「きみは、ほんとうは、いい子なんだよ」
先日、「松王丸についてちよこつと考へたりしてゐる」と書いた。
「寺子屋」は、毎月歌舞伎座に通ふやうになつたきつかけの演目である。
團十郎の松王丸、吉右衛門の源蔵、時蔵の戸浪に宗十郎の千代だつた。
劇評は芳しくなかつた。
顔合はせ的には文句ないのに、といふやうな評が多かつたやうに記憶してゐる。
でも、三階席高いところから見てゐて、なんだかわかつちやつた気がしたんだな。
それまでも何度か歌舞伎を見てはゐて、実はこの前の月にも歌舞伎座に来てはゐた。
歌舞伎は基本的には見取り狂言といつて、いろんなお芝居からいい場面・人気のある場面だけもつてきて上演する。
さうすると、ひとつひとつの芝居は結末のないまま終はるんだな。
いい例が「与話情浮名横櫛(ヨハナサケウキナノヨコクシ)」だ。
この芝居の中でよく上演される「源氏店」の場は、最後、お富を囲つてゐたのが実はお富の兄であることがわかつて、そこで幕が閉じる。
最近ではそのあと与三郎が出てきて「これからふたり一緒だね」的な終はり方をする場合も多い。守田勘弥の考案した演出だと聞いたことがあるが確認してはゐない。
はじめて最後に与三郎の出てくる演出を見たときは「なるほどなあ」と思つたものだが、何度も見てゐるとやつぱりお富が実の兄の存在を知つて戸惑ふところで終はる方がいい気がしてくる。
だつて、この後まだ話は続くんだしさ。
「与話情浮名横櫛」を書いた二世瀬川如皐といふ人は大変長い台本を書く人で、それを押さへるために「台本は何ページまで」といふきまりができたくらゐだ。当時の台本は書き抜きだつたらうからどうやつて分量を数へたのか定かではないけれど、まあ、さういふ決まりができた。瀬川如皐のためだけに。そして如皐は、紙を切り貼りすることでページ数を守りつつ長い作品を書き続けた、といふ。
さういふ人の書く芝居だもの。話の途中で終はらせちやつたりしたら如皐があの世で怒りまくるのぢやあるまいか。
七月に海老蔵の与三郎と玉三郎のお富でやつたときは、与三郎の出てくる演出をつけなかつた。
見識がある。
いづれ、海老蔵も團十郎のやうに「与話情浮名横櫛」の通しをやるかもしれないしね。
これほど甚だしくはないかもしれないが、ほかの芝居も似たりよつたりだ。
たまに意味が通じるものがあつたら新歌舞伎だつたりする。
なーんかわかんないしもやもやするんだよねえ、と思つてゐたわけだが。
さういふことはすべてどうでもいい。
さう思ふくらゐ、「寺子屋」はわかる芝居だつた。
腑に落ちる。
そんな感じだ。
人は、真実自分を理解してくれる人のためにはどんなことでもする、たとへそれが我が子を殺すことであつても。
「士は己を知る者のために死す」と故事にもある。「義経千本桜」の「すし屋」にも出てくる晋の豫譲のことばと伝へられてゐる。
「すし屋」では弥助実ハ平維盛が、晋の豫譲の故事にならつて頼朝からの陣羽織をずたずたにしうやとするのだが、あーた、そんなところに豫譲をもちだしてきたら、豫譲が怒り狂ふよ、といふくらゐ、維盛は甘ちやんだ。
……といふ話ではなかつたか。
松王丸は、おそらく、「ほんたうの俺を理解してくれる人なんてゐない」と思つてゐたのに違ひない。
そして、「いや、ひとりだけゐる。菅丞相が」と思つてもゐたらう。
職場の人間も、親兄弟に至るまで、みな自分のことを誤解してゐる。自分はほんたうにはそんな人間ぢやあない。
丞相さまだけだ、俺のことをわかつてくれてゐるのは。
さういふ話なのか、これは。
と、そのとき思つたんだな。
すつかりわかつた気にもなつた。
なんだよ、昔から人間変はらないんぢやんよ。
さうも思つた。
その後芝居を見てゐると、松王丸は、兄弟の中でもひとりだけ仲間はづれ的な存在であり、おそらく職場ではしつかりと勤めつつも鬱々と心楽しまかつたんぢやあるまいか、と思ふやうになつた。
「寺子屋」で、松王丸が「桜丸が不憫でござる、桜丸が、桜丸が」と先に腹を切つた弟・桜丸について大落としの泣きを見せる場面がある。
ここは、「桜丸が、といひながら息子のことを思つて泣いてゐる」派と「ほんたうに桜丸のことを思つて泣いてゐる」派とある。
やつがれは「ほんたうに桜丸のことを思つて泣いてゐる」派だ。
だつて、状況から考へて、桜丸が死んだ時点では、松王丸はこんな風に泣けなかつたはずだもの。
当時松王丸はまだ藤原時平の舎人といふ立場だ。
そんな松王丸が、桜丸のために泣けるだらうか。しかもあんな大落としで。
家でなら泣ける? さうかなあ。だつて松王丸は家でだつて強面で通してゐたんぢやないの? だつたら妻と子との前でさうさうあんな風には泣けないはずだ。
我が子を菅丞相の子の身代はりにすることをもつて、松王丸はやつと本心に立ち戻ることができた。
その結果の大泣きである。
「桜丸、桜丸」と云つてゐるうちに、ほんたうに桜丸のことが不憫になつて泣けてしまつた。
さういふ感じなんぢやないのかなあ。
まあ、人間、ほんたうはそんなに単純ぢやないと思ふんだけどね。
桜丸のことも息子・小太郎のことも思ひ、その他もろもろのことが去来して泣けた。
その方が自然かもしれない。
松王丸には、本心を明かすまでは心底悪役でゐてほしい。
それが松王丸が自身に課してきた役割だと思ふからだ。
上にも書いたとほり、松王丸は自分のことを兄弟の中ではひとりだけ相容れない存在だし、勤め先も自分が望んで仕官した先ではないと思つてゐる。
さうした鬱屈が、より松王丸の悪役ぶりに磨きをかける。
そんな気がする。
でもここのところさういふ屈折した感じの松王丸を見てゐない気がするんだよなあ。
最近つて、今年に入つてから、かな。
さういふ屈折を求めてしまふのは、現代的なことなのかもしれないけれど。
それにしても、「きみは、ほんたうは、いい子なんだよ」がこれほどの殺し文句だとは世の人はあまり思はないんだらうな。
トットちやんはたまたま素直だつたからよかつたかもしれない。
でも、「誰もわかつてくれねー」などと世を拗ねた人間にはあだやおろそかに云つてはならないことばだ。
さう云はれた人間は、自らのみならず、家族の命さへ差し出してしまふからだ。
「寺子屋」はさういふことを教へてくれる芝居でもある。
あー、でも、云はれなくても「すし屋」になつてしまふことを考へると、云はれても云はれなくてもおなじなのかな。
こどものころから「きみは、いい子なんだよ」と云ひ聞かせて育てる、といふのが一番いいのかもしれない。
« なにを書いてなにを書かぬか | Main | どうにもいびつで »
Comments