるやうにするかなあ、などと考へてゐる。

一方くつ下はどうかといふと、最初の片方が履き口のゴム編み部分に入つたところだ。

Sock in Progress

脚に入つたところで、斜めの模様がよく出るやうになつてきて、ちよつと編むのが楽しくなつてきた。
写真ではやつぱりよくわからないかなあ。
すべり目を使つてゐるので、裏に糸がわたつてちよつと編み地がふかふかするのがいい。
毛糸は Regia の Design Line で、編み地自体の手触りもいい。
ここのところ突然冷えてくることもあつて、この時期手編みの毛糸のくつ下はちよつと手放せないねえ。
ヨガソックスなんかも編んでおいてよかつた、としみじみ思つてゐる。

しばらくはくつ下を編みつつ茶羽織の模様を考へるやうだな。
あ、あと三ツ葉屋に追加の糸を買ひに行かなければ。
毛糸がまだあるうちに、な。

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Friday, 16 October 2015

常盤御前考

芝居に出てくる常盤御前は、気丈な女の人である。
気位も高くて、逆境にありながら誇りを失はず、源氏再興を信じてやまない人。

「一条大蔵譚」でもそんな感じでせう。
義朝の「北の方」としての威厳に満ちてゐる。

「平家女護島」に出てくる常盤御前もさうだ。
「平家女護島」では、俊寛の妻・東屋は、清盛に言ひ寄られて汚らはしいといつて拒絶して死んでしまふ。
このとき東屋は「常盤御前のやうなみつともない真似はしない」といふやうなことを口にする。
それを後で耳にした常盤御前は毅然として云ひ放つのだ。
「東屋風情になにがわかるか」と。
自分がなんのために屈辱に耐へ、生きながらへてゐると思つてゐるのだ。
下賤のものにわかつてたまるか。
それくらゐの勢ひだ。

芝居とかお浄瑠璃の常盤御前はさうした人なのだらう。
それはもう「お約束」で、さうしたものなのだと思つてゐる。

でもさ、それはもしかしたら違ふんぢやない?

といふのが、以前大阪松竹座で見た片岡秀太郎の常盤御前だつた。

秀太郎の常盤御前は、もう見るからにか弱くて、平家調伏を願ふにも弓を射るのがやつと、といつた風情だつた。
それくらゐしかできない。
それくらゐしかできないけど、でもやる。

そして、その常盤御前は、自分がこどものころ本で読んでつちかつてきた常盤御前のイメージにとても近かつた。

常盤御前といふと、「源義経」といふこども向けの伝記を思ひ出す。
最初のページに、三人のこどもをつれて雪の中を彷徨する常盤御前の挿し絵がついてゐた。
この先どうなるかわからない、逃げきれるかさへあやふやな中、こどもの手を引き胸に抱いての心細いことこの上ない逃避行だ。
こども向けの本だから、はつきりとしたことは書いてゐないけれど、このあと常盤御前は平家の手のものにつかまつて、清盛の女になる。
その後、一条大蔵卿に払ひ下げられる。

常盤御前には、それしかなすすべがなかつたのだらう。
こどものころは実際にはなにがあつたのかわからなかつたけれど、さう思つた。
夫は殺されて、こども三人つれて、一番下はまだ乳飲み子で、生き延びていくには、さうするしかない。
常盤御前はさう思つたのではあるまいか。

常盤御前のもとに三人のこどもが残されてゐたといふことは、常盤御前もその子たちも、義朝の筋のものとしてはさして重要視されてゐなかつたのだらうと思はれる。
たとへば義仲は義賢亡きあとは中原兼遠に守られてゐる。
常盤御前とこどもたちは、さうした寄る辺のない母子だつた。

自分の脳内で作り上げた常盤御前のイメージは、どこか頼りない、でもとにかくこどもは育てなければと思つてゐるうつくしい人、といふ感じだつた。
芝居やお浄瑠璃の世界でも、さうした常盤御前がゐていいと思つてゐる。

でもまあ、主流は「北の方」の常盤御前だよな。
なぜさうなつてしまふのかといへば、もちろん常盤御前が義経のお母さんだからだ。
芝居なりお浄瑠璃を書く人はそれが念頭にあるから、常盤御前が「北の方」になつてしまふ。
ほんとはさうぢやないのに。
まあでも、芝居の世界にはほんとぢやないことなんていくらでもある。
芝居の世界の中でほんとならそれでいい。

だから芝居の中の常盤御前は、平家調伏・源氏再興を願つて生きてゐる。
それしか願つてゐないかもしれない。
こどもを成長させやうと思つてゐるのも、ゆくゆくはお家再興のため。
芝居の世界の常盤御前はさうした人だ。

ゆゑに、「一条大蔵譚」の一条大蔵卿と常盤御前とがほんとに夫婦に見えてしまつてはいけない。
常盤御前にとつて一条大蔵卿はこどもを育てるための手段でしかないからだ。
ちよつとおつむが春なくらゐでちやうどいい。
それくらゐに考へてゐる。
常盤御前が一条大蔵卿を見なほすことがあるとしたら、それは大蔵卿が本性をあらはして後のことだ。
それでも常盤御前の性根はあくまでも「源氏再興」だから、「ちよつと見なほした」くらゐなんぢやないかと思ふ。
案外頼りになるのね、とか。

さうぢやない「一条大蔵譚」は芝居としてどうなのかなあ。
台無し、とは云はないけど、ちよつと違ふよね。

といふわけで、今月の「一条大蔵譚」を見に行くのをとても楽しみにしてゐる。

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Thursday, 15 October 2015

見えないものが見えるとき

藤間の宗家(いまの宗家の祖父)が、あるとき船頭の踊りを踊つた。
見てゐた弟子たちは「船が見えました」と口々に褒めそやした。
すると、宗家はぽつりと「川は見えなかつたかい」と云つた。

