I, Gambler
賭けごとはしない。
資産を持たないからだ。
賭けごとをしてもいいのは、負けても問題のない資産を持つものだけである。
だからしない。
競馬競輪競艇オートパチンコいづれもたしなんだことがない。
競輪はかつてはちよつと詳しかつたけれど、それでも車券を買つたことはない。
株も買はない。
損失が出たら暮らしていけないもの。
ギャンブルには縁のない人生だなあ。
さう思つてゐたのだが。
最近、突然気がついた。
芝居の前売り券を買ふといふギャンブルをしてゐることに。
気がついたのは、今月国立劇場でかかつてゐた「伊勢音頭恋寝刃」を見たときのことである。
この芝居には、これといつて好きな役者は出てゐない。
芝居もそれほど好きなものではない。
でも、去年の十一月に似たやうな面子の「伽羅先代萩」を見たら、これがいたくおもしろくて、ねえ。
この月に見たものの中では一番よかつた。
その記憶があるので「伊勢音頭恋寝刃」もいいかもしれないと思ひ前売り券を買つたのだつた。
ギャンブルをしてゐることに気がついた、と書くくらゐだから、そんなにおもしろい芝居ではなかつた。
「二見ヶ浦」が大阪松竹座のそれよりあつさりした出来になるのは想定内だし、滅多にかからない「太々講」が新歌舞伎じみてしまふのも仕方がない。
でも「油屋」までなんだか歌舞伎味が薄いとなると、ちよつと、ね。
「油屋」のどこが歌舞伎味が薄かつたのか。
まづ中村梅玉の福岡貢の「えつ」と驚く場面がちつとも歌舞伎ではないところだ。
まるで生なのである。
ええ、高砂屋にしてこれかい?
また中村壱太郎のお紺に生彩がない。
「太々講」の場では生き生きしてゐたからよけいにその差がはつきりしてしまふ。
お紺は去年梅枝と七之助とがそれぞれ初役で演じたのを見て「むづかしい役なんだなあ」とは思つたけれど、「油屋」のお紺はやつぱりむづかしいんだらう。
主たるふたりがそんな調子で、しかも大道具は江戸前の壁の色のすつきりした仕立てなもんだからよけいに寒々しい感じになる。
万野にしては可愛すぎるといふ評もあつた中村魁春については、万野には可愛げがあつてもいいと思つてゐるので、さういふ解釈もありかなと思つてゐる。
怖いばかりが万野ぢやないよ。
そんなわけで、期待して行つたら肩すかしをくらつた、と。
これつてギャンブルぢやん、と。
さういふわけなのである。
今月はまだ歌舞伎の「ワンピース」といふギャンブルが残つてゐる。
もう負けに行く気満々なのだが、こればかりは見てみないとわからない。
だからギャンブルなんだもんね。
前売り券購入を賭けごとにしないためにはどうしたらいいか。
好きな役者の出てゐる芝居だけ見に行けばいいのか。
それがさうでもないところがギャンブルのギャンブルたる所以だ。
上にも書いたとほり、好きな役者がひとりも出てゐなくてもおもしろい芝居なんていくらでもある。
「阿弖流為」だつてさうだつた。
逆に好きな役者が出てゐてもどーしよーもない芝居もある。
見に行くまではわからない。
ギャンブル以外のなにものでもない。
演奏会やコンサートもおなじだらう。
行つて見て聞いてみるまではわからない。
クレーメルとアルヘリッチだつたかなあ、録音されてゐない曲ばかりを並べた演奏会のチケットを取つたことがある。
行つてみたら、プログラムが変更されてゐて、全部録音のある曲ばかりになつてゐた。
さういふギャンブルもある。
芝居や演奏会が競馬パチンコ株取引などと違ふところは、負けても物理的な損失は出ないといふことだ。
元金分の楽しみは得られない。
でもそれを超えた損失が出るわけではない。
時間や交通費なんかがムダになるのは競輪だつて一緒だしね。
でも一番の違ひは、芝居や演奏会の場合は「勝つた」「負けた」といふ気分にならないことだ。
だからいままで前売り券を買ふことがギャンブルであることに気がつかなかつたのだらう。
期待どほり或いは期待をはるかに超えた出来の芝居を見たときは「よかつたー」となるし、逆のときはがつくり疲れる。
よかつたと思つても疲れても、「また次があるさ」といふ気分になるところはギャンブルと一緒なんだけれどもね。
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