こんな話を聞いたことがある。

この場合、問題なのはどれだらう。

  1. 踊り手に川を表現するだけの力がない
  2. 見る側に川を見るだけの力がない
  3. 踊り手にも見る側にも力が欠けてゐる
  4. その他

球技では、悪送球は捕り手ではなく投げる側/蹴る側が悪いとされる。
そこからいくと、この場合は踊り手に力がなかつた、といふことにならう。

でも、ほんたうにさうなのだらうか。

お弟子さんたちは、船が見えたやうな気分になつて、そこで満足してしまつたのではあるまいか。
満足さへしなければ、川もまた見えてゐたのではないだらうか。
この話を思ひ出すたびにさう思ふ。

くどく書くやうで恐縮ながら、坂東八十助/三津五郎のセリフを耳にして思はず指し示す方を見てしまつたり真剣にうなづいてしまつたりしてゐた、ほかの役者ではつひぞないことである、といふ話にしても、だ。
もしかしたらほかの役者にもさうした力があるのかもしれない。
こちらに受け取るだけの力がないだけで。

あるいは、そんなことがあるのは八十助/三津五郎だけといふ思ひこみのせゐなのかもしれない。

はたまた、たまたまさういふ機会に出くはさないだけで、自分が見に行つてゐない上演回ではさういふこともあるのかもしれない。

今年の一月、歌舞伎座で「金閣寺」がかかつて、中村勘九郎演じる此下東吉が屋根の上からすこし離れたところにゐることになつてゐる配下の兵に合図をする、といふ場面を見た。
見てゐてわかるんだよね。
どのあたりに兵がゐて、その兵たちも東吉を見てゐる、といふのが。
「金閣寺」は何度か見てゐるけれど、そんな風に感じたのははじめてだつた。

勘九郎でいふと「阿弖流為」で、勘九郎演じる坂上田村麻呂が夜空を見上げる場面がある。
これも、田村麻呂の視線の先に星がある、といふのが、ちやんとわかる。
下手すると、田村麻呂の見てゐる星を客席にゐる自分も見てゐるやうな、そんな気にすらなつてくる。

ちやうど、ないはずの船をあらはした藤間の宗家と、その船を見たお弟子さんとのやうな感じだ。

そこで思ふわけだ。
もし自分に見る力があつたら、東吉の兵たちが何人ゐるのかもだいたいのところは見えたのではないだらうか、とか。
星だけでなく星空が見えたのではないだらうか、とか。

そして、さうやつて見えるやうになるのはなにも勘九郎のときだけではなくて、ほかの役者のときにも見えるのではあるまいか、とか。

これもあんまりやり過ぎると単なる思ひ込みになつてしまふので気をつけなければいかんな、と思ひつつ、見えないものが見える感覚が楽しくて、つひ考へてしまふんだよねえ。

ところで、冒頭の藤間の宗家の話は、見える見えないの話ではなくてどこまでも芸を追求する人の話と受け取ることもできる。
一般的にはさうなのだらう。
すまぬ。

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Wednesday, 14 October 2015

太古の神は「独立」といふことばを使ふか

連休の前日、大阪松竹座で「阿弖流為」を見てきた。
七月に新橋演舞場でも見て、13年前に上演された劇団☆新感線の「アテルイ」と比べてしまつてどーも乗れなかつた、といふ話は書いたやうに思ふ。
今回、あらためて「アテルイ」とは別物として「阿弖流為」を見に行つた。
さう、「阿弖流為」と「アテルイ」とは別物である。
そして、「阿弖流為」もまたおもしろいのであつた。
17日までなので、「見られる人はみんな見て!」といふ気持ちでいつぱいだ。

以下、「阿弖流為」の核心部分に触れることもあるので、見たくない方とはここでおさらばでござんす。

「阿弖流為」の名場面のうち、中村七之助の演じる立烏帽子がその実体を顕す場面がある。
演舞場で見たときもいいわと思つたし、松竹座で見てあらためていいわと思つた。
松竹座の方が、立烏帽子として演じてゐる部分に、ちよつと男前になつたところがあつたりして、メリハリがついたのがさらに効果的だつたのではないかと思つてゐる。

名場面、それは確かなのだが、しかし、うつかり目が覚めてしまふときがある。
それは、実体を顕した立烏帽子が、「独立」とか「和睦」とかいふことばを口にするときだ。

悪いけど、アラハバキは「独立」とか云はないから。
「和睦」? ないない。絶対ないね。
さう思つてしまふのである。

そこまで、立烏帽子実ハアラハバキの姿に夢中であつたといふのに、そんな無粋なことばふたつで、我に返つてしまふ。

「独立」といふことば自体はそれなりに以前からあつたと思つてゐる。
ちやんと調べたわけぢやないけれど、「ひとりで立つ」といふ意味での用法は古いのぢやあるまいか。
しかし、「国家の独立」とか「民族の独立」といふ用法は、新しいものだらう。
アラハバキがそんなことばを使ふとは思へない。
「阿弖流為」は架空の国の架空の時代の芝居だとは思ひつつ、モデルとなつてゐるのは平安時代になるやならずの日本だからだ。

以前、なにかの本で「舞妓さんが四字熟語を使つてゐると違和感を覚える」といふ一文を読んだことがある。
アラハバキの「独立」「和睦」はまさにそれだ。
そんなことば、使つてほしくなかつた。
わがままである。

「人形劇三国志」でも似たやうなことがある。
赤壁の戦ひを控へて曹操と孫権とのあひだに使者が往来する。
このとき、曹操も孫権も「平和協定」といふことばを口にするのだが、これがどうにもひつかかつてね。
せめて「和議」。
さう思ふのもまたわがままか。

「阿弖流為」は架空の国の架空の時代の話だから、現代の我々にもわかるやうに登場人物のセリフは翻訳されてゐる。
さう考へることも可能だ。
だいたいこの見顕しにくるまでだつて使ふはずのないことばが相当数出てくるからだ。
でもさー、この場は違ふでせう?
一等大切な場面のひとつでせう?
芝居の世界に取り込んでほしい。
見てゐる方は痛切にさう思ふ。
だが、それも「独立」といふかたい漢語に阻まれてしまふのだ。

もちろん、わざとさういふことばを使つてゐるといふことも考へられるんだけれどもね。
そこらへんの機微は残念ながらやつがれにはわからない。

それに、と、ちよつと思ふこともないわけではない。
アラハバキは己が力の減退を嘆く。
力の減退はもしかしたら、「独立」なんぞといふことばを覚えたことにあるのではないか。
そんな気もする。

おそらく、蝦夷の地には「独立」といふ概念はなかつた。
それぞれの部族がそれぞれに暮らしてゐるのがあたりまへだからだ。
あたりまへの状態に人は名前をつけない。

そこに外圧がやつてきて、いままで耳にすることもなかつたやうなことばもたくさん入つてくる。
さうしたことばを覚えたことで、減退する力といふものも、世の中にはあるのぢやあるまいか。

「阿弖流為」の中で、日の国の帝近くに仕へる人物がことばで阿弖流為を殺さうとする場面がある。
呪はことばの力でもある。
「阿弖流為」をことばの力で支配しやうとする日の国とその支配を拒む蝦夷の民との話と考へるなら、アラハバキが選んで口にすることばにもまた重要な意味がある。

しかし、残念ながらあの見顕しの場面がそれを意図して作られたものなのかどうか、確認しにいく時間がやつがれにはない。
無念。

そして、さう考へると、「アテルイ」で名前をつけることにこだはる逸話があるのもまた納得できたりするのだが、それはまた別の話。
#多分しません。

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Tuesday, 13 October 2015

君は不便に耐へることができるか

昨日、くつ下を編んでゐたらなんだかさくさく編めてしまつた。
いい季節になつてきたといふことか。
昨日あたりは日差しは強くて日向は暑いくらゐだつたけれど、日陰は寒いほどで風もからりとして心地がよかつた。
かういふとき、毛糸を取り出してきてなにか編むのはまた気持ちのよいものである。
レースを作りたいやうな気候でもある。

などといひながら連休中はタティングレースはなにもしなかつたなー。
お道具の片づけをちよつとしたくらゐか。
先週ここにも書いた初つぱなから失敗してゐる栞も始末した。
つまりは捨てた。
使つてゐたタティングシャトルはGR-8 Tatting Shuttle だ。素材は黒檀。
手持ちのシャトルの中では一番のお気に入りだが、GR-8 Shuttle は Black Magic を作るのにはむかないと思ふ。
なぜといつて、糸をボビンに巻き取つて短くしたいといふ場面が多く存在するからだ。
つまり作つてゐるあひだしよつ中裏返すともいへる。

GR-8 Shuttle は、糸を引き出すときは問題ないけれども、糸を巻き取るのはちよつと苦手なんだよね。
いちいちシャトルを片手にもう片方の手でボビンを回して糸を巻き取る必要がある。
シャトルから出てゐる糸が長くても気にならないといふ人や、うまいこと裏返す前に糸の長さを調節できる人にはいいのかもしれない。
あと、シャトルをひとつだけ使ふ作品だつたら問題ない。
そんな問題のあるシャトルをなぜ気に入つてゐるのかといへば、糸を出し入れするときに音がしないし、ボビンだから糸を巻くのも取るのもかんたんだし、先についてゐる鈍めのかぎ針が自分には向いてゐるからだ。

GR-8 Shuttle にもうまい具合に片手で糸を巻き取る方法があつたりするのだらうか。
以前調べたときは、「その点はどうにもならない」といふやうななことが書いてあつたやうに思ふ。
GR-8 Shuttles のサイトに、ではなくて、愛用者のblogで見た記憶がある。

それでずつとさういふものだと思つてきたのだけれど、しかし、世の中の人々はそんな不便なものを愛用したりはしないよな。
それもいくつもいくつも持つてゐたりとか。

とはいひながら、自分はかなり不便な方法でずつとタティングしてきたので、さういふのもありなのかな、と思つたりする。
不便な方法といふのは、ダブルスティッチの後半を作るときに、いちいちシャトルを持ち替へてゐたのだ。
教へてくれる人がゐないつて、かういふことなのか、とも思ふ。
たまたまスピニングパーティーかなにかで売り子さんが待ち時間にタティングをしてゐるのを見かけて、ダブルスティッチの後半を作るときにもシャトルから手を離してゐないのを見かけた。
「さうやるのか!」と、目から鱗が落ちるとはまさにこのことだつた。

それまで、「タティングレースならドイリーくらゐ一日で作れる」とか「目の前でタティングレースの栞を作つてくれたのよ」なんぞといふ話を聞くたびに、「いやー、そんなに早くは作れないでせう、この方法ぢや」とずつと思つてゐた。
その謎がこのとき解明されたのであつた。

Youtubeなどを見るとシャトルの動かしかたにもいろんな方法があつて、もともとの自分のやり方でもさう間違つてゐるわけでもない。
そもそもちやんとダブルスティッチが作れるなら、どんな方法でも正しい。
でもまあ、らくちんな方がいいよね。

などといひつつ、考へてみると、不便な方法で作つてゐたときの方がいろいろ作つてゐたのかなあ、とも思ふ。
…………さうでもないか。
タティングレースのマフラーを作つたのは、楽な方法を覚えてからだしな。
いま作つてゐる The Twirly をつなぐプロジェクト完成の暁には、これがいままで作つたことのあるタティングレース作品では一番大きいものになる予定だし。

でも、なんとなく、不便な方法で作つてゐたときの方がいろんなものを作つてゐた気がするんだよな。

The Twilry をつなぐプロジェクトにかかりきりでほかのことをしてゐないのだからあたりまへか。

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Monday, 12 October 2015

ほどいて編みなほす

結局くつ下を編んでゐる。

Show-off Stranded Socks をつま先から編みはじめた。
かかとは単に引き返し編みのかかとになるだらうと思つてゐる。

Sock in Progress

なぜつま先から編みはじめたかといふと、編みはじめた時点ではどんな模様にするか考へてゐなかつたからだ。
とりあへず増やし目をして、そのあひだにどんな模様にするか考へやうといふので編みはじめたのだつた。

いけない編み方、だらうか。

毛糸は Regia の Design Line Random Stripe の 02902。
ケイフ・ファセットのシリーズだ。
先日、アルネ&カルロスのシリーズを使つたばかりだ。
色合ひ自体はケイフ・ファセットの方が好きかなあ。
「この色とこの色、合ふの?」といふやうな取り合はせなところが楽しい。
焦げ茶とカーキとオレンジはいいけど、そこにターコイズは合はないだらうよ、と思ふのだが……あー、やつぱり合つてないのかな。ま、いいか。

Show-off Stranded Socks では、かけ目をして次に編む二目にかぶせてその後の二目を普通に編む、をくり返す模様を使つてゐる。
いま使つてゐる糸では模様が効果的には出てゐない気がしてゐる。
まだ引き返すこともできるぞー、と思ひつつ、考へてゐるところだ。

Regia の Random Stripe のやうな Self-Stripe Yarn といふか、Self-Pattern Yarn といふのは、単にメリヤス編みにするのが一番いいのかなあ。
ここもいつも思案に暮れるところだ。

単になにか編むものがほしいだけなので、ひたすらメリヤス編みのくつ下でもいいんだよね。
むしろ単にメリヤス編みの方がなにかと使ひやすい。
あるいはゴム編みのくつ下にするか。
くつ下を編む場合、普通足の裏はメリヤス編みにするけれど、足の裏をゴム編みで編むとふかふかして気持ちがいい。
それでいつてみるかなあ。

といふわけで、結局ほどいて編みなほした。
今回はTwisted Tweed Socks をやはりつま先から編んでゐる。

Sock in Progress

こちらはかかとが引き返し編みなので、それほど問題はあるまい。
問題は、やはりあまり模様がちやんと出てゐないといふことだ。
普通にメリヤス編みにすべきだつたんだな。
でも楽しいからこのまま編み続ける予定。

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Friday, 09 October 2015

もつと楽しくならないか知らん

ここのところ、もつと楽しく芝居を見られないかと考へてゐる。

ここでいふ「芝居」とは主に歌舞伎をさす。

いまでも楽しく見てはゐる。
さうでなければ毎月行つたりはしない。
行つたりはしないのだが、なんていふのかなー、なんかもつと違ふ芝居の見方があるのではないか。

思ふに、大半の人の芝居の見方は、劇評のそれにしばられてゐる気がする。
劇評にあるやうな見方をしてゐる、といふべきか。

劇評のテンプレートに則つた見方をしてゐれば、他人と話すときも話しやすい。
依つて立つところがおなじだからだ。
意見の違ひは個人の資質によるのみ。
それなら会話も成り立つだらう。

でも、さういふ見方ばかりぢや、つまらなくないか?

劇評のテンプレートに沿はない見方のひとつに、自分の好きな役者を中心に見る、といふ方法がある。
これもまた多い。
歌舞伎の楽しみかたしては、この見方はとても正しい。
英語のイヤホンガイドの説明によれば、西洋(英米とかせいぜいそれに加へて西欧をさしてゐるものと思はれる)の演劇はrepresentするもの、歌舞伎はpresentするもの、だといふ。
やつがれの理解が正しければ、「西洋」の演劇はセリフや脚本が大事だが、歌舞伎で大事なのは役者なのだとか。
だとしたら、役者中心に芝居を見るのは正しい。

当然、やつがれも自分の好きな役者を中心に芝居を見る。
でもなー、その役者ひとりだけがよくてもおもしろくないんだよなあ。

見はじめたばかりのころ、中村吉右衛門と中村富十郎とが一緒に出る芝居がとても好きだつた。
どちらも好きな役者だけれど、一緒に出てゐるとなんだかいいのだ。
ひとりひとりが出てゐる芝居が十楽しいとしたら、ふたりそろつてゐる芝居は三十も四十も、ときには百も楽しいことがある。
最近はそれが中村吉右衛門と片岡仁左衛門になつてゐる。
残念ながら一緒に見る機会はそれほど多くはないけれど、六月の「新薄雪物語」なんてこの二人が出てゐるところだけで大満足だつた。
まあ、その後の「詮議」以降もよかつたけどさ。

それを思ふと、いままで見ることのできた市川染五郎の出てゐる芝居の中で一番好きなのは「アテルイ」なのは堤真一もよかつたからだらう、とか、先日も書いた「ZIPANG PUNK」で一番好きな場面は秀吉・五右衛門・慶次郎・三成の場面、とかいふのも、「ひとりだけぢやつまらない」といふことなんだらう。

複数の役者が出てゐていい感じで芝居をすると、「アンサンブルがいい」なんぞといふ言ひかたをすることがある。
菊五郎劇団を見てゐると「なるほど、かういふのを「いいアンサンブル」といふのか」と思ふし、猿之助劇団だとまた趣の違ふ「いいアンサンブル」を見られる。

でも多分、自分が好きのは「アンサンブルがいい」芝居ぢやないんだな。
なぜさう思ふのかといふと、菊五郎劇団にも猿之助劇団にもそれほど熱い思ひを抱いたりはしないからだ。
アンサンブルがいいと、ときにそれが裏目に出ることがある。
去年新橋演舞場で見た猿之助劇団の「俊寛」がそれだつた。
なんだか、みんな仲よささうなのだ。
いや、いいよ、さういふ解釈の「俊寛」があつても。
ただ、このときの芝居はさういふ解釈で演じたといふよりは、アンサンブルのよさが裏目に出てしまつた、そんな感じがしたのだ。

世の中には、「ケミストリー」といふことばがある。
多分、やつがれが好きなのはさういふものなのだらう。
さう思ひつつ、この「ケミストリー」といふことばが好きではない。
困つたね、どーも。

なにか、日本語で呼びたいんだよね。
できればやまとことば。
でもうまいことばがみつからない。
己が語彙のまづしさを嘆くしかない。
情けないね、どーも。

今後も芝居の見方を模索していくつもりだ。
しばらくは細かくてどーでもいい方向に進みさうなのが不安だけどな。

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Thursday, 08 October 2015

ロックな血が流れてゐない

やつがれにはロックな血が流れてゐない。

ここでいふロックとは、ロックンロールのことだ。
まつたく聞かないわけではない。
ビートルズをロックといつていいのなら聞くし、レッド・ヅェペリンとかディープ・パープルとかも聞く。そこから派生してレインボウとかも聞いてたなー。
エマーソン・レイク&パーマーとか、ピンク・フロイドなども聞く。
でもここにあげた名前は、こどものころ聞いてゐたものばかりだ。
小学校を卒業するまでに聞いてゐた音楽ばかりなのだ。
ゆゑに、ロックを聞くといふよりは、耳になじんだ音楽を聞くといふ趣が強い。
それ以降知つた曲は、ことロックに限るとほとんど聞かない。

また、小学生のころは背伸びをして聞いてゐた。
同じ教室にゐるちよつと勉強のできるやうな子といふのは、なぜか上に兄姉がゐたりして、すこしませた子が多かつたやうに思ふ。
さういふ子たちに負けまいとしていろいろ聞いてゐた。
ゆゑに、先達がゐるわけでもなく、教へてくれる人がゐるわけでもなく、運任せでいろんなバンドの曲を聞いてゐた。
それでクリームとかザ・フーとかイエスとか、当時出会ふ機会のなかつたバンドもいくつもある。

最近でいふと、「五右衛門vs轟天」にはまつてゐたこともあつて、そのサウンドトラックは聞いてゐる。
「秋味R」、「レッツゴー!忍法帖」などほかにもサウンドトラックを持つてゐる芝居もあるので、さういふものも聞く。
「レッツゴー!忍法帖」や「五右衛門vs轟天」のサウンドトラックを聞いてゐると、「紅の×」を聞けるんだつたらX-JAPANとかも聞けるんぢやないかな、と思ふこともある。
でも、聞いたら「聲が違ふ」とか嘆いてゐさうな気がして踏み切れずにゐる。

演奏会にしても、オールスタンディングのものには行つたことがない。
考へてみたらロックバンド、ロックシンガーのコンサートに行つたことがないやうな気がする。

斯様に、ロックな血が流れてゐない。
流れてゐたとしても、五滴か七滴といつたところだ。

そんなやつがれが「これ、最高にロックぢやん」と思つたのは、片岡孝夫(当時)の木曾先生義賢だ。
たしか、いまの京都南座ができたばかりのころのことだ。
源義賢は甥である悪源太義平に殺されたことになつてゐる。
「源平布引滝」の義賢は違ふ。
平家に攻め寄せられた義賢は、己が子を腹に宿した妻と源氏の白旗とを人に託し、みづからは討ち死にする。
歌舞伎ではこの「義賢最期」で大立廻りがある。

髪はさばいて白塗りの顔に赤い血潮、衣装は大紋のついた肩衣を落として長袴といふ出で立ちの義賢は、襲ひかかる平家の兵たちと切り結ぶ。
この場ではよく戸板倒しや仏倒しといふ大がかりな立廻りが取り沙汰される。
でもやつがれがいいと思つたのは、鍔鳴りを聞かせるところだ。

背後から羽交ひ締めにされた義賢の、手に持つた刀の鍔が鳴る。
敵も必死なら義賢も必死だ。
そこに鍔の音が響く。

このとき、この場面をずいぶんと長く演じてゐたやうに思ふけれども、単に自分がさう感じただけだつたらう。
これがねえ、最高にロックだつたんだねえ。
しかも、death系。

この後、別の役者でも「義賢最期」はいくつか見たけれど、ロックだなあと思つたことはつひぞない。
death系だなあと思つたこともない。
そもそも、芝居を見て「エロスよりもタナトスだなあ」と思ふこともあまりない。
人ならぬものといひ人外といふ、さういふ雰囲気をたたへた芝居や役者は見るけれど、死の香りを漂はすものにはあまりお目にかかれない。
孝夫/仁左衛門だとごくまれにある。
「保名」なんかでも、ほんの一瞬死を垣間見る、そんな時がある。

どこが、と訊かれると困るんだけど、あるんだよ、としか云へない。
単にやつがれがさう感じるだけなんだらう。

ほかにさういふ雰囲気を感じる役者はいまのところゐない。
中村梅枝がもしかして、といふ気はしてゐるが、これまたいまのところわからない。

義賢がロックなのは、圧倒的な力を持つ敵に対して孤軍奮闘するからだらう。
しかも、義賢も、「義賢最期」で人に託したその息子である義仲も本流になることはない。
そんなところにロックを感じるんだと思ふ。
そして、さう感じられる義賢なら、誰が演じても「最高にロックだぜ」と思ふのだらう。

ロックな血が流れてゐない人間の戯れ言といへばそれまでだけどな。

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Wednesday, 07 October 2015

世間は何も強いはしない

岸田劉生は七世坂東三津五郎の大の贔屓だつたといふ。
しかるに世の人々は六世尾上菊五郎ばかりをもちあげる。
自分の芸術が受け入れられないといふ不満もあつてか劉生は「世間はなにもわかつてゐない」と三津五郎の芸を理解するもののないことを嘆いたといはれてゐる。

この話をはじめて聞いたとき、「わかるなあ」と思つた。
「わかるなあ」と思ひつつ、「わかる」といつてはいけない気がした。
「世間はなにもわかつてゐない」と云ひきつてはいけないと思つたからだ。
そして、それは多分正しい。

七世三津五郎も六世菊五郎も、どちらも実際に見たことがあるわけではない。
見たことがあるわけではないけれども、音羽屋の方が世間で話題になつてゐたからといつて、「世間はなにもわかつてゐない」といふことにはならない。
単に、世の人のもてはやすものと自分がいいと思ふものとが違ふ。
それだけの話だからだ。

さう理性ではわかつてゐても、なかなか納得できないんだよなあ。

ここのところノーベル賞の受賞者が発表になつてゐる。
日本人が受賞すると、「日本人として誇りに思ひます」といふやうなことを云ふ人がゐる。
それはかまはないのだけれど、受賞したのは他人なのにまるで自分が受賞したかのやうな錯覚を起こしてゐるとおぼしき人を目にすることがある。
これが理解できない。

サッカーJリーグの「サポーター」を受け入れられない気持ちとおなじだ。

我が家は日産自動車時代から横浜F・マリノスを応援してゐる。
だがつひぞ自分のことを「サポーター」だと思つたことがない。
応援してゐるチームが試合で勝つと、まるで我がことのやうに喜ぶ人がゐる。
他人の喜びを自分の喜びにすることはすばらしい。
しかしただ見てゐただけの観客の中には自分もまたなにかを成し遂げたやうな気分になつてゐる人がゐる。
とくに「サポーター」と呼ばれる人々或は自称する人々にさういふ人が多いやうに感じられて、それがイヤなのだ。

カーテンコールが好きではないのもこれとおなじ理由だ。
すばらしい芝居なり演奏なりを見たといふ喜びや感謝をあらはすためのカーテンコールが、まるで舞台と客席とが一体になつたかのやうな状態になることがある。
ただ見てゐただけの観客が、自分もまたなにかを成し遂げたかのやうな感覚に襲はれてゐる。
なにかを成し遂げたのは、舞台にあがるまで稽古に稽古を重ね、日々精進してきた演奏家なり役者なりだ。
客ではない。
演者と客とは立場が違ふ。
その垣根の曖昧になる感じが、カーテンコールはイヤなのだ。

世界的な賞を受賞した自国の人のことや応援するチームの勝利、贔屓の役者/演奏家の成し得たことなどを我がことのやうに感じる、それを厭ふのはやつがれの勝手である。
世間がさういふものであるのを認めたくないと思ふのもまたやつがれの勝手だ。
だが、やつがれが「イヤだ」と思ふその気持ちを世間に強いてはならない。
なぜといつて、世間もまた「お前も他人の為したことを我がことのやうに思ふやうになれ」とは云はないからだ。
もし、大勢がさうしてゐるから自分もさうしないといけないやうに感じてゐるとしたら、それはやつがれの問題だ。
世間は「お前もさうしろ」とは云はない。
さう云つてゐるやうに感じるのはやつがれ自身なのである。

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Tuesday, 06 October 2015

日々是リヴェンジ

新たに編みはじめるものが決まらなかつたので、夕べはタティングレースの作りかけに着手することにした。

しかし。

いきなり12目くらゐ間違へて作つてしまつて、がつくりしてしまつた。
なんとかほどいてよくよく見てみたらこはいかに。
なんと、一番最初の部分で間違へてつないでゐるところがあるぢやあないか。
とほほ。

完全にやる気を失ひ、昨夜はそのままなにもしなかつた。

作つてゐたのは、Mary Konior の Black Magic だ。
五月か六月に飯田に行つたときの道中のおともだつた。
その後、時折手に取つてはちまちまと作りつづけてゐたのだが、ああ、なんといふことでせう、一番最初の三弁と次の一弁とをつなぐところで間違つてゐるとは……。
あーあ。

なぜいままで気がつかなかつたかね。

もう最後の二弁を作るところまで来てゐたんだよ。
うーん。
ぐるりとほどいて戻るには、人生は短すぎる。

ところで、Black Magic である。
Black Magic は Tatting with Visual Patterns といふ本に掲載されてゐる栞だ。
いくつ作つたかわからないくらゐ作つた。
「Black Magic Tatting with Viaul Patterns」でWeb検索をかけると画像がたくさん出てくる。
みんな思ひ思ひの色で作つてゐる。
中にはこの栞をもとに十字架型の栞を考案した人もゐる。
ええ、作りましたとも、過去に。
大きくなりすぎて栞としては使へなかつたけどなー。

なぜおなじものを何度も作るのか。
なにか手持ち無沙汰のときになにも見なくても作れるからだ。
でも Black Magic を作りはじめるといつも思ふんだよね。
これ、案外手間のかかる栞だつたよな、と。
作りはじめて後悔して、喉元すぎれば熱さ忘るる、といふことだ。

Tatting with Visual Patterns にはほかにも栞や栞になりさうな作品が掲載されてゐる。
なのになぜ Black Magic を選んでしまふのか。
先ほどの答へと矛盾してゐるかもしれないが、手間がかかるから、だな。
ちよつと手間のかかるくらゐのものの方が作つてゐて楽しい。
年がら年中さう思ふわけでもないが、さう思へるときもある。
とくに今回の Black Magic は長い道中の供と考へてゐたので、多少の手間はむしろ歓迎するところだつたのだらう。

Black Magic は何度も作つてゐる。
しかし、満足できた出来ものはひとつもない。
ゆゑに何度も作つてしまふのかもしれないな。
今度こそは、とか思つて。

といふわけで。今夜からどうしやうかと悩んでゐる。
もう一度 Black Magic に挑戦するか。
それともここはなにか別なものを作るか。

さて。

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Monday, 05 October 2015

アクセントカラーのストールを編み終る

昨日、アクセントカラーのストールを編み上げた。

アクセントカラーのストール

「風工房のシンプル夏ニット、こもの」に出てゐるストールである。
本ではちよつと暗い赤で編んでゐるものを、おなじ糸のマスタードイエローで編んでみた。
去年の夏編みはじめて編み終はらず、年を越してしまつた。
このまま今年も編み終はらないのではないかと思つたが、まあ、なんとかなつたね。

糸は指定糸であるハマナカのフラックスCを使つた。
針も指定どほり5号針を使つた。
クロバーの匠とフラックスCとの相性はといふと、いいやうな悪いやうな、だつた。
たまに編み目が滑らないときがあるのだ。
左の針の編み目が自然に右にうつつていかないことがあるので、たまに編み目をよいしよと右側に寄せる必要がある。
それ以外はまあ文句はない。

フラックスCの「C」は「crochet」の「C」だ、と以前書いた。
通常、棒針編みの糸はS撚り、かぎ針編みの糸はZ撚り、とそのときにも書いた。
フラックスCもZ撚りである。
編んでゐて撚りがほどけてきてしまつて困つた、といふことはほぼなかつたので、棒針編みで使つても問題はないと思ふ。
とくにレース模様ならいいのではないだらうか。
ただ糸端が長くなつてしまふと、そこはだんだん撚りが弱くなつてきてしまふので、始末をするときに撚りを戻した方がいいと思ふ。

アクセントカラーのストールは表側にも裏側にも減らし目がある。
裏を編むときも慎重に編まないといけない。
裏を編むときこそ慎重に編まないといけないといふべきかな。
裏を見ながら編むと、どこらへんが減らし目なのかよくわからないんだよね。
一生懸命数へつつ、ときに表側を見返しながら編むことになる。
進まないことこの上ない。
でもまあ、何段か編んだあとで気がつくよりはましだ。
さう思ふことにした。

アクセントカラーのストール

また、裏で減らすときに左上一目減目だけでなく右上一目減目もあるといふのが大変だつた。
最初のうちはとくにね。
でもそれもこのストールを編んでいくうちに覚えた。
編んでよかつた。
これで以降は裏目の減らし目も怖くないぞー。

模様は20段11目一模様で、最初はとても覚えられないと思つてゐたけれど、いつのまにか覚えたね。
模様部分は全部で400段くらゐあるので、そりや覚えるか。

なんとか編み終へることができたのは、録画した番組を消化したからだ。
録画した番組が八月の半ばくらゐからたまりにたまつてゐる。
先月後半はディスクがいつぱいになつてしまつてもうなにも録画してくれなくなつてしまつてゐた。
それをちよこちよこせつせつと見ては消去した。
録画した番組を見ながら編むと、それなりに進む。
そんなわけでできあがつた。

この秋冬こそ茶羽織(もどき)を編まうと思つてゐる。
一応毛糸も決めてはゐる。まだ買つてゐないけれども。
問題は今日からなにを編めばいいかといふことだな。
とりあへずつなぎにくつ下でも編むか。
それともアームカヴァーのやうなものを編むかなあ。
はたまたタティングレースにいそしんでみることにするか。

いづれにしても手持ちの糸でなにかはじめたい。

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Friday, 02 October 2015

忘れられない

NHKの「ニュースウォッチ9」で鈴木菜穂子アナウンサを見るたびに「エリック・アイドルさん、アーティストです」といふことばを思ひ出す。

別段、それをとやかく云ふつもりはない。
ただ忘れられないだけだ。
不幸なことである。
やつがれにとつて。

普段、なるべく他人のことは恨んだり呪つたりしないやうにしてゐる。
恨みも呪ひも自分に返つてくると思ふからだ。
ただ、忘れられない。

あ、ひとつだけ「呪はれるがいい」と思つてゐることはある。
JR東日本の山手線にできるといふ新駅のことだ。
自分から積極的に呪ひはしないけれど、呪はれるがいいと思つてゐる。
この駅のせゐで、この先生きてゐるあひだずつと不便な思ひをしなければならないからだ。
しかも「生きてゐるあひだずつと不便な思ひをしなければならない」のはやつがれ一人ではないときてゐる。
それでもなんとか呪はずに済ませたいと思つてゐる。
呪つたところで不幸になるのは自分だからだ。

恨みもしない。
呪ひもしない。
でも忘れられない。
忘れられないのは恨んでゐるのとおなじではないか。

冒頭に書いた「エリック・アイドルさん、アーティストです」なんてのは忘れてしまつていいことだ。
むしろ忘れてしまへ、とさへ思ふ。

どうしたら忘れられるだらう。

忘れられないことやイヤなことは、紙に書き出して忘れてしまへ。
さういふ意見がある。
さういふ心理療法もあるのだといふ。
試してみたことはあるが、かへつて記憶を定着させてしまふばかりだつた。
すべてを書き出さなかつたのが敗因だつたのかもしれない。
なにもかも洗ひざらひ書き出すのがこの療法のキモだといふ。
そして、書いたあとはきれいさつぱり忘れ去る。
この「なにもかも洗ひざらひ書き出す」といふのがどうもできない。
どうしても肝心のことは書くことができない。
書いてしまつたら、認めないやうにしてゐる本質を認めてしまふことになる。
それが怖い。

それに、なにかを書くといふことは、後に読み返すためだから、といふのもある。
もちろん書いたことすべてを読み返したりはしないけれど、なにかを書きつけるとき想定してゐる読者は未来の自分だ。

忘れたいのに。
どうしたら忘れられるだらう。

先日、ひとつだけ、過去のことを忘れられるできごとがあつた。
かつて、やつがれはある人からないがしろにされたことがある。
思ひ出すたびに、「自分にそれだけの価値がないからだな」と思ふのだつた。
自分に価値がないのはわかつてゐることだけれど、それと知らしめる事態に耐へられるかどうかはまた別の話だ。
「ああ、やつぱりさうなのだな」と思ひ、自分はまた自身のことを過大評価してゐたのだな、と思ひ知る。
なにかあるたびにその人から受けた仕打ちを思ひ出し、「さうだつた、自分には価値がないのだつた」と心に銘ずる。
そんなことを十年もひきずつてゐた。

先月のある日、その人に再会することがあつた。
その人が別の人々にある説明をしてゐて、説明してゐたものの実物を見せたいのに見つけられないといふ事態が発生してゐた。
たまたまそれを見たばかりだつたやつがれは、すぐそばにゐたこともあつて、「ここにあると思ひます」と、さがしものを指さした。
すると、「ああ、これだこれだ」とその指し示した方を見たあと、その人はわざわざこちらをふり返つて、「ありがたうございます」と云つたのだつた。

泣くかと思つた。

やつがれには「人前で泣く回路」が埋め込まれてゐない。
したがつて泣くこともなかつた。
いまに至るまで泣いてはゐない。

でも、なんかもう、忘れてもいいかな、と思つたのだつた。
完全には忘れ去ることはできないかもしれないけれど、「そんなこともあつたね」と数ある過去のできごとのひとつとして処理したい。
そんな気分になつた。

その人は、やつがれがずつとわだかまりを抱いてゐたことなど知るよしもないし、知つてゐたとしてもわだかまりを抱いてゐるのがいま自分が感謝の意を伝へた相手だとは知りもしない。

あれこれひとりで思ひ悩んでゐたのはやつがれだけだ。
愚かなことである。
愚かなことだけれど、仕方ないぢやんね。

そんなわけで、ひとつ忘れられぬ過去を清算した。

「エリック・アイドルさん、アーティストです」もなんとかして清算したい。

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Thursday, 01 October 2015

ものごとの本質とクソリプ

九月につくづく感じたことは、「自分はほんたうにものごとの本質といふものを見てゐない」といふことだ。

もちろん、以前から「さうなんぢやないかな」とは思つてゐたけれど、まさかこれほどだつたとはねえ……。

はじまりは、ゲキ×シネの「五右衛門ロックIII ZIPANG PUNK」を見に行つたことだつた。
多分、物語の本筋を追ふなら、これが正解のカメラワークなのだらう。
でも、そこぢやないところも見たいんですけど。
むしろ、そこぢやないところが見たいんですけど。
そんな感じだつた。

次が「キングスマン」だ。
以前も書いた「再話のつもりであらすじを書いて物語の基本構造にあてはめる」をやつてゐたときに、「でもやつがれが書きたいことはさういふことぢやないんだよね」といふ感覚。
もつといふと、「そんなのどーでもいいぢやん」といふ感覚。

とどめが昨日も書いた「五右衛門vs轟天」の覚書だ。
ムヒ(ムピだらうか)の重さなんてどーでもいいんだよ!
でも気になるんだよ。
気になるだらう?

思へば、国語の授業なんかでよくある「このとき主人公はどう思ひましたか。何字以内で書きなさい」といふ問ひについてもさうだつた。
そんなの、どーでもいいぢやんよ。
さう思つたことはないだらうか。

それよりも「なんで自分でお櫃からご飯をついぢやいけないんだよ」だとか、「この最後の一文がなければもつといいのに」だとか、「勝手にかぷかぷ笑つてればいーぢやんよ」だとか、さういふ方が大事ぢやないか。
大事ではないかもしれないけれど、やつがれにとつては重要である。
主人公がどー思はうと、そんなことは知つたこつちやない。

ところで、世に「クソリプ」といふものがある。
クソ・リプライの略だと思はれる。
元の発言に対して「そーゆーことが云ひたいんぢやないんだけどなー」といふやうな返答がくる、その返答のことをさすらしい。

それつて国語教育が不十分だつたからなんぢやないの、といふ意見を見かけた。
文章の内容をきちんと把握する能力や、筆者の云ひたいことを読みとる能力がないから見当違ひの返答をしてしまふ。
さういふことなんぢやないか、といふのである。

つまり、「このときの主人公の気持ちを書きなさい」と云はれて見当違ひの答へを書いてしまふ、さういふ人が世の中には多いんぢやないか。

それを云つたら、ゲキ×シネをはじめ舞台を録画したものを見て、「ここが見たいぢやないんだけどなー」とか云ふのはクソリプだらうか。
「ムヒの重さが」とか云ふてゐるのもさうか。
そんな気がする。

そんなわけで以前も書いたやうに映画を見ては再話代はりにあらすじを書いてそれを物語の基本構造にあてはめる、なんてなことを細々とやつてはゐるわけだけれどもね。
ちよつとでもものごとの本質を捕らへられるやうになつたらいいな、と思つて。

でもやつぱり「五右衛門vs轟天」の覚書のやうに「ムヒの重さが」だとか「更年期障害つて、身体はヲヂさんになつたんだから関係ないんぢやないの。それとも更年期障害つてやつぱりメンタルなものなの」とか書いてゐる方がずつと楽しいのだつた。

そして、楽しければそれでいいのだ。多分。

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2015年9月の読書メーター

2015年9月の読書メーター
読んだ本の数:3冊
読んだページ数:783ページ
ナイス数:15ナイス

花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出文庫)花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出文庫)感想
さうさう、倉多江美の「すわっち」、懐かしい、などと思ひつつ読む。以前読んだときの方が評論の対象になつてゐる作品を手にしやすかつた。読んでゐて「そーかなー」と思つたりしてしまふのは、そのせゐかな。
読了日:9月9日 著者:橋本治
嶋浩一郎のアイデアのつくり方 (ディスカヴァー携書 3)嶋浩一郎のアイデアのつくり方 (ディスカヴァー携書 3)感想
読み返して、あれもこれもできてないなー、と確認するなど。せつかく人に優れた散漫力はあるはずなので、なんとかしたい。
読了日:9月18日 著者:嶋浩一郎
The Eyre AffairThe Eyre Affair感想
再読、と思うたが、原書で読むのははじめてかも。笑ひと切なさとハッピーエンドとなのはとてもJasper Ffordeなのだけれども、この作品ではまだ甘いな。この後もつと切なくなるしもつとをかしくなる。結局この後全部読みなほす気がしてゐる。やつぱり「リチャード三世」を見に行くくだりはをかしい。こんな感じで歌舞伎とか見てみたいなー。
読了日:9月30日 著者:JasperFforde

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